Tsuji Kunio

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寒い日が続きます。みなさま、お変わりありませんか?

先日から「西行花伝」を読み始めていたのですが、なかなか進まず、そうこうしているうちに、「背教者ユリアヌス」が復刊し、そちらにも手をつけ、Kindleでは「言葉の箱」を繰り返し読みつつ、「銀杏散りやまず」を読まないと、という、今日この頃。

結構進んでいます。いやあ、面白いですね。20年ぶりぐらいに読んでいますが、本当に面白い。漫画にでもしたらずいぶん受けるんじゃないかなあ、と。少女マンガになりそう。誰か書かないかなあ、などと。

今回は、加賀乙彦先生の後書きを読んだこともあり、「風」に注目して読んでいます。至る所に「風」がでてきますが、それがもしかするといわゆる精霊としての神々の息吹のように読めてしまいます。解釈というのはそういうものです。

ユリアヌスがギリシア古典に親しむあたりは、なにか「春の戴冠」を彷彿とさせるものがあったりして、そうした作品間の連関なども気づいてくると面白いです。

一応、木曜日ぐらいには読み終わる想定で、その後は「西行花伝」にもどるか、「銀杏散りやまず」に向かうか。…

いずれにせよ読書へのスタンスに気合が入っていないので、予定を立てて読むことにしました。皆さんはやっておられると思いますし、私も、一年間に100冊タッチした年には、計画を立てていたみたいです。3日で一冊読むと、100冊年間で読めますが、どうかなあ?

文学の本もあれば、仕事の本もあるけれど。

もっとも、立花隆さんによれば、本は全てを読んではいけないそうです。見切りをつけるのが大切とのこと。

踏まえて、進めていこうと思いました。

さて、11月と12月にずいぶん働いてしまいました。前にも書いたもしれませんが。寝不足と深夜の食事を続けた結果、体重が恐ろしいことになっていました。やれやれ、節制しないと何もできないです。さしあたり、お菓子はやめて、ご飯の量を減らし、アルコールも減らさないと。

というわけで、みなさまもお身体にお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

背教者ユリアヌス、ゲットしました。

帰宅の電車で加賀乙彦さんの解説を読んで、今まで気づかなかった、あんなことやこんなことが、たくさん分かってしまい、恐怖に身震いしています。

実は、題名からして恐ろしいことになっている本なんだ、と。

私は、ユリアヌスは浪人時代と大学時代に2回読んだだけ、ということに思い至りました。それ以降得た知識や経験を使いながら、もう一度ユリアヌスを読むと、違う読み、深い読みができるに違いない、と思いました。

で、結局何が恐ろしいのか?

初版の日付が恐ろしいのです。

これだけだと、ダジャレと思われますが、そうではありません。私は、加賀乙彦さんの解説の最後の3行の異様さにハッとさせられ、読み返して、ことの重大さに気づき、身震いが止まらなかったのです。

きっと、一般的に有名なことで、私だけが気づいていない事案なんだと思います。

で、私も加賀さんに倣って、明示的にはこれ以上は書きませんが、読み始めて四半世紀でこの驚きですので、辻邦生の偉大さを再認識しました。

今、西行花伝を読んでいるのですが、どっちを先にするか。困りました。

ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

西行花伝 (新潮文庫)

西行花伝 (新潮文庫)

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辻 邦生
新潮社
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今年に入って、「西行花伝」を読み始めているのですが、どうも進みません。

この感覚、昔、哲学書を読んでいたときの感覚に似ています。読んでいるそばから、いろいろ気になることが頭の中をよぎってしまうのです。

ああ、そういえばこのエピソードは「銀杏散りやまず」でも登場したな、とか、この語り手である藤原秋実が西行を思う気分が、どうも没後20年に迫ろうとしている辻邦生を思う気分に重ねってしまうなあ、などと。

あともう一つ。

私は通勤時間しか本を読む時間が捻出できません。ですので、まわりの音を遮るために音楽を聴いているのですが、「西行花伝」を読むときにふさわしい音楽は何か?ということを考えてしまうわけです。

さしあたりの結論はこちら。アルゲリッチのバッハでした。

J.S. Bach: Toccata, Partita, English Suite / Martha Argerich
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なにか、この硬質で冷たく感情のない短調の美しさが、「西行花伝」に通底する美しさにぴったりのような気がしています。このあたりは完全に好みですので、おすすめするものでもないのですが、純粋な感想としてのご紹介です。

少し話を戻すと、藤原秋実が西行を知る者に話を聞いて回る、という物語の構造自体が、なにか1999年という二十世紀の最終幕においてこの世を去った辻邦生のことを探そうとしている我々の営みに重なるものがあるように思います。辻邦生のことを知ろうとしているのか、あるいは辻邦生文学のことを知ろうとしているのか。常々、文学を語ることと、世界を語ることを混同してしまうことがありますが、それと似たようなものなのでしょうか。

さしあたり、きょうはここまで。みなさま、おやすみなさい。

Tsuji Kunio

今日、書店にて背教者ユリアヌスを目撃。

いや、私は別の書店で予約していたので、今日は買いませんでした。そもそも、書店に行ったこと自体が想定外でした。

平積みになっていて、なんだか嬉しくなりました。

思わず、「あ!、辻邦生の背教者ユリアヌスだ! これ面白いんだよなー」と大声で独り言でも言おうかと思いましたがやめておきました。

それでは、みなさま、おやすみなさい。

Tsuji Kunio

すでにご存じの方も多いと思いますが、中公文庫から「背教者ユリアヌス」が復刊となりました。まずは、第一巻が12月22日に刊行されています。

背教者ユリアヌス(一) (中公文庫)
辻 邦生
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中公文庫のTwitterで紹介されているのをキャッチしました。

  1. 全部で四巻セットで、12月から3月まで毎月刊行されるようです。
  2. 解説は書き下ろし。第一巻は加賀乙彦さん。
  3. エッセイなども収録されます。
  4. 東京堂書店では、2017年12月26日ベストセラー文庫第8位。(9位はソラリス)。
    (http://www.tokyodo-web.co.jp/)
  5. 表紙の紋章は、辻邦生が年賀状に使っていた版画だそうです。
    (https://twitter.com/chuko_bunko/status/944458256608411649)

なんだか、「ある生涯の七つの場所」が文庫化されたときに、2ヶ月に一度の刊行が待ち遠しくてならなかったのを思い出しました。もちろん、旧い中公文庫は持っています。すこし迷います。

そんなことをかいているうちに、2017年ものこり1日となりました。明日で最後。さて、振り返りをする時間はあるだろうか?

それではみなさま、おやすみなさい。

 

Tsuji Kunio

なんだか、ひどくいろいろなことをやっていて、くさくさした感じになってしまい、これはもう、何かストレス解消になるようなことをしないと、と思っていたのですが、この本を読んで一気に沈静化してしまいました。
辻邦生「詩への旅 詩からの旅」。1973年出版です。

詩への旅詩からの旅 (1974年)
辻 邦生
筑摩書房
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古本で買ったものですが、いつどこで買ったのか全く覚えていません。ところが、裏表紙を見ると、辻邦生のサインが。

実際に40年以上前に辻先生が手に取られた本が、21世紀となった今、私が手に取っている、という感動はそこはかとないものです。

この本、かつて読んでいるはずなのですが、もう20年も立っているので、ほとんど初めて読む感覚でして、冒頭のパリの描写にシビれてしまい、しばらく先に進むことができません。先日書いた「エルEllE」の中で、フランスの個人主義について少し触れましたが、その個人主義が「死」に立脚しているという指摘に痺れてしまったり、あるいは、フランスのカフェの微細な描写に、外国に行った時の緊張感のようなものを思い出したり。

朝のカフェのこの感じ、この雰囲気は決して伝えることはできない。そのなかに生きる以外にはそれを味わう方法はない。だが、そのことは小説を書くことに似てはいないだろうか。なぜ小説では、微細な細部が描かれるのか。なぜ裁断し、批評し、説明し、要約しないのか。それはただ、微細な描写が生きた雰囲気、なまなましい感じの容器となって作用しているからではないのか。この感じ(サンサンシオン)は、そうした描写にひょって、そのまま保たれているからではないのか。

11ページ

なんだか、もう外国に行くこともなくなってしまい、本当に悔しさとか悲しさとか歯がゆさとか、そういうことを感じずにいられません。が、人生は短く長い。これからどうにかしないと、とも思いました。諸々頑張ろう。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Literature

先日読んだ、エル、という本。早川文庫から今年刊行され、映画化もされています。

エル ELLE (ハヤカワ文庫NV)
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個人主義フランスならではの話かなあ、なんてことを思いました。

話の中身は大人向けでしたが、サスペンスの結末としては、うまくいってまして、最後まで面白く読み続けました。展開がとても早く、そのプロトコル(通信手段、あるいは波長を合わせると言う意味において)に慣れるのに少し時間がかかりましたが、慣れてからは物語世界に取り込まれてしまった感覚があります。

ヒューマニズムという言葉がありますが、フランスにおける、あるいはこの本で描かれるフランスにおける、個人主義が個人の尊厳をそこに含まれる何かしらの善人ぶるようなニュアンスはなく、徹底的で戦闘的なヒューマニズムがあるなあ、と思ったりしました。

愛するということについていえば、個人主義を徹底した結果としての不倫関係があったとしても、あるいは極度の個人主義の結果として一人で生きることを選択したとしても、切れることのないのが親子関係であり、それはけっして清算できるようなものではないからこそ、個人主義とは相容れないものを受容する必然性が厳然としてある、ということにも気付かされました。

親子の愛情と男女の愛情の違い。いや、愛情ではなく愛憎とでも言い換えるべきかと思いますが。

筋書きをかけないまま、抽象的に書くしかないのですが、なにかそういうことを思いながら読みました。おすすめです。

一ヶ月ちかくかかっていた風邪がようやく収まってきました。寒い日が続いていますので、みなさまも暖かくして体調にはお気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

とにかく、めまぐるしい毎日が続いていて、生きるために精一杯な感じになっています。やっと1時間だけ時間が取れました。

今日は辻邦生の誕生日です。1925年と言いますので、今から92年前になります。時代は光速で進みます。1999年のお別れの会も今日でした。18年前です。

さて、2005年から刊行された辻邦生全集。ラインナップはこちらのページにまとめています。

その最終巻である第20巻に、未刊行の短編が収められていました。「白鳥の夜明け」という小説です。私はこの短編に気づいていませんでした。全集が出てからもう10年以上が経つというのに。

辻邦生全集〈20〉アルバム・雑纂・年譜・書誌ほか
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「不眠症に悩む主人公は夜の街を散歩するのだが、そこで翼をつけて飛ぶ練習をする男オワゾに出会う。オワゾは優秀なエンジニアとして内燃機関を設計していたが、その優秀さが故に社内で嫉妬を買い、会社の方針とも意見を違えている。オワゾは、公園で見つけた鴎の卵を温めている。卵から雛が孵るのだが、それは鴎ではなかったのだった」

1993年2月に文藝界で発表されていたようですが、未刊行の小説だったようです。たまたま聞いていたこちら「ある秋の朝、光の中で」や「もうひとつの夜へ」を思い出しながら読みました。たまたまフィンジを聴きながらだったのですが、落涙してしまいました。ここに描かれている世界が真実だと素晴らしいと思うのですが、どうでしょうか。最後の場面があまりに美しく、胸を打たれました。

「あいつは飛び去ったのじゃないね。この世界を包む白鳥に変身したのだ」

Finzi: Introit

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同じく、今日はこんな文章も読みました。
戦後は、マッカーサーのおかげで「女が国立大学には入れた」と言われ、今ごろになって、プーチンやブッシュその他の施政者の動向を追うことで、ようやく「革命」も「民主主義」も欺瞞であったことを私は理解した。
わずかな部数の研究所や刺繍は純文学作品を、なんとかやりくりして刊行して下さる良心的な編集者や出版社が少しは生き残っている。辻邦生全集やこの書物の刊行も、そんな方々の努力の一端と感謝しながら、「少数の幸福な読者」の手許にどうかぶじに届くようにと祈るばかりである。
辻佐保子 「たえず書く人」辻邦生と暮らして 164ページ
「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)
辻 佐保子
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昨今諸々諦念に達する状況ですが、粘りに粘って生きないと、と思います。
秋分も過ぎ、冬至へ向けてまっしぐらです。どうかみなさまお体にお気をつけてお過ごしください。

Tsuji Kunio

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先日、お世話になった方を囲む会に伺う機会を得ました。60年代から一貫して一つのことに打ち込んで来られた方で、私は大学時代の四年間にその方にお世話になりながら過ごしたのでした。その囲む会では、私も含めて、その方にこれまでお世話になった方が何人もいらしていて、60年代からこれまでに至るその方にまつわる思い出が、幾重にも重なるように語られました。安保闘争の時代から、バブル期、そして失われた20年。それは半世紀の歴史を振り返るようにも思えるものでした。私もおそらくは大学時代からの四半世紀を振り返ることになりました。

歳を重ねるにつれ、時間の感覚が異なることは、若い頃には全く予想しないことでした。それは、何か伝聞として知らされて入られたのかもしれませんが、身体的感覚の中で、時間が早まることを感じることは、予想を超えるものだったと思います。自分の生きて来た時間を分母にして、実時間を分子にすると、時間の長さの感覚が計算できるわけで、その波形は反比例式です。ご存知のように、反比例式のグラフは、当初乗算的な傾きを描きますが、その後その傾きは緩やかになります。おそらくは、その乗算的な傾きのピークが20代後半なのだと思います。その後は、傾きは緩やかになります。確かに、30代を過ぎると、時間が早く感じる、ということ自体に慣れて、驚くこともなくなりました。

ついこの間までは、そうした時間の感覚は今後あまり変わることはないだろう、と思っていたのです。ですが、先日の囲む会で、いらした方が縦横無尽に半世紀の記憶を操るのを見て、時間の感覚というものがまた別の様相を生み出すのではないか、と思ったのです。おそらくは、昔という感覚が徐々になくなってくるはず。あるいは、過去になればなるほど意味が濃くなって行くのでは、という感覚。なぜなら、過去になればなるほど反芻するから。これ、年配の方にとっては常識な感覚なのかもしれませんが、先に触れたように、時間が早くなる感覚を実際に体験しないと理解できないように、過去の意味の濃度が高まるということも体験しないとわからないはずです。私は徐々に体験し始めているようにも思いますが、それが本当にそうなのかはまだわかりません。ですが、おそらく、記憶の中を自由に遊ぶように行ったり来たりすることができるようになるのではないか、と想像しています。

私たちの主観が記憶の中で過去へ自由自在に行けるようになるということは、記憶全体のいずれもが現在となりうるわけで、そうだとすると、自分の記憶全体を未来とも過去ともいうことができるわけです。そうした記憶の総体を世界だとすると、我々は世界を縦横無尽に駆け巡ることができるのだ、と思います。ここにいる今の私が記憶の最新=最終末だとすれば、それこそが、全てを把握し語りうる主体である、ということ。何か、歳を重ねれば重ね、記憶を積み重ねれば重ねるほど、世界の見え方がこれまでとは変わるのではないか、と思ったりします。こればかりは自分で体験して見ないと、と思います。どのような世界が待っているのか。しぶとく生きて見届けるなければと思うのです。
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辻邦生の「小説への序章」です。トーマス・マンが「魔の山」で物語の時制は過去時制である、と書いていたことを踏まえてこのようなことを書いています。

あらゆる事象を過去的なものとなし、未来まで過去に属せしめる主体とは、あらゆる未来に先駆けて未来である主体、つまり最終末に立つ主体に他ならない。このような主体を物語的主体といいうるとすれば、物語的主体の生まれる深奥には、この時間の反転が何らかの形において行われなければならないはずだ。

最終末だからこそできることがあるということ。最終末で未来も過去となるとあります。最終末=今ここがあらゆることの中心となるということが、記憶の中を縦横無尽に飛び回ることができるということにも繋がるはずです。良い意味で、記憶に生きながら、次の新しい記憶を作っていくことがアセットになるということに繋がります。繰り返しになりますが、しぶとく生きて、新しい記憶を作るということに徹する、ということなんだと思います。

何ということを書きながら、9月も半ばを過ぎてしまいました。台風が近づいています。みなさま、どうかお気をつけて。お休みなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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辻邦生のミニ展示で、「JOURNAL」と題された自筆の日記を読むのが毎年楽しみです。ブルーブラックの中太ぐらいの万年筆で縦書きで緻密に書かれた日記には、本当に興味深いことが書かれています。

今回は、私の記憶では、確か「内容」と「様態」を小説でどう取り扱うか、と言うテーマが書かれているページだったと記憶しています。

小説家は「内容」は書いてはいけない。「様態」を書かなければならない。そう言うテーマだったはずです。何かを表現しようとした時、それをそのまま文章で書いてしまうことを、おそらくは「内容」と言っているはず。対して、「様態」とは、何かの様子を描写することで、「内容」を表現する。そう言う風に理解しました。

例えば、「疲れ切ったサラリーマンが、何人も座席で寝ている」と言うのが「内容」だとすれば、「20時。通勤列車のロングシートに座る白いシャツを着た男たちは、一様に目を閉じて列車に揺られている。列車が動きに合わせて、男たちの身体が一斉に動く。まるで、眠れる兵士が隊列を組むように」みたいな、情景の描写が、「様態」なんですかね、なんてことを思います。

いずれにせよ、直接的な表現に甘えてはならず、描写によって事物を表現せよ、と言うことなのだと理解しました。

おそらくは、そう言うテーマが「小説への序章」にあったはず。展示されていた日記は、「夏の砦」を書くために山へ向かうシーンが描かれていた部分です。「夏の砦」成立と同時期に「小説の序章」がかかれていますので。このあと確認して見ます。

今日も東京地方は雨。夏はどこへ言ったのか。また来週から夏が戻りますが、すでに「残暑」と呼ばれる季節になってしまいました。日の出の時間もどんどん早くなります。東京ですと、残念ながら朝5時を回ってしまった、と言う悲しみ。毎朝5時に起きていますので、暗い中起きる季節がまた巡って来てしまいました。早く、夏至にならないかなあ、と思います。心の底から!

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。