先日、学習院大学史料館から案内状が届きました。写真は1959年ごろとのこと。終戦から14年。今から14年前は2003年。2003年に戦争が終わって、今ごろパリにいる、という時代感覚かなあ、と。
今日は短く。おやすみなさい。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
先日、学習院大学史料館から案内状が届きました。写真は1959年ごろとのこと。終戦から14年。今から14年前は2003年。2003年に戦争が終わって、今ごろパリにいる、という時代感覚かなあ、と。
今日は短く。おやすみなさい。
辻邦生の「春の戴冠」をKindleで読んでいます。
この長編小説は、大学を出てから読んだ気がします。20年ほど前。以降、3回ほど読んだ記憶があります。
初めて読んだときは、恐らくは物語の楽しみを味わうことに終始した気がします。フィレンツェの国際政治の乗り切り方を手に汗握る思いで読んだ記憶があります。
2回目は、恐らくは哲学的な観点で読んだはず。プラトンアカデミアで語られるプラトニズムから、美とは何か、分有という言葉をキーワードに読んだ記憶があります。恐らくは2004年ごろのことかと。
3回目はその数年後に読んだと思うのですが、何か晦渋さを感じながら読んだ記憶があります。もっとも、あのシモネッタとジュリアーノが恋に落ちる仮面舞踏会のシーンに感動したり、最後の場面の少年たちの狂騒に文化大革命の紅衛兵を感じたり、そういった発見もありました。
その後、昨年だったか、「春の戴冠」をKindleで入手し、読み始めたのですが、なかなか進みません。何故なのかなあ、ということを考えると、何か遠いところに来てしまった、という思いが強くあり、入って行けなくなってしまった、ということなのかもしれません。美しい描写も、その文章の上をうわ滑ってしまうようなそういう感じです。昨日も書いたことですが、あまりに違う世界にいますし、時代も大きく変わりました。
辻邦生の生きた時代が過ぎ去っていくことを感じたのは、「夏の光満ちて」を読んでいた時のことでした。辻邦生がパリへ向かう飛行機がエールフランスのボーイング727だったという記述があったはずで、それを読んだ時に、ああ、本当に違う時代のことなんだ、と体感したのでした。ボーイング727は30年前に活躍した旅客機で、日本で見ることはできません。なにか、時代の隔絶を感じたのです。それは、江戸と明治の差かもしれないし、戦前と戦後の違いなのかもしれないと思うのです。
なにか、手の届かないところへと遠ざかっていく感覚は、昨日触れた、高層ビルから眼下を眺めるということとも言えます。
それで、昨日、この「春の戴冠」をKindleで読みましたが、ちょうど出てきたのが、<暗い窖>という言葉でした。
それは自分の立っている場所がずり落ちてゆき 、いわば 〈暗い窖 〉のなかに陥るような不安をたえず感じざるを得ない人たちです。(中略)生きることに一応は意味も感じ 、努力もするが 、心の底に忍びこんだ 〈失墜感 〉をどうしても拭いきれない。
この失墜する感覚に対して、全てに神的なものが分有されていることを認識することで、その迷妄を断ち切る、というのが、フィチーノがその場に結論なのですが、どうなのか。結末のサヴォナローラを知っているだけに、複雑な思いです。
何度か書いたことがあるのかもしれませんが、文学は人生論ではないとは思いますが、やはり時代という背景の中で書かれ読まれる文学には、文脈に応じた意味が付与されることになります。窖という言葉は、そうした時代や、あるいは人間の一生の中で感じる何かしらの失墜感を表すものではないか。どうしようもなく、抗うことのできないものの象徴なのではないか。
初めて「春の戴冠」を読んで20年で、何かそういう思いにとらわれています。逆にいうと、この「窖」の答えもまた「春の戴冠」の中に隠されているはず、とも思います。
台風が東京地方に迫っております。どうかみなさまお気をつけて。
おやすみなさい。グーテナハトです。
なんだか、心がえぐられるような深い感慨を持った本でした。探検家高橋大輔さんの「 漂流の島:江戸時代の鳥島漂流民達を追う 」。
江戸期の鳥島への漂流民の足跡を鳥島に実際に行って検証するというノンフィクション。
これまでも、高橋大輔さんが、浦島太郎、サンタクロース、といった伝説の人物の足跡を、実際に現地に赴いて検証するという探検を読んでいましたが、今回もすごかったです。
鳥島は、活火山の無人島で、特別天然記念物のアホウドリの生息地ということもあり、容易に訪れることはできません。また絶海の孤島にあって、波浪激しい大海に浮かぶ島でもあります。
その鳥島で漂流民達が暮らした洞窟を見つけようというのですが、明治以降の大噴火で、洞窟のあった地帯は水蒸気爆発で吹き飛んだり、溶岩流に飲み込まれたりと、地形が大きく変わっています。さて、鳥島に漂流民の足跡を見つけることができるのでしょうか、という物語。
高橋さん自身の鳥島への上陸、現地での調査、離島する場面が、漂流民の漂着、生活、脱出と重ね合わさるような構成になっていて、漂流民の当時の状況や心情がリアルに感じられます。
現地に赴くまでにも、様々な交渉やお役所との攻防があったり、探検というのは現地に行く前から始まっているということもよくわかります。何をやるにも、面倒なことはたくさんあるものです。
実際に、漂流民達が暮らした洞窟を見つけることができたのか。ここには書きませんが、高橋大輔さんの執念が一つの結論に到達する様は、漂流民の脱出への執念と重ね合わせて感じられました。
それにしても、絶海の孤島に取り残され、脱出のすべもない、という状況を想像して、冒頭に触れたように何か心をえぐられるような気分になりました。その絶望たるやいかほどのものか、と。その絶望の感覚を、漂流民の記録を取り上げたり、あるいは鳥島での体験をもとに描いておられて、凄まじいリアリティでした。
これまでの高橋大輔さんに関する記事はこちらです。こちらもおすすめです。
https://museum.projectmnh.com/2014/07/06160136.php
https://museum.projectmnh.com/2014/06/30003132.php
それではみなさま、どうか良い週末を。
昔、うちの組織の新人に「何かいい本を紹介してください」と言われたことがありました。とっさに出てきたのはこちら。
多分、想定と違う本だったようで、その後読まれたかどうかは定かではありません。
なぜ、この本を勧めたのかというと、教皇たちの権力や事業への意志の強さに感銘を受けたから、だと記憶しています。本を読んだのは10年ほど前で、勧めたのは5年前ですので。しかし、おそらくは、イタリアあるいはヨーロッパの政治世界において絶対的な権力を握るということは、やはりイタリアは政治の国であり、マキャベリを産んだ国なんだなあ、と思うのです。
マキャベリといえば、昔、電子書籍で買ったこちらの本も少し読み返したのですが、まあ、組織の中で行われていることとは、こういうこと、というのがわかるので、こちらも新社会人にはいいかも。
成毛眞の超訳・君主論<成毛眞の超訳・君主論> (メディアファクトリー新書)
今年の目白参りの季節まであと4ヶ月。早いものです。
学習院大学史料館の講演や展示会のお知らせがTwitterで掲示されていました。
2017年7月22日14時 学習院大学創立百周年記念会館
加賀乙彦氏による講演「辻邦生の出発──『夏の砦』」
7月18日(火)から8月11日(金・祝) 学習院大学史料館
永遠の光─辻邦生「夏の砦」を書いた頃
【再アップロード】7月22日(土)に開催の加賀乙彦氏による講演会「辻邦生の出発ー『夏の砦』」のお知らせです!辻とは1957年、仏留学のため乗船していたカンボージュ号で出会い、親交を深めました。講演では辻との思い出やご自身のことなどをお話していただく予定です。 pic.twitter.com/zwTp8m6LuJ
— 辻邦生関係資料(学習院大学史料館) (@kunio_mini) March 3, 2017
今年もまた行かないと。講演の日はきっと展示会は混むと思いますので、別の日の静かな夏の午後にでも行きたいなあ、と思っています。
今日は取り急ぎです。きょうは振替休日。あすからまた仕事場へ。
それでは、みなさまおやすみなさい。
会社帰りに本屋に寄りました。何も買わなかったのですが、なんだか、すごく幸せな気分になりました。書店の匂い。糊とか、紙とか、インクとか、そういう匂いが立ち込めていて、引き込まれる感覚。本の一つ一つに巨大な物語世界が収められているのか、と思うと、本の背表紙に手を触れるだけで、痺れを感じる気分でした。
週末は自宅で様々なことをやらなければなりません。少し忙しそうです。
それではみなさまも良い週末を御過ごしください。
なんだか、しばらくは小説は読めそうもありません。騎士団長にやられました。次の小説の次の世界には入っていけないかんじ。まだ、早いです。騎士団長にずいぶんのめり込んでしまったようです。
それにしても「騎士団長殺し」、おもしろい小説でした。私は、もっと読みながら、これはスティーブン・キングだなあ、と思ったのです。非現実的で非論理で、ただそれだけだと全く意味をなさないことであっても、圧倒的な筆力で、リアリティとイメージを腕力で積み上げていくような。
物語は閉じることなく、解決されないまま終わるというのも、まあ当然といえば当然なんですが、たくさんの仕掛けが残されていて、読んでいる時も、読み終わった後も、ずっと考え続けているという状態です。先日も書いたように、演出家が先進的な演出をしたオペラを見て、その後ずっと考えている感じに似ています。
じゃあ、何を考えているのか、という話ですが、古くからの村上春樹ファンを差し置いて、何かを語るというのは何か気がひけるのですが、一点。
(ネタバレ注意)
メタファー界の旅路は、まさに擬似的な死と再生=リバース= Rebirthだなあ、と思います。川を渡り(三途の川)、狭い洞窟を通る(出産)。そして石造りの由来不明の祠の裏の穴は女性のメタファーとされています。
ですが、なぜ主人公が再生しなければならないのか、はわかりません。そして、「まりえ」の不在があまりに現実的というのも引っかかります。主人公の体験と比べるとあまりに普通で、肩透かしでした。その意味はなんなのか。男と女の違いなのか、など。そこにもなにかいみがあるはず。
ただ、そうした謎の解決は、おそらくは読者の専権事項です。人それぞの解釈なんだと思います。
今日は早めに帰って、仕事に使う資源を調達。明日は早めに出ないと。
それではみなさま、御休みなさい。
ようやく「騎士団長殺し」読み終わりました。第2部の後半は少しスピードアップして読んでしまいました。良いのか悪いのか。
たぶん話し始めると1時間も2時間もかかるネタなんだろうなあ。この感覚は、オペラを見たあとに、その演出をめぐる解釈をひたすら考える感覚と似ています。ですので、読み終わりながら思ったことは、本当にオペラ演出のように解釈多様性のある小説だったなあ、と思います。
個人的には、住んだことがあったり、行ったことのある土地がいくつも出てきて、描写に表れる対潜哨戒機も何度も満たし、小田原近辺で正午になるチャイムも聞いたことがあったりと、イメージが目に浮かびました。こういう読み手の共感を呼ぶポイントが多くあるのが人気のひみつなんだろうなあ、とも思いました。つまり、みんなが自分のために書かれた小説ではないか、と思うということ。それが、小説の価値なんだろうな、と思います。
今日はこちら。気だるい夜。
それではみなさま、おやすみなさい。
先日から書き続けている「騎士団長殺し」ですが、昨日の夜に第1部を読み終えました。はっきり言って遅いです。先週金曜日の歌に読み終えたかたもいると思います。なぜこんなな遅いのかを考えてみました。先日も書いたように、短篇を読むときにもそうなのですが、なにか奔流のように流れ込んでくる作品世界をじっくりと咀嚼したいということなんだと思います。あまり、早くどんどんと結論を出すタイプでもないのかも。寝かせると、いいものがたくさん出てくるということなんだと思います。それは、まるで、何か投資のようなもので、時間がたてばたつほど複利効果で価値がます、というものに似ています。
先日、このような記事を書きました。
確かに、短編とは違う感覚はあります。長編の牽引力という斧はありますが、それにしても、やはり物語世界の意味の重みや圧のようなものは短編とは違う激しさがあります。ストーリが長いだけに、考えることも多くあります。時間をかけて考えているうちに、いろいろな発見を得ることもあります。
物語というののはスピードや効率では測れないものなのかも、と思いました。それ以外の実用本は速読が可能です。ですが、物語は、読み手の持つ決められたスピードを超えてはいけないのでは、などと思ったりしました。が故に、流し読みがやりにくいKindleは、むしろ物語(小説)に向いた媒体ではないか、と思ったりもしています。
さて、明日は仕事場の山。そして、土曜日も仕事場の山。それが火曜日ぐらいまで続きます。さらにその先も幾重にも連なる山が。でもいつものように登ることになるでしょう。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
村上春樹「騎士団長殺し」で、ショルティの《ばらの騎士》が取り上げられていました。
リヒアルト・シュトラウスがその絶頂期に到達した至福の世界です。初演当時には懐古趣味、退嬰的という批判も多くあったようですが、実際にはとても革新的で奔放な音楽になっています。ワグナーの影響を受けながらも、彼独自の不思議な音楽世界が繰り広げられます。いったんこの音楽を気にいると、癖になってしまうところがあります。
152ページ
おっしゃる通り、どうやら癖になってしまったようで、今日もシュトラウス。しかし、この退嬰的で懐古主義だが、奔放な音楽であることを1枚で味わえるアルバムを聞きました。
アメリカのソプラノ、ルネ・フレミングがシュトラウスを歌った一枚。これを聞けば、《ばらの騎士》のようなシュトラウスのオペラを味わうことができると思います。もちろん、シュトラウスは《ばらの騎士》のようなオペラだけではなく、若い頃はいくつもの長大な交響詩や交響曲を書きましたし、《サロメ》や《エレクトラ》といった当時の前衛オペラも書きました。あるいは、《インテルメッツォ》や《ナクソス島のアリアドネ》のような洒脱なオペラも。ですが、やはり《ばらの騎士》とか《カプリッチョ》のような豊かで甘い音楽がリヒャルト・シュトラウスの魅了を占める部分であることには間違いなく、このアルバムだけ聞けば、それの多くを理解できるのではないか、と思うのです。また、演奏も他の演奏に比べて、一層甘くて豊かで、指揮するエッシェンバッハも、オーケストラをかなり分厚くゆったりと官能的に鳴らしていて、それが何か少しやりすぎのような気もする場面もあるのですが、そうはいっても、これが西欧の甘美な豊かさなのだ、と説得されてしまうような感覚があるのです。
このアルバムを聴いて、仕事場への行き帰りを終始しました。なんだかいい気分でした。
明日は木曜日。気がつけば、木、金、土と、三連続で山が連なっています。なんとか乗り切らないと。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。