Book

マリオン・ジマー・ブラッドリーの「アヴァロンの霧」を読み始めました。

先日、東久留米市立図書館で行われた図書館フェスの中で、武蔵大学の北村紗衣先生が選ばれた「やさしいフェミニズム入門」というブックリスト(ひとハコ図書館)のなかの一冊として選ばれた本です。先生に聞いてみると、アーサー王伝説を女性の視点からみつつも、フェミニズムなど別のパースペクティブで捉えている、という理由、とのことでした(私の記憶違いかもしれませんが、そう捉えました)。

絶版になっていますので、図書館にリクエストして、ようやく読み始めたのですが、本当に面白くて読むのが止まりません。

ローマ領だったブリテン島にキリスト教が入ってきて、ブリテン島の古いドルイド教が徐々に追いやられている時代が舞台。(手前味噌ですが)辻邦生「背教者ユリアヌス」の年代より少しばかり時代が下っている時期が、物語の舞台のようです。

グローバリズムとしてのローマ=キリスト教と、かつてからの宗教・文化の対立、と言う構造は、おそらくは普遍的な構造で、私が思いだしたのは、東北文化と大和文化の対立をえがいた高橋克彦さんの「炎立つ」であるとか、伝来する仏教と神道の摩擦が画かれていた手塚治虫の「火の鳥太陽篇」とか、もっというと「古事記」の国譲り伝説とか、そういう話を思い出しました。あるいは、もしかすると辻邦生「背教者ユリアヌス」も、キリスト教とローマ古来の宗教の対立を描いているという点では関係なくはないとおもいました(無理矢理辻邦生案件としてしまうという……)。

このグローバルとローカルの対立に、女性と男性の対立を重ね合わせているのが実に素晴らしく、現代の男性主導の世界がなにかメルトダウンしそうな状況にあって、別の価値観としての女系社会のようなものを提示するあたりが、本当に説得力がある、と思いました。

オペラ演出家のペーター・コンヴィチュニーが、現代の世界の問題点は男系社会に合って、その解決の鍵は女系社会にある、といった趣旨の発言をされていたのを記憶していますが、ローマ=キリスト今日=グローバリズムのひずみを解決するアンチテーゼとして女系社会、という読み方をすると、実に面白いな、と思います。女の子が生まれると、食事を与えず死に至らしめることもある、という極端な男系社会を描きながら、なにか郷愁をもちながら、その失われゆく女系社会を振り返っているような気がしてなりません。

また、失われた古代文明であるアトランティスが登場したり、龍や蛇が尊いものとして登場してしまうと、これはもうほとんど高橋克彦さんの「竜の柩」の世界になってしまい、失われた古代文明は、ブリテン島にも渡り、あるいは古代日本にも渡っていたのか、などとその共通性に驚いたりします。もちろん史実ではなく、幾分かオカルト的な要素もありますが、レヴィ=ストロースの文化人類学ではありませんが、人間の記憶というものはなにか共通する間主観的なものがあってもおかしくないのか、などと思います。

このアトランティス(オリハルコンも!)が出てきてしまうあたりのスケールの大きさには正直舌を巻きました。なんだか読み始める前から、昔読んだファンタジー的な展開が読めてしまったように感じ、やめようかと思う瞬間もありましたが、それはあまりに浅はかな考えでした。ますます先が楽しみになっています。

「アヴァロンの霧」は、現在絶版。アマゾンでも高価に取引されていて、日本の古本屋にも在庫はありません。再版されるとよいな、と思います。

BelinerPhilharmoniker

MuseeOrsay 20070324.jpg
By Benh投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

今日もくたくたになって帰宅しました。

つい先だって、我が家で16年間にわたって活躍してくれたテレビが、とうとう引退しまして、新しいテレビが到着しました。かつてのテレビはHDMIが登場する前のもの。D端子と呼ばれる映像端子でした。そうしますと、新しいHDDレコーダーをつなぐためには、かなり怪しげな変換装置をかます必要があり、せっかくのハイビジョンなのに、映像はかなり悪かったのです。

新しいテレビは当然HDMIで、早速さきごろの録画を観てみると、本当に映像がきれいに感じて驚きました。

それで観たのが、5月27日にNHKBSで放送された、ベルリンフィルがオルセー美術館でワーグナー、ベルリオーズなどを演奏したヨーロッパコンサート。指揮はダニエル・ハーディング。ブリン・ターフェルも登場します。ヴォータンを歌っていました。かっこいいっすね、ターフェル。

http://www.classicalsource.com/db_control/db_concert_review.php?id=16413

オルセー美術館の彫刻群のなかにステージとピットを設えるというアイディア、並大抵ではないです。なにかこういう並外れたセンスはいいですね。オルセー美術館のサイトを観ると、パリオペラ座管弦楽団なんかも演奏しているようです。PAのノウハウもちゃんとあるんだとおもいます。

それにしても、感じたのは、テンポはかなりゆったりとしていて、おそらくは、残響を考慮してのことではないか、と思います。テレビの音声を聞く限りにおいては、かなり堅い感じではありますが、かなり長めのディレイがかかった音のように思います。休符では、残響音がまるで妖精の羽ばたきのように天井へと舞っていくように思います。

個別の奏者でいいますと、アルブレヒト・マイヤーのオーボエ、久々に聴いて、とても懐かしいです。細く強い絹糸のような音は本当に素晴らしく、少し我を忘れました。

演奏の前に、オルセー美術館に関するミニドキュメントが放映されたのですが、なんだか素晴らしかったです。新しいテレビで映像がきめ細やかだったと言うこともありますが、絵を見る人々の顔が輝いていたり、スタッフが満ち足りた顔でゲストを手助けしたりしているすがたを観て、心が和みました。わたしも何年も前に言ったことがありますが、そのときの記憶が蘇り、懐かしいような、ですが、なにかすこし心の中に小さなとげが刺さる気分も感じました。このとげはなんだろうか?というのが、中期的な課題です。

明日も、仕事ですね。このあと眠りについて、反芻してみようと思います。

おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Tsuji Kunio

辻邦生関連本が新たに発売されます。

中央公論新社から2019年6月6日発売予定だそうです。

表紙から以下の情報をまとめました。カッコ内は私の推定する出典です。

●日記

辻邦生 旧制高校時代の日記「園生」より(初出?)

●書き下ろしエッセイ

松岡寿輝、佐藤賢一、澤田瞳子、中条省平

●エッセイ

水村美苗、堀江敏幸、二宮正之、宇野千代、加賀乙彦、粟津則雄、髙橋秀夫 他

●書評

ジョン・アップダイク「安土往還記」

●講演

保苅瑞穂 (2017年日仏会館での講演)

小佐野重利 (2016年学習院大学史料館講座)

金沢百枝 (2018年学習院大学史料館講座)

●対談

塩野七生と辻邦生 (世紀末の 美と夢 第5巻?? )

(敬称略)

こうして、また辻邦生ワールドの未踏地に足を踏み入れることができる喜びはこの上のないものです。個人的には保苅瑞穂さんの講演は聞きのがしておりまして、本当に楽しみです。

今日は短めに。

Giuseppe Verdi

なかなか時間がある取れない最近です。いろいろなことに身動きが取れず、毎日もがいています。さすがにロボットではないので、スイッチを切る時間も必要。睡眠不足は朝の通勤電車で補い、帰宅後の90分はメンテナンスで消えていきます。

昨夜、夜中に起きて書く時間を作っている感じ。腹痛が酷く、起き上がってしまいました。昨日は久々に法定公休で、新宿を一人で少し歩きましたが、嬉し過ぎて無理をしたようです。

ところで、先日、仕事場のそばの陸橋を歩いていると、ビルからビルへと飛び伝う鳥を見ました。黒く大きめの鳥でしたので、おそらくはカラスでしょう。ですが、なにかその鳥が猛禽類のように思え、ビルを伝いながら、獲物を狙っているように思ったのです。おそらく、ニューヨークだったか、高層ビル郡にに住み着いたハヤブサがいる、というニュースを数十年前に見た記憶があって、その連想でしょう。土地に縛られずに飛び回る猛禽類の逞しさ。

昨日、新宿を歩きながら、何も縛られず街を歩く幸福感を感じました。これが猛禽類の気分? いや、獲物を狙わないだけ違うな、などと思ったり。多摩動物園の猛禽類は広いゲージで安全に飼われていましたが、天井のない空に舞う猛禽類は、本性のままだな、と勝手な想像をしました。

今日はこちら。

ティーレマンがドレスデンで振ったヴェルディのレクイエム。この劇的なレクイエムは初めて聴いたときには衝撃でした。《オテロ》以降のヴェルディの複雑で劇的な響きが心地よいです。AppleMusicのプレイリストで知った音源ですが、重みと厚みがありながら流れもあり、なかなか良い音源です。同じメンバーで《オテロ》を聴いてみたい、と思いました。

明日もかけるか、どうか。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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Kindleで「春の戴冠」をつまみ読むしていたところ、一つの白眉ともいえる場面にたまたまぶつかりました。プラトンアカデミアの場面です。

 

「私たちはこの世のすべてを<神的なもの>の表れとみなければならない。<神的なもの>のごく希薄な存在から濃厚な存在まで、その分有度は異なっても、<神的なもの>の改訂によって、この世の一切が観られなければならないのです。

(中略)

フィオレンツァに包まれた一切が<神的なもの>と見なし得れば、私たちはすべて各自の仕事を通して<神的なもの>に触れうるわけです。私たちは帳簿の山を整理しながらも、それが<神的なもの>を表していると観ることができるのです。だからそれに触れれば、帳簿づけが日々のむなしい繰り返しであるとか<暗い窖>へずり落ちてゆくとかいうことは考えられなくなります。なぜなら<神的なもの>に触れるとは、私たちが強い喜びを感じることだからです

(中略)

<神的なもの>とは、歓喜の念を味わうことによって、その存在が知られるのです。

(中略)

私たちが<神的なもの>を人間存在のすべてに見いだし、<神的なもの>を深めることを哲学の中心課題とすれば、その哲学は、ロレンツォ殿の言われたごときイモラ買収工作をも含む哲学となり得るでしょう。(中略)哲学の仕事は人々の目を<神的なもの>に向けさせることです。朝露を含んだ風が花々の香りを運んでくるように、人々の心のに<神的なもの>を運びこみ、人々に<永遠の浄福>を深く味わわせることにあるのです」

(フィチーノの発言)

「『現在を楽しむことが永遠性を手に入れる正当な方法であることについて』の根拠は、今の発言の中で、過不足なく言い表されている。<現在を楽しむ>とはほかならぬ<神的なもの>に触れることだからです」(バンディーニの発言)

「それは神への道です」(アグリ大司教の発言)

辻邦生「春の戴冠」上 新潮社 1977年 298ページ

プラトンアカデミアでの議論の結論めいたところだけかいつまんで書いてみました。

日々の政務で疲れているロレンツォ、あるいは語り手フェデリゴの父親もやはり、商売に精を出しながらも、手応えをつかめずにいる。それを「暗い窖」へずり落ちてゆくような、という表現で表しています。

それに対して、フィチーノは、結論として、

  • この世のすべてを<神的なもの>の表れとみなければならない。
  • フィオレンツァに包まれた一切が<神的なもの>と見なし得れば、私たちはすべて各自の仕事を通して<神的なもの>に触れうる。
  • <神的なもの>に触れるとは、私たちが強い喜びを感じること。
  • <神的なもの>とは、歓喜の念を味わうことによって、その存在が知られるのです。

と語り、さらに、バンディーニと、アグリ大司教が以下のように語るのです。

  • <現在を楽しむ>とはほかならぬ<神的なもの>に触れること
  • それは神への道です

と。なにか議論がうわ滑って行くような印象なのです。その後、ロレンツォは、じっと自分前を見つめるだけで、その他の参加車は彫像のように身動き一つしない、という描写で締められます。

私は、この議論の結論に、そのまま飛びつくことの出来ない苦悩を感じるのです。それは、その後のフィレンツェの行く末を知っているから、ということもありますが、この最後の参加者の描写にも、なにか底知れぬ憂いのようなものを感じるのです。議論の上滑り、とかきましたが、果たして、この世のすべてが「現在を楽しむ」に帰結するのか、と。この「楽しむ」という言葉に含まれるさまざまな含蓄や解釈もある訳で、いかようにも解釈は出来るのですけれど。とにかく、<暗い窖>へとずり落ちてゆくことをなんとか説明しようとしてル訳ですが、最後に大司教をして「神への道」と語らせるという議論の結末。大司教という立場が、そう語らせたという設定でもあるでしょうし、それはなにかサヴォナローラの登場を暗示させるものでもあります。

こういう、議論の交錯が手に取るように分かると言う点で、辻邦生の手腕は冴え渡っているな、と改めて舌を巻きました。

私は、この「春の戴冠」をこの数ヶ月の間において通読しているわけではなく、過去に読んだ記憶を頼りにしていますので、もしかすると曲解が混ざっているかもしれません。

ただ、記憶をたどったとき、この「春の戴冠」に感じる「美と滅びの感覚」は、筆舌に尽くしがたいものがあります。これがまさに、現実社会において、性急な結論に飛びつくことなく、塹壕戦のように、身を低くして粘り強く戦うということだ、と今は想っています。

神的な美は、現実社会において力を持ち得ないのか? 当然と言えば当然なこの美と現実の相克という命題を巡って、私たちはおそらくは永遠に同じ所を回り続けることになります。ただ、回りながらも、少しでも中心へあるいは上へと近づいていれば良いのに、と思います。

今日は長くなってしまいました。このあたりで。おやすみなさい。

※写真は、桜草っぽいので載せてみました。良い天気でした。

Miscellaneous

新しい時代になりました。令和、と言うその時代の名前に、期待と希望を感じるのは、あるいは感じたいというのは、みな同じだと思います。

令和の「令」

今朝は、4時ごろ目が覚めました。風邪をひいたらしく、喉の痛みがひどく、寝付けなくなりました。やむなく起き上がり、あいにくの曇り空ではありましたが、白々と明ける令和の朝日を感じながら、オンラインで新聞を読んでいたところ、朝日新聞に令和の考案者とされる中西進さんのインタビュー記事が載っていました。

「議論しても、たぶん令和が一番いい」中西氏が語る元号

辞書を引くと、令とは善のことだと書いてあります。つまり、令の原義は善です。そこから派生して、文脈ごとに様々な別の使い方が前に出てくる。人を敬う文脈では『令嬢、令息』にもなるし、よいことを他人にさせようとすれば『命令』にもなります

(朝日新聞 4月20日「「議論しても、たぶん令和が一番いい」中西氏が語る元号」より)

令和の令と言う文字。この文字の解釈が世間では議論になっていたように思います。命令を想起させるからです。しかし、この記事の中で、中西進さんは、この令と言う事は善と言う意味があると言うふうにいます。命令と言うのは善であることを命ずると言う意味だと言います。この解釈は新鮮でした。

実際に、漢和辞典を調べてみると、

1)神のお告げや、上位者の言いつけ。清らかなお告げの意味を含む

2)起きて、お達し

3)よい(よし)。清らかで美しい

4)おさ(長)

5)遊び事の決まり

6)命令する

と続いていきます。

(「漢字源」より抜粋)

どれが主な意味になるのか。それはおそらくこの「令」と言う漢字が使われた歴史的な背景にまで踏み込まなければ真のところわからないでしょう。漢和辞典をさっと読んだだけでは理解することはできず、碩学の方にだけわかることなのでしょう。

学問の奥深さ

昨日、キルケゴールの本を読みましたが、おそらく1冊読んだだけでは全貌がわからないと言うことが私にはわかっていて、徒労感のようなものを感じました。すでに、哲学書を読むことの空しさのようなものです。数冊読んだだけでは、理解すること、語ることはあたわないのです。おそらくこの「令」と言う漢字について研究し述べることも、同じような労力を要するはずです。

学問の世界は深く広く、常人には想像すらできないものです。その一筋縄ではいかない厳しさを知っているだけに、簡単に結論を下したり、一つの学説や一冊の本にとらわれることの危険性はわかっていいます。といって、何も述べられないと言うことの虚しさもわかっています。このバランスをとりながら、どうやって自らの意見を発信していくか、ということが問われます。

さしあたり、「令和」の「令」は、万葉集での使われ方は中西進さんによれば、「うるわしい」と言う意味のようです。素直に、この典拠従って、この「令」と言う漢字をを麗しいという意味に捉えるのがよさそうです。

終わりに

それにしても、人間と言うものは不思議なものです。時代が変わった、と言うだけで何かに突き動かされるように、ことにチャレンジしていこうとするですから。枠組みであるとか、文化であるとか、言葉であるとか、そうしたものが人間世界におよぼす作用の力強さを改めて感じました。

今日は東京地方も予報が曇りだったにもかかわらず、午前中には日差しが差し込み、新しい時代の初日にふさわしい天気になりました。令和が良い時代になることを願い、私もやれることをやらなければ、と思いました。

冒頭の写真は、先週撮った八重桜。ことほぐには絶好の美しさです。

それでは、みなさまおやすみなさい。

Tsuji Kunio

久々に「北の岬」を読みました。Kindleでも読めますので、仕事場へ向かう電車の中で読みながら、なにかいろいろと考えてしまいました。

この短篇、大まかに言うと、主人公である留学帰りの男と修道女マリー・テレーズの恋愛小説、となってしまうのですが、それだけではありません。

その修道活動のあまりの厳しさに、生まれ故郷を懐かしがってしまう修道女が、自らを罰するためにフォークを自らの身体に突き立てる自傷のシーンが出てくると言う激しさが描かれていたり、修道という理想に関する独白が描かれています。

「至高の頂きに行けば、この至純な永遠の光に触れることが出来ると言うこと」

「それは人間であることの唯一の意味」

「誰かが貧窮や悲惨のなかにいって、人間の魂の豊かさが、眼に見えるものや、物質だけで支えられているのではないことを証しなければならない」

「誰かが最後の一人になるまで、そうしたものが人間の証しのために必要であり、ただ一人の人間がそれを証しすることで、すべての人間が救われるのだ」

といった境地に達しようとする、マリー・テレーズの意志を読むと、一人の人間をこえて、人間全体を高みへと引き上げる意志を感じるのです。恋愛感情を超えて、人類全体の目的へと進もうとしていくマリー・テレーズの姿は、普通に暮らす私たちの周りではあまりみられないのですので、いっそう感銘を感じます。

こうした宗教的な境地とも言える意志は、それに触れたとき、粛然とした思いにとらわれます。そうした意志を感じたとして、人間はそこからどう変わるべきなのか。文学に、人間を変える機能があるということはどういうことか。そのようなことを考えました。

実は、この先もいろいろ考えて書いたのですが、まとまらないので今日はこのあたりで。

初夏のような陽気が続く東京でしたが、このあとまた寒くなってくるようです。やれやれ、と言う感じ。まだもう少し夏は先でしょうか。

それでは皆様、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

最近のはやり言葉は「平成最後の」です。昨日も書いたように、今週で平成は終わります。そうした「平成最後」という枕詞も今週が最後で、来週になると、今度は「令和最初の」という言葉が枕詞になるのでしょう。

ところで、日曜日にラジオを聴いていたら、松尾貴史氏が「平成元年に今の事務所に入った。だから平成の年数がそのまま事務所に入った年数になる」という話をされていました。

そうすると、私にとっては、平成元年にあったことはなんだろう、ということを思い起こすと、やはり辻文学になってしまうわけです。

何度も書いているように、1989年の夏に、音楽芸術に連載中の「楽興の時」を読んだのが、辻文学に出会ったきっかけでした。そうすると、ちょうど31年弱になると言うことです。ずいぶん長い間読み続けていますが、どこまで理解出来ているのか、私にはよく分かりません。

すくなくとも、さまざまなレイヤーで、辻文学を捉えています。世界認識のレイヤー、人生のレイヤー。その多義性のようなものが辻文学を読み続ける理由、というのがまずはここで言えることです。

もっと攻めて辻文学を読みたい。今はそう思っています。のこり少ない平成を、そして次の令和を、もっともっと激しく生きなければ。そう強く感じます。

Miscellaneous

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本当に目の回るような4月でした、と書いてみたのですが、そんなことはないです。確かに、夜遅くまで仕事をしていたことは事実ですが(ただ、この夜遅いというのも、相対的な概念。勤務時間の多寡は、その人それぞれによって感覚が変わります)、その仕事が目が回るようなものだったか、というと、そのようなこともなく、これまでやってきたことを繰り返しで、そうそう新鮮味もなく、何だかな、という感じ。そう言う形で消耗するからには、そこになにか意味を見いだせないと厳しいです。

そんな中でも季節は巡ってきます。美しい新緑を見ると心が和みます。今年も春が訪れ、初夏に向かって動物も植物も昆虫も育っています。透き通るような青々しい若葉を見るとそれだけで幸福です。この季節がずっと続けばいいのに、と思いますが、季節の巡りの中で新緑の若葉を見ると言うことにこそ意義深さがあるのだと思います。

かわらない季節はありませんし、かわらない人生もありません。

季節は繰り返しますが、しかし、人生は繰り返しません。

人生を季節に見立てると言う見方もありますが、私は、人生は波だと思っていて、その大きな波のうねりをうまくとらえて生きていくことが必要なのだ、と思います。日々の小さな波もあれば年単位数年単位の波もあります。それは振り返ってみるとそういう波があったなあ、とふりかえるようなものです。この先の見えない波にうまく乗らないと。そう思います。

この消耗の中で次に進む努力が必要だなあ、と。そんな中で、来週で4月が終わり、平成も余すところあと1週間。令和へと時代が移るわけですが、そうした変化が楽しみです。

それではみなさま、おやすみなさい。

Miscellaneous

みなさま、いかがお過ごしですか。

なかなか時間が取れない時期が続いていまして、エントリを書くのもままならないのですが、それでもなお、なにか書きたいという思いはおさまりません。文章を書くということは不思議なものです。

今年も桜の時間が訪れています。この週末に近くの桜を見に行きました。季節の移ろいは本当にありがたいものです。この移ろいが永遠に続くように、と思います。

今週は気温の低い日が続いています。次の週末まで桜のがもたないかな、という淡い期待を持っています。

みなさま、どうか、お身体にお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。