ツァラトゥストラはかく語りき、ばかり聞いた一日でした。午後の都心への外出を利用して、ブーレーズ、ブロムシュテット、ハイティンク、カラヤン、ケンペを立て続けに。
ハイティンクの重量感のある演奏、意外に重々しいブーレーズ、煌めくブロムシュテット、耽美的カラヤン、ケンペの構築美。
録音の良さでいえば、ブロムシュテット、ハイティンク、カラヤンかなあ。ケンペの録音は少し古いが、十分にドレスデンサウンドです。
さて、外出すると、太陽の光を浴びられるのが嬉しい。空気は透き通り、少し冷え冷えとしているところが、なんだかヨーロッパの空気に似ていてこれもまた嬉しい。清々しいです。
ヨーロッパで思い出した。
ヨーロッパはギリシアにしてもアイルランドにしても大変です。その点、ドイツ人は、無駄遣いしないし、質素な生活をしているんだそうです。もっとも、10年以上前の話ですので、いまは変わっているかもしれませんけれど。
それで、カミさん曰く、日本もこれからかつてのドイツのように質素になって行くんじゃないか、とのこと。成熟した社会はおのずとそうなるんじゃない、とのこと。同感だなあ。
このデフレスパイラルは普通じゃない。誰かが儲けているんだろうけれど、誰なのか見当もつかない。多分国外にいるんだろうなあ、儲けている人達は。
日本の戦後はバブルだったんだろう。確かに何かがおかしい。大人買い、とか普通じゃないし。まあ、考え方を変えないといけないはず。既得権益なんて幻である。
だが、実のところそう思わされているのかもしれなくて、この諦観を見てほくそ笑んでいる人がいないとは言えないだろう。
でも、資本主義における最大の原理は、まずは欲望。次に競争そして恐怖であるはず。諦観や質素は資本主義の敵なんだが。景気を底上げしたければ欲望の刺激が一番なんだがなあ。こうも社会が縮こまるのはほくそ笑んでいる人達には損なはず。まあ国外でほくそ笑む人にとっては好都合なんだろうけれど。
しかし、質素は意外に清々しいものである。心が洗われる気がする。案外、こういうところに幸福が隠れているのやもしれないなあ、など。
ツァラトゥストラはかく語りき──清々しい。あらゆる意味で。
ジェフリー・テイトのハフナー
東京も寒い。でも台風が来ている。なにかおかしい。
体重が急激に減ったんですが、なんのことはない。おそらくは筋肉がおちたのだと思います。この一ヶ月ほど、土日も消耗していたので、ジムに行けなかったのが敗因。あんなに鍛えたのに残念。レグプレス120キロ、再びできるようになるのはいつかなあ。
相変わらずカラヤンのモーツァルトが面白くて、今日もずっと聴いていました。飽きもせず繰り返し繰り返し。
私は、EMIからでているテイトのモーツァルト交響曲ボックスを持っていて、こちらのハフナー、リンツも大好きです、ハフナーはカラヤンよりも端正でおとなしい。テンポも少し抑えめですが、音量のダイナミズムはテイトのほうが際だっています。さすがに編成が少ないだけあって、カラヤンの音源より音圧は少ないけれど、その分聞きやすいです。
この音源も思い出深いです。辛いときに引きずり出してくれたいろいろな「もの」の一つなのです。ありがとう。
カラヤンの「ドン・ジョヴァンニ」のライナーを見ると、チェンバロは若き日のテイトだったりして、テイトがカラヤンにも使われていたのだ、と認識を新たにしたのを覚えています。テイトは、ブーレーズともリングのプロジェクトで一緒に働いたことがあるはず。
カミさんは夕方にバレエを見に出かけましたが、駅と会場が離れているので、雨合羽を着込んでいきました。私はこれから英語を話しに行って、やっと週末のオフに入ります。今晩もたっぷり眠れますように。
続 カラヤンのプラハが素晴らしい!
今日もカラヤンのモーツァルト。35番と36番を繰り返し。ヴァイオリンのテヌートが際立っていて、優雅さが引き立っています。録音良好。リヴァーヴ感もすばらしい。ベルリン・イエス・キリスト教会にて1970年の録音。
考えてみれば、カラヤン&ベルリンフィル&ベルリン・イエス・キリスト教会の組み合わせは、私の音楽体験の原点です。小さいころ、グラモフォンのカセットテープを飽きるほど聴いておりましたから。だから、この音質に安心してしまうのでしょう。でも、テヌート感は今週初めて感じた気がしていました。
でも? と思い、私のブログを見てみると、同じことを三年半前に感じているらしい。変わらないわたくし。
“https://museum.projectmnh.com/2007/05/22205042.php":https://museum.projectmnh.com/2007/05/22205042.php
でも、三年も経って、同じことを感じていると言うことは、勘違いでもなさそう。
ラヴ、カラヤン。
36番は、ずいぶんと速いぞ。アスリート的。でも、美しい。体操選手の床競技みたいな。
カラヤンのプラハが素晴らしい!
久々にモーツァルトの交響曲を。
38番「プラハ」と39番。
なんだか心が洗われた感じ。ここ数ヶ月味わったことのない静かで確かな心の動きを感じました。私の音楽が聴いている音楽の量は極めて少ないので、焦燥感とともになるべくオペラを聴こう、と管弦楽曲をなるべく聴かないようにしていましたが、今日はたまたまです。
言わずもがなですが、モーツァルトは偉大です。演奏はカラヤン。なんだか弦のフレージングがテヌート気味なのに気づいて、すごく新鮮です。音の切れ目を感じさせず、十分に音価を引き伸ばしている。録音場所のリヴァーヴ感とあいまって、天から落ちてきたかのよう。もちろん、ベルリン・イエス・キリスト教会で、1970年9月の録音。
ヨーロッパの建築でよくあるドーム型天井に描かれたフレスコ画の微細ながらも柔らかいタッチを思い出します。抜けるような淡い水色の空と綿のような雲、それから踊る天使達の姿。
欧州に飛んでいきたいですが、残念ながらかなわぬ夢。欧州文化の偉大さなんだが、後ろに控えている尊大さや残酷さをしばし忘れさせてくれる。美しいものは、あらゆるものを踏みにじって表出しているという過酷な現実を、ほんの少しだけ忘れることができました。
つれづれ──エジプトのヘレナ、など。
私はこの数年間リヒャルト・シュトラウスに惚れ込んでいますが、まだまだ皆様のようにすべてを把握出来ているわけではありません。
まずはオペラ作品だけでもすべて聴いておきたいのですが、まだまだ聴けておりませぬ。
というわけで、先日から「エジプトのヘレナ」を聴いていますが、それはそれは、もうなんともかんとも、すさまじい音楽で、サロメとエレクトラをさらに突き進めたような強烈・強靱な音楽にたじたじです。すごいっすねえ。
今日は、あいにくい帰宅の電車が人身事故騒動に巻き込まれ、いつもより余計に電車に乗っていたのですが、幸いにも座れていましたので、一人の時間でゆっくりと「エジプトのヘレナ」漬けでした。でもカイルベルト盤は録音品質に問題はありますが。
数年前に、二期会が「エジプトのヘレナ」を上演しましたね。見逃したのが悔やまれます。2004年に若杉さん指揮でやったんですねえ。行きたかったです。
シュトラウス合宿と銘打ってしばらくがんばります。ああ、グントラムをiPodにいれんとなあ。
指揮は難しいもの──新国立劇場「フィガロの結婚」その3
指揮者のミヒャエル・ギュットラーは長身のイケメン王子様という感じ。オケが小さいので、ピットの床が高く設定されているからというのもあるのですが、かなり目立って見えました。
ギュットラーは、ドレスデン生まれの若き指揮者ですが、なかなか難しく味のあることをしてくれています。序曲はかなりの高速で、今日は、このテンポでやるのか。なかなかスタイリッシュで、若々しい演奏になりそうだな、と予想していたのですが、そのうちに、すさまじいほどの緩急のメリハリをつけ始めて、一筋縄ではいかないところを見せてくれました。
ともすれば、テンポの処理がすこし激しくて、歌手もオケモうまく追随出来ず、ハーモニーが一瞬崩れる場面もあって、ハラハラしたり。ケルビーノのアリアも、相当テンポ落としていました。ちょっと歌いにくそうな感じ。
実は似たような経験をしたことがあります。実は、2003年にウィーンで「フィガロの結婚」を聴いていますが、そのときの指揮は小澤征爾で、ケルビーノはアンゲリカ・キルヒシュラーガー。あのときも指揮と歌がかみ合わず、ハラハラしたんですが、またも同じ経験をしてしまいました。
あそこはやっぱり難しいのですかね。
やはり、いろいろな指揮を聴くと勉強になります。先日のウルフ・シルマーが素晴らしかっただけになおさら。羨ましいことにまだまだ若い方ですので。がんばってほしいです!
オケは、先日の「アラベラ」を見た直後とあって、編成の小ささが奇異に感じるほどでした。先に触れたとおり、ピットの床はグッとあげられていて、コントラバスのネックがすごく高く感じました。
これで、フィガロの結婚の話は一段落です。次は11月の「アンドレア・シェニエ」。このオペラ、プチ-二的絢爛な音楽で魅了されています。予習がんばらないと。
ハプニング!──新国立劇場「フィガロの結婚」その2
昨日の公演ですごいハプニングを目撃しました。冷や汗。。
ケルビーノがバルコニーから庭に飛び降りて逃げるシーン。
ケルビーノのポケットには、軍隊の辞令が入っていて、飛び降りた先の庭で落としてしまい、庭師に拾われてしまうという設定なのですが、なんと、飛び降りる直前に、舞台に辞令と思われる冊子を落としてしまったのです!
あっ、と思っていたら、スザンナを歌ったエレナ・ゴルシュノヴァがさっと拾って、そのままタンスの中に隠れたんですね。
ところが、あとではしごを伝って登ってくる庭師は、ケルビーノの辞令をなぜかちゃんと持っていて、伯爵に差し出していました。あれは予備ですね。
3月の「神々の黄昏」でも、指環がなくなってしまうハプニングがあったそうですが、あのときも舞台裏では大騒ぎで、なんとか予備の指環で凌いだのだそうです。
今回も、舞台の方は肝を冷やしたと思います。でも、これぞ生の舞台のよさなのでしょう。
あすは、指揮について。あえて時間をおいてます。
新国立劇場「フィガロの結婚」その1
行って参りました。今シーズン第二作目の「フィガロの結婚」
このプロダクションは、2003年がプレミエでした。あのときもやはり芸術監督が交代した時期でした。先々代の芸術監督であるノヴォラツスキー最初のプロダクションと言うことで、アンドレアス・ホモキの演出にウルフ・シルマーの指揮という陣容。スザンナは中嶋彰子さんでしたねえ。2007年にも上演しているようですが、私は7年ぶりでした。
2003年の「フィガロの結婚」で忘れられないのが、ケルビーノを歌ったエレナ・ツィトコーワでした。度肝を抜かれましたよ、あのときは。深みのあるメゾで、グッと来まして、この方はすごい! と直観しました。その後、新国には「コジ」(これは聴いていません)、「ばらの騎士」でオクタヴィアン、「ラインの黄金」&「ワルキューレ」でフリッカ、と何度かお目にかかりましたが、やはり2007年のオクタヴィアンは、忘れようにも忘れられません。
それで、今回のケルビーノは、ミヒャエラ・ゼーリンガー。今回も度肝を抜かれましたよ。この方はすごい。ツィトコーワと同じく深い色調のメゾ。文字通りしびれました。演技も巧いし、カッコイイし、言うことないです。案の定、レパートリーはズボン役のオクタヴィアン、作曲家(ナクソス島のアリアドネ)、オルロフスキーときますから。私はこの方のオクタヴィアンを是非にも聴きたい!
別に私がどうこうというわけではないですが、2003年に有名になる前のガランチャを新国で見て、この方は絶対にあがってくる、と思っていたら、本当にスターになってしまいましたからね。ゼーリンガーさんもそうなると良いなあ。
素晴らしかったのは、伯爵夫人を歌ったミルト・パパタナシュ。ギリシア生まれのソプラノで、お美しいだけではなく、堂々とした演技にふさわしい気品のある見事な歌で感動しました。第二幕冒頭のアリアではもううっとりするばかり。気になったのは、後にも触れますが、すごく微妙なアーティキュレーションかなあ。すごく注意しないと分かりませんでしたが。これには別の原因も絡んでくるはずです。
あとは、フィガロを歌ったアレクサンダー・ヴィノグラードフ。エッジの際だつ艶やかなバリトンでした。さすがヨーロッパ人の持つアドヴァンテージ。体格も立派。かなわないなあ。
明日に続きます。
一番得をしたのはだれ?
アラベラを観たあと、もっとも理不尽さを感じるのは、この喜劇で一番得をしたのがヴァルトナー伯爵であるということ。
おそらくは借財をマンドリカに返済させることができ、カード賭博の資金をも無心し続けるに違いない。
ヴァルトナー伯爵はこれからどうなるんだろう?
マンドリカは森を売って、結婚費用に充当しようとしたけれど、きっとヴァルトナー伯爵の無限大の無心は、半永久的にマンドリカに向けられるでしょう。マンドリカは単なる地主ですから、いつまでも土地を切り売りするわけには行かないのです。いやいや、もしかしたらヴァルトナーはマンドリカの領地をも賭けの対象にしてしまうかもしれない。あんなに請求書が来て、裁判に訴えられようとしているというのに、懲りずにカードにのめりこむのは現代社会においては完全に病気。
なにはともあれ、マンドリカとアラベラの幸せの前提はヴァルトナー伯爵の更正か、あるいは腕前を上げていただくかか、のいずれかにかかっているといえましょう。
っつうか、娘の幸せを壊すんじゃない! ズデンカだって女の子なんだから! ⇒ ヴァルトナー
※ “アラベラ":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%A9_%28%E5%B0%8F%E6%83%91%E6%98%9F%29 っていう小惑星があるらしい。
マッテオはわかりやすい男
アラベラの物語は、スルりと入ってくるようなものではありません。なにか、居心地の悪さを感じます。音楽は完璧に状況を描写していて感動するのですが、状況をよくよく考えると、不思議なことがたくさんありすぎます。
まずはマッテオ。
わかりやすいティピカルな男。
アラベラこのことが大好きなんだが、完全に一方通行で、ズデンカが作った、アラベラの手紙で妄想たくましくしている。これ以上望みがなければ、ガリツィア最前線に出るか、ピストル自殺を企てている。おめでたいロマンチスト。おそらくは、体面を気にする男なんだろうなあ。アラベラも一種のステータスシンボルなはず。
でも、ズデンカが男装しているのを見破れない。ところが、ズデンカが女性だと分かるとやいなや、我が友、我が恋人、我が天使と持ち上げる。結局、アラベラへの恋慕の念なんてたいしたことないのだ。アラベラの姿に似ていて、容易に手に入れられるズデンカにひょいと乗り換えたということなのか。。。
やばい。毒舌過ぎる。
ちなみに、この居心地の悪さ、後ろになにか大切なことが隠されている気がしていて、必死に掘り起こそうとしているのです。がゆえの悪あがき。私は、ホフマンスタールもシュトラウスも尊敬しています。この居心地の悪さこそが、彼らの企みではないかと思うのです。
ちなみに、マッテオが絶望して志願を口走るガリツィアは、今で言うとウクライナの西部地方で、ポーランド分割の際にオーストリアが手に入れた土地で、1860年代にガリツィアでは叛乱が起きていたようです。
“http://en.wikipedia.org/wiki/Galicia_%28Eastern_Europe%29":http://en.wikipedia.org/wiki/Galicia_%28Eastern_Europe%29
次は、この喜劇の中で最も得をした夫婦である、ヴァルトナー夫妻について。