2012/2013シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera,トスカを聴こう!

秋晴れの一日。

もうこんな学生のような生活はイヤだ!

ワーカーホリックかもしれない。

ウィキペディアより引用。

日本ではかつて、特に男性においては「滅私奉公」等の言葉に代表されるように、己の身を顧みず職業に邁進することこそが良いとする規範が存在し、己よりも職を優先することが、社会的に求められた。この中では、有給休暇を取ることすら罪悪のようにみなされた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%95%E4%BA%8B%E4%B8%AD%E6%AF%92

そうそう。その通り。

アンダーラインおよび太字化は私によるものです。

考えを変えないとなあ。

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さて、今日から3回は、それぞれの幕のあらすじを書いてみました。そこから想起される歴史的事実に思い至ると、あまりにも面白くて気狂いしそうなんですが、あらすじ編では自重して、その後に撮っておくことにします。

では、どうぞ。

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ここで、簡単に「トスカ」のあらすじを、ここではオペラ版をもとに、簡単におさらいしておこう。

登場人物

主な登場人物はこの5人だ。

  • 画家である騎士カヴァラドッシ
  • ローマ随一の歌姫トスカ
  • ローマの新任警視総監スカルピア
  • 政治犯で自由主義者であるアンジェロッティ
  • スカルピアの部下のスポレッタ

ちなみにこの5人のうち4人が劇中で死を遂げる。

 

第一幕

まずは第一幕から。

舞台その背景

1800年6月17日午前のイタリアローマの聖アンレア・デッラ・ヴァッレ教会が舞台。

ナポレオンの侵攻により、ローマは旧来の教皇領からローマ共和国となるが、数年でナポリ王国の勢力下に入ったころのこと。

画家カラヴァドッシは、聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会[i]で「マグラダのマリア」を描く仕事をしている。

アンジェロッティ

そこに友人で反体制派政治犯として収監されていたはずのアンジェロッティが逃げ込んでくる。

アンジェロッティは転覆したローマ共和国の要職にあって、現在は政治犯として拘留されていたのだが、脱獄を果たして教会へ逃げ込んできたというわけだ。

image(写真は聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会の内部。ここでカヴァラドッシがマグダダのマリアを描いていたのだ)

自由主義者でもあるカラヴァドッシは、アンジェロッティをかばい、逃がしてやる。

トスカ登場

そこにカヴァラドッシの恋人のトスカが現れる。トスカはローマ中の寵愛を受ける歌手だ。

だが、トスカは、カヴァラドッシの様子がおかしいことに気づく。

それがアンジェロッティを逃したという理由であることを知らずに。

てっきり、別の女とカヴァラドッシが逢っているのではないか、という嫉妬心を覚えたというだけなのだ。

そう言えば、カヴァラドッシが描いている「マグダラのマリア」の目の色はトスカと違い碧眼だ。

スカルピア見参

そこに現れ様子をうかがっていたのが、警視総監スカルピアだ。

スカルピアはアンジェロッティを追って聖・アンドエレ・デッラ・ヴァッレ教会現れたのだ。

トスカの姿を見たスカルピアは、トスカの嫉妬心を煽り、アンジェロッティの逃亡先を突き止めようと考える。

と同時に、トスカを我がものにせんと企むのだった。

テ・デウム

教会では、迫り来るナポレオン軍が敗れたという知らせが入る。王党派は喜び、テ・デウム[ii]を捧げる。


[i] http://en.wikipedia.org/wiki/Sant%27Andrea_della_Valle

[ii] テ・デウムはカトリック教会の聖歌の一つで、「われら神であるあなたを讃えん Te deum laudamus」で始まる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A6%E3%83%A0

 

次回は「「トスカ」とはどのような物語なのか。第二幕から」です。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日にて。

チケットぴあ

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雨の日曜日で、いろいろ捗りました。

今日は第3回で、トスカ成立におけるヴェルディのちょっとしたエピソードです。で、このエピソードがプッチーニにやる気を与えたらしいので無視できないのですね。

ではどうぞ。

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「トスカ」の原作となったのは、劇作家であるヴィクトリアン・サルドゥによる戯曲「ラ・トスカ」である。

「ラ・トスカ」は1887年でのフランスにおける初演以来、圧倒的な成功を勝ち得ていたのだった。これは、あのサラ・ベルナールが主演を演じていたというところにもあるけれど。

この戯曲をオペラ化するに当たって、台本を担当したのはルイージ・イッリカである。イッリカは、プッチーニの出世作「マノン・レスコー」をはじめ、「ラ・ボエーム」、「トスカ」、「蝶々夫人」の台本を手がけた。また、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」も手がけている。(写真はルイージ・イッリカ)

image

イッリカは台本への脚色をサルドゥと相談するためパリへ向かう。そのとき、パリには「オテロ」のパリ初演を準備するために当時81歳だったヴェルディが滞在していたのだった。ヴェルディはサルドゥと親しかったため、イッリカとサルドゥの会談に同席したのだった。

イッリカは、その場で「トスカ」の台本を朗読したのだが、第三幕のカヴァラドッシの辞世の歌に深く感銘を受けたのだった。

《私の愛は永久に消え、時は去り、私は絶望して死ぬ。今ほど人生をいとおしんだことはない》

ヴェルディは、年老いた自らに重ね合わせたに違いなかった。そして、もし自分がもうすこし若ければ、「トスカ」をオペラ化していただろう、と語ったのだった。

「オテロ」、「マクベス」など、シェークスピアの戯曲をオペラ化したヴェルディをして、そこまで感動させたこの「トスカ」とはどのような物語なのか?

次回は「「トスカ」とはどのような物語なのか?」です。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日にて。

チケットぴあ

2012/2013シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera,トスカを聴こう!

はじめに

「トスカ」は、プッチーニの代表作の一つです。

描かれるのは、革命、理想、愛、典礼、情欲、秘密警察、拷問、刺殺、銃殺、希望そして絶望。まさに、スペクタクルと人間ドラマに彩られたオペラ中のオペラです。

音楽的にも魅力に満ちあふれています。キリスト教典礼の目眩く絢爛豪華なオーケストレーション。涙無くしては聴けない名アリアの数々。そして、情欲と葛藤がせめぎ合う緊張に満ちた音楽群。これは興奮と魅力に満ちあふれた音楽なのです。

この「トスカ」を10倍楽しむために、シリーズ「新国立劇場「トスカ」を聴こう」を連載することにしました。

もちろん最後は初台の新国立劇場オペラパレスへ行きましょう。息を吐かせぬ感動が待っているはずです。

<次回の予定>

「トスカ」成立の背景は?

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日にて。

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2012/2013シーズン,Benjamin Britten,NNTT:新国立劇場,Opera

はじめに

音楽評論家の白石美雪さんの評が、10月16日朝日新聞夕刊に載りました。そのあたりのこと、を少し書いてみたい思います。

 

IMG_1361.JPG

 

この中で、今回のパフォーマンスを「個をつぶす集団を鋭く表現」と評価しています。合唱団の動きの質の大きさなども含めて。

 

断定無罪なピーター・グライムズ

逆に、ピーター・グライムズに不気味さがない、という点が指摘されていました。

本来であれば、殺人を犯したのではないか、という不気味さがもっとあってしかるべきではないか、ということ。

でないと、エレンがピーターを見限って「私たちは失敗したのよ We’ve failed」という理由が見あたらないというのです。

 

うーん、なるほど。

 

確かに、今回のプロダクションでは、ピーター・グライムズは絶対に徒弟を殺していない、と思いました。

だから、グライムズは、全くの潔白で、集団に圧迫される被害者としての側面しか持っていなかったと、言えます。

 

もし、そうでなく、グライムズが殺人を犯した可能性が示唆されているような演出であれば、物語としてもっと複雑で玄妙なものになっていた可能性もありました。

解釈多義性

実は、日曜日に、カミさんをつれてもう一度観に行ったのですが、カミさんもやはりそう言う意見だったようです。

カミさん曰く「解釈多義性がもっとあればね」とのこと。

カミさんは音楽ではなく物語と演出に集中していたらしく、なおさらそのように思ったのかもしれません。

 

難しいなあ。

 

解釈多義性はおっしゃるとおりかも。

 

もっとも、私は、理由はなくてもいいと思っています。世界が非論理であるならば、物語に論理がなくても許されるというのが私の意見です。

昔、小説教室についてのテレビを観たことがあったのですが、物語を作らせながらもそこに論理性が出現すると鋭い批判が飛び交ったのを思い出しました。

もっとも、今回のプロダクションはそこまで論理が破綻していたかというとそこまでではなかったとも思いますが。。

結論めいたもの

その場その場の体験、物語と視覚効果とそれを支える音楽の一瞬の煌めきが大事なんだろうなあ、などと。

物語と演出だけの舞台ならばそうかもしれませんが、音楽が加わると、全く様相がかわるのだなあ、ということだと思います。デュオニソス的とされた所以もここにあるのかもしれません。

それからもう一つ。

視覚面に加えて聴覚面もあることで、あんなにも強烈な体験が生まれたのだなあ、と思います。

シュトラウスの「カプリッチョ」ではないですが、音楽と詩と演出は切り離すことの出来ないものなのでしょう。って、紋切り型のまとめですが、まあそれがいったんは妥当な結論だと思います。

 

それではまた。フォースとともにあらんことを。

2012/2013シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera

強烈だった「ピーター・グライムス」の月が終わりました。凄いオペラでした。

 

次は「トスカ」ですね。

 

プッチーニの大傑作の一つです。私は新国立劇場でこれまで二回みたことがあります。

二回目にみたのは2009年。このとき、音楽もさることながら、演劇的にずいぶん感動した覚えがあります。

このパフォーマンスが東京で、なんて恵まれている。新国立劇場「トスカ」。

 

こちらは、カプリッチョによせて書いた一文。第二幕最後の緊迫の場面に感動した記憶です。

音楽か、言葉か、演出か?

 

一回目は2003年のようです。ずいぶん生意気です。

http://shuk.s178.coreserver.jp/MS/2003/11/09232044.html

 

今回のトスカはノルマ・ファンティーニですね。アンドレア・シェニエで聴いた以来です。新国立劇場には何回も来ておられますが、私は一度しか聴いたことがありません。

無事に来てくださるといいのですが。

 

暫く続きます。トスカシリーズ。

ピーター・グライムスの振り返りも引き続き予定。このまま考えるのをやめるのは私的にもったいないので。

 

では。フォースとともにあらんことを。

Benjamin Britten,Opera

このブログ、書きながらピーター・グライムス書いていたら、電車を降り損ねてしまい、隣駅で何とか離脱したんですが、上り電車は終電で、タクシーで続きを書いているという不条理。ああ無情。

第一幕最後のフーガのところで、なんだかうるうるしてしまって、いやー、ブリテンってスゲー、と思って、ふとみてみると隣駅でして、あわてて反対ホームをみると真っ暗で、ヤバイ、上り電車が終わってしまった。。

というわけで、タクシーで優雅に帰宅しました(苦笑)。

今週もずっと聞き直しているんですが、かっこよすぎて、仕方がないですね。やっぱり実演に触れると理解が進みますし、発見することがたくさんあります。

第一幕への間奏曲はこんな感じですかね。

 

波が砂浜を打つ音、海岸に吹き寄せる風の音。迫り来る鉛色の雲の柱に、時折蛇のようにくねる稲妻がまとわりついているのが見える。

村人達は集会所に集まっている。暗くよどんだ空気に満たされた部屋。壁に掛けられたランプの光が、隙間から吹き込む風に揺れる度に村人達の影が床や天井に蠢いている。みんな一方を向いて、一心に歌を歌い続けている。

 

うーん、最初の導入の部分からして面白いです。木管楽器の上昇音は合唱の調性と違うので、人間の論理とは違う自然が集会所を囲んでいるのが分かります。

ブリテンの音楽は、言われているようにやっぱり親しみやすいんですが、もちろん単純であったり簡単なものではないと思います。旋律自体は調性を保っています。この事実を思うに、ベルクが十二音音楽に調性的要素を導入した事例を思い出しました。

拍節は面白くて、ポリリズムや変拍子が面白いです。

続くかもしれません。ではまた明日。

2012/2013シーズン,Benjamin Britten,NNTT:新国立劇場,Opera

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なんだか引っ張りまくっていますが、今日もピーター・グライムスについて。

ピーター・グライムスの子供時代

先日から、ピータ・グライムスはどういう境涯だったんでしょう、などと考えることしきりでした。

ピーター・グライムス、きっと親に暴行されながら育ったんだろうなあ。

自分はそうされたくないんだけれど、そうしか出来ないんでしょうね。育てられたようにしか育てられないのが普通です。

で、そうした自分が本当に許せない状態。自己分裂しているわけです。

ピーター・グライムスの夢

そうしたことをすべて解決するのが、漁をして金を稼ぎ、村人を見返す、という、ほとんど無理な夢である、というのもあまりにリアルで怖いです。

こういう人って結構居るんじゃないかな。

今居るところで、がんばって見返してやる、みたいな。

でも、体制的あるいはシステム的に無理なんだけど、みたいな。パースペクティブを変えなければ実現しないのだが、パースペクティブを変えられない、あるいは変えられるという視点を持っていない、という状態なんでしょう。

家への憧憬

あとは、「家」に対する憧憬が端々でみられました。

おそらくは不幸な子供時代で両親から十分に愛されることはなかったはず。だから、自分の本当の両親が別のところにいるはずで、その「家」を常に追い求めているはずです。決して辿り着くことの出来ない「家」を探し求めるわけです。

女性の最も偉大なことは、女性の存在は「家」となることです。ピーター・グライムスにとっては、エレンとの結婚が大きな目標ですが、それは「家」を探し求める過程にあるはずです。

たどり着けない目的地

しかし、きっと、エレンと結婚しても、破局は免れないでしょう。ピーターの理想は高すぎる。現実を受容することが出来ないほど。

そうした理想を徒弟にも求めるから、乱暴するわけですね。。

必死に生きているんですが、生きれば生きるほど空回りして、周りから浮き上がっていくような感じです。

 

結局、今週末も仕事になりました。また行きたいのですが、無理ですかね。。忙しすぎですが、「海猿」の対策本部のような仕事状況になっています。

 

それでは、フォースとともにあらんことを。

2012/2013シーズン,Benjamin Britten,NNTT:新国立劇場,Opera

明日も新国立劇場で公演がありますね。

14時からですので、会社勤めの方には辛いですが、かえってすいているかもしれません。

 

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今日も、新国立劇場「ピーター・グライムス」の凄かった演出の一部を書き留めておきたいと思います。

 

第三幕の最終部分。

ここで、エレンがみせる仕草が凄かった、という話。

 

村人達が教会の座席のように並んだ椅子に座っていて、全員が紙を顔の前に掲げて、前を向いて歌を歌っているわけです。

これが先日書いた通り、「群生相」のもと行動しているという証です。

ピーター・グライムスの船が沈んでいく知らせを、皆が知らん振りをしています。

 

心を痛めているのはエレンだけ。

 

でも、村人達の白い目に耐えかねるようにエレンも最後には座席について、他の村人と同じく紙で顔の前に掲げるところで、ちょうど幕が下りるという演出でした。

 

エレンも、最後にはやはり、ピーターを死に追いやった村人達の中に戻っていかなければならなかったわけです。生きるために。

エレンの心の中が見通せるような気がして、心臓をわしづかみされてしまいました。

悔しさとか無力感とか虚しさとか、そういう気分が入り交じった複雑な心境なんだろうなあ。

あるいは、エレンもピーターを愛していたはずで、大きな喪失感があったはず。それからピーターを裏切っているという背徳の感情もあったのでしょう。

 

あれは、我々社会に生きる人間が、生きるためにやっていることなんだよなあ、なんて思ったりしました。

一番観ていて辛くて、印象深い場面でした。

Richard Wagner

いよいよ今晩放送です。

http://www.nhk.or.jp/bs/premium/

 

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<追伸>

ついでに、これはBILD誌の画像。メルケル首相は、4年前と同じドレスでバロイトに来たらしいです。カミさんに聴いていたんですが、たまたま画像を見つけましたのでご紹介。

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Opera,Richard Wagner

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