やっと春がきたと思います。昨日までは寒くて寒くて仕方がありませんでしたので。で、あっという間に夏がくるのでしょう。
春はスキップ、バイパス。
でも、昨日は東京春祭を聞きに上野にいってきました。
ワーグナーシリーズは、一昨年のパルジファルから三回目だったはず。昨年は震災で流れてしまいました。本来ならネルソンスがローエングリンを振るはずでした。残念。
今年はアダム・フィッシャーがタンホイザーを振りました。オケはN響です。
いやあ、序曲でノックダウンされました。
フィッシャーの指揮は激しくキレのあるもの。序曲ではあまりの激しい動きでメガネを落とすほどの指揮で、身を震わせ、体をねじり、オケにムチをいれ続けます。タクトの先から稲妻が出るのが見えました。N響もあれだけ煽られれば燃え上がるしかないでしょう。
途中、あまりに熱中しすぎて、スコアめくるの忘れてたり。途中で必死にスコアめくってました。素敵な方。
で、あまりの素晴らしい序曲に拍手が鳴り止まなかった、ということもなく、序曲から切れ目なく、タクトをふり上げたフィッシャーでした。さすがに拍手がおきましたが、フィッシャーはタクトをおくことなく演奏開始となりました。
が、ですね。フィッシャーは一瞬
客席のほうへ振り返ると、にっこり笑ったのですね。
拍手ありがとう。でも始めちゃったんでごめんね、みたいな。
惚れましたわ。。
最後のカーテンコールも、人柄がでたなあ。
フィッシャーは、何と一番端に立ちましたからね。普通は指揮者は真ん中ですよ。
さすがに、これはまずい、とテノールの高橋さんが真ん中へどうぞ、というのですが、フィッシャーは、俺はここでいいからさ、という感じで取り合わなかったのですね。
惚れましたわ。。
素敵すぎるアダム・フィッシャー。
あれは実力と自信がないとできないことです。どちらかがかけていたらそれだけで指揮者としては職業的に破滅してしまう行為だと思います。
あの、身悶えするような指揮でヴェーネスベルクの動機をグルーヴさせたフィッシャーの指揮は一生わすれないだろうなあ、と思います。
その他のことも書かなければならないのですが、ちょっと待ってください。
素敵なアダム──東京春祭「タンホイザー」
かなり遅れましたが、日フィル@府中について
いっこうに春が来ませんが、いったいどうなっているのでしょうか? 普通の年ならもう桜が咲き始めているというのに。
というわけで、私もいっこうに筆が進みません。3月20日に府中で日フィルの演奏会に行ってきましたので、そちらのご報告を。
曲目はオールロシア。今年のラ・フォル・ジュルネと同じです。
* だったん人の踊り
* ラフマニノフ ピアノ協奏曲第二番
* チャイコフスキー 交響曲第五番
*指揮;大友直人
*ピアノ:横山幸雄
@府中の森芸術劇場
大友さんのこと
大友さん、昔、NHK-FMで番組を持っておられたころ、声だけはよく聴いていましたが、実演を聴くのは初めてでした。すらりとした長身で、あまりに素敵で上品な笑顔で、驚きました。あれは、作っているのではない。生まれながらに持っている笑顔ですね。すばらしい。
大友さんは指揮棒を使っていませんでした。ゲルギエフもブーレーズも使っていませんのであまり珍しくはないと思います。資料によれば、指揮棒がないほうが発音の表情をつけることが出来る、と言うことのようですが、私にとってはクリックがわかりにくならないか、と心配な感じでした。たとえば、裏拍がつくなど少し複雑な拍節となる部分の入りで、アンサンブルが浮遊し、一瞬混乱したように聞こえました。私の認識がついて行かなかっただけかもしれませんが。。
ピアノ協奏曲
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番は、横山幸雄氏のピアノでした。横山氏は、昨年の5月に、ショパンの全曲演奏(ただし、ショパン生前に発表済みだった作品に限る)を一日でやられたそうです。今年もやられるそうで、朝の8時から夜の11時まで15時間弾きまくるそうです。それから、レストランをプロデュースされたりしているとか。
演奏のほうですが、男らしく力強い演奏なのですが、あるいは男らしく豪放でもあり、ラフマニノフの音符を力でねじ伏せるようなところがあり、そこでなにか微細な狂いが生じてしまう、そういう演奏でした。
いわゆるチャイ5
チャイコフスキーの5番は、本当に楽しかったです。大友さんの指揮は、かなり冷静な部類に入ると思います。広上さんのように粘ることもなく、コバケンさんのように沸騰することもなく。それでいて高関健さんのような硬さもなく、冷静さを兼ね備えた演奏だと思いました。ですが、もちろん全体でいえば、大きなうねりを感じる演奏だったと思います。チャイコフスキーの5番の素晴らしさを十全に堪能できたと思います。
チャイコフスキーの5番は本当に良い曲ですね。全楽章共通して、一貫した旋律群が登場して、統一感のある音楽ですね。ホルンも素敵ですし。最後のコーダで盛り上がらないわけはなく、府中なのにブラボーがかかりました。私の中では、この曲は映画音楽のようにドラマティックです。
最後に
今回も、お世話になった方のおかげで、愉しむことができました。ありがとうございます。
今回も落涙しました。年をとるとどんどん涙腺がゆるみますねえ。
記録が大事──「牧神の午後への前奏曲」
昨夜18時頃会社に呼び出され、3時過ぎまで対応して、帰宅したのが4時半頃。とりあえず就寝して9時半に起床でした。来客がありましたが、私はダウン気味で、失礼してしまった感じで申し訳ありません。
というわけで、今日はカラヤンのフランス音楽です。
ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は、昨年日フィル定期で二回も聴いてしまい、やっと曲への理解が深まった気がします。
冒頭のフルートソロが格好良すぎる。録音は1965年ですので、カールハインツ・ツェラーです。ライナーにも記載ありました。
こちらのサイトにベルリンフィルフルート奏者年代記がありますね。
“http://blogs.yahoo.co.jp/yosid/42745598.html":http://blogs.yahoo.co.jp/yosid/42745598.html
たゆたう浮遊感は不協和音に支えられているわけですが、音楽は不協和音じゃなきゃイヤです。もう協和世界には戻れません。
ジャズの和声は、印象派の響きを再現するためのシステムである、というテーゼを思い出します。
ジャズにおいて「テンション・コード」とよばれているものも、ジャズ・ミュージシャンが、ドビュッシーやラヴェルといった作曲の作品から自由に気に入った響きを取り出して、コード・ネーム化していったものである、というふうに考えることも可能なのである。
山下邦彦「チック・コリアの音楽─ポスト・ビバップの真実とジャズの可能性を求めて」音楽之友社、1995
この言葉で、ずいぶん視野が開けた気がしたものです。なぜ、ワーグナー以降が好きなのか、という観点においてです。
関連エントリー 私が「牧神」に開眼したコンサート
“会社帰りに夢があった。──日本フィル定期演奏会":https://museum.projectmnh.com/2011/12/10181332.php
酸いも甘いも知っている──家庭交響曲
シュトラウスの家庭交響曲をカラヤンにて。
シュトラウスの洒脱さにはひれ伏すのみ。。酸いも甘いも知っているが故の余裕なんだろうなあ。
この曲は確か2009年にN響で聞いて以来理解が深まったと思う。指揮はプレヴィン。年老いてもなお若さを持つプレヴィン翁の指揮だった。
この曲を聞いているとシュトラウス一家の様子が手に取るように見えてきたのには驚いた。パウリーネ夫人の癇癪とか、しまいには泣き出してシュトラウスが必死になだめていたり。息子のフランツが走り回ったり。しまいにはピロートークまで始まってしまうというところ。きっとあそこはラヴシーンだと思うところもある。ばらの騎士でベットシーンを作曲したシュトラウスなら可能なんだが、自分の家を赤裸々に描き過ぎな気もする。
しかし、若い頃の私には家庭交響曲はさっぱりわからなかった。当時はブルックナーばかり聞いていたので、おおよそ、このようなエスプリはわからなかったということもる。
だが、それだけではない。もっとも効果的だったのはインテルメッツォを聞いたからだとおもっている。このオペラもやはりシュトラウス一家のゴタゴタを描いたもの。ここで、私は筋書きと音楽の相関関係を学んだらしい。旋律に台詞が絡み合うときに、旋律の持つ意味性を感じ取っていたらしい。
私は、まだ幼き頃は、この旋律に意味を見出すということが許せなかった。ヴィヴァルディの四季なんていうのはもってのほかだった。理由はよくわからない。別にハンスリックを読んだわけでもないし、赤いハリネズミ亭に通ったわけでもない。
やはりオペラを聞き始めたのかわ大きかったのだと思う。
つまりはワーグナーのライトモティーフを理解し始めたということなのだろう。音楽は筋書き以上に饒舌なのだ。オペラの台詞を越えた音楽表現がに思い当たるのは、CDラックから宝物を掘り出したときと同じだ。大事なものは眼前にあるものなのだ。
あとは、私も齢をかさねたのだろう。世の儚さや背理性を理解したその先には笑いや皮肉、洒脱さや鷹揚さがある。そうした気分にフィットするのがシュトラウスの音楽なのだ、と考えている。
そんな世疲れてアンニュイなあなたにはこの曲がお勧め。
マゼールの家庭交響曲はとにかく大きい。雄大な家庭交響曲。だが、中盤部のねっとりとした語らいの場面の官能度も高い。録音面でも優れている。洒脱なんだが、肝心なときには真面目な顔をして見せる悪い男の姿が目に浮かぶ。
耽美的なあなたにはカラヤンがお勧め。中低音のリバーヴ感が強すぎるとか、SN比が高いなど録音はまりよくない。最終部の盛り上がりは相当なもの。カラヤン円熟期の素晴らしい遺産。
サヴァリッシュ盤も最近入手した。職人の築く手堅い住まいである。それは質素なそれではない。装飾の美しい日当たりの良い屋敷のそれだ。若き日のサヴァリッシュの面影を感じる。音響も悪くない。
上岡敏之もあるが、これはまたの機会に。
これまでの家庭交響曲関連の記事。
“ケンペ/シュトラウス 家庭交響曲":https://museum.projectmnh.com/2009/09/15215121.php
“マゼールをそんなにいじめないで~シュトラウス「家庭交響曲」":https://museum.projectmnh.com/2009/10/02050838.php
“帝王カラヤンの家庭は?":https://museum.projectmnh.com/2009/10/14215810.php
“プレヴィン、シュトラウス その2":https://museum.projectmnh.com/2009/10/21050407.php
若い頃の血が逆流してきた──新国立劇場 松村禎三「沈黙」
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はじめに
2月18日(土)、松村禎三の「沈黙」を新国立劇場でみてきました。
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重いオペラでしたが、個人的にはとても興味深いもので、あっという間の三時間でした。
ストーリー
言うまでもなく「沈黙」は、遠藤周作の名著です。
禁教下の17世紀に、マカオから潜入した宣教師ロドリゴが、弾圧されるキリシタン信徒を前に、信仰を捨てるか否かを迫られるという、本当に重い内容です。拷問され処刑されている信徒の姿を見て、いくら祈っても助けとならない神の真意とは何か? 信じてもなお苦痛に苛まれる。本当に救われるのか?
拷問のシーンや、火責め水責めの処刑の描写が激しく、水責めのシーンが津波を思い出させ、悲しみとともになんだか目を背けたくなるような気持ちになりました。
沈黙は大学受験のころに読みましたが、あのころの記憶が蘇えりました。
私には、「沈黙」と同じ文庫本に所収されていた「死海のほとり」のほうが印象的だったのですが、今回は、感慨をもう一度呼び覚ましてくれた気がします。
「死海のほとり」では、映画「ベン・ハー」では、あんなに人々を癒していたキリストが、無力な存在として描かれてた驚きがありましたが、今回もあらためて、信仰と現実の狭間の深淵をのぞき込んだ気がします。
音楽面
今回は予習音源が手に入らず、音楽をきちんと受け止められるか、不安でしたが、第一幕冒頭の火刑のシーンの強烈な不協和音に揺り動かされ、涙とまらず、というところでした。
サウンドとしては、ベルクに似ていましたので、全く違和感を感じることもなく音楽二敗って行けたように思います。あるいは、ツィンマーマンの「軍人たち」を思い出したり。
ですが、私には「ヴォツェック」に似ている用に思えてなりませんでした。例えばオケがユニゾンでなるところが、ヴォツェックがマリーを殺したあとに鳴り響くロ音のユニゾンにきこえたりしました。
独奏ヴァイオリンが効果的に使われていて、ロドリゴの心の迷いを、あらわしていたとおもいます。それからトランペットも効果的で、神の垂範を表していたり、教会の意見を表していたりしていたおもいます。
最も感動的だったのはオハルを歌った石橋栄美さんでした。なんというか、言葉にでない感慨です。一緒に生きて死のうとまで誓い合った夫のモキチが水責めで死ぬのを目の当たりにしたオハルは、食事をとることが出来ずに衰弱死します。
その前に「オハルは、今日の穴掘りに耐えられなかった」という歌詞がありましたので、集落の信徒全員が強制労働にかり出されいたのか、あるいは、彼ら自身の墓穴を掘るよう強いられていたのか、そういう背景を想像しました。
オハルは、モキチの幻影を観ながら息絶えるわけで、あそこは、一つのクライマックスでした。オハルの見せ場は、死の場面の前の、モキチの水責めにうろたえる場面にもありましたが、狂乱の場だとありました。いわゆるベルカントの狂乱の場ですか。。それにしては深刻すぎるなあ、と思います。
その場面で、石橋さんは、伸びのある、そして高い音に張りのある声で、儚く哀れなオハルを素晴らしく表現していたと思いました。
あの場面は、穿った見方をすると、お涙頂戴的な下世話な感じになりがちなんですが(私は今年に入って、そうした舞台を観て辟易した経験があります。このウェブログには書いていませんが)、そうならないギリギリの線で、巧く表現しておられたと思いました。出色の素晴らしさでした。
日本語のリズム
今回は当然ながら日本語のオペラです。今回の歌手の方々に、発音の面で大きな違和感を感じませんでした。
偉そうなことを申しますが、ドイツ語のオペラを観ると、日本人の歌手の方のアーティキュレーションに違和感を感じることがあります。そこで、音を弱めてはいけないはずなのに、どうして? みたいなもどかしさです。
欧州語を母語にしておられる方々にとっては当たり前なんでしょうけれど、おそらくは日本人には難しいことなのだと思います。もちろんきちんと歌える方もたくさんいます。あくまで確率論なんですが。
ところが、今回のパフォーマンスでは全くそうした違和感は感じませんでした。日本語のアーティキュレーションは日本語の使い手である日本人が最もよく分かっているということなのでしょう。これは、日本のポップスを聴いていても思うことです。
日本語とはいえ、面白いことに字幕がありましたが、あれは助かりました。長崎方言やキリシタン言葉は聞いただけでは分かりませんので、理解の助けになりました。
思うこと、しばし
しかし、我々は毎日踏み絵を踏んでいる気がします。そきういう観点でいうと、キチジローは我々の中に普通にいる存在なのでしょう。組織のなかにあっては、自らの本意とは違う行動を取るのは当たり前ですし、そこに正しさはありません。正しいことととるべき行動は常に乖離しています。
では、簡単に踏み絵を踏んで、役人に密告してしまうキチジローは、本当に自らに正直に生きていない弱い人間なのでしょうか?
私は、おや、と思う場面を見いだしました。
キチジローは、裏切り者の烙印を押されて、村の人間に相手にされなくなり、子供達にもさげすまれる存在になります。キチジローは、もう自分にはどこにも行くところがない、と嘆きます。もし、キチジローが信仰を守れば、そんなことはなかったのに。
そうなのです。キチジローにとっては、信仰というのもしかしたら周りの人間に認められるための手段でしかなかったのではないか、と思われるのです。
さらに考えを進めると、どうやら村の人間達は、信仰を通してしか人を認めることが出来ないのではないか、という考えに至ってしまいます。自分たちと異なる価値観を排除しようという観念。いわゆる日本的なムラ志向ではないか、と。
がゆえに、フェレイラは「日本は沼だ」言ったのではないか、と。個人個人が神と向き合っているのではない。村の皆が信じるが故に、我も我も、と信じているという共同体的錯誤ではないのか。そこには個人の考えはないのではないか、と。
フェレイラは、キリストの神が大日如来にすり替わる、と言いましたが、それでしかなかったのではないか、という残念な気持ちを抑えられません。
終わりに
今回も、素晴らしく考えさせられる舞台でした。オペラが現実へ働きかける力を十二分に持っていると言うことを改めて認識しました。
グレアム・グリーンが「二十世紀最大のキリスト教文学」と称えたそうです。
科学万能の現代にあっては、神の在不在という問題にとどまらず、すべてが原子核の集合分離に帰着してしまう世界の中で、いかに価値を見いだすか、という問題点にまで視界を開かせる「沈黙」の世界は、偉大なものでした。
まだまだ現代的価値を持っている作品です。遠藤周作、また読み始めようかなあ、と思います。
いろいろと興味深く、また懐かしくもあるパフォーマンスでした。
付録
「沈黙」は、2013年にアメリカで映画化されるそうです。
“http://www.imdb.com/title/tt0490215/":http://www.imdb.com/title/tt0490215/
今回の、新国立劇場のパンフレットには、私が大学時代に習った先生が文章を書かれていました。まあ、このテーマですと、私の大学が出てくるのは必然なんですが。
その先生の「キリスト教と文学」という講義を一年間とったのですが、生意気な私は辻邦生の「背教者ユリアヌス」を題材にして、超越的存在の神と、現世をつなぐ難しさをレポートにまとめた記憶があります。
それはそれで先生にとっても興味深かったらしく、わりといい点を貰ったんですが、先生には、キリストの受肉こそが、その解決の可能性だ、と示唆されたのを思い出しました。
当時は、受肉が普遍性を持つのか、理解できませんでしたが、若いがゆえの蒙昧なのでしょう。もうすこし考えてみてもいいかもしれません。
でも、すごく優しくて人間味の溢れる先生でした。今も元気で教鞭を執っておられて、大学にしかるべきポストを持っておられるのを知ってすごくうれしかったです。
【速報】新国立劇場オペラ2012/2013シーズン予定
本日、シーズン券のお誘いが届きまして、2012/2013シーズンの予定がわかりました。
# ピーター・グライムズ(新制作)
# トスカ
# セビリアの理髪師
# タンホイザー
# 愛の妙薬
# アイーダー
# 魔笛
# ナブッコ(新制作)
# コジ・ファン・トゥッテ
# 夜叉ヶ池
うーん、ドイツものはタンホイザーだけか。。モーツァルトはのぞきますが。
それから、今のシーズンは新制作が4つありましたが、今回は2つ。相当財政が厳しいのでしょう。
取り急ぎです。
日フィル横浜定期で新世界を聴く。
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少し書くのが出遅れました。昨日1月7日にみなとみらいホールにて日フィル横浜定期を聞いてきました。
基本情報
曲目
* モーツァルト 「フィガロの結婚」序曲
* チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
* ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
* ヨハン・シュトラウス ピチカートポルカ(アンコール)
* ブラームス ハンガリー舞曲第5番(アンコール)
演奏
指揮:小林研一郎
ヴァイオリン:千住真理子
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
曲目について
フィガロの結婚序曲
最初の「フィガロの結婚」は、まだ暖まりきっておらず、コバケンさんもかなり硬い感じで、ちょっと脂ののらない感じでした。まだオケに任せきれていないような指揮で、ちょっと心配になりました。
チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
次は、千住真理子との協演で、チャイコのヴァイオリン協奏曲でした。千住真理子の演奏については、昔からなぜか男らしさを感じていました。10年以上前に、千住真理子のバッハのソナタとパルティータ全曲演奏会に行ったことがありまして、そのときから感じていることです。今日もやはりそう言う印象を持ちました。太い音はさすがですし、(当たり前かもしれませんが)旋律的なミスは一つもありませんでした。そのあたりの集中力はすごいです。ただ、ちょっと男らしく、乱れが生じるところもあり、面白いなあ、と思いました。
新世界より
「新世界より」は、コバケンさんの指揮を堪能しました。彼は、顔だけで指揮をしているのではないか、と思うほどです。小刻みに頭を振ってクリックを出し、手は天井に向けられ、まるで天国に向かって音を出せ、と言わんばかりの指揮ぶりで、これが炎のコバケンの由来なのだなあ、と思いました。途中、オケに祈るように任せたりするあたりはさすがです。舞曲のような場面では、きちんとクリックを出してテンポを掌中にする、といった感じです。私は第4楽章で感動しきってしまい、涙が止まらなくなりました。ここのところ、日フィルには泣かされっぱなしです。
アンコール
アンコールはヨハン・シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」とブラームスのハンガリー舞曲第五番でした。最初のヨハン・シュトラウスの「ピチカード・ポルカ」は、おそらくは異端な演奏です。タメを過剰にとっているのですが、これはわざとやっている、というのがよく分かります。茶目っ気のある演奏というところです。次に演奏したのが、ブラームスのハンガリー舞曲でした。ハンガリーは日本に似ているので、日本的に演奏してみます、とおっしゃっての演奏でしたが、そのとおり、これも演歌的なタメをとった、冗談のような演奏でした。でもすごく楽しかった。冗談でもちゃんとやると芸術です。
シーズンファイナルパーティー
秋シーズンが終わりということで、ファイナルパーティーがありました。半年前に引き続き私もご相伴にあずかりました。ここで、日フィルメンバーによる室内楽が演奏されました。
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* 愛の挨拶
* タイス瞑想曲
* チャルダーシュ
チャルダーシュ、坪井さんのヴァイオリン、すごかったです。うますぎます。
ビールいただいてほろ酔い気分でした。
コバケンさんも登場して、スピーチされました。
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日フィル、財政的に大変なのだとか。私もコンサートに行ける範囲でいかないと、と思いました。
まとめ
やっぱり、日フィルの演奏会は楽しいです。病みつきになりますね。1月20日のサントリーもいけないなあ、と画策中ですが。仕事忙しすぎる。。明日も仕事に行きます。
※初出に名称の誤りがありました。お詫び申し上げます。
統率された重厚さ-新国立劇場「こうもり」
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こうもり@新国立劇場、行ってまいりました!
エッティンガーの指揮ぶり
驚いたのは、エッティンガーの指揮ぶり。これは賛否両論あるに違いありません。まずは鋼のような統率力が凄いです。序曲のスネアが軍楽隊に聴こえるほどの精緻な指揮ぶりでした。いつもより、東京フィルも気合が入っていたとおもいます。エッティンガーにかかると、ウィナーワルツの微妙なもたり感もすべて数値化され計算されているかのようです。
それから、音楽の力強さが半端ないです。テンポもすごく落とすところがあり、重い感じに仕上がっていました。ワーグナーばりかも、などと。。。
やはり、題材が洒脱な「こうもり」ですので、もうすこしゆるくかるくオケを動かしてもよい、という意見もあるかもしれません。
あとは、統率力のほう。この統率力で、東京フィルの音が先週と全く違って聞こえました。金曜日に聞いた日本フィル定期演奏会の山田和樹氏とは全く正反対です。指先の動きまで使って細かく指示を出している感じで、クリックも完全に全部統御している感じです。
完璧主義?
この完璧主義ぶりは、若さゆえなのかな、あるいはそうした性格なのか。影響を受けている指揮者は、バレンボイム、チェリビダッケ、カラヤンですので、やはり、性格なのでしょう。すでに、バイエルン国立歌劇場などでも旺盛な活動をしているエッティンガーがベルリンフィルの指揮台に上がるのはいつになるのでしょうか。そう遠くない将来実現しそうです。
http://www.dan-ettinger.com/eventarchive/
カッコイイおじさんたち。
私は、どうしてもカッコイイおじさんに憧れるのです。ですので、刑務所長フランクを歌ったルッペルト・ベルクマン、ファルケ博士を歌ったペーター・エーデルマン、それにコミカルな演技を見せた看守フロッシュのフランツ・スラーダのおじさん三人組には本当に感銘を受けました。微妙な表情とか、仕草とか。まったく。なんで、あっちの方々はみんなカッコよく歳取るんでしょうか。私の果たせるかどうかわからない目標。
ネタ
恒例のいわゆる「ネタ」ですが、2009年とかぶるところがありましたが、新しい趣向もあったと思います。結構日本語使ったネタがあったり、歌詞を変えていたりと、なかなかに面白かったです。少しやりすぎ感もありましたが。。。第三幕の「焼酎」ネタも健在でした。
まとめ
本日は取り急ぎ。「こうもり」のような軽妙なオペラはかえって難しいですね。
明日から仕事。頑張ろう。
会社帰りに夢があった。──日本フィル定期演奏会
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会社帰りにサントリーホールに行けるという僥倖。私の夢でしたが、ありがたいことにこれも叶ってしまいました。仕事たまってますが、月曜日に早出しますので許してください。
曲目は以下の通りです。
* ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
* モーツァルト;交響曲第31番「パリ」
* ベルク:ルル組曲
* ラヴェル:ラ・ヴァルス
うーん、この組み合わせは、少し不思議なんですが、私的には垂涎ものでした。これはオールパリプログラムなのだそうです。「ルル」の全曲盤初演がパリだから、ということだそうです。ブーレーズが振ったあのCDのこと。。そうか、なるほど。。
指揮者は、1979年生まれの俊英、山田和樹氏です。もちろん初めて聴くのですが、経歴をみるとすごいことになっています。東京芸大でコバケンと松尾葉子に師事し、2009年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝してしまう。その後BBC交響楽団とかパリ管弦楽団を振って、再演を決めてしまう。N響の副指揮者。で、32歳ですか。。
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前半のドビュッシーに泣いた。。
山田さん、最初のフルートソロで、手をほとんど動かさなかったです。最初をほとんどフルートに任せてしまった感じ。その後も、オケにクリックを正確に与えるようなことはなく、ダイナミズムとクリティカルなタイミングを指示するのみ。大時代的な杓子定規なものはないかんじです。その指揮ぶりは、なんだか天から振ってくる音を拾い上げて、オケに伝えていると思えるぐらいです。
実は、半年ほど前にも日フィルの「牧神の午後への前奏曲」を聴いているんですが、今回は落涙度二倍ぐらいでした。弦のうねりが美しすぎて。癒されました。
ルル組曲で震えた。
ルル組曲、さすがにこの曲は難曲です。さすがの第一楽章の冒頭は、いろいろな音のパーツがあちこちで錯綜しているような感じでした。しかし、中盤に向かっては徐々にオケも暖まってきた感じで、充実した響きを見せてくれたように思います。
数ある見せ場では、私のイメージを超えたカッコよさににんまりしながら聞いていました。弦楽器がうねり歌うところとか、トランペットが泣き叫ぶところとか、サックスの媚態のような音なんかが入り乱れて、忘我状態でした。
複雑で混乱にも聞こえるリズムと音程の中に通底する危険な抒情性に心が揺さぶられ、苦しくもあり快くもありました。十二音技法を使った危険で魅惑的な旋律群が幾重にも繰り出されてくるあたりは、ベルクもすごいですが、指揮者もオケの皆さんも本当にすごいです。それから、曲のダイナミクスレンジをきちんと聴かせる演奏でした。最高潮の部分、何度ものけぞりました。そうしたオケの機能性を十二分に楽しむことが出来ました。
ルルのアリアを歌うのは林正子さんでした。残念ながら私の席からは十分にその声質を確認することが出来ませんでした。座席は、P席の横、打楽器を目の前にしたような席で、林さんの背中を観ながら声を聴いていたような状況でしたので。ですが、ピッチの狂いもなく、膨らみのある豊かな声だったのではないか、と推しています。
このとき既に、私は座席を間違ったことに気づきました。S席にしておけば良かった、と。というか、最前列、全然空いていました。休憩時間に移れば良かった。。。(ウソ)。
この曲の最終楽章ですが、切り裂きジャックにルルが喉を掻き切られる場面があります。ブーレーズが振っているCDでは、ここでソプラノの強烈な悲鳴が録音されていて、ホラー映画のように死ぬほど怖いんですが、さすがにそれはありませんでした。ちょっと期待したんですが。それにしても、この場面でベルクが描くルルの断末魔は実に写実的で身震いするほどでした。首から血が噴き出し、大きく数回痙攣し、力を失い倒れていくルルの最後の姿が目に浮かびます。
個人的には、サックス奏者の端くれとして、サックスパートがとても気になりました。アルトでしたが、メチャいい音です。もちろん、マウスピースはラバーですので、ジャズのよなギラギラした感じや、ざらついた感じは全くないです。艶やかで滑らか、それでいてエッジを感じる音でした。心が洗われました。私には絶対に出せない音です。
ルルについては、こんな文章を書きましたので、よろしければどうぞ。
“<参考>「ルル」を巡る不思議なエピソード":https://museum.projectmnh.com/2011/12/09235959.php
ラ・ヴァルスで盛り上がった。
最後のラ・ヴァルス。これがすごかった。この曲で盛り上がらない方がおかしいのですが、山田さん、ここでも相当盛り上げました。テンポは早々動かしませんでした。ただ、金管を歌わせるところは少しテンポをあげてアクセントをつけていたように聞こえました。最高潮のところは、全身で大きな振りを見せました。怒濤のフィナーレで、このときばかりは割れる拍手がフライング気味で、ブラボーの絶叫が飛び交いました。演奏後のオケの皆さんの顔も悦びに溢れている感じでした。
反省
今回の座席は、二階席のちょうどオケの左側面に面したところでした。これは完全に失敗でしたorz。オケの音が直接聞こえてくる感じがしません。一度ホール内で反射した音を聞いている感じです。間接音みたいな。最前列で聴いていたら、もっともっと感動したはず。悔やまれます。。
まとめ
山田和樹氏が千秋真一ばりの才能の持ち主であることが分かりました。しかしながら千秋真一よりも腰が低いし、オケにすごく気を遣っているのが分かります。最後なんて、オケの全パート立たせてたしなあ。
それから、今後は、座席選びは(家計も大事だが)悔いのなきようベストを尽くします。
今回の日フィル定期も本当に楽しかったです。
ラ・ヴァルスの感動の余韻に浸りながら、明日は新国に「こうもり」を観に行きます。
感涙したネルソンスの「ばらの騎士」組曲
はじめに
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今日は、ベルリンフィル・デジタル・コンサートホールで、ベルリンフィルハーモニーのマチネがネットで生中継されました。ベルリンとの時差は7時間ですので、18時から聴けるという恵まれた条件でした。
ネルソンスの「ばらの騎士」組曲
ネルソンスの「ばらの騎士」組曲。最初、なんだかもたついている感じがありました。オケもばらついている感じで、線がそろっていない。あれれ、こんなはずじゃないのに、とハラハラしていたのです。
けれども、「ばらの献呈」のあたりから、空気が変わり始めました。もたついているのが、豪華絢爛な重みに取って代わってきたんですね。
ここ、オーボエのアルブレヒト・メイヤーと、ヴェンツェル・フックスがユニゾンでゾフィーとオクタヴィアンのパートを歌い上げるところで、流れが変わりました。この部分、「ばらの騎士」のなかで最も感動的な場面の一つなのです。
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なぜそう思うのか。ネルソンスの姿が、カルロス・クライバーに重なって見えました。その音楽に純粋な悦びを見いだした少年のような笑顔は、クライバーと同じです。
最後の部分、つまり、元帥夫人、オクタヴィアン、ゾフィーの三重唱の部分。ここは「ばらの騎士」の決定的な場面、テンポを落としネルソンスは旋律のパワーをためにためて、最後に炸裂させました。この微妙な間合いは、ペーター・シュナイダーの洗練された間合いよりも、はるかに原初的で人間的なもので、洒脱さはなくとも、絢爛さがある、そういう感じでした。
この場面、独りノートパソコンで見てたんですが、涙出ました。。
最後に
先週、NHK-FMで東京ジャズのライブ放送を聴いて、すごくワクワクしながら聴いていたのですが、今日のベルリンフィルデジタルコンサートホールでのライブ中継も同じぐらい興奮しました。ネットやラジオで音を聞いているだけですが、「そのとき一度」という機会の持つ魔力は思った以上に強いことが分かります。
ベルリンフィルデジタルコンサートホールの生中継はだいたい明け方なんですが、これからはちゃんと起きて聴こう、と思います。