Richard Wagner,Tsuji Kunio

大阪を離れて25年になりました。もちろん、生まれたときから大阪に住んでいたわけではないのです。さまざまな街に暮らしましたが、中学から高校までの多感な時期を過ごしたと言うこともあり、少し思い出のある街でもあります。住んでいたのは高槻市でした。先日の大阪北地震の震源地です。いまでは連絡をとる知り合いもいなくなってしまいましたが、母が当時のご近所さんに電話をしたらしく、幸い私の住んでいた地域には大きな被害はなかったとのことで、ホッとしているところです。

25年前に離れたのは東京の大学に進学したからですが、実家もやはり大阪を離れましたので、大阪に行くところはもはやありません。長い間訪れることもなかったのですが、昨年末からなんどか出張で大阪を訪れる機会を得ています。新幹線から眺める北摂の山々の稜線はどこか記憶の片隅に残っていて、懐かしさを感じるのですが、新幹線のまどから眺める街の風景のなかに、青いビニールシートを屋根に書けた家がいくつか見られて、地震の被害が確かにあったことがわかりました。それも、高槻付近の限られた地域だけでしたので、本当に揺れが大きかった地域が限定されていたのだなあ、ということを実感しました。

その大阪へ向かう新幹線の中で聴いたのがペーター・シュナイダーがバイロイトで振った《トリスタンとイゾルデ》。DVDも発売されているようです。

私は、ペーター・シュナイダーが降ったオペラを何度か観ています。いまから思えば信じられないことですが、ドレスデンでシュトラウスの《カプリッチョ》を観ました。たしか2006年のことです。その翌年、2007年には初台の新国立劇場で《ばらの騎士》を聴き、同じく新国立劇場で2013年に《ローエングリン》を聴いています。とくに印象的だったのは、2007年の《ばらの騎士》で、あまりに感動しすぎて、最初から最後まで泣きっぱなしでした。オペラ中ずーっと泣いてました。幕間で涙を拭きながら、息をついたのを覚えています。素晴らしすぎたのです。もう11年も前のことになりますが、あれほどの音楽体験はそれ以前もそれ以降もあまりないのでは、と思います。

それで、今日聴いた《トリスタンとイゾルデ》でもなにか決定的な経験をしてしまったようなのです。新幹線の中で、ただ音楽を聴きながら、一体、私はこの先何を望むのか、という少し大仰なことを考えていたのですが、どうやら、そのとき、《トリスタンとイゾルデ》の前奏曲の高揚が始まっていて、殴られたような衝撃を受けたのです。この美しさはなんだろう、と。ですが、その次に訪れたのは激しい悲しみと落胆でした。《トリスタンとイゾルデ》から150年が経ち、《トリスタンとイゾルデ》というあまりに美しい芸術作品が世界に現れたというのに、人間は何も変わっていないのではないか、という悲しみと落胆。しばらく呆けたように口を開けて放心してしまいました。

ちょうど、昨日、辻邦生の「西行花伝」を読んでいました。

出家をする佐藤義清(西行)が、鳥羽院に別れを告げるシーンでした。義清(西行)は、鳥羽院が虚空に経っているというイメージから空虚な浮世を歌で支えると言いました。これは、美が世界を支えるという辻邦生のテーゼによるものです。こうした、なにか美が世界=浮世を支えるという考えが頭の中に入っていたので、《トリスタンとイゾルデ》の美しさと世界の関係を過度に感じいってしまったのでしょう。

それにしても、忘れられない体験でした。二時間半も一人で過ごすという経験がなければ、こうした思いにとらわれることもなかったはずです。出張とはいえ、旅は、人を変える力があります。

今、東京へ戻る新幹線。豊橋へとむかっているところです。明日は仕事を休むことになっています。来週に備えます。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

西行の味わい深い歌を。

捨てしをりの 心をさらに 改めて 見る世の人に 別れ果てなん

「世」、をどうとるか、によって、さまざまにとることのできる味わい深い歌です。

その心境を「昂ぶった、晴れやかな、勇気に凛々と満ちた心」と西行花伝には書かれています。「世を捨てる」とは、浮世を捨てて、浮世から外に出ようと決心した瞬間で、身体がみるみる大きくなり、巨人のようになり、小さな浮島のような現世をじっと見つめているのだ、と。

なにか、新しいことに取り掛かろうとする気持ちが漲っている感じ。

(辻邦生の和歌の解釈はいつも素敵です)

所詮、浮世は浮島のようなもの、という比喩が「西行花伝」の中で語られます。あるいは、沢山の浮世があって、人々は小さな浮島の中で、喧々諤々としているだけなのかもしれない、と思います。

今日も浮世でいくばくか

果ても知らずに

思うこと多々

 

明日も浮世でひとつの山を迎えます。山越えは厳しい。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

辻文学を読んで、小説形式ってすごいな、と思うことが何度かあります。もちろん、そのほかにも類例があるのかもしれませんが、「西行花伝」のなかに、ああ、小説はすごいなぁ、と思うシーンがあります。

小説がほかの芸術形式と異なるのは、視覚的要素がない、ということです。絵画や映画と違い、一つ一つシーンを描写をすることになります。それはそれで一つの価値です。シーンの描写をコントロールすることでさまざまな効果を得ることができます。

【ネタバレ注意】

 

 

 

西行花伝で、そうした描写のコントロールが効果的なシーンが、四の帖における義清(西行)と待賢門院が初めて顔を合わせるシーンです。

四の帖においては、待賢門院に関する描写がかなり長い間続いていて、義清=西行もやはり流鏑馬や競い馬で活躍し、待賢門院の印象に残るようなことになっています。さらには、西行が亡き母みゆきの前の思いを汲んで妻を迎えるシーンが描かれています。

そのなかで、競い馬で活躍した義清(西行)が、待賢門院に目通りするわけです。最初は御簾が降ろされていて、義清(西行)は待賢門院の顔は見えません。ですが、その声が亡き母みゆきの前に似ているというのです。

義清(西行)は、待賢門院に「御簾を上げて欲しい」と望みます。御簾が上がると、待賢門院はみゆきの前の生き写しのように、よく似ていた、というわけです。

義清(西行)の驚きは、われわれ読者の驚きでもあります。

私は、最初に読んだとき、このシーンにさほど心を奪われませんでしたが、二度目に読んだとき、声を上げて驚いたのです。待賢門院がみゆきの前に似ていたという事実ももちろん、待賢門院のことがこれまでたくさん描かれていたのに、顔の描写だけされていなかった、ということに気づくわけです。やられた……と。

映画や漫画ではこれはできません。映像表現ができない弱点をアドバンテージに変えている、と思いました。有名な手法なんでしょうけれども、個人的には、なんだかグサリと刺されるぐらいの衝撃を覚えましたので、書いてみた次第です。

帰宅時に小説を読むと決めてから、いろいろと気づきがあり、とても勉強になり充実します。

さて、さまざまなことが起きたこの3ヶ月、いや、この1年。考えることさまざま。まあ、できないことはできないし、できることはできます。諦めと方向転換が大切です。

今日は暑い一日でした。みなさま、どうかお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。

Tsuji Kunio

辻邦生「西行花伝」を読んでいます。いつものように帰宅時の電車の中。小説の時間と決めています。

読みきったのは一回だけです。実のところ。恐らくは1997年のことかと思われます。これもやはり21年前。この20年間はなんだったんだろう。なにか意味のあることができたんだろうか。せっかく辻邦生を長い間読み続けていたというのに、何を成し得たのだろう、という気の遠くなるような思いを抱きます。

この「西行花伝」、読み進もうにも、気になるシーンで毎回毎回様々なことを考えてしまいます。なかなか進みません。前回は2年ほど前にトライしましたが、やはりそのときも毎回毎回止まってしまって、読み続けられませんでした。

それで、今日はここで止まってしまいました。

「それなら頂点に達しないほうがいいわけだ。誰も、あの空虚さの中では生きられないからな」

「いや、わたしはそれを味わってみたいな。もう上には昇るものがない、という、絶頂の、その空虚さをね。それが味わえれば、生まれた甲斐があるというものだ」

(中略)

「あの空虚さは、死よりも無残なものだ」

「日々上昇してゆく営みは無益というわけか」

「そうだ。無益だ」

「西行花伝」新潮文庫 142ページ

義清=西行と平清盛の会話のシーン。鳥羽院の空虚を知る義清=西行が、権力欲に燃える平清盛と対話しているのです。この対話、平清盛のその後を知っているだけに、実に鮮やかななのです。

このやり取りを若い頃に読み、胸に刺さると、いわゆる普通の社会生活を営むことはできなくなりそう。毎朝会社に通い、働くことはできても、虚しさをなんとなしに予感している。以上、それ以上のことを試みることはできない方もいるのではないでしょうか。

さて、一週間も終わり、今日は早めに身体を休めます。みなさまもよい週末をお過ごしください。

Tsuji Kunio

今日は1日中雨。今日も帰宅のために乗った電車の中で辻邦生の「西行花伝」を読みました。

先日も書きましたが辻邦生の作品にはバッハがよく似合うと思います。ゲーベルの「音楽の捧げもの」を聴きながら少しばかり「西行花伝」を進めました。いくらかテーマのようなものが分かってきた気もします。「嵯峨野明月記」との関連性なども思いついたりしました。

また、昔、私がこのブログに書いた記事読み返してもいました。

当時、生きることの喜ばしさは、死を顧慮したうえで、その上で得られるものだ、というような解釈をしていたようです。11年前の記事でしたので、今思うとどうだろう、という気分になります。

ただ、実際に、週末に辻文学についての講演会を聴き、その後辻文学について語り合う機会を得たことで、なんだか生きることの喜ばしさのようなものを感じているなあ、とも本当に思っています。

世の中は背理であり、笑い飛ばすという、「嵯峨野明月記」のなかで俵屋宗達が語るシーンがありますが、背理であることを感じているからこそ、美しいものに触れることで、生きることの喜ばしさを感ている、ということなのかしら、と思ったり。死について考えるということもそうですが、理不尽や絶望といった世界の背理こそが、美の原動力なのだろうか、などと思ったりもします。

荒々しい自然から美を構築したのが西欧文明ですが、きっとそのような、世界の背理から構築した美こそが、辻邦生のパルテノン体験=美が世界を支えるという直観なのだろう、と思いました。ということは、いま直面している背理も美にとっては重要な役割を果たしている、ということになります。背理を笑い飛ばし、生きる喜びを感じ、美を立ち上げよう。そう思います。

さて、明日は人間ドックでして、仕事場へは行きません。いつもは5時起きですが、明日は6時半起きで大丈夫。ついつい夜更かしです。

ということで、みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

昨日は、学習院大学で開催された講座「辻邦生《背教者ユリアヌス》をめぐって─美術と文学の観点から─」に行ってきました。

第一部は美術史家の金沢百枝先生の講演。「美術からみる『ユリアヌス』あるいはりすちゃんの気配。金沢先生は、辻邦生の奥様で美術史家の辻佐保子さんのお弟子さんに当たる方で、佐保子さんとの思い出を交えながら、辻邦生「背教者ユリアヌス」の場面や描写を美術史的観点から解説したものでした。登場する様々な文物、例えばモザイク画であったり建築物であったり彫刻であったりそうしたものを、実際の画像で見ると、やはり作品に対する理解も深まるし、あるいはもっと言うとパースペクティブ自体を変えてしまう力がある、と言うことがよくわかったのです。時間に余裕がないと、小説を読むにもあらすじを追ってしまいます。とくに、最近、時間に追われていて、「背教者ユリアヌス」の再読も果たしてきちんとできていたのか、と反省しながら講演を聴いていました。

第二部は、昨年に引き続き加賀乙彦さんの講演でした。昨年もお話しされた辻邦生との出会いのシーンやパリのシーンも再びお話になりつつ、また加賀先生の思い出話も交えながら、パリ時代、そしてその後の辻邦生との親交についてお話がありました。

ポイントは三つあったと思います。

一つ目のポイントは、同人誌「犀」の件。加賀さんは、同人に入るように辻邦生に誘われたが、その後立原正秋と辻邦生が文学のことで意見を対立させ、辻邦生が同人を離れた、というものでした。

一方、辻邦生がこの同人に入ったのは、加賀乙彦さんを世に出すためであり、目的を果たした上で同人を離れた、という記述を辻邦生のエッセイのなかで読んだ記憶があります。友情だなあ、と思いました。

もう一つのポイントは交通事故の件と、亡くなった場面のこと。これまで私が活字で読んだことのないことで、知らない情報でした。ここに書いてもよいものかどうか。話されたと、加賀さんはうつむかれ、おそらくは涙を流されていたように思いました。私も落涙。当時まだ二十代でちょうど読み始めて10年たった時でしたが、一ヶ月アルコールを飲まずに私なりに追悼しました(飲み会で先輩に強要されても耐え抜いたのです)。

ポイントの三つ目。北杜夫、辻邦生、加賀乙彦の小説の源泉とはなにか?と言う話題です。

北杜夫は、自分の親交を書いている。

辻邦生は、勉強して徹底的に調べ上げ文学世界を創り出す。

加賀乙彦は、精神病患者、犯罪者の研究がソースとなっている。

かつて菅野昭正さんが書かれた文章「本の小説、小説の本」について書いたことがありました。加賀さんのおっしゃるとおり、と私も思います。

https://museum.projectmnh.com/2016/03/21225416.php

個人的には、今回の文庫本についていた加賀さんの解説の種あかしが聴きたかったのですが、それはならず。もう少し考えてみたいと思いました。

講座の終了後は、辻邦生を語る会へ。日頃の環境と、まるで別の世界に来たような感じで、私としては、心が洗われ、しばし生きていることを再確認したような気が致します。また明日からが大変です。

それはみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Literature,Murakami Haruki

今日も村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読みました。

【ネタバレ注意】

 

第三部の最終においては皮剥ぎボリスの話が出てきます。この強制労働のイメージ、炭鉱の描写が鮮烈で、あまりにショックです。

先日も書いたように、私は小説において現実と小説世界の境が分からなくなることがあります。今置かれている状況とこの強制収容所のシーンがあまりに密接に絡み合っているような気がしています。

この強制収容所のイメージは、おそらくは人間にとっては普遍的なイメージなのだと思います。

人間は誰しも何か閉じ込められているという状況なのではないか。そこから飛び出そうとしてもなかなか飛び出せないと言うイメージは人間にとって普遍的なものではないだろうか、と。

それは、家庭に閉じ込められているでもいいし、とある地方に閉じ込められているでもいいし、会社に閉じ込められているでもいいし、あるいは国に閉じ込められているでもいいし、地球に閉じ込められている、ということでも良いのです。おそらくは人間の普遍的な要求としての「解放」と言うものがここに現れているのではないかと思うのです。

それにしても、本当に胃が痛くなる気分の悪さを味わっています。それは、別に村上春樹の文学が悪いわけではありません。それほど深く共感してしまったということです。それほどに強い文学、ということなんだと思います。(疲れ切った身体には応えます…)それは、先日も書いたように、辻邦生の文学を読んで、そこにある理性の明るさがあまりに眩しくて目が潰れてしまう気持ちを味わったのと似ています。

おそらくは、辻邦生と村上春樹は逆の方向を向いています。しかしながらそれはぐるっと回って同じところでつながっている気がします。真実を語っていると言う意味において。

もう少しで「ねじまき鳥クロニクル」を読み終えます。次は何を読むか。あるいは、ブログに書くのは続くのか?

みなさまも、ゆっくりお休みください。おやすみなさい。グーテナハトです。

Literature,Murakami Haruki

今日はほとんど小説を読む時間が取れません。ただ、そうはいっても5分ぐらいは読んでみようかなあ、と思い、手に取りました。

引き続き村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」です。

て、運命に関する記述があり、とても驚いたのです。しかも、通奏低音と言う言葉とともに。

運命の力は普段は通奏低音のように静かに、単調に彼の人生の光景の縁を彩るだけだった。

昨日、私がは「通奏低音のように何か運命性のようなもの」と書きましたので、その偶然に少し驚いたのです。

村上春樹は、音楽音楽を愛好していますので、そうしたメタファーを使うのは自然だと思います。私もジャズもクラシックも大好きですので、このような偶然があっておかしくはないと思います。先日も書いたように、こうした村上春樹の間口の広さが、多くの人に受け入れられる理由であるように思います。

明日からまた仕事です。休む間もありません。せめて早く寝て明日に備えます。

それでは皆様、おやすみなさい。

Literature,Murakami Haruki

今日も、少しだけ小説を読んでみました。

村上春樹です。今日は週末ですので自宅におりましたので、電車に乗っているわけでもなく、別に小説を読む時間があるわけでもないのですが、まあ、せっかくなので少しは読んでみようかなあと思い、5分ほど時間を見つけて読んでみた次第です。

それで、村上春樹を語るほど村上春樹を読んでいるわけではありませんが、それでも何か語りたくなるような欲求を抑えないわけにはいきません。

今日、私があらためて感じたのは、物語の中にまるで通奏低音のように何か運命性のようなものが流れていることを感じる。それもほとんど超自然的な運命性です。

辻邦生においてもやはり超自然的な運命の出会いであるとか、あるいは幻覚や天変地異あるいは天文学的な現象等によって、運命性を感じさせる場面があります。例えば、背教者ユリアヌスでは、ローマの神々がユリアヌスの前に姿を現し、ユリアヌスに様々な示唆を与えます。

村上春樹においてはそれを超えるような超自然的運命的な事柄が描かれているわけです。「ねじまき鳥クロニクル」では、ノモンハン事件、満州国、井戸と言ったキーワードで、場所や時間を超えたつながりが描かれていると思います(もちろん、まだ読み終わっていないので全貌がわかっているわけではありません)。

私は、昔から思うのですが、小説においては、普通では説明のつかない、現実を超えた、あるいは科学では説明できない超自然的現象が、何かしら語られていることが多いように思います。

小説の起源が、おそらくは古代において口伝えで伝えられた神話であるということからして、あるいは、18世紀以降の小説が未知の世界を伝えるメディアだったということからして、小説が自分の理解や知識を超える何かを伝えるものだとすれば、小説が超自然的なことを伝えることに関して何の不思議もなく、むしろその本質の1つなのではないかと思います。

などと言いつつ夜も更けてきました。そろそろ眠りについて、明日に備えないと。

それではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

Literature,Murakami Haruki

今週月曜日から始まった小説を読む時間。今日で5日目になります。今日も引き続き、「ねじまき鳥」を読んでいます。

村上春樹の小説は間口が広く、だれもが何か共感できるチャンネルを持っているのが強みだと思います。歴史、音楽、政治、芸能…。この間口の広さが、普遍性の秘密なのだなあ、と。これはやはり「騎士団殺し」でも感じたことです。プロットはあるような無いような。しかしながら、伏線と謎が縦横に張り巡らされているように感じられ(もしかすると、それは、伏線があるかのように読者が受け取るように仕組まれたものとも思えますが)、ページをめくる手が止まらないわけです。

ただ、ときに、その手が止まることもあるのは何故なのか。もしかすると、この特異すぎる世界観を理解することは精神的な負担が強い、ということではないか、と。現実世界で生きているなかで、村上春樹の文学世界はあまりに苛烈に真実で、心が焼き切れてしまいそうなのです。

それは、辻邦生を読むときにも感じることです。あまりに現実と離れた理想の世界を見たときに、感じる脂汗をかくような疲れにも似たものです。おそらくは、真実は、現実にとっては都合が悪いことなんでしょう。だから脂汗をかいてしまうということなのかもしれない、と思いました。

今日の東京地方はとても良い天気でした。朝の雲1つない空は筆舌に尽くしがたいものでした。明日も明後日も良い天気。そしてそれ以降は梅雨が来そうです。皆様もよい週末をください。

おやすみなさい。グーテナハトです。