辻邦生 「言葉が輝くとき」よりリルケの詩「かりそめに過ぎて」
辻邦生はリルケに関係する著作がいくつかあります。一つは有名な「薔薇の沈黙」。美しい本です。
一方、先日、書棚にある講演録「言葉が輝くとき」を取り出していたところ、ここにもやはりリルケの素晴らしい詩について語られていました。
これは、1990年に不二聖心女子学院での講演「詩をよむ心」の講演録に含まれているものでした。リルケの「果樹園」という詩集に入っている「かりそめに過ぎて」という詩です。
かりそめに通り過ぎて
かりそめに通り過ぎて
十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ
それらの場所へ 遠方から なんと私は与えたいことか──
仕忘れていた身ぶりを つぐないの行いを!
もう一度──今度は独りで──あの旅を
静かにやり直したい
あの泉のところにもっと永くとどまっていたい
あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい……
つまらないと皆が言う
あの独りぼっちの礼拝堂まで登ってゆきたい
あの墓地の鉄柵の扉を押してはいり
あんなにも無言なあの墓地とともに無言でありたい
なぜなら 今や こまやかな敬虔な
ある接触を持つことが大切な時ではないか?──
ある人は この地上のものの強さによって強かった
ある人は 地上のものを知らないために愚痴をこぼす
辻邦生「言葉が輝くとき」27ページ
孫引きになってしまいますが、片山敏彦さんが訳されたものを辻邦生が引用し、若い女学生に説明をしています。さまざまな事物を見過ごすのではなく、かけがいのないものとして味わい直すと言うこと。それが、私たちをもう一度生きるという意味に立ち返らせてくれるのだ、ということ。こういったことを、辻邦生が静かに女学生たちに語っている姿が想像出来ます。
それにしても、この、今、ここ、を愛おしむ感興は、実に甘美であり、実に真剣であり、実に厳しいものです。
私は最初に読んだとき、「あの旅」と言う言葉に反応し、旅行という非日常において、なにか旅行で触れた事物への愛惜の念が描かれているように思ったのです。しかし、実のところ、人生こそが旅ですので、旅行というよりもむしろ日常において触れるさまざまなものへの愛惜なんだなあ、と思ったのです。
そのときどき、触れるものを大切にし愛しむというのはとても大切ですが、実際にはとても厳しいものです。すべてを愛おしむことは出来ませんので。ですが、たとえそうではあっても、やはりあの樹に触りたいし、あのベンチを愛撫したい。あの時、あの瞬間の思い出を死ぬまで大切にしたい。それでもやはり、すべてに触ることは出来ないし、失われた思い出もある、と言うことなんだなあ、と思います。
だからこそ、「敬虔」という言葉なんだ、と思いました。まるで、不可視である神を見るかのごとく、さまざまな事物すべては不可視であり、が故に、神的性格をも帯びて、敬虔な思いとともに、事物を見るということ、と思います。求めないと神は現れません。同じように、事物に接触=触れるという能動性において、この事物のかけがえのなさと、生きる意味が得られる、ということなんだと想いました。
今、この瞬間に全力を尽くすのが、生きると言うことです。私もそういう生き方をしてみたい、と想います。
思ったより長くなってしまいました。みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
ディスカッション
今晩は。
「言葉が輝くとき」「のちの思いに」…本当に懐かしいです。
どちらも初版刊行時に貪るように読みましたので。
これはツイッターでも書いておりますが、本日
「薔薇の沈黙」を読了しました。
私の読解力ではアップアップでした(笑)
でも「辻先生はどうしてこんな読み手を感動させる
作品が書けるのか」、つまり辻先生の
創作の秘密に一歩でもいいから肉薄したくて
拙い私の読解力で必死で読みました。
リルケに関する自分の知識がこの本を読むには
貧弱すぎると思ったので、長岡出身の独逸文学者
星野慎一先生の「人と思想 リルケ」を
読了してから「薔薇の沈黙」を読みました。
「トーマス・マン」は大分前に読んだのですが、
「小説への序章」や「森有正」がまだです。
「モンマルトル日記」や「パリの手記」もです。
通信制大学の勉強と並行して
辻先生のこと、あれこれ考えるの体験だけど、楽しいです。
神様ですから(笑)。
乱文長文失礼いたしました。
越後のオックスさん、コメントありがとうございます。
リルケは難しいですね。私もずいぶん前に薔薇の沈黙
を読みましたが、まだ理解できていないと思います。辻文学の秘密は形而上学がうまく受肉しているからのだと思いますが、その詳細は私も日々考えているように思います。越後のオックスさんは、本をたくさん読んでおられるので、秘密がわかる日がくると思います。私もがんばります。