猛暑の週末でした。お昼に所用で外出したのですが、日差しが突き刺さるように痛かったです。でも、もう8月も終わり。学生の皆さんは宿題は終わっていると思いますが、私の宿題はまだ終わりません。明日も頑張ります。
今日は、ハイティンクの《ジークフリート》を聴いています。
こちらのハイティンクのリング全曲ボックスは素晴らしいことこの上ないです。ジークフリートももちろん。
ベルナルト・ハイティンクがバイエルン放送交響楽団を降っています・ジークフリートを歌うのはジークフリート・エルサレム。ブリュンヒルデはエヴァ・マルトン。1990年11月にミュンヘンのヘラクレス・ザールでの録音です。
とにかく、ハイティンクの指揮は素晴らしいです。実に大きい指揮。少しリタルダンド気味なところが、そうした大きさのようなもの導いているのでしょう。
エヴァ・マルトンの強力すぎるブリュンヒルデも圧巻ですしね。
それから、なにより音が素晴らしいです。ヘラクレスザールが音がいいのは今でもありません。適度なリバーブが心地よいです。
私は、これをiPodとBOSEのクワイエットコンフォートで聴いていましたが、自宅のミニコンポで聴くとまた違う音がします。というか、甘みを帯びた豊かな音になっていて、驚きです。取り込んだのは随分前ですので、ビットレートが低いとか、サンプリングの問題なのでしょう。やはりいい音のこだわる必要があるようです。
もちろん最も素晴らしいのは実演です。
明日も引き続き宿題。それにしても一日は短い!
では、グーテナハト。
いいなあ、ハイティンクの《ジークフリート》
Miss you in New York
久々にTーSQUAREの Miss you in New York。
このアルバムでは、スクウェアを吹くマイケル・ブレッカーを堪能できます。何度も書いている気がします。すいません。でも良いアルバムなので。
このアルバムでのマイケル・ブレッカーは、正直本気を出していないはず。完全に歌モノのバッキングぐらいにしか捉えていないと思います。いや、カッコいいのですが、熱さやアウト感が足らないかも。もっと行けるはず、マイケル。
でもスクウェアを吹くマイケルが聴けるということ自体が凄いのですけれど。
とはいえ、アルバム全体のアレンジは、1995年当時の良質なフュージョンスタイルです。スクウェアの楽曲が、当時のニューヨークスタイルにアレンジされていて、結構いい感じ。そういう意味ではかなりおすすめ。
徐々に、いろんな環境が整ってきました。WiMAXが、地下鉄でも通じるらしく、そうであれば、ということで、再導入しました。これで、原稿をどこでも書ける体制が整いました。最近整理整頓大好き。やはり整理にある程度時間をかけないと成果は上がりません。
フルトヴェングラーのブル9 1944録音
ああ、失敗。大事な申請を忘れてしまい、半年間途方に暮れることに相成りました。このところタスクが溢れかえっていて、夏バテだったりと、今ひとつでした。ちょっとタスク多すぎですわ。容赦ないです。
http://ml.naxos.jp/album/298244
というわけで、ブルックナーの交響曲第9番をフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの演奏で。1944年の録音のようです。
第一楽章では、第一主題で突然高速になり、驚きます。そして、落とすところは相当にローギア。こんなに大胆なのですね。大時代的というのがこういうものなのでしょう。これを実演で聴いたら卒倒でしょう。かなり気に入りました。
最近はこういう振り方をする人がまた増えてきたように思いますけれど。
モノラル録音ですが、なんとか聴けます。
戦争末期の録音なので、色々と想像してしまいます。誰が聴いていたんでしょうかね。
週末もお仕事です。
ではグーテナハト。
ドイツ的な指揮者は誰? そして《クラリネット五重奏曲》
やっと週末。今週の通勤電車は空いていましたが、また来週からもとの混み具合になるのですね。先週の金曜日が2,3日前のことのように思えるほど時間が経つのは速いです。
クラリネット五重奏曲進捗状況
今週は随分《クラリネット五重奏曲》をさらえました。随分楽しいです。コードが頻繁に切り替わり、転調も美しく、テンションがカッコイイです。ジャズ的に言うと。リズムも裏と表の入れ替わりが面白いです。《スリー・カルテット》のような面白さです。
今週はちゃんと毎日吹きましたからね。継続は力なり。
なにげに、このブログも6月末から連続更新記録更新中です。こちらも継続は力なり。
ドイツ的な指揮者は誰?
昨日のフルトヴェングラーの続き。
私の中では、今もっともドイツらしい指揮者は、なぜかバレンボイムと思えてしまうのです。粘り強く、芯のある演奏で、時になにかどこにも手がかりがなく拒まれているような気になるからでしょうか。親しみやすさとか、洒脱さはほとんどなく、厳然とそびえ立ち、選ばれたもののみがその世界に入るのを許される、といったような。
ドイツ的と思うバレンボイムがユダヤ系であるというのも皮肉でしょうか。いや、そもそもユダヤ系とかドイツ系とかそういうのはほとんど意味がなく、郷里の文化的背景と才能であるに過ぎないのでしょう。
昨日、フルトヴェングラーを聴いて、バレンボイムと似ていると直感したからですかね。
で、バレンボイムのふる《さまよえるオランダ人》を聴いています。
この盤のゼンタはジェーン・イーグレンですが、このホッホ・ドラマティッシャーなソプラノは、激しく強いゼンタになっています。夢をみる少女ほど怖いもの知らずはありません。そうした感じが特でています。が、アマゾンの英語レビューでは結構やられてますね。「高音域は細く、華やかさがない」だそうです。私は高音域の声質が少し荒れ気味で、ピッチが低くなっているかな、と思いましたけれど。
バレンボイムのオケ裁きは、軍隊調です。雄々しく攻め入る重戦車の体です。私はどうしても新国でみたダン・エッティンガーの《こうもり》を思い出してしまうのです。《オランダ人》ではOK。でも、《ばらの騎士》は難しいかも。なんて。
明日、明後日もお仕事たくさん。
それでは、グーテナハト。
苦悩する強さ──1962年バイロイト《パルジファル》におけるジョージ・ロンドンのアンフォルタス
はじめに
メガネを新調しました。今、流行のJ●NSにて。
ですが、色々失敗。
まず、度数調整を失敗。
目が疲れるのでPC用ということにしたので、度数を測るときにiPadを持って行って、距離を測りました。実際に使ってみると、iPadを使う時とPCを使うときは微妙に距離が違います。その差はおおよそ10センチ。その差が致命的。iPadは快適ですが、PCはダメ。肩こりがひどくなってしまいました。
次の失敗。ブルーライトカットなんで、メガネが薄茶色なんですが(すこし予想はしていたんですが)私がかけると、完全にあっち系の人に見えるらしい。これではガードマンに止められて出勤できません(おーげさ)。形はいいのですが。
クナッパーツ・ブッシュのパルジファル
今年の夏は、ワーグナーの研究をしないと。というわけで、今日はパルジファルを聴きました。
クナッパーツブッシュのバイロイトにおけるパルジファルの録音は複数残されていますが、私が聞いているのは1962年の録音。
パルジファルはジェス・トーマス、グルネマンツはハンス・ホッター、そしてアンフォルタスはジョージ・ロンドンです。
ジョージ・ロンドンのアンフォルタス
ジョージ・ロンドンのアンフォルタスには感動しました。
私は、アンフォルタスに一番共感を覚えます。
アンフォルタスは聖杯を守る城主。ですが、「罪」を犯し、槍の傷に苛まれている。
苦悩に耐え、死ぬことも生きることも能わない地獄にいる男。自分の弱さがゆえと知っているからこそ、誰をも責められず、ただ自らを責め続け、自らの責めに苛まれている。
聖杯の守護という重責を担うにはあまりに人間的。全然ヒーローなんかじゃありません。
ジョージ・ロンドンのアンフォルタスは激しい。全然枯れてなくて、苦悩しまくっています。苦悩しているのですが、が、苦悩を続けているからこそ得た強さのものを感じます。多分、普通に生きるには十分に強い王なのです。ですが、生半可に理想を求めてしまったのですね。
パルジファルが第二幕で「アンフォルタス!!!」と絶叫して、アンフォルタスと同じ罠にはまらない箇所がありますが、あそこは、パルジファルを通してアンフォルタスの胸中を見る思いがして、2010年の東京春祭では、あの場面で思いっきり泣いて、浄化された記憶があります。というか、本当に浄化されたんだろうな、と思います。
録音について
私の持っている録音は、1993年7月発売。S/N比は若干高めですが、そんなに気になるまではありません。
クナッパーツブッシュの1962年の録音についてはこちらのサイトが詳しいです。
http://solarisu.sakura.ne.jp/Record/Parsifal-Kna62/Parsifal-Kna62.html
この録音なんですが、第一幕と第二幕に途切れがないように聴こえます。いや、第一幕の最後で拍手がないのはいいのです。それが慣例なので。ですが、休憩なしというのは大丈夫なんですかね。
終わりに
カミさんに駄目だし食らったので原稿はまだ出来上がらない。おっしゃるとおり。それじゃあ書評にならんよ。。締め切りは水曜日。大丈夫か、オレ。
運命・失神・鐘楼。神はいるのかもしれない。エーリヒ・クライバーと朝比奈隆
先日も書いたとおり、エーリヒ・クライバーの伝記を読んでいます。
その中で紹介されていた失神に関するエピソードを。
運命の失神
1927年3月、ベートーヴェン没後百年祭の演奏会のこと。
ボンでエーリヒ・クライバー指揮による演奏会で交響曲第5番が取り上げられました。その日はどんよりと曇った日でした。
スケルツォから終楽章へ突入する瞬間、雲の切れ目から一筋の太陽の光がガラスの屋根から差し込んできました。
途端に立ち見で聴いていた学生たちが気を失ったそうです。
戦時中、エーリヒ・クライバーが夫婦で南米の小さい町を歩いていると、男が近づいてきて「私は、あのベートーヴェン百年祭演奏会で気を失った学生の一人なんです」と話しかけてきたそうです。
これは伝説とされていますが、先日出版されたエーリヒ・クライバーの伝記で紹介されているエピソードです。
あそこで突然光が差し込むなんて、出来過ぎた話です。本当なら私も失神したはず。
神は存在する?
これって、朝比奈隆がザンクト・フローリアン協会でブルックナー交響曲第7番を降った際に、第二楽章が終わった途端に、教会の鐘がなった、というエピソードを思い出しました。神様はいるのかも。
このアルバムです。
私はかなり遅い目のテンポをとり、広間の残響と均衡をとりつつ、演奏を進めた。十分な間合いを持たせて第2楽章の和音が消えた時、左手の窓から見える鐘楼から鐘の音が1つ2つと4打。私はうつむいて待った。ともう1つの鐘楼からやや低い音で答えるように響く。静寂が広間を満たした。やがて最後の鐘の余韻が白い雲の浮かぶ空に消えていった時、私は静かに第3楽章への指揮棒を下ろした。
朝比奈さんの言葉です。
第2楽章はレクエイムです。ザンクト・フローリアンに眠るアントン・ブルックナーに演奏が届いたのかもしれません。
ここでも私は失神するかもしれません。
鐘の音を確かめるためにCD聴き始めましたが、このアルバム、いろいろ言われていながらも、かなり感動的です。おすすめ。
ドライブした演奏。朝比奈さんがグイグイ引っ張ります。デュナミークの統率感は格別。
1975年の録音ですから、もう38年前ですか。
失神とは?
先日、読響の《アメリカン・プログラム》で、失神寸前と書きましたが、まあ、音楽で失神をするというのはよくある話なのでしょう。
失神とは「大脳皮質全体あるいは脳幹の血流が瞬間的に遮断されることによっておこる一過性で瞬間的な意識消失発作」です。
この内、音楽を聞いて失神するのは「神経心原性失神」のうち「血管迷走神経反射性失神」と呼ばれています。長時間の起立、驚愕、怒り、予測外の視覚、聴覚刺激、ストレスなどによるものが多いようです。
おそらくは、立ち見の学生は、立った状況で、予測外の視覚と聴覚刺激によって血流が脳から失われ、崩れ落ちたのでしょうね。
というわけで、また明日。
ジャクリーヌ・デュ・プレのシューマンチェロ協奏曲
仕事また始まり。なんかこう砂をかむ思い。
今日は珍しく音源紹介です。
完全にバイアスかかった見方なのはわかっていますが、どうもデュ・プレを聴くとこの映画を思い出してしまいます。10年前に観たので、かなり記憶が薄くなっていますが。
「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ(1998)」です。
デュ・プレの姉はヒラリーという名のフルート奏者なんですが、ジャクリーヌほどの激しいセンスを持ち合わせているわけではありません。田舎で音楽を教える静謐な暮らしを送ります。ですが、ジャクリーヌは違います。もちろんダンナのバレンボイムもしかり。二人はアーティストなので、かなりぶっ飛んでいる。で、ぶっ飛んで行き着く先が。。。というお話だったと記憶しています。ジャクリーヌの病的でもろくあやうい精神状況をエミリー・ワトソンが演じていました。
この1963年の録音ですが、ジャクリーヌ・デュ・プレが18歳ごろの演奏です。高校生が弾いているということですね。でも、その後病気でチェロを引けなくなってしまうというアクシデント。1973年に引退してしまいます。
天才もラクじゃないです。余程の楽天家でなければ、みんな同じかな、などと。
デュ・プレのチェロは、ディストーション、つまり、エレキギターを歪ませるエフェクターですが、そのディストーションがかかったような激しく荒々しい音です。その鋭い激しさは音源を聴いてこれですから、実演ですと計り知れないものがあったのでしょう。エルガーのチェロ協奏曲も有名ですが、こちらもそれに劣らず激しさに満ちています。
ここで、「悲しみ」とか書いてしまうと改善に、映画のイメージに影響されている事になりますね。反省。
明日はエルガー?
クライバー親子対決──カルロスの《美しく青きドナウ》
禁酒三日目。アルコールの代わりに1リットル100円の炭酸水を飲んでいます。
今日はご令息のカルロスの《美しく青きドナウ》。1989年のニューイヤーコンサートです。
当時、私も元旦の教育テレビでみているはずなのですが、クライバーの偉大さを知らなかったので記憶には残っていません。全く残念なかぎり。
聞いていると、ところどころ、父親のエーリヒとそっくりなフレージングがあって驚きます。
たとえば、前奏からの入りにかけてのもたらせ方とか、絶妙な拍のもたらせ方は、そっくりで驚きます。
このもたらせ方が絶妙な美学なのです。
これは、あれですね。若い二人が初めて一緒に踊ろうかというシーン。
おずおずと手をあわせて、ステップを踏み出すのだけれど、最初はぎこちなく、呼吸も合わずゆっくりとしたステップなのだが、そのうちに互いの呼吸を理解し、音楽のノリにあわせて、スピードをあげてステップを踏む。女は紅潮し微笑み、男は真剣に前を見つめるが、女の背に当てられた手は動くことなく、女を支え続けている。
みたいな。
ただ、1923年から76年間で、世界も音楽もずいぶん変わっていますので、ボルタメントがないのは当然として、速度もずいぶん速いです。時代の必然でしょう。
昨日紹介したエーリヒの演奏のテンポは、チェリビダッケ並みに遅いもので、現代のコンサートなどではうけいれられるのか、と心配になります。
あー指揮してみたい、と四半世紀ぶりに思いました。
明日もトラブル対応。では。
オッターの歌うシュトラウスとベルク
可愛らしいカワウソ。日本のカワウソは絶滅してしまったそうです。カッパのモデルにもなったそうです。英語ではオッターと言います。
こちらはデハビラントカナダ社のDHC-6という小型旅客機。通称Twin Otter。日本語ではツイン・オターと書きます。オッターではありません。オッターは語呂が悪いのです。飛行機なので。これは実話で、私のダジャレではありません。
次が今回の主人公のオッター様。
アンネ・ゾフィー・フォン・オッター。スウェーデン生まれのメゾ・ソプラノです。
私の中では、クライバー指揮「ばらの騎士」でのオクタヴィアンが最も印象的。あとは、シルマー指揮で、フレミングも出ていた「カプリッチョ」で、強気なクレロンを歌っていたのも思い出深いです。
あとは、一昨年でしたか、アバドがベルリンフィルを振ったマーラーの大地の歌ですかね。最後、感極まって涙を感極まって流していたのを覚えています。
今日聴いているのはLove’s Twilightというアルバム。シュトラウス、ベルク、コルンゴルトの歌曲集です。
冒頭のシュトラウスのRosenbandが素晴らしいです。この曲の素晴らしさはこのアルバムで学びました。ゆったりと遅めのテンポでふくよかに歌ったいます。転調しながら上昇するあたりの昂揚感は絶品です。
あとは、ベルクの七つの初期の歌、ですかね。こちらもかなり緩いテンポ。無調の浮遊間とあいまって、聴いている方も揺蕩う感じ。この無解決感が、底の見えない真っ青な湖の底を覗き込む時の不安と崇高を感じさせるのです。
残念ながら実演で聴いたことはないです。歌は録音では分からないことがたくさんありますので、きっとすごいんだろうなあ。
《短信》二人のマルセル
マルセル・デュプレの作品をマイケル・マレイのオルガンで楽しみながら帰宅中。日付が回りましたが…。
それにしてもフランスのオルガンの伝統は素敵です。ウィキによれば、フランス革命で破壊された中世からのオルガンの復興の過程で、フランス楽壇にオルガンの伝統が生まれたのだそうです。
その伝統の中で生まれたのが、サン=サーンスのオルガン付き交響曲なのです。
そうしたフランスオルガン人脈の一人がマルセル・デュプレとマイケル・マレイ。二人ともミカエルから来た名前を持つのは偶然ですかね。だから題名は二人のマルセルです。
マルセル・デュプレは1886年に生まれた天才オルガニストにして、作曲家、音楽教育者。バッハの全作品を暗譜で演奏したそうです。(全作品が何をを指すのかは継続調査)
マイケル・マレイはアメリカのオルガニストで、晩年のデュプレに師事したそうです。デュプレの伝記も書いているようです。これは英語なので私にも読めそうですね。
デュプレ作品との出会いは高校時代です。NHK-FMで聴いた「行列と連禱」という曲。二つの相反する旋律が止揚していくさまは圧巻です。
この曲を結婚式のBGMにしたのですが、手前味噌ではありますがずいぶんいい選曲だったと勝手に思っています。
短信のつもりでしたが、長く書いてしまいました。ちょうど野営地に着きました。これから糧食を食べて明日からの戦闘に備えます。