Anton Bruckner,Book,CD紹介,Classical

先日も書いたとおり、エーリヒ・クライバーの伝記を読んでいます。

その中で紹介されていた失神に関するエピソードを。

運命の失神

1927年3月、ベートーヴェン没後百年祭の演奏会のこと。
ボンでエーリヒ・クライバー指揮による演奏会で交響曲第5番が取り上げられました。その日はどんよりと曇った日でした。
スケルツォから終楽章へ突入する瞬間、雲の切れ目から一筋の太陽の光がガラスの屋根から差し込んできました。
途端に立ち見で聴いていた学生たちが気を失ったそうです。
戦時中、エーリヒ・クライバーが夫婦で南米の小さい町を歩いていると、男が近づいてきて「私は、あのベートーヴェン百年祭演奏会で気を失った学生の一人なんです」と話しかけてきたそうです。
これは伝説とされていますが、先日出版されたエーリヒ・クライバーの伝記で紹介されているエピソードです。
あそこで突然光が差し込むなんて、出来過ぎた話です。本当なら私も失神したはず。

神は存在する?

これって、朝比奈隆がザンクト・フローリアン協会でブルックナー交響曲第7番を降った際に、第二楽章が終わった途端に、教会の鐘がなった、というエピソードを思い出しました。神様はいるのかも。
このアルバムです。



私はかなり遅い目のテンポをとり、広間の残響と均衡をとりつつ、演奏を進めた。十分な間合いを持たせて第2楽章の和音が消えた時、左手の窓から見える鐘楼から鐘の音が1つ2つと4打。私はうつむいて待った。ともう1つの鐘楼からやや低い音で答えるように響く。静寂が広間を満たした。やがて最後の鐘の余韻が白い雲の浮かぶ空に消えていった時、私は静かに第3楽章への指揮棒を下ろした。

朝比奈さんの言葉です。
第2楽章はレクエイムです。ザンクト・フローリアンに眠るアントン・ブルックナーに演奏が届いたのかもしれません。
ここでも私は失神するかもしれません。
鐘の音を確かめるためにCD聴き始めましたが、このアルバム、いろいろ言われていながらも、かなり感動的です。おすすめ。
ドライブした演奏。朝比奈さんがグイグイ引っ張ります。デュナミークの統率感は格別。
1975年の録音ですから、もう38年前ですか。

失神とは?

先日、読響の《アメリカン・プログラム》で、失神寸前と書きましたが、まあ、音楽で失神をするというのはよくある話なのでしょう。
失神とは「大脳皮質全体あるいは脳幹の血流が瞬間的に遮断されることによっておこる一過性で瞬間的な意識消失発作」です。
この内、音楽を聞いて失神するのは「神経心原性失神」のうち「血管迷走神経反射性失神」と呼ばれています。長時間の起立、驚愕、怒り、予測外の視覚、聴覚刺激、ストレスなどによるものが多いようです。
おそらくは、立ち見の学生は、立った状況で、予測外の視覚と聴覚刺激によって血流が脳から失われ、崩れ落ちたのでしょうね。
というわけで、また明日。

Opera,Richard Strauss

今日は短信で。
禁酒ですが、まだ続いています。ただし、曲がりなりにも給与所得者なので、付き合い的なものはありますので、家での禁酒ということになりました。それでも、私にとっては画期的です。
本日で12日目です。
アルコールの代わりに炭酸水を飲むことにしたのですが、炭酸水はノンカロリーですし、炭酸が胃で膨れますので食事量を減らすこともできます。
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ですが、体重は減りません。おかしな話。
アルコールとれない代わりに、食事量が増えているのかもしれないですね。

今日もエーリヒ・クライバーの《ばらの騎士》第二幕を聴いています。最後のウィナーワルツのところ、今日聴くと、やパリ古風な感じでヴァイオリンがポルタメントを使っているのがわかります。こんなかんじで往時のウィーンフィルは歌ってたのかあ、と納得しました。あるいは、戦後までこういう感じだったのか、と改めて面白さを感じます。
あと2日でやすみです。

Opera,Richard Strauss

我が家からの眺め。雲が美しい季節になりました。冬の透き通った空もいいですが、雲があったほうが光はよく楽しめますね。
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わけあって、エーリッヒ・クライバーを聴いています。
今日聞いているのは《ばらの騎士》です。

  • 元帥府人:マリア・ライニング
  • オックス男爵:ルートヴィヒ・ウェーバー
  • オクタヴィアン:セーナ・ユリナッチ
  • ファニナル:アルフレッド・ポエル
  • ゾフィー:ヒルデ・グエーデン
  • 指揮:エーリッヒ・クライバー
  • 管弦楽:ウィーンフィル

1954年7月 ウィーン楽友協会大ホール モノラル 
モノラルではありますが、音質は良質です。

エーリッヒ・クライバー

エーリッヒ・クライバーは1890年にウィーンで生まれた生粋のウィーンっ子です。それが故だと思いますが、ウィンナ・ワルツを好んだとか。
20代前半から、クライバーはヘッセン=ダルムシュタット大公国の首都であるダルムシュタットの宮廷劇場の第三指揮者に就任します。ここで下積み時代を送るのですが、初見で《ばらの騎士》の総稽古(ゲネプロと思われる!)やってしまったそうです。25歳の時のことです。
その後、リヒャルト・シュトラウスは、クライバーを「《ばらの騎士》を初見で振った男」と喜んで紹介したそうです。実際には、一晩でスコアを研究して、ゲネプロをやり遂げ賞賛された、という説もあるようですが、快挙であることには変わりないです。
御存知の通り、エーリッヒは、あのカルロス・クライバーのお父上です。

演奏

エーリヒ・クライバーの指揮はシャープで、陰影に富んだものです。テンポの微細なコントロールで旋律の意味を炙りだしてますね。
特に素晴らしいところ、第一幕の最後の元帥夫人のモノローグでの心情表現は絶妙です。心の動きを鮮やかに際立たせるダイナミズムが素晴らしいのです。
第二幕前半のオクタヴィアンとゾフィーのダイアローグも立派。若い二人が盛り上がっていく躍動感がいい感じ。変に重くならず、優雅に盛り上がりますね。
特筆すべきは第二幕最終部のウィナーワルツ。ここまでウィナーワルツらしいウィナーワルツは聴いたことがありません。とにかくゆったりとして、切れがあります。
エーリヒ・クライバーは、好んでヨハン・シュトラウスを演奏したようですし、オペレッタを重要視していた時代もあったようです。そういう文脈から察すると、これが本格的なウィナーワルツということになるのでしょう。

追伸

今日から仕事以外では禁酒します。つまり家のみやめます。この一年毎晩かかさずのんでましたので、それをやめるということ。理由はいろいろ。どうもアルコール処理能力が落ちたようで、翌日辛いので、というのが一番大きな理由です。
さて、どこまで続くか。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

コジ・ファン・トゥッテ。女はみんなそうしたもの。いや、本当にそうですよ、まったく。
というわけで、昨日に引き続き。コジ・ファン・トゥッテ。
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さて、今日は、男性陣と音楽を。昨日は悪乗りしてすいません。

男声の方々

フェルランドを歌ったパオロ・ファナーレも、グリエルモを歌ったドミニク・ケーニンガーも、イケメンなふたりでした。一幕が終わった途端に私の後ろの方から、「メチャカッコイー」という黄色い歓声が湧き上がりましたね。
パオロ・ファナーレは、甘い声。ともかく軽やかに甘い。特に、第一幕17番のアリア Un’ aura amorosa、素晴らしかったですよ。あれがカンタービレなんですね。
ドミニク・ケーニンガーも背の高いイケメンで、安定した歌声を聞かせてくれました。どちらかといえば、ファナーレより声は私の好みでした。
そうそう、第二幕の冒頭の水浴びのシーンですが、前回2011年は、アドリアン・エラートとグレゴリー・ウォーレンが、水に浸かりきってたんですが、今回はそこまでやらなかったです。でもあの場面は笑うしかないです。「オテロ」も「ヴォツェック」も水を使った好演出でしたが、「コジ」もその仲間ですね。
ドン・アルフォンソを歌ったのはマウリツィオ・ムラーロでした。2006年12月のセヴィリアの理髪師のドン・バジリオで聴いたことがありましたが、今回も当然健在ですよ。ヨーロッパのバス・バリトンの方は、本当につややかで倍音を多く含んだ声を聞かせてくれるんですが、ムラーロもそうした方々の一人。2011年のコジでドン・アルフォンソを歌っていたローマン・トレーケルが叡智的で冷たいドン・アルフォンソだったのですが、ムラーロのドン・アルフォンソは温かみがありました。それは声質の違いにもよるのではないかと思います。

音楽のこと

指揮のイヴ・アベルが作り出す音楽は、全体がひとつのまとまりとしてあらわれてくるように思えるものでした。急激にテンポを変えるといった意表をつくようなことをせず、だからこそ舞台上の物語を邪魔しないものでした。
私はこれと逆の経験を、10年ほど前のウィーンで観た小澤征爾の「フィガロの結婚」で感じたことがありました。小澤先生のことを書くのは不遜かもしれませんが、ケルビーニを歌っていたアンジェリカ・キルヒシュラーガーと全くテンポが合わず、モーツァルトの軽快な世界が重苦しさを帯びてしまったように思えたのです(これを書くのは相当勇気がいります)。
同じ経験は、数年前の新国「フィガロの結婚」でも……。
ですが、イヴ・アベルはそんなことはありませんでした。音楽に違和感を感じない、というのは、それだけ舞台演出とマッチした演奏なのだと思うのです。オペラ巧者の指揮者、例えばペーター・シュナイダーの指揮にはそうした職人技のような力を感じますが、それと同じものだったと思います。
もしかしたら、オペラにおけるオケの演奏は空気のようなものでなければならないのかもしれない、などと思います。気配を感じさせず、時に張り詰め、時に柔らかくなり、その場の「空気」Atomosphereを作るのがいい仕事なんですね。
明日は、演出のことを書く予定。

終わりに

ちなみに、昨日の夕食。落合シェフの豚肉のバルサミコソース。美味。久方ぶりの外食でした。この御店はメニューを限定することでコストをリーズナブルにしています。さすが!
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では、また明日。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

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今日は新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」最終日でした。NHKの映像収録があったおかげで、私はA席からS席へ格上げとなり、良い席で楽しむことができました。
今回のキャスト、美男美女ぞろいと聞いていましたが、本当にその通り。
冒頭、ステージにスタッフのかたが立たれて、フィオルディリージのミア・パーションが体調不良だが、頑張ります、というアナウンスが。
私は(古い話で恐縮ですが)、2002年秋の「セビリアの理髪師」のことを思い出しました。あの時は2幕の冒頭でスタッフのかたが壇上でキャスト変更をアナウンスされましたが、今回ももしや?と覚悟しましたが、なんとか出演してくださるということで、一安心です。
今日はNHKの録画も入っていましたし、最終日だったということもあるので、多少の体調不良をおして出演ということになったのだと想像しました。良かったです、本当に。
確かに、第一幕のミア・パーションは、声に張りがありません。ですが、緩急強弱の豊かさと、演技、(そして美貌)を持って、フォローしていましたので、聴いていて大きな違和感を感じる場面は殆ど無かったと記憶しています。さすがに、一番最初の歌い出しや、ロングトーンで苦労しているのはわかりましたけれど。
ですが、第二幕になると、声量も安定してきて、一層素晴らしくなりました。私は、途中からキャメロン・ディアスに見えてきて仕方がなかったです。
ドラベッラのジェニファー・ホロウェイは、背の高い美人。潤いのあるメッゾで、パワーはダントツ。第一幕での怒りの表現と、次第にほだされていく感じを上手く表現していたと思います。
怒りをぶちまける演技を見ていて、あ、これ、フリッカだ、と思いました(このあたりのオーバーアクションの演出が少し違和感あったかもしれないです)。
ショートカットにしていたので、これはズボン役も当然行けるわけで、オクタヴィアンを歌うとカッコイイはず。調べてみるとやっぱりオクタヴィアンを歌っています。
で、かなりこじつけで、ドリュー・バリモアに似ているということで。
デスピーナを歌った天羽さんもかっこよかったです。声量やピッチも外国勢負けないぐらい。最近の新国立劇場は日本勢もどんどん素晴らしくなっています。
天羽さんは、もちろんルーシー・リュー。

肖像権があるので、写真を載せられないですが、イメージは掴んでもらえるかと。
明日は男性陣を。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

新国立劇場では、今シーズンの「コジ・ファン・トゥッテ」が上演中ですが、2011年の今回のプロダクションのプレミエの時の過去記事をまとめました。

オペラトーク

演出のミキエレットの話を聞けたオペラトークです。

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その1

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その2

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その3

 

コジ・ファン・トゥッテの舞台芸術

舞台芸術の作られ方がよくわかった非常に素晴らしい企画でした。

【短信】「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台美術に行ってきました!

新国立劇場のリハーサル室に潜入!── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その1──

登壇された方々── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その2──

もう一度、コジの演出と舞台について── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その3──

コジの制作の舞台裏── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その4──

大道具小道具そしてQA── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その5──

 

公演の報告

こちらが、2011年本公演の報告です。

新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その1

演出いろいろ妄想中──新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その2

さらにいろいろ考え中──新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その3

 

楽しい公演の模様がわかるいいなあ、とおもいます。

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今日は色んな意味で充電中。明日からまた戦い。こちらも色んな意味で。

2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

「辻邦生ゆかりの地」の写真を撮ってみました。といっても、辻先生が直接いらしたことがあるはずはないですし、本当にゆかりがあるかどうかはわかりませんが、状況証拠から間違いないはず、と思っています。結構こじつけですので、今度報告する際に怒られてしまうかも。。
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さて、新国立劇場は「コジ」で湧いているようで、私も来週末に行くのですが、まだ終わっていない「ナブッコ」の件。だから、上司に「スピード感がない」と怒られるのですね、私。。
今回は、もう少し内容を書いてみます・
序曲では、デパートのお客たちが、カバンや上着を使いながらダンスを始めます。カバンを頭に被るので、まるで巫女がかぶる帽子に見えたりします。その後、ザッカーリアが「世界の終末は近い」というプラカードを体に下げて登場します。よく宗教団体が街頭でやっているあれです。
バビロニア勢は、資本主義のアンチテーゼとして武装ヒッピーとして登場します。マシンガンをもって天井からロープを伝って降りてきました。めちゃカッコイイ登場。ナブッコももちろんヒッピーたちの親玉として登場するわけです。バットでショーウィンドウを本当に叩き割るシーンがあって、なかなか面白かったです。マジでショーウィンドウ割ってました。あれは、新国「オテロ」でイアーゴが壁にベッタリ落書きするのと同じくらいかそれ以上に衝撃。
フェネーナは、帽子を深くかぶってトレンチコートを着込んでいますが、ザッカリアにコートを取られてしまうと、ヒッピーの服装をしていて、バビロニアに帰属する人物であることがわかります。ズボンに派手な花がらの意匠で、長い髪の毛の一部が黄色に染められていて、とても支配階級に属する者とは思えず、ヒッピーに属しているのがわかります。
ですが、ザッカーリアの服装も汚れていて、支配階級に属していると思えないのです。
私は、ユダヤ人は支配階級たる「人びと」と捉えています。
むしろ、ヒッピーに近いものを感じました。この峻別の微妙さが難しいのでしょう。ところが、フェネーナはユダヤ教に改宗しますので、白いドレスに着替えます。支配階級の軍門に下ってしまうのですね。
第二幕の最後で、ナブッコが自分は神だ、と宣言すると、雷鳴が光り、ナブッコは床に倒れてしまいます。神の怒りとして雷撃を取り入れるのは、旧約聖書と同じ。
第三幕では、デパートの内装はめちゃめちゃに壊されていて、偶像崇拝の対象として、デパートの中に飾られていたキューピー人形の巨大な頭に廃材を使って作られた十字架型の人形が登場します。高価な服やMacの箱がぶら下げられています。捕虜は両手を前で縛られているのですが、マウスのコードで縛られていて、細部までリアルに作られています。
本来は第二幕まではエルサレムでの出来事で、第三幕以降はバビロン捕囚後のバビロニアという設定なのですが、今回の演出においては、場所の変化は見られず、場所の意味合いが変わったというところにとどまっていました。ここがすこしわかりにくさを感じたところだったと思っています。
助演の方が演じる武装ヒッピーの感じがすごく良かったです。彼らはみなマスクをかぶっていて素顔を見せません。それがまたリアルです。アノニムの暴力、人間性が剥がされた状況なのでしょう。
「行け、わが想いよ、金色の翼に乗って」は、もちろん捕虜となった人々がの嘆きの歌として歌われています。ここは、コンヴィチュニーだったら、先日観た「マクベス」と同じく、客席の電気をつけるかも、と思いました。
ナブッコは、フェネーナを救うために、カウンタクーデターを成功させ、その過程で神への帰依を表明します。ここで、ナブッコは苗木を持ってきて、デパートの床板の下にある地面に植樹し祈りを捧げることになります。
こうして、ナブッコはエコロジストとなり、最終的には、支配階級もヒッピーも自然へ回帰する、ということになりましょうか。
ただ、そうした自然への回帰の見せ方が今ひとつよくわからず、ヒッピーが社会復帰するという、「ビルドゥングスロマンのような見え方、あるいは、「人びと」=支配階級の勝利のようにも見えてしまい、毒素が減じられた感じです。
いや、現実はまさに演出が描いたとおりですし、われわれはそうした支配階級に恩義があるのですから、演出の作り方としてはまったく理にかなっていますが、劇薬が薄められてしまったという感はありました。
とにかく、ここまで読み替えられちゃうのね、という感嘆でした。天才の考えることはスゴイです。
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明日からまた戦闘。しかも早朝より。

2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

先日の私のブログを読むと、演出批判に読めてしまうのに気づきましたが、そんなことは全然無いのですよ。
ともかく、読み替えのスケールが大きいのです。
特に、演出舞台は、本当に素晴らしいものでした。入った瞬間に、おー! と歓声をあげてしまったぐらいです。
私は二階右サイドでしたが、舞台をちゃんとみようと一階に降りて、しばらく眺めていました。
細かい意匠が素晴らしいのは先日書いた通りです。合唱の方の開幕前の演技も素晴らしいのですよ。みなさんちゃんと会話していました。ただ歩いているだけではないのです。商品を買って、クレジットカードで決済して、ありがとうございました、というところまでやってますし、待ち合わせしていたり、知り合いと会って、あーら、お元気?、みたいな会話までちゃんとやってましたから。
あとは、自動ピアノがおいてあって、ナブッコのテーマが演奏されていましたね。
ともかく、その美しさと、緻密さに感動しっぱなしでした。
これは、ぜひ再演してほしいところ。
オペラ演出も無形文化財だ、と思います。先日のアイーダもそうですが、今回の演出も日本の宝ですね。
「自然」に感じた、少しばかりのざらついた違和感は、私の感覚が演出意図とずれているからかもしれない、などと思います。それはもしかしたら、日本と西欧の差異なのかもしれません。
引き続き戦線継続中。あ、じつは先週、辻邦生ゆかりの地へ。かなりのこじつけですが。

2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

一ヶ月ぶりの新国立劇場。
グラハム・ヴィック演出によるヴェルディ「ナブッコ」を新国立劇場にて見て来ました。
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<ネタバレ注意>
通常、開場と同時にホールに入場できるのですが、今回はロビーで少し待たされました。
やっと中に入ってみると、舞台上は欧米でありがちなデパートの店内になっていて、合唱団員の演技が始まっていました。
アップルストアのパロディで、リンゴではなくナシがモティーフになったお店があったり、服飾品のブティックや、カフェがあります。金持ちそうなお客がお店の中にいっぱいです。
本物のMacが飾ってあったり、Macのパッケージを持つ人がいたり、リアルに作られていました。さすがにMacのパッケージのロゴはリンゴでしたが。
そうなると、気になるのが読み替えのコンセプトです。
本来は神殿であるはずの舞台設定がデパートになっているのは、現代資本主義の殿堂が、売買の殿堂であるデパートという設定なのです。
ヘブライ人は、「人びと」と訳されていて、特定の民族ではなく、人間一般というふうに読み替えられています。
バビロニアは、アナーキストとされていますが、私にはヒッピーのように見えました。
私には、ヘブライ人の読み替えの「人びと」が、現代社会における支配階級、つまり高所得者であったり政治家であったり資本家であったり、という階級であり、それへの敵対勢力としてバビロニアの読み替えであるアナーキスト、あるいは私はヒッピーだと思うのですが、そうした勢力の対立の構図として読みました。ウォール街占拠事件やロンドン暴動が裏に読めるのではないか、と。
エホバ神は「自然」に置き換えられています。日本人にとって、絶対神という概念は二重の意味でなかなか実感しがたいものです。ひとつは、日本人にとって特定の宗教への肩入れが少ないという意味において。あるいは、宗教心を持っていたとしても、一神教ではなく多神教であるという意味において。
その中でも「自然」の猛威については、日本人にとって身近であろう、というのがその考えのようです。
それが表現されていたのは、舞台中央の床板が外された中に土床が作ってあって、そこに植物が植えられているという点と、最後に雨が降る場面でした。
ただ、「自然」の威力を舞台上で表現するのは難しいと思いました。本来エホバ神は怒る神です。私は、最後に津波ですべてが流されるぐらいの強烈な演出ではないか、とも予想してしまっていて、そこまでやるのは問題だなあ、と心配していたので、少し肩透かしを食らった気分でした。
明日に続きます。というか、思った以上に難仕事です。。

2013/2014シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera,ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎

新国立劇場のナブッコ、本日がプルミエですね。私はは6月1日に出動予定です。

で、昨日の続き。期せずしてシリーズになってます。そして、期せずして新国立劇場「ナブッコ」に関連してきましたので表題も変えてみました。多分、このあたりの話は、パンフレットに記載されているでしょうけれど、独自の調査ということで。

ナブッコ「行け、我が想いよ」はどのように迎えられたのか?

私は、ナブッコの「行け、我が想いよ」が愛国的に使われたという話を、中公新書の「物語イタリアの歴史」で読みました。この中ではこの合唱が如何に熱狂的に迎えられたのか、が記されています。

「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」と合唱を始めると、客席の興奮は最高潮に達した。……
聴衆は熱狂してヴェルディを讃えた。「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」のメロディは、街中いたるところで歌われるようになった。……ミラノの床屋はアコーデオンでこのメロディを鳴らして客を集め、しばしば警官が出動して群衆を追い散らす騒ぎとなった。

藤沢道郎「物語 イタリアの歴史」第11版 中公新書、1998年、308ページ
確かに、アンコールとは一言も書いていないですが、この曲が熱狂をもって迎えられたと理解していました。
ところが、加藤浩子氏「ヴェルディ」においてはそのような熱狂はなかったのではないか、とされています。

だが、1987年に出版された《ナブッコ》の批判校訂版を編纂したロジャー・パーカーは、資料研究の結果、初演でアンコールされたのは<行け、わが想いよ>ではなく、最後の讃歌<偉大なるエホバ>だったことをつきとめた。また、ミラノに続いて行われたイタリア各都市での上演で、<行け、わが想いよ>が熱狂的に迎えられた記録はないという。

加藤浩子「ヴェルディ」平凡社新書、2013年、62ページ

<行け、わが想いよ>が愛されるようになったのも、統一後のことのようだ。というのも、1948年に起こった「ミラノの5日間」の放棄の後、スカラ座はしばらく閉鎖され、オペラは上演されなくなるが、その間にリコルディが数多く出版した『愛国賛歌』の類の中に、<行け、わが想いよ>は見当たらないのである。<行け、わが想いよ>が、「合唱の父」と称されることもあるヴェルディによる「第二の国家」なら、この時に何度も出版されて当然だろう。だが、その時人気を集めていたのは、ピエトロ・コルナーリなる作曲家に因る《イタリア人の歌》という作品だった。

加藤浩子「ヴェルディ」平凡社新書、2013年、64ページ
「行け、わが想いよ」が、アンコールされた事実も熱狂的に迎えられた記録もないかもしれない、ということになるわけですが、真実はどうなのか。
ビルギット・パウルスの説は、おそらくこちらの本になるはずです。あたってみたいところですが、ドイツ語ですか。少しハードル高いですね。。東京芸大の図書館にあるようですが、そこに入る術を知りません。町の図書館で取り寄せられないか、聴いて見ることにしましょう。

今後の予定

明日は、ヴェルディに政治的意図は本当になかったのか、を書いてみようと思います。これも記述がわかれていますので。
私の手元にある文献3冊が喧嘩をしていて、何が本当なのかわからないですね。「世界が非論理であり、真実というものは途端に消滅するもので、あるのは作為的な事実や歴史のみである」という、最近の私の考えと一致する状況でしょう。
面白いっすね。こういう謎解き。