シベリウスな日々──交響曲第二番


今日もシベリウスです。なんともかんとも、こんな時期(バイロイトシーズン)に、シベリウスが私の頭の中に席巻するとは、想像だにしませんでした。
今日は、もう冒頭部のイメージから交響曲第二番をむさぼるように欲した一日でした。
この曲聞くと、のっけから、私の頭の中にこんな情景が形成されます。
おそらくは深いグレーの湖面をもつ大きな湖。風が少し吹いていて、湖岸に弱い波が打ち寄せる。鳥の鳴き声、小鳥が飛び交い、小動物たちが動き回っている。遠く青い稜線は白い残雪に覆われている。そこに現れたる若者。なにかしら深い哀しみを持っているような感じ。ジークムントかも知れない。
第一楽章はおそらくはソナタ形式で、展開部がかなり大きく曲調が変わります。提示部の牧歌的というか叙情的な表現が、短和音に支えられた切迫感。フーガが登場するので、そうした切迫感や逃亡感が強まります。このあたりの弦楽器の鳴らし方はとても巧い。ベルグルントってすごい。
第二楽章。シベリウスの音楽は、さまざまな断片的な旋律が何枚も何枚も重ねられそれを一枚はがしてみたり、二枚重ねてみたり、ちょっとずらしてみたり、という具合に曲が進行しています。何かひとつの大きなテーマがあって、それを変奏していくというタイプではないように思います。極めて多様な旋律が登場しますので、旋律を覚えたときのうれしさは格別です。
最終楽章は、実に美しく明るい伸びやかな旋律で始まりますので、これでいよいよハッピーエンドか、と思わせるのですが、最後は先日書いたようにDSCHの「レニングラード」ばりの執拗なまでの短和音フレーズの繰り返しで、ああ、もう耐えられません、と悶えたときにようやく、長和音で解決。それから、また最初の旋律に逆戻り。それから、また身もだえ。忙しすぎる。これは、おそらくは民族開放的な意味があるに違いない。
フィンランドの歴史も勉強せんといかんなあ。他の指揮者のシベリウスも聴いていきたい。
さて、近況。やっと一週間が終わりましたが、土日の方が忙しいですねえ。でも、忙しい方が好きみたい。回っている独楽は倒れません。明日も都心に出たり、地元で仕事したり。あと楽しみなのは、地元の夏祭りです。毎年ジャズバンドが出ますので、生演奏を楽しんでおります。今年はこれまでとは違うバンドが出るみたいですので、楽しみ。スタンダードをたくさん聴けそうな予感。