ワーグナーのワルキューレ。
オーストリア読みだとこうだけど、ドイツ読みだと、ヴァーグナーのヴァルキューレになる。どちらも正しいようだが、幼い頃は、ウの濁音に憧れて、ヴァーグナーとかヴォルフとかヴィルヘルムとなやたらと言いたい年頃だった記憶がある。
http://www.dokken.or.jp/column/column22.html
それはそうとして、このワルキューレ、あるいはヴァルキューレ。リング四部作の中で一番好きな作品。他の作品は少しばかりとっつきにくい。あえていうなら、《神々の黄昏》のオーケストレーションの素晴らしさ、というのはあるけれど。
10年近く前の新国立劇場のリング上演の知的興奮が懐かしく、当時は、指環のことばかり当ブログに書いていた記憶がある。その後、新国立劇場のバックステージツアーで、ワルキューレ第三幕の小道具(キャスター)が、舞台裏で転用されていると聴き、あのトーキョー・リングはもう見られないのか、と少し寂しくなり。で、数年前に新たなプロダクションが上演されたが、私は諸般の事情によりこの数年オペラを封印しており、フォローできていない。
ともかく、リング四部作を全て実演で見た、というのは、音楽を聴き始めた小学生だか中学生の頃からの夢であり目標であったから、四半世紀後の実現はやはり嬉しかった記憶がある。ただ、それは、すこし拍子抜けするようなものでもあった気もする。意外にも、こじんまりとした世界ではないか、という感覚だった。
どうやら、中学生の頃に読んだトールキンの「指輪物語」のスケール感を求めていたように思うのだ。全6巻に加えて補遺版まであるトールキンの世界観は、恐らくはワーグナーの頭の中にあり、普通に聴いただけでは垣間見ることもできないのだろう。あるいは、ある種の仕事というのは、手がけてみるとあっけなく終わることがあるが、そうした感覚だったのかもしれない。それは、初めて第九を全曲聴いたときのあっけなさ、マーラーの交響曲を全て聴き終えたときのあっけなさ、にも似ていたようにも思えた。聴くだけなら、時間をかければできるものだ。
だが、その先がすごかった。とにかく、キース・ウォーナーの演出からそこに意図された解釈、あるいは自分が思う解釈を必死に考えた時に現れる無限の世界観に圧倒されたわけだ。簡単な例でいうと、ジークフリートは、映画《スーパーマン》のマークのシャツを着ている。そのSは、スーパーマンでありジークフリートでもある。2人とも、親を知ることなく、この地上で育てられた超人、という共通項がある。だから、キース・ウォーナーはあのシャツを着せたのか、とか。この解釈は不完全でもあり、あるいは誤りでもあるのだが、少なくとも、私はそうした解釈をしたという事実が重要だとなのだ、ということ。そういうオペラを観る愉悦を十全に堪能した。
またオペラハウスに行けるのはいつのことになるか…。だが、必ず行くことになるだろうから、その日を楽しみに待つことにしよう。
本当は、ワルキューレのことを書こうと思ったのだが、思いは横滑りして、ついついオペラの愉しみに着地してしまった。昨日から聴いているハイティンクが指揮をする《ワルキューレ》が素晴らしいのだが、そのことについては次のエントリに委ねよう。
おやすみなさい。Gute Nacht.