Literature

今週から、仕事場からの帰宅時間は、小説を読む時間と決めてみました。

おかげで、「背教者ユリアヌス」を読み終え、村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を再開しました。ずいぶん中断していましたが、不思議にも違和感なくどんどん入り込んでいます。

思えば、辻邦生ひとすじでこれまで生きてきました。永井路子、岡本かの子、塩野七生などを読む機会がありましたが、それ以外の小説を読む機会はありませんでした。外国だと、プルースト、アニタ・ブルックナー。あるいは、SF。ハインラインやアシモフ。振り返りきれていないかもしれないですが、記憶の地平の上にあるのはそうしたものです。

こうして、振り返ると、あまりにも小説を読んでいないと思われるということと、文学でいうと女性作家が多いということに気づきます。理由は特にないはずですし、あったとしても後付けの理由のはずです。

で、村上春樹も、ほとんど読めていません。ただ「騎士団長殺し」や「色彩のない多崎つくると 彼の巡礼の年」はリアルタイムに読んでいます。予約して買いましたし。本を予約して買うワクワク感は半端ないです。

いずれにせよ、帰宅時間で小説を読む、という習慣が長く続けられるよう、頑張りますし、実際長く続けられることを願っています。

それではみなさま、おやすみなさい。

Tsuji Kunio

文庫で再刊された辻邦生「背教者ユリアヌス」全四巻を読み終わりました。

とにかく、最後の四巻は、ユリアヌスの死へと至る悲しいコーダのようなもので、それは、「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指環」のような救済もなく、ほとんど「ビーター・グライムス」か「ヴォツェック」のような終幕感だなあ、と今は感じています。

辻文学を「美と滅びの感覚」と評した文章の記憶があります。まさに、「ユリアヌス」は美と滅び。史実ながら、現実に感じる無力感に通じるものがあり、悲劇的です。私の今の読み方は、あまりに悲観的で、それは、なにか現実解釈が歪んでいるからなのでしょう。終幕に至る途中の楽章で語られた美しい調べがあまりに切ないのです…。

20年ぶりに読み返しました。今は、初めて読んだ学生時代には感じることのなかった現実世界で感じる空しさを知っています。だからこそ、胸が痛みます。

そして、この読み方は、きっと間違っている、そうも思います。

今日読めたのは、仕事の帰り道で、文学作品を読むことにしようと決心したからです。どうも仕事の関連する本ばかり読んでしまう嫌いがありましたが、それを変えたいなあ、と思ったので、というのが理由です。おかげでなんとか読み終わった感じ。明日の帰宅もやはりなにか文学作品を読もう、そう思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

「背教者ユリアヌス」。

実は、読みはじめたものの、なかなか進まなかったのです。

この3ヶ月、あらゆることが、まるで崖から岩が何枚も剥がれ落ちるような、そんな3ヶ月。そして、それはまだ終わっていないという状況なのかも。

ですが、まる裸に剪定された木々が、春になると、驚くほどの勢いで葉をつけることがありますが、あの勢いに似たように、少しずつまた手に取れるようになったのでした、

本当に、うつし世の濁りゆく流れの激しさと言ったら、筆舌に尽くしがたいものがあります。ときおり、浮く瀬に身を寄せ、息をつきたいもの。辻邦生を読むということ、あるいは、文学を読むということは、そういうことなのかもしれません。どちらが本当の世界なのか、わからなくなります。

そんなことを思いながら、まだまだ「背教者ユリアヌス」は二巻の半ば。皇后エウセビアの庇護を受けたユリアヌスがアテナイへ向かうシーンまで到達。

エウセビアはまるでシュトラウスの楽劇「ばらの騎士」のマルシャリンのよう。世間をまだ知り抜かないオクタヴィアンを諭すシーンを思い出しました。そうか、ここまで親密だったか、とも。本当に久々に読んだので、新鮮です。

きっと辻邦生も、「ばらの騎士」をパリで見ていたはず。手記を調べて見ます。あるいは浅草の経験などもあるのだろうか、などと。また、アテナイへ向かう海にイルカが泳ぐシーン、きっと、自身の旅の経験が昇華したものなんだろうなあ、と思いながら、遠くに過ぎたことがこうして半世紀経って蘇るということに驚いたり。

というわけで、まだまだ読みます、背教者。

みなさまも、新年度、お気をつけて。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

背教者ユリアヌス、第4巻を入手しました。

なんだか感無量です。

それにしても、本当に慌ただしくばたばたするま毎日で、本をとる間もありません。

ただ、ざっとこの本を開くとなんだか今の状況にヒントを与えてくれる文章に遭遇しました。

しかし政治というのは、頭のなかで考えたとおりに決して実現しないのだ。頭のなかでは、おれたちは丸い完全な形を夢みている。だが、それが実現する際には、三角になったり、梯子型になったり、歪んだりするのだ……

背教者ユリアヌス第4巻 82ページ

ものごとを前に進めるには、完全な形で進めることはできない、ということ。結局は、不完全なかたちで、周りを巻き込み、不満や痛みを起こしながらも、前に進んで行くもの、ということ。

まあ、そんなものです。それは、古今東西変わらないのでしょうね。

それでは、みなさま、良い夜を。お休みなさい。

Tsuji Kunio

待望の「背教者ユリアヌス」第1巻Kindle版の登場です。

これで、どこでもユリアヌスと会えますね!

さしあたり短信です。

私は、第2巻を読み始めました。なんだかドキドキします。前回よんだのが大分前です。あらすじは覚えていますが、それでもとても読んでいてワクワクします。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

銀杏散りやまず、読了しました。

文庫版後書き(高橋秀夫氏)にもありましたが、辻邦生作品の中でも移植の作品といえると思いました。全体構想を作り上げた中で、作品を構成していくのが辻文学の一つの特色であり、それは「小説への序章」において、そうした全体直感で全体を把捉した上で、文学を構成するということを、プルーストやマンを例にとって、とりあげられていた記憶があります。

ですが、この「銀杏散りやまず」はそうではありません。辻邦生のお父さまである辻靖剛さんが亡くなられたことをきっかけに、辻家の歴史をたどりながら、祖先とのつながりを通してお父さまとご自分の関係を見つめ直す、あるいは和解するという作品です。連載をしている中で、新たな資料が見つかるなど、ある意味エッセイのような趣の歴史小説で、思うままに書いているようにも思います。

私は「型破りな歴史小説」と感じましたが、そのうちに、「私小説」あるいは「家の小説」のようにも感じたのです。とあるご縁で手元にあるモノオペラ「銀杏散りやまず」の演奏会パンフレットにおいてもやはり「史伝風の私小説である」と書かれています。

この「私小説」という言葉に、私は本当に深く思うことがありました。おそらくは、私小説を書かなかった故に、正当な評価をうけられず「フォニイ論争」のようなこともあったのだと思うのですが、「銀杏散りやまず」はやはり私小説であり、であれば初期の短編群もやはり私小説だったのだ、とも思いました。

さて、この「銀杏散りやまず」が、歴史エッセイではなく小説(それは歴史小説なのか、史伝風小説なのかはさておき)である決定的な証拠を見つけてしまいました。それは恐ろしいほどに自明なところにありました。きっと有名な事案なので、ここでは伏せますが、「安土往還記」で、あたかも実在する歴史であるかのように、信長の事跡を再構成した辻邦生ですので、きっとさらりとそうした仕掛けを入れ込んだのだなあ、と思いました。

さて、寒い日々が続きます。どうかみなさま、お身体にお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい、グーテナハトです。

Tsuji Kunio

辻邦生「背教者ユリアヌス」第2巻、予約していまして、ゲット。青春の終焉という言葉に痺れました。

こちらは少し我慢して「銀杏散りやまず」を引き続き読んでいます。

今日は取り急ぎ。

Tsuji Kunio


辻邦生「銀杏散りやまず」を読み始めました。

この本、おそらくは20年ほど前に読んだはずです。辻邦生がお父さまに抱く深い愛情を感じる作品。父祖を語る、ということはそういうことなんだと思います。

まだ読み始めですが、辻邦生のお父さまが亡くなるシーンは、何か深い悲しみとともに、荘重で重々しいものにも感じました。英雄の死のシーンにも重なるもので、この筆致もまたお父さまへの愛情なんだろうなあ、と思いました。

引き続き読みます。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

いやあ、素晴らしかったです、ユリアヌス。

さしあたり読み終わり、余韻に浸る感じ。

巻末の「ユリアヌスの廃墟から」も素晴らしくて、しばし読みふけってしまいました。小説家の舞台裏が満載。もちろん、一度は目を通しているものではありますが、その時々の問題意識に応じて、学ぶものも変わります。トーマス・マンやノサックの事例から、小説を書くに当たって意識されていたことがあらわになっていました。

まあ、その気になれば、旧い文庫本で続きも読めますが、あえて、来週の第二巻発売を待つことにします。一応予約してるので、わくわくしながら待ちます。

短信的に今日はここまで。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

辻邦生作品を読むと、あれ、このシーン、どこかで読んだなあ、ということがたまにあります。初めて読んだときには当然気づきませんが、辻邦生を読み始めて四半世紀もたつと、そういう気づきもあります。

今日、「背教者ユリアヌス」を読んでいたのは以下のような部分でした。

ユリアヌスが、ゾナスという学生とニコメディアで逢ったあとのこと。二人で神殿跡を訪れるシーン。この、神殿の廃墟を訪れるというコンセプト、「ある告別」にもあったなあ、とおもったのです。「ある告別」は、イタリアからギリシアへ向かう船旅に始まり、ギリシアの神殿跡で壮絶な夕暮れを見て、人間の若さ、すぎゆく時と雄々しく別れる、という作品。辻邦生文学の非常に重要なコンセプトであるパルテノン神殿が描かれている作品でもあります。
この場で「ある告別」を語ることは趣旨ではないのでこのあたりでいったん止めますが、このなかで山の中をあるいて神殿跡を探し出すシーンがあるのです。そこで二人のギリシアの娘と言葉をかわし、神殿跡へと至る、というシーン。あそこで「カスタリアの泉にゆくのはこの道よ、ね」と娘が道を教えてくれるのです。かたや、「背教者ユリアヌス」では神殿に至る道に「カストリアの泉」が現れます。微妙な表記ゆれはありますが、関連しているようにも思います。

(左が「ある告別」、右が「背教者ユリアヌス」)

このカスタリアの泉は、デルフォイにあった霊泉で、神託に訪れた参拝者が身を清めたようです。「ある告別」においては、デルフォイにあることになっていますが、「背教者ユリアヌス」では場所が異なりますが、なにか神殿に向かう参拝者が身を清めるために使う泉のことを指しているんもではないかと推察しました。

おそらくは、いずれも実際にギリシアに行かれたときの経験が元に昇華したシーンではないか、と考えます。「パリの手記」においては、1959年8月26日にデルフォイをおとずれ、佐保子さんが、道を聞いたジプシーのようなギリシアの美少女と仲良くなった、とありました。この美少女が、「ある告別」で道を教えてくれた娘に昇華したのではないか、などと想像しました。

作家が作品を生み出す舞台裏を垣間見た気がいたします。

というか、この調査をするなかで、もう一つ、複数も作品における興味深い関連性を発見し、辻文学への理解が深まったのでした。それはまた。

さて、明日の東京地方は雨だそうです。気温が上がり、暖かいのはよいのですが、雪国では雪解けにともなう思わぬ事故が懸念されているようです。どうかみなさま、体調や天候の変化にはおきをつけください。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。