Ludwig van Beethoven

またまたプロムス2010。

“http://www.bbc.co.uk/proms/2010/broadcasts/":http://www.bbc.co.uk/proms/2010/broadcasts/
ヤルヴィ指揮ドイツカンマーフィルによるベートーヴェン交響曲第五番。7月28日の録音。
“http://www.bbc.co.uk/iplayer/console/b00szy7f":http://www.bbc.co.uk/iplayer/console/b00szy7f
いきなり淡泊な入りでびっくりです。拍手が鳴り止まぬ内から運命の動機。しかも、全然伸ばさない。フルトヴェングラーの対極に位置する。同じ曲とは思えません。
小編成なので、サウンドもかなり淡泊。でも、これがオリジナルの運命なんだろうなあ。
第二楽章もなんだかモーツァルトを聴いているかのようなすがすがしさです。最終楽章の絶頂もなんだか凄く心地よいすがすがしさ。運命でこんなにすがすがしくていいのだろうか、という罪悪感さえ感じてしまいます。
でも、拍手は超熱狂的。オペラのカーテンコールより凄い。こんなに淡い演奏なのに。アナウンサーが過剰に興奮するのはプロムス的だけど。Absolutely wonderful play! ってかんじ。日本だとこうはいかない気がします。やっぱりプロムスは夏祭りなんですね。しかも、アンコールまである。交響曲第八番の第二楽章。最近の日本の演奏会ではアンコールにあった試しがないので新鮮でした。
しかし、運命っていいっすね。もうあっしはダメダメ、みたいな第一楽章から、第二楽章で癒され、第三楽章でリハビリと訓練、そして第四楽章で巨大なコーダーの勝利へと続くビルドゥングス・ロマン。つうか、運命があるからゲーテなのか、ゲーテがあるから運命なのか、みたいな。三十代半ばの仕事をバリバリやっているころのベートーヴェン。さすがだわ。
暇さえあればこうやってプロムスの音源聴くことにしよう。持っているCDを繰り返し聞くも何かと思います。

Jean Sibelius


今日もシベリウスです。なんともかんとも、こんな時期(バイロイトシーズン)に、シベリウスが私の頭の中に席巻するとは、想像だにしませんでした。
今日は、もう冒頭部のイメージから交響曲第二番をむさぼるように欲した一日でした。
この曲聞くと、のっけから、私の頭の中にこんな情景が形成されます。
おそらくは深いグレーの湖面をもつ大きな湖。風が少し吹いていて、湖岸に弱い波が打ち寄せる。鳥の鳴き声、小鳥が飛び交い、小動物たちが動き回っている。遠く青い稜線は白い残雪に覆われている。そこに現れたる若者。なにかしら深い哀しみを持っているような感じ。ジークムントかも知れない。
第一楽章はおそらくはソナタ形式で、展開部がかなり大きく曲調が変わります。提示部の牧歌的というか叙情的な表現が、短和音に支えられた切迫感。フーガが登場するので、そうした切迫感や逃亡感が強まります。このあたりの弦楽器の鳴らし方はとても巧い。ベルグルントってすごい。
第二楽章。シベリウスの音楽は、さまざまな断片的な旋律が何枚も何枚も重ねられそれを一枚はがしてみたり、二枚重ねてみたり、ちょっとずらしてみたり、という具合に曲が進行しています。何かひとつの大きなテーマがあって、それを変奏していくというタイプではないように思います。極めて多様な旋律が登場しますので、旋律を覚えたときのうれしさは格別です。
最終楽章は、実に美しく明るい伸びやかな旋律で始まりますので、これでいよいよハッピーエンドか、と思わせるのですが、最後は先日書いたようにDSCHの「レニングラード」ばりの執拗なまでの短和音フレーズの繰り返しで、ああ、もう耐えられません、と悶えたときにようやく、長和音で解決。それから、また最初の旋律に逆戻り。それから、また身もだえ。忙しすぎる。これは、おそらくは民族開放的な意味があるに違いない。
フィンランドの歴史も勉強せんといかんなあ。他の指揮者のシベリウスも聴いていきたい。
さて、近況。やっと一週間が終わりましたが、土日の方が忙しいですねえ。でも、忙しい方が好きみたい。回っている独楽は倒れません。明日も都心に出たり、地元で仕事したり。あと楽しみなのは、地元の夏祭りです。毎年ジャズバンドが出ますので、生演奏を楽しんでおります。今年はこれまでとは違うバンドが出るみたいですので、楽しみ。スタンダードをたくさん聴けそうな予感。

Movie,Opera,Richard Wagner

はじめに

iPodのホイールを回すのですが、何だか忙しくて音楽に没頭することも逃避することも能わない感じです。でも、こうして帰宅の電車に乗っているときは何とか聴かないと、と思い、ホイールを回し続けます。で、きょう拾ったのが、チェリビダッケのワーグナー曲集。このアルバム、この半年以内に聴いているはず。それも多分四月上旬だったはず。あの時は、ウルフ・シルマーの「パルジファル」の予習で手当たり次第に「パルジファル」を聴いていましたので。
チェリの前奏曲だけでは物足りなくて、カラヤン盤「パルジファル」を聞いて、激しく感動。あの、東京文化会館での思い出がよみがえってきました。グルネマンツのために生まれてきたのではないか、と思うぐらい適役であるクルト・モルには脱帽し敬礼したい。藍色を帯びた夜明け前の空の荘厳さを思わせるカラヤンの音作りはすばらしい。ここまで追求されると、やはり美的価値は存在するのだ、と思います。

「パルジファル」と「影のない女」の思い出

それにしても、4月の復活祭の日の東京文化会館。ウルフ・シルマー&N響コンビによる演奏会形式のパルジファルはすごかった。あの日は本当に泣まくりでしたよ。まだ、そんなに心がささくれ立っていなかったから、音楽が心に染み入る感じがしたんですね。でも、最近は、職場では軍隊的な規律によって統制されていますから、なんだか、音楽と仕事のバランス位置を見出せていないのです。なんだか下手な演奏を聞くと白々しささえ覚えてしまう。ちなみに、いま、私の会社での渾名は少佐です。
で、色々思い悩んでいたんですが、私にとってはあの「影のない女」でのショックが大きかった気がする。音楽的には素晴らしかった。それは認めますが、やはり、あの演出はイデアールなもの、彼岸の美しさを表現することが出来なかった。あれから、僕の劇場に対する信奉は少なからずダメージを受けてしまったかのように思えるのです。
つづく

近況

気を取り直して近況。故あって忙しいのだが、まあ、回っている独楽は倒れないと、いいますから、このまま回り続けましょう。
BSハイビジョンのスター・ウォーズは、早いもので、エピソード5に。エピソード1から順序よく観ていくと、いままで見えてこなかったものがよく分かります。ヨーダが、ルークに暗黒面への警告を出すあたり、アナキンがダース・ベイダーになったプロセスを知っているからこそ、よく理解が出来たり。あしたも、後半を少し観られるかしら、という感じ。カミさんが思いのほか喜んでみていてくれるので、私もうれしい。曰く、やっぱりエピソード4以降のほうが良いらしい。ハン・ソロのハリソン・フォードのなすところが大きいようです。

Gustav Mahler,Symphony


今年も来年もマーラーイヤー。
1960年が生誕百年で、にわかに予言通りマーラーの時代が来たわけで、再評価が進んだのですが、今年は生誕150年で、来年が没後100年。早いものです。1960年は私は生まれておりませぬ。。
2010年といえば、「2010年宇宙の旅」ですが、こっちの予言は全く外れています。まだソ連も続いていることになっていましたので。
私の幼き頃は2010年まで世界が続くとは思っていなかったですねえ。核戦争でも起こるんじゃないか、と日々不安でした。ですので、友達と庭に穴を掘って核シェルターを作ろうとしていたぐらいですから。そうしたら、ガスの配管やらが出てきて、親に怒られました。早く埋め戻せってね。
というわけで、プロムス2010のオープニングは「一千人の交響曲」。7月16日夜、ロイヤルアルバートホールにて。こちらのURLでオンデマンドでしばらくは聴けるようです。あと4日。お急ぎを。ちなみに、映像はUK外では見られないみたい。
“http://www.bbc.co.uk/proms/2010/whatson/1607.shtml#prom1":http://www.bbc.co.uk/proms/2010/whatson/1607.shtml#prom1
私が中学生の頃一番好きだった曲こそが、マーラーの交響曲第八番。通称「一千人の交響曲」ですが、この曲にはひとかたならぬ思い入れがあります。なんせ、初めて買ったCDがショルティ盤の「一千人の交響曲」だったぐらいですから。この曲、どなたかは忘れましたが、マーラーの作った唯一のオペラである、というとらえ方があるようです。確かに、劇的な部分は多分にあります。昔からオペラ好きの素地があったと言うことなのかしら。
私が大好きなのは第二部の以下のところ
* マリア崇拝の博士が歌うところ
* 栄光の聖母が「Komm! Komm!」と歌うところ[1]
* 続いてマリア崇拝の博士が、Bricket auf! と歌って、神秘の合唱の旋律を先導するところ。
* 神秘の合唱(言わずもがな)
ライヴならではの疵はあるけれど、改めて聴くと感動するなあ。
ちなみに、この曲、マーラーの交響曲の中で一番人気がないらしい。CLASSICAさんのマーラーの交響曲投票で最下位でした。
“http://www.classicajapan.com/vote/qv.html":http://www.classicajapan.com/vote/qv.html
でも私はこの曲が一番好きだなあ。
今から聞き直してみると、調性が希薄な部分とか激しい転調に気がついて面白い。
演奏終わったあとの熱狂が凄い。こればっかりは、録音だけじゃ分からない。実演は凄いんだろうなあ。
演奏者の方々。大拍手。
* Mardi Byers soprano
* Twyla Robinson soprano
* Malin Christensson soprano
* Stephanie Blythe mezzo-soprano
* Kelley O’Connor mezzo-soprano
* Stefan Vinke tenor
* Hanno Müller-Brachmann bass-baritone
* Tomasz Konieczny bass
* Choristers of St Paul’s Cathedral
* Choristers of Westminster Abbey
* Choristers of Westminster Cathedral
* BBC Symphony Chorus
* Crouch End Festival Chorus
* Sydney Philharmonia Choirs
* BBC Symphony Orchestra
* Jiří Bělohlávek conductor
しかし、この演奏会の一番高いチケットが44ポンドとは、安くないですか? 日本円で6000円弱。ロイヤルアルバートホールはでかいので、それで元が取れると言うことなのか。
今日は、激しく暑い一日。ですが、クーラーつけずにがんばりました。シェスタが大事なのもよく分かった感じ。仕事は捗らない。。。いつも仕事に出かけるカフェは月曜日が定休日なので。
明日から、さらに忙しくなる予定。薄氷を踏む思い。
fn1. ここ、昔、森麻季さんが歌うのを聴いて感動したことがある。あれはあまりに美しすぎて鳥肌がたった。

Anton Bruckner,Symphony

ブルックナーの交響曲を好きな順番に並べてみると。。
5=7>9>8>6>4>3
という感じでしょうか。五番には本当に愛着があります。でも、録音でいうと、あまり印象に残っていない。あえて言うならチェリビダッケ&ミュンヘンフィルの録音でしょうか。
そういえば、2007年にはティーレマン&ミュンヘンフィルを聴きに行きましたし。あのときの緊張感も忘れられない。ティーレマンはかなりの年輩になっていて、渋みすら感じさせていました。若々しさのような甘っちょろいものは全くない感じでした。
“https://museum.projectmnh.com/2007/11/04195214.php":https://museum.projectmnh.com/2007/11/04195214.php
好きなブルックナー振りは、チェリビダッケとジュリーニですねえ。実はどちらもラテン系。チェリビダッケはルーマニア系です。ルーマニア人はラテン系といわれています。ルーマニア語はロマンス語系だそうですので。まあ、いわゆるローマ時代にダキアとしてローマの植民地ですからね。
それで、私は思ったもんです。私はドイツ人がドイツ音楽を振る音源より、ラテン系の指揮者がドイツ音楽を振るのが好きなんじゃないか、と。
ブルックナーの交響曲第五番を久方ぶりにチェリビダッケ指揮で聴いてますが、いいですねえ。この指揮っぷり。テンポが遅いのはまあ常識的ですが、遅いだけじゃなくて緊張含みの熱い演奏です。辛うじてピアノ線で舞台上につるされている感じ。このこのまま止まってしまうんじゃないかとも思える速度で、いやいや、止まらないでちゃんと緊張感とか統制感を保ちながら演奏しますよ、という感じ。だからといって、遅いばかりじゃない。第三楽章の冒頭なんてかなり速度揚げて迫力とダイナミズムを巧く表現している。さすが。
しかし、ミュンヘンフィルは相当しごかれたはず。チェリの可愛がりは怖いです。でも、理想のためには仕方ないですね。最初から二番になろうとしていたら一番にはなれない。「二番じゃいけないんですか?」 ダメです。じゃあ「何でも一番!」これもダメ。人生も歴史も選択の連続です。
でも、最近、私は、全部やらないと行けない、とまたまた思い始めました。
ミュンヘンフィルもかわいそうでした。チェリがレコーディングしたくないから、経済的にもきつかっただろうなあ。で、チェリの次はレヴァインで、その次がティーレマン。でも、CD不況で新録音はすくないでしょうから。
そう言う意味で言うと、ベルリンフィルはチェリじゃなくてカラヤンでよかったかも。ベルリンフィルのいないグラモフォンなんて想像つかない。
五番は印象的なコントラバスのベースラインから始まり、木管が印象的な美しい旋律を奏でます。私はここはジャズに転用できると思っていますが、まあ素人考えでしょうね。弦楽器のピッチカートが支配する場面が多いのでわりとインテンポでも聴けそうなんですよね。
今朝は悪夢で目が覚めて、しばらく動悸が止まらなかった。稼働システムが障害を起こしている夢。名寄せとか銀行引き去りとか、そんな感じのことがうまくいかなくて、夜中に修復している夢。
というのも、最近、稼働させるシステムが、稼働ごとにインシデントを出しまくっているからでしょうねえ。
まあ、僕も悪いんですが、僕だけが悪いわけでもない。ソフトウェア、ハードウェア、環境、周りの人間、全部がそろわないと、きちんとしたものは出来ません。SHELLモデルと言うんだそうです。

Opera,Richard Strauss

また遡行更新。すまぬ。
今日は素晴らしい一日。感謝せねば。
午前中、都心で用事を済ませたのですが、そのとき今年初の蝉の鳴き声を聞きました。すっかり夏。季節の巡りははやいはやい。
それから、カミさんと待ち合わせて、近郊の友人夫妻宅を訪問しました。彼は大学の友人で、私の尊敬すべきPCの師匠。
実を言うと、彼には抜かされたんです。私が初めてPCを買ったのは、おそらくは1995年だったはず。まだWindows3.1の時代。PCショップの店員になめられてはイカン、ということで、猛勉強(?)して、秋葉原で購入しました。
そのあと、彼もPCを買うと言うことで、一緒に秋葉原について行きました。そのときは、私が彼にアドバイスする立場だったのですが、すぐに逆転されてしまう。彼のテクニカルぶりは凄くて、いまやFLASHの権威になっておられます。当時から、私のライヴに来てくれて、デジカメで写真をとって、FLASHのコンテンツを作って見せてくれたりしたものです。
私も彼も就職したんですけれど、私は不幸にもレガシーシステムの面倒を見ることになってしまったのですが、彼は今も昔も最先端を走っている。私も守りに入っていてはおられん、とまた、昨日と同じことを考えてしまいます。
とにもかくにも、奥様のおいしい手料理と楽しい会話であっという間の幸福な土曜日の午後を過ごしました。本当にありがとう。
帰宅しようと、都心のターミナル駅で乗り換えようとしたら、電車が止まっていたのですが、おかげで、駅ビルのお店でセールに行けたし。よかったよかった。

今日は、シルマーの「カプリッチョ」ばかり聴いていた感じ。キリ・テ・カナワの伯爵夫人は柔らかい。そしてシルマーの振る「月光の音楽」はゆったりとたゆたう感じ。前にも書いたかもしれませんが、この録音でのドイツ語の発音が古風な感じです。Operは、今風な発音だと「オーパー」ですが、このアルバムでは「オーペル」と発音しています。ベーム盤のヤノヴィツは「オーパー」と発音しているのですけれど。やっぱり、これは、19世紀的な発音を意識して意図的に「オーペル」と発音しているんだろう、と。
Rickertという哲学者がいますが、昔の岩波文庫や、西田幾多郎の著作では「リッケルト」と表記されるんですが、最近の読み方だと「リッカート」でしょうから。しかし、若い私はリッケルトとリュッケルトを混ぜてしまっていて、助手の先生に怒られました。
今年の秋から春にかけて、「月光の音楽」を聴いただけでボロボロ泣いていたんですが、最近は涙が出てこない。別に嫌いになったからというわけじゃない。たぶん、心がかさついているだけ。今年度に入ってから、私を取り巻く環境が大きく変わったからだと思う。この変化はおそらくは、あまり良いたぐいの変化じゃないんだと思いますが、まあ、いろいろありますから。良い風に変わったこともあるんですから。

Gustav Mahler,Symphony

「新国立劇場2009/2010シーズンを振り返る」は、参考資料読んだりしないと、というところで、まとまった時間が取れる週末でないとかけないことが分かりました。ちょっとお待ちを。
変わりに、今日起きた突然の変化を。
昼休み、廊下を歩いていたときのこと。
いきなり、マーラーの「復活」の第一楽章のフレーズが頭の中に浮かんできたのでした。これには驚いた。軍楽隊の演奏のように、僕が歩くそばから、耳元で「復活」第一楽章を誰かが聴かせてくれている。そんな感じ。
これは、突然のことで、本当に驚きました。なぜ、今マーラーなのか?
実を言うと、マーラーはこの2年ほどほとんど聞いておりません。二人のリヒャルトにくびったけでしたので。つまり、ワーグナーとリヒャルト・シュトラウス。
でも、クラシックを聴きはじめて数年経ったころ、マーラーに開眼したのがこの「復活」でした。小澤征爾が「復活」を振った映像に感涙して、ラジオでバーンスタインの「復活」をエアチェックし、さらに感涙。
けれども、この長大な交響曲をカセットテープに録音するのはきわめて難しかったのです。片面60分が限度の時代でした。どうしてもひっくり返さなければならなかったので、マーラーの交響曲をエアチェックするのはきわめて難しかったです。オートリバースなんていう機能もありましたが、テープ冒頭の非磁部分の音切れも気になりましたし。
その頃から高校の半ばまではマーラーばかり。でも、決まった演奏ばっかりでしたが。ショルティの「復活」、マズアの「悲劇的」、ショルティの「一千人の交響曲」、メータの「巨人」など。高校時代はお金なくて、CDなんて買えなかったし、昼ご飯代を削って、アルトサックスを買うので一杯一杯でしたから。
で、今日改めて、バーンスタインのマーラー「復活」を聴いてみるのですが、これも、先だって「トリスタンとイゾルデ」の回で書いたようにバーンスタイン的テンポ取り。絞れるところまで絞りきろうという、執念のリタルダンド。低速ギアの極致とでも言いましょうか。でもチェリビダッケ的な遅さじゃないんですよね。ギアチェンジは頻繁にしますので。
私が聴いている音源は、DVDでして、1973年にロンドン交響楽団を振った演奏。録音はこちらも中低音が充実した感じです。
なんだか、最近、ちと夜型傾向。朝の早起きはなくなりつつあります。その方が体調がいいということみたいですけれど。明日も思いっきり働きましょう。本も読みましょう。あ、「沈まぬ太陽」第四巻も読み終わりました。明日は辻邦生を読もうと画策中。辻邦生も私の中で復活させないと。プルーストもですが。あー、時間足りない。でも充実化宣言。

Opera,Richard Wagner

平日は、黙々と働き、休日も黙々とタスクをこなす。休む間もなく。まあ、身から出た錆ですので仕方がありません。何はともあれ音楽があることと、こうして何かを書くプラットフォームが存在するだけでもありがたいと思います。
2009年/2010年シーズンも無事に終わりました。しばらくオペラ観劇はお休みですが、7月の予定をざっくりと。
ちょっと、書かねばならない文書がありますので、それを月内に終わらせる。そのためには、毎週5枚のレポートを書かねば間に合わない。それから、会社のeラーニングをやること。これも一週間に3レッスン終わらせないと、100レッスン終わらず、受講料が天引きされてしまう。7月は忙しい。暑いし。
7月末はバイロイトですね。
“http://www.bayreuther-festspiele.de/":http://www.bayreuther-festspiele.de/
「リング」は、昨年に引き続きティーレマンが振ります。「パルジファル」もガッティが再び。「トリスタン」はお休みのようです。今年はシュナイダーが出ないのが残念。こちらもウェブラジオでエアチェックする予定。昨年は「リング」も「パルジファル」も録音失敗していますので、今年こそはなんとか成功させねばなりません。なかなか難しいのですが、がんばりましょう。
今、音楽之友社「作曲家・人と作品シリーズ ワーグナー」を読んでいますが、うーむ、面白い。新潮文庫版のワーグナーの伝記を数年前に読みましたが、この本のほうが充実している気がします。
それは、とりもなおさず、私のワーグナー視聴量が増えたからにほかなりません。この本の特徴はワーグナーの死で終わらないところ。ワーグナー死後、現代に至るまでのバイロイト音楽祭の状況を簡潔にまとめているので、ワーグナー演奏の通史的理解を得るには実に都合のよい本で、お勧めです。
ただ、私のワーグナー歴はまだまだ浅い。読むべき本もたくさんある。聞くべき音源も無限大に存在する。一生のうちに全部読んだり聞いたりできないかもしれませんが。
っつうか、辻邦生も読みたい。でも、今は「沈まぬ太陽」の第四巻を広げてしまったので、ちょっとお預け。辻邦生の本は常に携帯することにしましょう。折に触れて読み返すと、元気が出ること間違いありません。

Opera,Richard Wagner

吉田秀和先生「オペラ・ノート」で、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」が絶賛されていました。幸い、私もバーンスタイン盤の音源を持っていましたので、昨日の帰宅時間より聞き始めたのですが、さすがバーンスタインです。

二日かけて全曲聴きましたが、一幕聞いただけで本当に心が揺り動かされてしまいました。
バーンスタイン的な、きわめて慎重に事を運び、しかも最大限スケールやダイナミクスを導入するという、壮大気宇な演奏です。
ペーター・シュナイダーの演奏は、透き通った膜の向こう側に構築美が立ち現れるという演奏でしたが、バーンスタインの場合、ほとんど主観とか客観とか分かれない、純粋経験的境地、というぐらい心技一体の演奏に思えます。
情感たっぷりなんですが、だからといってベッタリとした甘っちょろいものではなく、深く広がる情感の池に徐々に身がゆっくりと浸っていくようなイメージです。
一般的にはバーンスタインのテンポどりは遅いほうだと思いますが、そういう意味でもこの録音はバーンスタイン的です。
あとは、録音がいいんですよ。中低音域に軸足のある、たっぷりとした音でして、聞いたとたんに没入度120%というぐらい、ほかのことが気にならなくなるぐらい。押しが強い音というわけではなく、ぐいぐいと引き込まれていく音です。
演奏はバイエルン放送交響楽団、トリスタンはペーター・ホフマン、イゾルデはヒルデガルド・ベーレンス。べーレンス、巧いです。絶妙なピッチコントロールと安定した声質。ペーター・ホフマンはちょっとべーレンスに圧倒され気味かも。
やっぱり、ヴァーグナーを聞くと、安心します。安心できる場所にとどまることは、保守をイメージさせますが、私の場合、安心できる場所だが知らない場所ですので、どんどんそこを掘り下げていくことが必要かと考えています。

Giacomo Puccini,Opera

さて、今朝は「マノン・レスコー」をテバルディとデル・モナコのバージョンで聞いたんですが、デ・グリューを歌うモナコが格好良すぎて、なんだか、勇敢なるデ・グリューになっていました。ドミンゴのように甘さを加えると、まだ青い未熟な青年的な微妙な甘え具合が出るんですけれど、オテロやカラフを歌わせたトランペットの声で、デ・グリューというのはちょっとモナコにしてみれば役が足りないのかもしれません。このマッチョな男らしい歌には、凱旋帰還するオテロの姿思い浮かんでしまう。なーんて、えらそうなことを言ってますが、「マノン・レスコー」は本当に素敵なオペラ。
テバルディもすごくいいですよ。伸びがあってピッチの微妙な傷も気にならない。特に高音域の伸びは絶品です。ああ、これをお昼休みに聞ける幸せ。 iPodラヴ。
あ、もうひとつちょっと由々しき思い出。私が「マノン・レスコー」をはじめてみたのは実はBS2で10年以上前に放送されたグラインドボーン音楽祭の映像でした。たしか、なぜかジョン・エリオット・ガーディナーが指揮をしていたはず。
しかしながら、この音源だけは理解することができなかったです。やはり、VHSビデオで録画したものだったので、音質も画質もきわめて悪い状態で音楽の美しさを掬い取ることができませんでした。
あとは、これは今だから言える想像ですが、古楽派のガーディナーがプッチーニを振るという違和感のなせる事象なのではなかった、とも。演出はグラハム・ヴィックで、彼の演出である同じくグラインドボーンの「ルル」がすばらしかっただけに、ちょっと残念な思いもしました。
あのときに、環境が整っていれば、今はもっとオペラを聞けていたはず。私はこの「マノン・レスコー」の映像をみて、オペラを一度あきらめたんですから。代わりにブラームスの室内楽の世界やブルックナーの敬虔で激しい交響曲群を惑溺するようになったんです。
やはり、出会いというものは重要です。早くても遅くても巧くいかない。まあ、そういう糸の通し違いが人生を面白くしているんですけれどね。なるべくならそういうことがないように生きていこうとするのも正しいあり方ですけれど。
でも、仕事に関してだけは、糸の通し違いは決して起こしちゃいけません。それが最近見てきたいろいろな出来事から導いた結論です。