CD紹介,Classical,Opera,Richard Wagner

やっと週末。今週の通勤電車は空いていましたが、また来週からもとの混み具合になるのですね。先週の金曜日が2,3日前のことのように思えるほど時間が経つのは速いです。

クラリネット五重奏曲進捗状況

今週は随分《クラリネット五重奏曲》をさらえました。随分楽しいです。コードが頻繁に切り替わり、転調も美しく、テンションがカッコイイです。ジャズ的に言うと。リズムも裏と表の入れ替わりが面白いです。《スリー・カルテット》のような面白さです。
今週はちゃんと毎日吹きましたからね。継続は力なり。
なにげに、このブログも6月末から連続更新記録更新中です。こちらも継続は力なり。

ドイツ的な指揮者は誰?

昨日のフルトヴェングラーの続き。

私の中では、今もっともドイツらしい指揮者は、なぜかバレンボイムと思えてしまうのです。粘り強く、芯のある演奏で、時になにかどこにも手がかりがなく拒まれているような気になるからでしょうか。親しみやすさとか、洒脱さはほとんどなく、厳然とそびえ立ち、選ばれたもののみがその世界に入るのを許される、といったような。
ドイツ的と思うバレンボイムがユダヤ系であるというのも皮肉でしょうか。いや、そもそもユダヤ系とかドイツ系とかそういうのはほとんど意味がなく、郷里の文化的背景と才能であるに過ぎないのでしょう。
昨日、フルトヴェングラーを聴いて、バレンボイムと似ていると直感したからですかね。
で、バレンボイムのふる《さまよえるオランダ人》を聴いています。
この盤のゼンタはジェーン・イーグレンですが、このホッホ・ドラマティッシャーなソプラノは、激しく強いゼンタになっています。夢をみる少女ほど怖いもの知らずはありません。そうした感じが特でています。が、アマゾンの英語レビューでは結構やられてますね。「高音域は細く、華やかさがない」だそうです。私は高音域の声質が少し荒れ気味で、ピッチが低くなっているかな、と思いましたけれど。
バレンボイムのオケ裁きは、軍隊調です。雄々しく攻め入る重戦車の体です。私はどうしても新国でみたダン・エッティンガーの《こうもり》を思い出してしまうのです。《オランダ人》ではOK。でも、《ばらの騎士》は難しいかも。なんて。
明日、明後日もお仕事たくさん。
それでは、グーテナハト。

Book,Classical


中川右介さんの《カラヤンとフルトヴェングラー》、そろそろ読み終わります。少し時間が立ってしまいましたけれど。
《カラヤン帝国興亡史》も面白かったですが、こちらは、《カラヤン帝国》をフルトヴェングラーの視点から眺めたものです。天才は天才の苦悩が見えて本当に面白いです。
フルトヴェングラーが優柔不断だった、という言葉が通奏低音のように一貫して描かれていますし、根っからの善き人というところで、さぞ生きるのが辛かっただろうなあ、と思います。そういうところはすごく共感できます。勝負師というより誠実な善きドイツ人。ドイツ的な教養市民。今もこういう方はいらっしゃるのでしょうか。
そういう意味では、ドイツ文化の一端を知る上でも貴重な本だと思いました。カラヤンもドイツ、フルトヴェングラーもドイツ。ヒトラーもワーグナーも、マンもヘッセもドイツ人ですからね。
あとは、チェリビダッケがベルリン・フィルとどうなっていったのかもよくわかります。チェリビダッケのリハーサルビデオを見ると、癇癪を起こしたりしてますが、歳をとってこれですので、若い頃はもっとすごかったということなんでしょうね。
(でも、マーガレット・プライスには気を使っていたのが大人だな、と思いましたけれど。確かブルックナーのミサ曲第三番のリハーサル映像にて)

というわけで、珍しくフルトヴェングラーの音源を聴きました。マーヴィン・ゲイの楽曲をリー・リトナーのアルバムで知って、改めて原典のマーヴィン・ゲイを聴いた時に感じた気分でした。多くの指揮者がその影響を受けているのだなあ、と思います。もう少し聴き続けないと。
ワーグナー研究はなかなか進みません。明日も時間を見つけて書きものをしないと。
ではグーテナハト。

Book,Classical


私の短い三日間の夏休みは今日が最後でした。いろいろと気になることが片付いて、気分よく明日からも仕事に勤しめそうです。
今日は、家での仕事の合間に茂木大輔さんの《こうしろ! 未来のクラシック》を読んでます。
将来、日本に「宮廷ランド」ができたり、個室付きのコンサートホールができたり、コンサートホールでマイレージプログラムができたりなど、近未来のクラシック界を見事に予言してます。ユーモアとともに。本気にとっても面白いかも。読み終わったらまた報告します。
最近茂木さんの本を沢山読んでいますが、どれも面白いですね。
それにしても、最近、よく分からなくなってきましたよ。
茂木さんの本を随分読んでいるのですが、すごく面白い。ありがちな、お高く止まっているところがなく、自然体で現代音楽批評をしています。それも軽妙に。
それも、音楽やる側からやっているから、まったく勝ち目がありません。ラジオから流る「英雄の生涯」を聴いて、アンサンブルもいいけど、オケもいいぞ! と感じいるところなどは、やる側からではないと分からないでしょう。
いずれにせよ、オーボエを吹きたくなるばかりになるです。
音楽やらずに、音楽語りをすることになんの意味があるのか、よくわからない今日このごろです。
つうか、やればいいのか。音楽好きなら、楽器再開すればいいのですね。聴いて書くだけではダメなのだ。
だとするとなにか諦めないといけない。随分諦めたのだけれど、まだ諦めるものがあるのかな。。。

Classical,Concert

昨日の続きです。

「若いオケなので、若さゆえの迫力とか勢いがあるよね」という評価は、音楽をを評価したとは言えないと思うのです。

しかし、そこを割り引いいたとしても、PMFオケはすごかったと思うのです。

たしかに、臨時のオケですので、弦の響きが混ざり合っていなくて、居心地の悪さはありました。

ですが、そうであったとしても、マーラー5番をここまで機能的に演奏すること自体素晴らしいと思ったのです。

特に、マーラー5番の第一楽章冒頭のトランペット、第三楽章ホルンのソロ、は筆舌に尽くし難いものでした。

もう少し言いたいことがあります。。

Classical,Concert,Gustav Mahler


ゆえあって短信。くわしくは明日書きます。

準メルクル指揮によるマーラー5番を。あらゆる要素を差し引いても、メルクルの意図がよくわかる快演でした。というか、感動しました。

マーラーの持つ、ユダヤ民謡、軍楽隊、ウィナーワルツといった要素が混ざり合い、万華鏡のような複雑な文様を形作っているのがよくわかりました。プログレロックのようです。

その他、いろいろありますが、きょうは取り急ぎです。

Book,Classical


先日の続き。中川右介さんの「カラヤンとフルトヴェングラー」、面白いですよ。カラヤンがどうやってのし上がったのか、よくわかりますが、それよりももっと興味深いのは戦時中のドイツの音楽事情がよく分かるということです。
音楽は戦争遂行のための宣伝道具にされていたことはもちろん、敗色の濃い状況下においても、演奏会がきちんと催されていた、という事実に心打たれます。
もちろん、音楽が政治利用されているということで、いつにもましてなのでしょうけれど、そこまで音楽が力を持っていたということ自体が不思議なのです。
音楽とは実利には役に立たないものだと思っていましたが、たとえそれがプロバガンダとして政治利用されているものだとしても、力を持つということが改めてわかりました。
いいのか悪いのかわかりませんし、音楽家が望んでいるかどうかもわかりませんけれど。
明日で7月も終わり。早く正月が来ないか、待ち遠しいです。気兼ねなく休めるのは正月ぐらいです。

Classical,Richard Wagner

時のうつろいゆく流れはいとおかし。
1989年に知り合った高校時代の友人とその友人たち会食。当時はまだソ連があって、ペレストロイカ真っ盛りでした。このまま行けば平和な世界がくるのではないか、と思ったのが懐かしく思えます。お互い違う道を歩いていますし、バックボーンも違うのに。なにはともあれ楽しいひと時でした。

さて、恍惚とした感じのバーンスタインの《トリスタンとイゾルデ》ですが、今週集中的に聞いています。
前にも気づいてことですが、第三幕のマルケ王のモノローグ、erwachenというところ、《パルジファル》のアンフォルタスのモノローグとそっくりなことに思い至りました。和音や旋律が《パルジファル》そっくり。《パルジファル》のほうは、erbarmenだと思いますけれど。
今日はこれ以上深堀りできません。今後研究します。
明日はお仕事が、少し夜更かし気味です。早く眠らないと。
あー、日ユ同祖論って、トンデモだけど、なんか面白い。
ではまた明日。

Book,Classical

暑いです。コンクリートジャングルもやはりジャングルなんですか。。今日は外を歩く機会が多かったのでなおさらです。普通はオフィスからでませんので、体はインドア仕様になっていますので。

はじめに

中川右介さんの「カラヤン帝国興亡史」を読みました。
カラヤンの事績を振り返ることで、戦後ヨーロッパ楽壇の見取り図が、ほんとうによくわかります。おすすめです。

ベルリン・フィルは二番手だった

私がクラシックを聴き始めた10歳ごろ、グラモフォンが出していたクラシックベストシリーズのカセットテープは、すべてカラヤンとベルリン・フィルでした。これらが私のデフォルト音源。ですのでカラヤンとくればベルリン・フィルとなるわけです。
ところが、実際には、ベルリンは二番手でしかなかったのですね。カラヤンにとって本当に大事だったのはオペラだったようです。ウルム、アーヘンのオペラ監督を勤めたカラヤンです。また、小澤征爾も、カラヤンがオペラを大事にしていたと言っていました。
そういう意味では、ドイツ・オペラの最高峰であるウィーン国立歌劇場がカラヤンにとっては最高の獲物なわけです。
カラヤンの政治力というものは、自分の芸術のための方法論だったのでしょう。カラヤンにとってはウイーンやベルリンを得て、オペラを振らなければ自分の芸術を表現する事ができないと考えた。であるからこそ、ヒトラー譲りの政治的駆け引きで、ポストを手に入れたということでしょう。
出来る人はこうやって獲物を狩るのですね。
この本では、そうしたカラヤンの狙いと思惑、そしてやり方がよくわかります。ある意味、英雄が戦いに勝利する場面を見る戦史シリーズとでもいえましょう。爽快感すら覚えます。

天才でも失うものはある

実際、ウィーン国立歌劇場でカラヤンは8年にわたって監督職に就きますが、これは平坦なものではありませんでした。
ウィーン的というやり方、つまり、表では微笑み、裏ではあざ笑うといったたぐいの、一筋縄では行かない駆け引きがあったようです。カラヤンはもちろんヒトラー譲りの政治力を持っていて、同時期にベルリン・フィル、ザルツブルク音楽祭、ウィーンフィルを手に入れるのですから。
それでもなお、失うものがあるとは。
どんな天才でもすべてを手に入れることはできない、ということですね。人間誰しも、その場その場でその人なりの悩みを抱える、ということですね。

エーリヒ・クライバーのこと


この本を読むと、エーリヒ・クライバーがウィーンに戻りたくても戻れるわけがない、と思いました。
エーリヒはウィーンのポストが本当に欲しかったと思います。ですが、エーリヒはこうした権謀術数に長けているわけではありません。
エーリヒは芸術を最上のものとする信念の人です。にも関わらず、政治的な動きをしません。伝記には「政治に疎い」とまで書いてあります。筋を通すためであれば、最上のものとするべき芸術でさえ犠牲にしてしまいます。
東ベルリン当局と衝突して、ベルリン国立歌劇場再建目前にして、芸術監督職を辞任するのは、本当にもったいない話です。

おわりに

この本の前編として「カラヤンとフルトヴェングラー」という本があります。こちらも近々読む予定。最近読書が楽しいです。

Classical,Symphony,Wolfgang Amadeus Mozart

Thunder storm
夕方、東京地方は激しい雷雨に見舞われたようです。私は会議中で全く知りませんでしたが。
家にいたカミさんによると、一時的に停電が発生した模様。
マジですか。。。
実は、今年になってからNASを導入しました。中に3TBのハードディスクが入っています。そこに手持ちの音源ファイルをすべて入れて、MacのiTunesに登録しています。カミさんとの共用ファイルなども入っていますので、電源は常時ONにしています。
ですが、停電となると、ハードディスクの損壊や、過電流の影響が心配です。

中にはこれまで溜め込んだ音源約300GBが入っています。これが飛んだらアウトですね。。
身震いしました。
確認してみたところ、大丈夫なようです。ですが、いつ何が起こってもおかしくないですね。
対策としては、1)バックアップをとる、2)UPSを導入する、でしょう。早速週末とりかかります。
今日はこちら。ワーグナーは聞けませんでした。
モーツァルトのことを「音階ばかり」と評した人がいるようですが、音階だけでこれだけの音楽を作っているとしたら凄いことです。
こちらのクライバーは、シュトラウスとちがって、インテンポでまめやかです。スッキリしているので見晴らしがいいですね。デュナミークがしっかりしているので表情もくっきり。細密画のようです。

メガネが合わず、目の痛みと頭の痛みが激しいです。若い人の作った字の小さい資料を4時間の会議中ずーっと読んでいたから。メガネは今週末に進水式です。

Anton Bruckner,Book,CD紹介,Classical

先日も書いたとおり、エーリヒ・クライバーの伝記を読んでいます。

その中で紹介されていた失神に関するエピソードを。

運命の失神

1927年3月、ベートーヴェン没後百年祭の演奏会のこと。
ボンでエーリヒ・クライバー指揮による演奏会で交響曲第5番が取り上げられました。その日はどんよりと曇った日でした。
スケルツォから終楽章へ突入する瞬間、雲の切れ目から一筋の太陽の光がガラスの屋根から差し込んできました。
途端に立ち見で聴いていた学生たちが気を失ったそうです。
戦時中、エーリヒ・クライバーが夫婦で南米の小さい町を歩いていると、男が近づいてきて「私は、あのベートーヴェン百年祭演奏会で気を失った学生の一人なんです」と話しかけてきたそうです。
これは伝説とされていますが、先日出版されたエーリヒ・クライバーの伝記で紹介されているエピソードです。
あそこで突然光が差し込むなんて、出来過ぎた話です。本当なら私も失神したはず。

神は存在する?

これって、朝比奈隆がザンクト・フローリアン協会でブルックナー交響曲第7番を降った際に、第二楽章が終わった途端に、教会の鐘がなった、というエピソードを思い出しました。神様はいるのかも。
このアルバムです。



私はかなり遅い目のテンポをとり、広間の残響と均衡をとりつつ、演奏を進めた。十分な間合いを持たせて第2楽章の和音が消えた時、左手の窓から見える鐘楼から鐘の音が1つ2つと4打。私はうつむいて待った。ともう1つの鐘楼からやや低い音で答えるように響く。静寂が広間を満たした。やがて最後の鐘の余韻が白い雲の浮かぶ空に消えていった時、私は静かに第3楽章への指揮棒を下ろした。

朝比奈さんの言葉です。
第2楽章はレクエイムです。ザンクト・フローリアンに眠るアントン・ブルックナーに演奏が届いたのかもしれません。
ここでも私は失神するかもしれません。
鐘の音を確かめるためにCD聴き始めましたが、このアルバム、いろいろ言われていながらも、かなり感動的です。おすすめ。
ドライブした演奏。朝比奈さんがグイグイ引っ張ります。デュナミークの統率感は格別。
1975年の録音ですから、もう38年前ですか。

失神とは?

先日、読響の《アメリカン・プログラム》で、失神寸前と書きましたが、まあ、音楽で失神をするというのはよくある話なのでしょう。
失神とは「大脳皮質全体あるいは脳幹の血流が瞬間的に遮断されることによっておこる一過性で瞬間的な意識消失発作」です。
この内、音楽を聞いて失神するのは「神経心原性失神」のうち「血管迷走神経反射性失神」と呼ばれています。長時間の起立、驚愕、怒り、予測外の視覚、聴覚刺激、ストレスなどによるものが多いようです。
おそらくは、立ち見の学生は、立った状況で、予測外の視覚と聴覚刺激によって血流が脳から失われ、崩れ落ちたのでしょうね。
というわけで、また明日。