2013/2014シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera,ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎

引き続きヴェルディが楽しい毎日。
今日はレクイエム。バレンボイムがシカゴ饗を振ったバージョン。

昨日のお話の続きを。
ヴェルディがイタリア統一運動において果たした役割は、「ナブッコ」の「ゆけ、我が想いよ」が、当時オーストリアに支配されていたミラノにおいて、イタリア民族意識に火をつけたということ。もう一つは、「ヴェルディ万歳!」という言葉が、「イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世」というイタリア統一を象徴するといったことになります。
これは、イタリアの教科書に書かれていることでもあるとのことですし、随分といろいろな所で取り上げられている「常識」的なものでした。
ところが、どうやらそれは「幻」のようなのです。
件の「ヴェルディ」においては、ビルギット・パウルスというドイツの研究者による情報として以下の様な説が紹介されています。
(「ひ孫引用」で恐縮ですが)「ヴェルディ万歳!=イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世」の挿話の初出は、オーストリアの音楽批評家であるエドゥアルト・ハンスリックによって書かれた「現代のオペラ」という作品のなかなのだそうです。
ハンスリックは、高名な音楽評論家ですね。ワーグナーと対立し、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で敵方ベックメッサーのモデルになったと言われている方です。
その部分を、ハンスリックの原書から発見しました。加藤浩子氏「ヴェルディ」においては1875年とされていますが、googleにスキャナされた版は1880年とあります。
“http://archive.org/details/diemoderneoperk02hansgoog":http://archive.org/details/diemoderneoperk02hansgoog
255ページの以下の部分です。

超意訳ですが、

つまり、ボンバルディア、ヴェネト、ローマ、トスカーナ、ナポリにおいては、「イタリア万歳!」と叫ぶことはタブーだったので、人々は「ヴェルディ万歳!」と叫んだのだ。このヴェルディの名前を示す個々の文字は以下の意味を指し示す。すなわち、イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ、である

と書かれているはずです。
この部分が、世界ではじめてヴェルディの言い換えを行った場所、ということになるのでしょうか。
つづく。
===
先程まで、教育テレビで放送されていた吉田秀和さんのドキュメンタリーに釘付けになってしまい、遅くなりました。続きは明日。

2013/2014シーズン,Giuseppe Verdi,Movie,NNTT:新国立劇場,Opera,ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎

ヴェルディが楽しい毎日。今日はオテロ。ナブッコの予習もしないといけないのですが、音源の入手が遅れていることに気づき焦り気味です。

先日「ビバ・リベルタ」という本を取り上げました。その中でイタリア統一にまつわるエピソードを取り上げました。

この本では、ヴェルディが政治的闘志を燃やしているかのような記述があるのですが、どこかでそれを覆す論述を読んだ記憶がありました。

どこで読んだのか覚えておらず、取り急ぎエントリーしたのですが、その辺りの不確定さを少し匂わしておくだけにとどめていました。つまり、あまり政治に熱心ではなかった、と言った表記をしたのはこういうわけだったのです。

昨日、大学の友人と会う機会があり(その訳を書くのは少し難しいのですが)、その際に一冊の本を紹介してもらいました。加藤浩子氏による「ヴェルディ」という本です。

その中に私の漠然な疑問に答える記載がありました。

ヴェルディがイタリア統一に果たした「偉業」は、幻だった、というのです。

続く

ーーー

今夜も夜勤のメンバーがいる中ですが、離脱中。明日は何もなければOFF。

Classical,Giuseppe Verdi,Opera

はじめに

我々日本人は知識として知っているだけで、体感することが難しい概念に「国民意識」や「自由の渇望」というものがあるのではないか。
この考えは、特に目新しい考えではありません。19世紀まで鎖国をしていましたので、国家間戦争の体験が少ないということや、西欧帝国主義への対抗措置としての富国強兵や、第二次大戦後の占領といった外圧によって、フランスが勝ち得た自由主義というものを与えられた、など、西欧諸国と異なった歴史をたどったのが日本という国です。
ですので、オペラを観るに際しても、あるいは西洋音楽を聞く場合に際しても、日本という場所を超えて、当時の西欧諸国の状況を思案しなければならない場合もあると考えています。

マクベスにおける反体制運動


マクベスにおいて、原作にはない合唱が挿入されている箇所があります。第四幕の第一場のスコットランド難民の合唱「虐げられた祖国」です。
コンヴィチュニーの演出においては、合唱団が歌い始めると客席の照明が付けられます。ありがちな演出なのだそうですが、これは合唱の内容は、観客にとってもアクチュアルな問題なのである、という事を気づかせるための仕掛けです。
日本も敗戦であったり震災であったりと、国土が荒廃することがあるのです。のうのうと劇場の座席に座っているわけには行かないのではないか、そう思わせる瞬間です。
この部分、原作にはないにもかかわらずなぜヴェルディは挿入したのかは、よく知られているように、当時のイタリア統一運動に端を発していると考えられます。
合唱は民衆の代弁です。こうやって、世論を汲み取り、芸術へ昇華し、政治への働きかけを試みているといえます。

イタリア統一とヴェルディ

**※ 本件については異論あります。(2013年5月18日追記)別稿「ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎 」シリーズに記載しておりますのでそちらもあわせてどうぞ。**
ヴェルディがイタリア統一運動において特別な立ち位置にあったことは周知のとおりです。
Vittorio Emanuele Re D’Italia イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ の頭文字を取るとヴェルディになったため、民衆は、しょっぴかれることなくヴェルディ万歳!と連呼したというのは有名なエピソードです。当時のミラノはオーストリア領でイタリア統一運動は反体制運動でしたので。ヴェルディは時代にも愛されたのでしょう。
若いころは、イタリア統一を意識したオペラを作曲していましたが、実際の政治に関わりたくなかったという側面もあるようで、統一後のイタリアで国会議員になりましたが、あまり身を入れることはなかったようです。

終わりに

この本もヴェルディの項目を読み終え、ワーグナーの項目に入りましたが、言説はオーソドックながらも、考えをまとめるのに恰好な一冊です。

というわけで、連休も終わりに近づいています。3日も5日も会社に行きましたので、休んだ気がしません。まあ、人生「仕事」なんで仕方ないですね。

Giuseppe Verdi,Opera

はじめに


先日参った東京二期会公演の「マクベス」。私はコンヴィチュニーの演出に参ってしまいました。「鬼才」と冠せられることはあります。
あえて文献や情報に当たらず、意見をまとめてみました。

演出について

狂言回しとしての魔女あるいは女性たち

一貫しているのは、魔女達が狂言回しとして、全体をプロデュースしているという設定です。登場する女性たちは、(一箇所を除き)みんな鼻が長い魔女になっています。
舞台の時代設定は現代です。魔女たちがいるのは、薄汚れたキッチンです。なにやら怪しいホームパーティーで、魔女たちは派手な身なりをした若い女達で、肩にフクロウや黒猫を載せていました。
そもそもの原作においても、魔女の予言が契機となって物語が進行しますし、第三幕でマクベスは魔女の予言を聞きに来ますので、魔女が物語のトリガーとなっているのですが、演出においてはさらにそれが押し進められており、例えばマクベス夫人に手紙を渡すのも、マクベスにダンカンを殺すためのナイフを渡すのも魔女ですし、4幕で反マクベス軍に物資(ここでは木ですが)を渡すのも魔女たちです。
そして、その最たるものは、すべての演奏は、魔女たちが囲み耳を傾けるラジオの中の出来事でしかなかった、という解釈です。
最終部分の音はオケの音が徐々に小さくなり、ラジオからしか聞こえないという具合になっています。最後のオケの盛り上がりは全くありません。肩透かしを食らった気分です。
ここは、どのように音を出しているのか、今のところよくわかりません。音の感じはオケがフォルテで鳴らしているようにしか聞こえないのですが音はラジオから聞こえるように小さくなり音圧も圧縮されているように聞こえました。
これは演出が音楽を完全に包含してしまったという事態なのです。
音楽的な解釈として最後ピアニシモで終わるということはありえないのです。当然ですが、スコアも最後はフォルティシモで終わっています。
全ては演出家の掌の中で行われたことだったというメタ・フィクションです。
これまでの2時間半にわたって、胸踊らせ心をときめかせて聞いていた生音のオーケストラが、実は誰でも聞くことのできるラジオ番組に矮小化されてしまったことへの当惑なのでしょう。私も呆気にとられてしまいすぐには拍手ができませんでした。
カーテンコールでコンヴィチュニー本人が登場した途端にブーイングが多数でました。そうした腹立たしさの現れなのでしょう。
ただ、このブーイングはおそらくは想定どおりなはずで、コンヴィチュニーとしては、してやったり、と思っているんじゃないかな、と想像しています。おそらくは観客の反応を引き出すのが目論見ですから。単なる拍手で終わるよりも嬉しいはずです。
魔女たちが舞台をプロデュースしているという事態は、女性が世界を動かしていることのメタファーになるのでしょう。マクベス夫人がマクベス物語の中でマクベスを動かすように、マクベス物語を魔女達が動かしているという構造になるわけで、二重の意味で世界を女性が動かしているということになるでしょう。

作曲家から演出家へ

今回のこの演出ですが、大げさに言うと、演出の音楽への再度の宣戦布告なのではないかと思ってしまったのです。
確かに戦後のオペラは、バイロイトのヴィーラント・ワーグナーの新バイロイト様式演出以降、演出が積極的にオペラを時代にそって解釈し、意味を創造するようになりました。
それでもなお、オペラの上演に際しては、まず始めに作曲家の名前が冠されるのが一般的でした。
しかしここでは、最後に主役であったと思っていたヴェルディがいなくなり、コンヴィチュニーが主人公になったように感じたのです。
少なくとも、オペラはまだ音楽の一ジャンルであると勝手に信じていましたが、実のところ、既に演劇や映画へと連れ去られていたのではないか、などと感じてしまったのです。これも少し大げさな言い方ではありますが。
私がオペラを聴き始めた頃のことを思い出しました。当初はオペラ自体が珍しく思えましたので、まずはオーソドクスな演出で当初想定された自然主義的な演出を期待していました。
ところが、そのうちに、オーソドックスな演出を打ち破って、そこに新たな意味を付加することの面白さに気づいていったのでした。
新国立劇場の一連の「ニーベルングの指環」を観て、演出からそこに付加された意味をいろいろ考えたり、あるいは、自分なりに意味を付け加えていくことの面白さでした。新国立劇場での「オペラ・トーク」で演出家から直に聴くオペラ演出の意図も刺激的でした。演出の重要性は十分理解しているつもりでした。
しかし、ここまで音楽を脇役に追いやってしまうとは。これは、オペラ・システムという音楽と舞台のコラボレーションの意味合いを変えてしまう、画期的あるいは破壊的なアイディアだと思ったのです。
パンフレットには「鬼才ペーター・コンビチュニー」とありましたが、これが「鬼才」たる所以なのでしょう。

演奏について

演奏についても触れておかなければなりません。
マクベス夫人を歌った石上朋美さん。当初不安定な部分もありましたが、徐々に調子が乗り始め、第四幕最後のマクベス夫人絶命の場所は素晴らしかったです。あそこは、素晴らしく安定していて、声も厚みのある豊かなものでした。
指揮者のヴェルディニコフの指揮も良かったです。かなり重みをつけた指揮で、ガッチリとした緊密な響きを現出させていました。奇をてらったり観客におもねったりするようなことは全くありませんでした。
がゆえに、コンヴィチュニーが最後のクライマックスをラジオからの音源としてしまったのが残念だったのです。最後の最後のカタルシスを奪われてしまった歯がゆさでした。

東京文化会館

そうそう。東京文化会館ですが、2月から今月にかけて3回参りました。ホールの音響として随分いいなあ、というのが印象的でした。
いまのところ私がもっともいいなあ、とおもうのはみなとみらいホールです。あそこの残響は素晴らしいのですが、東京文化会館は底までではありまえせんけれど、硬質ながらリッチな音響だと思います。
新国立劇場オペラパレスは、ちょっとデッドですので、いつもなにか欲求不満なところがあるのです。オペラパレスは材質が木ですが、東京文化会館はコンクリートですので、そもそも音響へのポリシーが違うのでしょう。

最後に

それにしても、本当に凄い舞台でした。しばらくはもう色々ぐるぐると思いが駆け巡っていましたから。。
演奏が始まったのが18時半で終わったのが21時15分。私はその後22時半から翌日の13時まで会社で働き続けました。毎年恒例のゴールデンウィーク特別対応のため。家に帰ってからはヘロヘロです。

Classical,Ludwig van Beethoven

いまさら感もありますが、ちょっと感動したのでエントリーします。

アバドがベルリン・フィルと作ったベートーヴェン交響曲全集のなかから「英雄」を聴いてみたのですが、あれ、こんなにカッコ良かったでしたっけ? みたいな驚き。

これ、ポルシェかフェラーリかわかりませんが、スポーツカーのように強靭でしなやかでスタイリッシュな演奏です。無駄な装飾を廃し、必要最低限のダイナミズムで、磨かれたボディのつややかさを感じます。

これ、アバドの凄さとベルリン・フィルの凄さの相乗効果です。ここまで機能的に動けるのはベルリン・フィルだからこそでしょう。

ネット上には、つまらん演奏だ、とありますけれど、カラヤン的新即物主義的でありながら、そこに幾ばくかの控えめな装飾を載せるような洒脱さがあって、私は気に入っています。

IMG 2608

なんだか休んだ気がしない連休ですが、「休め、整えよ」、という感じで過ごしています。

Alban Berg,CD紹介,Classical,Richard Strauss,Vocal

可愛らしいカワウソ。日本のカワウソは絶滅してしまったそうです。カッパのモデルにもなったそうです。英語ではオッターと言います。


こちらはデハビラントカナダ社のDHC-6という小型旅客機。通称Twin Otter。日本語ではツイン・オターと書きます。オッターではありません。オッターは語呂が悪いのです。飛行機なので。これは実話で、私のダジャレではありません。


次が今回の主人公のオッター様。


アンネ・ゾフィー・フォン・オッター。スウェーデン生まれのメゾ・ソプラノです。

私の中では、クライバー指揮「ばらの騎士」でのオクタヴィアンが最も印象的。あとは、シルマー指揮で、フレミングも出ていた「カプリッチョ」で、強気なクレロンを歌っていたのも思い出深いです。

あとは、一昨年でしたか、アバドがベルリンフィルを振ったマーラーの大地の歌ですかね。最後、感極まって涙を感極まって流していたのを覚えています。

今日聴いているのはLove’s Twilightというアルバム。シュトラウス、ベルク、コルンゴルトの歌曲集です。

冒頭のシュトラウスのRosenbandが素晴らしいです。この曲の素晴らしさはこのアルバムで学びました。ゆったりと遅めのテンポでふくよかに歌ったいます。転調しながら上昇するあたりの昂揚感は絶品です。

あとは、ベルクの七つの初期の歌、ですかね。こちらもかなり緩いテンポ。無調の浮遊間とあいまって、聴いている方も揺蕩う感じ。この無解決感が、底の見えない真っ青な湖の底を覗き込む時の不安と崇高を感じさせるのです。

残念ながら実演で聴いたことはないです。歌は録音では分からないことがたくさんありますので、きっとすごいんだろうなあ。

Opera,Richard Wagner

いや、申し訳ないですが、さすがに体力が。。

というのも、3月からの仕事の方の春祭りが絶好調で、私もほとんど祭り気分で働いているんですが、まあ、たまに週末に休むとどうしても気が抜けて、そうするとドッと疲れが出てしまう感じ。

昨日、英会話で、ジャックというイギリスの若者に「月曜日には25時間連続で働いたよ」といったら、ジャックは言葉を失いました。

「で、2時間仮眠してまた夕方の5時から11時まで働いたよ」といったら、さらに言葉を失いました。

それから、「日曜日にはオペラを見るんだけど、5時間半あるんだ」といったら、何も話さなくなってしまいました。

その後、ポツリと「日本人じゃなくてよかった。。。」とのこと。

これだけ働いて、2%給料が上がらなかったらアベノミクスを批判します。冗談です。

というわけで、本日は上野の東京文化会館にて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をたっぷり聞いて来ました。

過程を省いていっちゃうと、三幕第一場最後の五重唱以降は涙が止まらないですよ。カタルシス。

フォークトのヴァルターは強力過ぎます。最後のあの歌、嗚咽をこらえるのに必死。

一年ほど前にこちらのCDを紹介しましたが、もう一度紹介しておきます。ここで、聞けますよ。

フォークトについてはこんな記事を昨年書いています。

新国立劇場「ローエングリン」タイトルロール、フォークトの記事が朝日新聞夕刊に。

フォークト、確かに絶好調ではありませんでしたが、十分観客を鷲掴み。それどころか、女声合唱団の心も鷲掴みです。カーテンコールで入ってきた時、女声合唱団に投げキッスをしたんですが、とたんに女声合唱団が沸きに沸いたそうです(カミさんの目撃情報)。

ワーグナーのオペラは、5時間かかるからこそ感動するんだろうなあ、と思いました。

で、ストラヴィンスキーがバイロイトを酷評しているのを思い出しました。

この逸話、岡田暁生さんの著書「音楽の聴き方」(中公新書)で読みました。狭くて硬い座席で座って「宗教儀式」のようなオペラを聴くことのへの疑問です。

ただ、これ、宗教儀式だとしたら合理的すぎます。5時間の労苦の先にあったのは、ヴァルターの甘美な歌に酔いしれ、ハンス・ザックスのドイツ讃歌にぐっと胸を掴まれますので。

5時間の時間は、いわば悟りを開くための苦行であり、その労苦への報いが最後の感動なんだなあ、と。

それから、他にも色々発見しました。

このオペラ、リヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」と「ばらの騎士」だわ、みたいな妄想。

意外と、ハンス・ザックスとエファが互いに持つ変な恋心みたいなものが、興味深いですよ。これ、今回はじめて気づきました。これが、「ばらの騎士」。あとは、オペラの中で芸術論ぶってしまうところが「カプリッチョ」だなあ、というのは普通の考えです。

明日も続きます。もう少し細かく書かないと。

明日は5時半に起きなければならないのでこのへんで。

Concert,Richard Strauss

今日は、上岡敏之と日フィルで、シュトラウスとブルッフを聞きに初台のオペラシティに行って来ました。

IMG_2504.JPG

今回の日フィルも圧倒的で、ほんとうに来てよかったですよ。。

ブルッフ

前半のブルッフ、郷古廉さんのヴァイオリンがあまりにすごすぎるわけです。

第二楽章の甘美で官能的なところは圧倒的でした。

音は豪放な部分もあれば繊細に歌うこともできるところで、指揮の上岡さんがたくみに導いていたとはいえ、圧巻でした。

今日も滂沱でした。

郷古さんは、1993年生まれの二十歳なんですが、なんだかあまりに出来上がった大人な演奏をしてしまっていて、早熟な天才だと思います。これから壁に何度もぶち当たるんでしょうけれど全部飛び越えてしまいそうですね。

演奏が終わったあともオケのメンバーからも賛嘆の眼差しを受けていましたし、客席も大喝采でした。

アンコールで弾いた曲がシュトラウスのオペラ「ダフネ」のフレーズを使ったエチュードですよ。考えていたんでしょうけれど、後半のアルプス交響曲と絡めた選曲で、全く粋なことをしてくれるものです。

アルプス交響曲

後半のアルプス交響曲も、圧倒的でした。

上岡さんの指揮は、雄大で、マゼールのアルプス交響曲に似た印象を受けました。テンポは中庸から少し遅いぐらい。日本人的な「粘り」がなく、スマートで洗練された正統派ドイツ的演奏と思いました。

これは、もうセリフ無しのオペラといってもいいのではないでしょうか。それぐらい映像が思い浮かぶいい演奏でした。

日フィルも上岡さんの要求によく応えて、疵も乱れも殆どない演奏だったと思います。日フィル、やっぱり巧いですよ。今回もそう思いました。

ただ、ホールの音響的に言うと、私の席(10列の右側)から音が回っているような印象を受けました。

アルプス交響曲の隠れテーマ

今回の演奏会のパンフレットの広瀬大介さんの解説が面白いですね。

アルプス交響曲は単なる写実交響曲ではなく、「アンチクリスト」という隠れテーマがあるという論点でした。

この論点、知ってはいましたが、まとめてくださっていて有り難いばかりです。

「アンチ・クリスト」というのはニーチェの思想ですが、もう一つシュトラウスが作曲したニーチェがらみの曲が「ツァラトゥストラはかく語りき」です。

で、ですね、アルプス交響曲には「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭の上行していくファンファーレのフレーズが随所に登場するのですよ。広瀬氏もパンフレットで指摘しています。

そればかりではなく、上行ファンファーレの下降バージョンも最終部に登場します。

ここまでは、広瀬さんの解説にもこの下降ファンファーレは「自然の前に打ちひしがれる姿」として指摘されています。

実はですね、この下降バージョンのファンファーレは、オペラ「アラベラ」が、最後に水を持って階段を降りてくるところでも登場します。

これは新国立劇場のオペラ・トークで評論家の田辺秀樹さんが指摘されていたことです。ここでは、「ツァラトゥストラ」のような男性的な上昇志向に対して、女性的な志向なのである、とおっしゃっていたと記憶しています。

終わりに

やっぱりドイツ後期ロマン派は素晴らしい、とあらためて思いました。官能と甘美があるのですね。

来週からまた戦う勇気がわきました。

明日は勉強やら日常業務やらをこなす予定。やることがたくさん。

2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

IMG_2372

あー、これがオペラなんですね。私、なんで知らんかったんだ。。

とおもってしまうぐらい圧倒的なパフォーマンスだった新国立劇場の「アイーダ」でした。

このプロダクションは1998年の開場時のものです。それから14年ですが、まだ色あせていません。帰り際に思い立ちました。これは無形文化財なんじゃないか、と。

作ったのはゼッフィレッリ。

ここまで絢爛、というのは誰しもが思うもとです。加えて、舞台に奥行きがあるのです。何時もにもまして。

ギリシア風よりも野太く無骨な柱がそそり立つ柱廊がはるか先まで続いているように感じましたし、神殿の奥の薄暗い奥から立ち昇るアウラを感じたり。

衣装の意匠も素晴らしく、無からの創造よりも、古代エジプトの絢爛を汲み上げて再構成するほうが余程苦しいプロセスだと感じるほどでした。

生きた馬が登場するのは、知っていましたが、実際に見ると迫力抜群です。

「アイーダ」ともなると、超人気演目ですので、いつもとは違うお客さんが多いようで、なかなか面白く、例えば、指揮をしたミヒャエル・ギュットラーがカーテンコールで舞台上に姿を表すと、「キャー、イケメン指揮者っ」、とか「マジカッコいい、マジカッコいい」という声があちらこちらから聞こえてきたように思います。まあ、確かにイケメン指揮者なので異存はありません。

ミヒャエル・ギュットラーは、前回「フィガロの結婚」で登場しましたが、あの時は音楽の制御にずいぶん苦労していたように思いましたが、今回は、冒頭は少しハラハラしましたが、以降はオケ合唱含めて最後まで統御し切っていました。テンポのコントロールは前回の「フィガロの結婚」の時のように無理矢理感がなく、流れの中で波立たせるところは波立たせ、流すところはきちんと流す説得力の高いものでした。

キャストですが、外国勢三名は、大オケと張り合う強力な声量の持ち主でした。特にアムネリスのマリアンネ・コルネッティの最終幕は素晴らしかったです。パワーと情感が混然一体となっていました。

アイーダのムーア、ラダメスのヴェントレも声量はバッチリ。もちろん細かい点に気になる点などはありましたが、やはり声量がないといけません。

冒頭、みんな、なんだか疲れているようで、縦線が合わなかったり、歌の細部の処理がうまくいっていなかったりと随分心配したのです。ところが、ムーアが登場して、アイーダをガッツリ歌った途端に空気が変わりました。少なくとも私の頭のネジががっちり締まったのがよくわかりました。すごかったですよ。

いろいろと思うようにならないこともありますが、十指に入る名演といっていいと思います。4時間きっちり堪能することができたと思います。

IMG 2367

暮れなずむ新国立劇場はほんとうに美しいです。特にこの手摺のランプに灯りが灯るのが最高です。

本日は一旦ここまで。書きたいことたくさんだなー。

Classical,Richard Strauss

夜勤明けの始発電車に乗っています。窓の向こう、薄暮って、こういうのを言うんだろうなあ、という感じです。
東の空が水平線の方からじわりと淡い光を帯び始めていて、薄墨色から桜色へと変化していきます。
この数日ですっかり変身しましたよ。
まず夜行性になりました。さらに、ダイエットにも成功しました。
素晴らしい効果です。結構満足。

さて、マゼール指揮の「ツァラトゥストラはかく語りき」を聞いています。

いやー、ほんとシュトラウスっていいですわ。

この絶妙な不協和音の波に溺れてしまいそうです。つうか、溺れたい。

リズムも結構複雑なんですよねえ。ちゃんと読みたい。

マゼールは雄大でいながら鋭いです。キリッとした味わい。

あとは録音が秀逸です。エッジが聞いた音質が素晴らしいです。

さて、そろそろ社会復帰と夜行性からの脱皮をしたいところですね。明日からは昼間へ戦場を移します。