気の毒なクラウディウス帝──引き続きアイーダを聞く。

「ローマ人の物語7 悪名高き皇帝たち」ですが、皇帝クラウディウスの死までたどり着きました。

クラウディウスは、吃音癖などで、そもそもは皇帝になるべき人とはみなされていませんでした。ですので、歴史学者として生きてきたのですね。ところが、カリグラ帝による治世の乱れから、近衛軍団はカリグラ帝を誅殺し、クラウディウスを擁立する。50歳になってからの皇帝ですが、これがまたそんなに悪政というわけではなく、帝国は安定するし、ブリタニア(グレートブリテン島⇒イギリス)の征服も手がける。公共工事もしっかりやっていて、水道を作ったり港湾を整備したり。だのに、やはり生まれながらのカリスマというものがなかったのでしょうか、がんばるクラウディウスをせせら笑うような雰囲気もあったらしいです。

クラウディウスは(解放)奴隷を秘書官にあてて、官僚組織の走りのようなものを構築して、政策の実行を図っていくわけですが、これがかえって元老院との関係がギクシャクする原因になったようです。江戸幕府で言えば側用人政治とでもいいましょうか。それから、女性や家庭に対しては無頓着だったようで、最後に結婚した小アグリッピーナにしてやられて、どうやら毒殺されたらしいのです。気の毒な話。小アグリッピーナには連れ子がいたのですが、この子があのネロ帝というわけです。というわけで、私もネロ帝の治世の物語へと駒を進めています。

やっぱり、共和政時代のローマの上昇志向を読んでいるときのような痛快さはないですが、リーダシップとは何か、人間の性(さが)とは何か、など興味深いテーマがたくさん。人を信じても信じなくてもいけない。世界は汚濁に満ちた背理の世界なのです。マーラー的混濁の世界。だからこそ、抗うためには強い力が必要。剛健な身体と健全な精神。皇帝(あるいはリーダー)こそがその背理の世界を理想へとかえる意志が必要だと思うのですが、そういう意味では、カエサルもオクタヴィアヌスもすごいですね。普通にはなかなか難しいことです。だからこそ、辻邦生氏が「嵯峨野明月紀」でおっしゃられている「背理の世界を笑い飛ばす」ぐらいでないとなかなか生きていけないですね。

というわけで、今日も引き続きアイーダを聞き続けています。曲の雰囲気、演奏の雰囲気に徐々につかることができるようになってきました。もう一息です。もう少し聞き込めば光が見えてくる。ヴェルディという城塞都市への扉の向こうから、人間たちの生々しい息遣いが聞こえてくる予感。開門までもう少し。しかし、初めてヴェルディのオペラを見てから6年たちます。ようやく、というところでしょうね。 そういえば、「アイーダ」を歌舞伎化するというニュースを見ました。「愛陀姫」という演目になるようで、アイーダの曲も三味線などで再現するようです。