今日も郷土のために頑張りました。
トスカに関連して、周辺事情をいろいろと調査しています。
ソンツォーニョ社について調べています。19世紀のイタリアの出版社で、ソンツォーニョオペラコンテストを主催していました。プッチーニはここに「妖精」を出品しましたが、残念ながら落選します。そのあとが面白いのです。
今日は遅いので取り急ぎ。明日に続きます。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生

今日も郷土のために頑張りました。
トスカに関連して、周辺事情をいろいろと調査しています。
ソンツォーニョ社について調べています。19世紀のイタリアの出版社で、ソンツォーニョオペラコンテストを主催していました。プッチーニはここに「妖精」を出品しましたが、残念ながら落選します。そのあとが面白いのです。
今日は遅いので取り急ぎ。明日に続きます。
先日から連載しているトスカの件ですが、その後も引き続き調査を続けています。その中でわかったことをお伝えします。
トスカ成立の話の中でフランケッティという作曲家が登場しました。もともとトスカの作曲権を持っていたのですが、ジュリオ・リコルディにしてやられて、プッチーニに作曲権を渡してしまうという話でした。
その際に、フランケッティはプッチーニの学友だったという話を書いたと思います。このエピソードは、プッチーニの伝記として有名なモスコ・カーナーの著作に登場します。私はそこから引用しました。
ところが、南條年章氏の「プッチーニ」(音楽之友社)おいては、それが誤解ではないか、という説が紹介されていました。
曰く、フランケッティは、プッチーニと同じマージという先生に習っただけなのだそうです。いわば兄弟弟子です。ですが、一緒に学んだことはなかったとのこと。プッチーニはルッカで、フランケッティはヴェネツィアで、マージに師事したということになります。
歴史の中に埋れた真実はその手がかりをつかむのは難しいです。
(イタリア語がわかれば良いんですけどね。あと10年すれば、翻訳エンジンの性能が上がるでしょうから、文献程度なら辞書がなくてもわかる日がくるでしょう)
このシリーズ、来年元旦には、形にまとめてご披露できるよう頑張ります。
トスカ、まだまだ続きます。
そろそろ「理髪師」の予習もしないと行けないのですが。
今日はデイヴィス盤を紹介します。
デイヴィスの指揮はずいぶん好きなんです。「ピーター・グライムス」や「魔笛」に親しんでいました。
デイヴィスの指揮もきりっと引き締まっていて、緊張感が素晴らしいです。テンポコントロールがきまっています。
スカルピアのイングヴァール・ヴィクセルがエラクカッコイイですよ。スウェーデン生まれのバリトンで、昨年亡くなられたようです。鋭利で冷たい刃物のようなスカルピアです。
カレーラスも雄々しく雄叫びをあげます。第二幕でナポレオン軍の勝利に歓喜して絶叫するところは、さすがカレーラス!、と思います。
トスカを歌うモンセラート・カバリエがも豊潤でドラマティックです。
1976年にコヴェントガーデンで録音。
(もう36年も前ですか。。)
最近夜更かし気味です。今日もそろそろ眠ります。
では。
美貌のソプラノ、モイツァ・エルトマンの「ルル」、今晩のプレミアムシアターで放送です。
http://www.nhk.or.jp/bs/premium/
以下予告編です。
ルルって、ほんと、怖いオペラだ。。
でも、惹かれてしまう。。
この、ドイツ的センスが素敵すぎる。
観る時間あるかな。。
初台にてトスカを見てきました。
今回も前列方面でしたので、いつもになく十分に堪能しました。ありがたいことです。
3年前の「トスカ」をみた後には「このパフォーマンスが東京で、なんて恵まれている。」という記事や、「音楽か、言葉か、演出か?」なんていう記事を書いています。
今回も、このパフォーマンスを東京でみられる幸運に感謝です。
トスカを歌ったノルマ・ファンティーニ、今回も聞かせてくれました。
というか、迫真過ぎて、見ているのがつら過ぎするぐらい。
なんだか、もう、トスカの危機的状況が手に取るように分かって、あらすじは理解しているんですが、ハラハラしました。
表情も硬軟織り交ぜているのよく分かりました。巧いです。
第一幕、カヴァラドッシが浮気をしているのではないかと疑うシーン、笑ったり怒ったり織り交ぜてカヴァラドッシを責めるあたりは、本当に役者だなあ、と思います。
パワーもものすごいです。座席が前の方だったので直接声が響いてきました。いままで味わえなかった感動です。
ステージの豪華絢爛さは何度見ても素晴らしいです。座席的にも舞台がよく見える場所でしたので、聖アンドレア・デラ・ヴァッレ教会に本当に足を踏み入れた気がします。
ちょっとイタリアに来た気分で、幸福な気分です。
今回は、歴史的経緯もちゃんと確認していきましたので、その点でも楽しめました。
第一幕最後のテ・デウムのシーンに登場した若い王妃が、ナポリ王国女王のマリア、カロリーナですね。ずいぶん若いですけれど。
どうやら教皇も登場していたようです。きっとピウス七世です。
スイス人衛兵もカッコよかったです。
しかしなあ、これから死ぬ運命にある幸福な恋人達の会話を聞くと胸が痛みます。
カヴァラドッッシも、いつ逮捕されても分からない状況にあったのに、トスカと一緒に居たいが為にローマに滞在していたわけですから。
政治を甘く見てはいけないです。お節介ですけれど、
第三幕、トスカとカヴァラドッシが感極まって、歌と絵で芸術を極めよう!みたいなことを言うんですが、これって音楽と演出のことを言っているんだろうなあ、と思ってみたり。
トスカとカヴァラドッシが巧く逃げたら、きっとカヴァラドッシが演出家になって、トスカが出演のオペラプロダクションを作ったりして。。
結局、うまくいかなさそうな二人です。
スカルピアがもし生きていたら、ナポレオンが再びローマを攻略したときに失脚するんでしょうが、巧いことやって、フランスに取り入ったりするんでしょうね。
今回も本当に楽しめました。ありがとうございます。
それではまた。フォースとともにあらんことを。
※ヌーヴォー飲んで酔いながら書いてます。。
本日、トスカの初日ですね。
どんな感じでしたでしょうか。
私は情報シャットダウンしてこの一週間を乗り切る予定です。
新国立劇場の来シーズのラインナップも一部発表されましたね。
「リゴレット」と「死の都」です。楽しみであります。
さて、第13回はスカルピアの簡単な前歴。そうか、シチリア男だったんですね。
これで、だいたい「トスカ」の周辺知識を整理できました。
次回からはディスコグラフィーに行く予定です。
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スカルピアはシチリア出身で、名をヴィッテリオと言う。
スカルピアがローマへやってきたのは、「トスカ」が舞台とする1800年6月17日の一週間ほど前であった。革命思想に共鳴する政治犯を取り締まるために警視総監として着任したのだ。
これは、ローマを占領していたのがナポリ王国であったからだ。
ナポリとシチリアは同君連合だった。当時の国王のフェルディナントは、ナポリ王としてはフェルディナント四世であり、シチリア王としてはフェルディナント三世と呼ばれていた。
ちなみに、両王国はナポレオン戦争後、両シチリア王国として合併するに至る。
シチリアはマフィアの勢力が強いことで有名であるが、当時も山賊の本場として有名だった。スカルピアのイメージ形成の一つの要因となるだろう。
「トスカ」の幕が開けた段階で、実はスカルピアは窮地に陥っているのだ。
これは、警視総監としてローマに赴任してすぐにアンジェロッティの脱獄を許してしまったからだ。
ナポリ王妃マリア・カルローネはスカルピアを強く叱責していたのだ。
アンジェロッティを捕まえることが出来なければ、お前の首が危ういぞ、と。
スカルピアは意地でもアンジェロッティを逮捕する必要があったというわけだ。
※ 新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。
しかしずいぶん寒くなりました。
明日は赤坂に出撃予定です。仕事が無事に終わればですが。
第12回はカヴァラドッシの前歴です。そうか、ダヴィッドに習ったのですね。さすが。
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マリオ・カヴァラドッシは、画家なのだが、単なる画家ではない。ローマ貴族の末裔で自由主義と革命思想に親しんだ画家だ。
父親はパリでディドロやはりダランベールの結社に出入りしており、ヴォルテールとも親交を結んでいた自由主義者であった。
カヴァラドッシは、革命時代のパリで育ち、絵はダヴィッドのもとで学んだという設定になっている。
ダヴィッドはフランス革命期の大画家である。革命期にはジャコバン党員として政治にも関わり、国民公会の議長を務めていたことがある人で、その後はナポレオンの御用画家として大活躍する。
以下はダヴィッドの手になる「アルプスを超えるナポレオン」。

カヴァラドッシがダヴィッドの弟子であるのならば、自ずと自由主義者になるだろう。
だから聖アンドレア・デラ・ヴァッレ聖堂の壁画を書いて、信心深いところを見せているのだ。そうして当局の目を欺こうという魂胆なのである。
なぜそんな面倒なことをしているのか?
原因はトスカにある、
カヴァラドッシがトスカと知り合ったのはローマのアルジェンティーナ劇場でのトスカの歌を聴いたからだ。
それ以来ローマを離れることができないでいる。そうでなければ王党派の勢力下にあるローマに滞在する訳がない。
結局、恋に身を滅ぼす、という言葉を当てはめることができるだろう。
しかし急に寒くなりました。
普通は、冬に備えて体格が良くなり始める季節ですが、家飲みと間食を絶ってからは、少しずつスリム化している気がします。
嬉しい限り。
きっかけは、先日の試験受験票に貼った自分の顔写真見た時のショックが忘れられないからです。
さて、今日で11回目になりました。トスカの半生はこんな感じでした、の巻です。
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フローリア・トスカは、ヴェローナ近くの牧場で羊番をしていた無骨が少女であったが、ベネディクト会の修道女が修道院へ引き取り、修道院で育てられた。
修道院では天才的な音楽的才能を示し、16歳で歌手となったのだった。作曲家であるドメニコ・チマローザが感嘆し、オペラ歌手にしようとかんがえたのだが、修道女たちはこれを拒んだのだった。
それはそうだ。修道女が歌手になるなんて、今で言えば、品行方正なお嬢様学校の生徒が、卒業後パンクロッカー(古い?)になるのと同じぐらいだろう。
チマローザと修道女たちの争いは、教皇の調停にゆだねられることになったのだが、このときトスカの歌声を聞いた教皇が、芸術の道に進ませるべきであるとして、決着がつき、トスカはオペラ歌手としてデビューすることになったのだった。
(写真がドメニコ・チマローザ)
だが、トスカの信心深さはこの修道院育ちという出自に由来している。
つづく
次回はカヴァラドッシの前歴をさぐります。
※ 新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。
「トスカ」の舞台となった1800年6月の時点で、ローマはナポリ王国の勢力下にあった。
当時のナポリ王国はフェルディナント四世の治世下にあった。が、フェルディナント四世は狩りやスポーツに明け暮れた男で国政には興味をしめさなかった。
代わりに国政を切り盛りしていたのは王妃であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナは、オーストリア女帝マリア・テレジアの娘であり、マリー・アントワネットの姉に当たる人物である。
母親のマリア・テレジアがオーストリア帝国の政治を動かしたのと同じように、ナポリ王国を夫フェルディナントに代わって統治した。これは婚姻に際して「息子が生まれたら摂政になる」という特約がついていたからである。
さて、この王妃は「トスカ」のなかにも登場している。
第二幕に、スカルピアに追い詰められたトスカが、王妃に嘆願しようとするシーンがあるが、このときの王妃がマリア・カローリナである。
第二幕では、ファルネーゼ宮殿のスカルピアの執務室が舞台となるが、前半部分でトスカの歌声が響いてくるシーンがある。これは、マリア・カロリーナが出席している戦勝パーティーでトスカが歌を披露しているというシーンになっている。
その後、実はマレンゴの戦いで、ナポレオンが勝利し、オーストリア軍が敗れたという報がとどくと、マリア・カロリーナは卒倒してしまう、という設定になっている。
つづく
次回は「トスカの前歴はいかに?」です。
(追記:カヴァラドッシより先にトスカの前歴を紹介することにしました)
※ 新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。

秋晴れの日曜日ですが、すっかり寒くなりましたが、近所のレストランでラズベリーアイスクリームを食べました。近所にもおいしい店があってうれしい限りです。
歴史背景が長引いてしまいました。今日でローマ共和国の終焉の回。文献がドイツ語しかなく、難儀しました。決定稿は後日出そうと思います。
次は、トスカに出てくる「王妃」あるいは「女王」とは誰か、という話を書く予定です。その後、カヴァラドッシやトスカの来歴を書く予定。トスカは若い頃は修道院に入っていたそうですよ。
ではどうぞ。
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土台の緩い建物は少しの揺れで崩れ落ちる。
1799年6月17日から19日にかけてのトレビアの戦いで、ロシア軍のスヴォーロフ将軍がマクドナルド将軍[i]率いるフランス軍を撃破した。
これによりナポリを占領していたフランス軍はナポリからイタリア北部へと撤退する。ナポリ軍は1799年9月30日にそのままローマを占領し、ローマ共和国の旗を降ろすことになったのだ。(画像がローマ共和国の旗)
これに伴い、ローマ共和国の指導層は反体制となり、収監されていくことになる。
では、「トスカ」の劇中で政治犯として登場するアンジェロッティはどのような身分だったのだろうか。
ローマ共和国は名目上5人の「コンスル」つまり執政官によって統治されていた。もちろん実際にはこのうちの一人がアンジェロッティだった、という設定である。
「コンスル」という言葉は、元々は古代ローマにおける官位の名称で、共和制の最高位に当たるもので、元首という意味合いを持つ。ナポレオンがブリューメル18日クーデターで第一統領となるが、この官位名も「コンスル」であった。
アンジェロッティは、フランスの傀儡政権とはいえ、ローマ共和国内で高い地位にあったのだ。アンジェロッティの略歴についてはまた触れることにしよう。
さて、ローマのその後である。1800年7月3日にローマ教皇ピウス七世がローマに戻る。それで歴史は終わらない。
マレンゴの戦いで勝利したナポレオンは、再びイタリアを席巻し、イタリアは再びナポレオンの勢力下に入る。ピウス七世はナポレオンと一時期和解するが、関係が悪化した1806年には再びナポレオンにその多くを占領されてしまう。教皇領が完全に復活するのは1814年のウィーン会議においてであった。
つづく
次回は「トスカはマリー・アントワネットの姉にすがろうとした」です。
[i] マクドナルド将軍とは、後の元帥ジャック=エティエンヌ=ジョゼフ=アレクサンドル・マクドナルドである。かれは、スコットランドからの亡命者の息子であるため、このような姓なのである。
※ 新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。