Gustav Mahler

先日、マーラーの10番の第1楽章を聴いて、全曲版が気になり始め、さしあたりApple Musicで聴くことのできるラトル&ベルリンフィルのバージョンを聴いています。まだまだ、なにか理解は足らないですね。これまでも何度か聴いたことはありますが、その他のマーラーの交響曲に比べるとあまりに聴いた記憶が少ないです。

それで、このところ、クラシックと言えばほとんどこの曲ばかり聴いています。何度聞いても「果てしなさ」しか感じません。つまり、まったく分かった気がしない=飽きないのです。終わりを知ることなく、ただただ酩酊するだけ、と言う感じです。今日も大掃除をしながら何度も聞いていました。聴けば聴くほど新鮮な発見があるのです。神学の文脈における霊性という言葉が、なぜか心に浮かびます。この曲に彼岸を感じるというご意見を聞いたこともありますが、なにか、宗教的な文脈での死のイメージを強く感じるのです。

もちろん、この曲が書かれた背景というものもあって、妻であるアルマの不倫がマーラーを苦しめた時期にこの曲が書かれたなど、さまざまなのですが、そうした背景にとらわれずに聴いてもそこに何らかの意味を見いだしてしまうわけです。バスドラムとチューバの陰鬱なフレーズは、解説によれば、不倫相手が訪れたときの心のショックと言うことになっていますが、私にはどうにも天国の入り口でをノックして、裁きを受ける時の判決を知らせる音にしか聞こえませんでした。

それは、もしかするとすでに見知った前世の記憶なのかも知れません。ほかにも見覚えのある街を思い出す気がするのです。濡れた石畳とか、曇りきった港から出港する大西洋航路の客船とか。あるいは、マーラーのほかの交響曲の一節が聞こえたり、あるいは後代の作曲家であるベルクを思い出したり。

ウィキペディアによると、このラトルの演奏はクック版第3稿第2版を使っているとのこと。そうか、10番の補遺版はこんなにあるのか、と、ウィキペディアの記事はなかなか興味ぶかい情報が満載でした。マーラーも死に際して、扁桃炎にかかっていた記載も見つけまして、先日ひどい急性扁桃炎で苦しんだこともあり、すこし親近感を憶えたりもしました。

さて、今日は冬至。もう一息で正月ですか。早いものです。明日からは夏にまっしぐら! 早く夏になれ!と思います。

それでは、みなさまどうかよいクリスマスを。おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

昨夜からの雨は、今朝もまだ残っていて、自宅をでるときもやはり傘を差す必要があった。冬の雨は、夏の雨のように激しく降ることはなく、ただ、静かに、冷たく、地面を打つのみだった。

今朝から聞いているのは、やはりアバドが振るマーラーの交響曲第二番。

幼き頃(といっても12歳になったかならないかの頃だと思うが)、NHK-FMのエアチェックで、この曲を初めて聴いたときの記憶は忘れられない思いがある。第5楽章の最後の場面、これでもか、というほどに高揚する終幕部は、当時聴いたことのない音楽だった。こんな音楽があるものなのか、と、激しく驚いた。バーンスタイン振る音源だったはずだ。

あの高揚、何百回ときくうちに、初めて聴いた時の衝撃は蘇ることはなくなってしまい、かすかに衝撃の残滓が記憶に残るだけになった。記憶の海を縦横無尽に行き来することができるにせよ、衝撃体験はどう追想されどう再現すべきなのか。体験それ自体ではなく、体験が存在したことだけが記憶に残っているだけなのか。そんなことを考えながら、帰宅の電車の中で、衝撃を再現しようと何度も何度も第5楽章の最終部を繰り返し聞いてみた。

そういえば、今日の夕映が、仕事場の窓から差し込んでいた記憶があった。湾岸の海が輝いていて、金色の光が窓から差し込んでいた。時に夕映えは見事だが、感動は失われ、感動の記憶が残る。あるいは、その感動は変質する。二度と帰らないその場その場の感動に打ち込むことの重要性、一回性のアウラ、なんだと思う。記憶も複製とすれば。

Gustav Mahler

冷たい雨の降る夜に、何か、暗鬱な曲を聴きたくなりました。

ショスタコーヴィッチなどはその最たるもの。リヒャルト・シュトラウスでいうと、サロメやエレクトラ。マーラーでいうと、昨日聞いたから交響曲第5番の第1楽章、第2楽章、あるいは交響曲第9番第4楽章。何か、人間の本性のようなものなそこに表出しているように思うのです。

それで、きわめつけは、おそらくは交響曲第10番の第1楽章だなあ、と思います。これもやはり昨日と同じく、蒼くぬれた夜道を思い出します。

やはり、アバドの指揮で。このボックスは、20年前に買いましたが、いまではAppleMusicで聞けてしまう、という。寂しいような嬉しいような。

やれやれ。20年前に山野楽器で結構高く買ったのだが、今はAppleMusicで聴けてしまうのだ…。

今日も、なんだか大変な一日。一日一日をドキドキしながら過ごしている気がします。

今日は短めに。おやすみなさい。

Gustav Mahler

冷え込んだ朝でした。とにかく、久方ぶりの冬という感じでした。とはいえ、いつもの冬のおとずれより随分と遅き感じです。

とはいえ、どうやら明日から日の入りの時間は早くなるようです。今日の東京の日の入りは16時27分。明日は16時28分です。代わりに、というわけではないですが、日の出の時間はまだまだこれから遅くなります。

本当に夏が楽しみです。ただ、この秋にかならず身体を壊すというのは、広義の夏バテではないか、と疑ってるもいます。気をつけないと。

で、寒い朝、仕事場に向かう電車て聴いたのが、アバドの降るマーラーの5番。

この曲、さまざま解釈があるのだと思いますが、アバドの演奏から痛烈に感じたのは、官能と死という言葉でした。愛情とはそういうものなんでしょう。結局、最後は、何かしらの死で終わるわけです。最近読んだ辻邦生「黄金の時刻の滴り」を読んで、何か感性の間口が広がってしまったようです。人間の原初的なものを、特に第1楽章と第2楽章に感じた気がします。恐れ、妬み、悩み、苦しみのような感情が、直接心臓に差し込んできたのでした。第3楽章以降は明るい色調に徐々に彩られつつあるのですが、今は、それよりも第1楽章と第2楽章を聴きたいです。

アバドの指揮は、この退廃とも言えるような、暗く蒼い闇の中に冷たく光る石畳と銀色の街灯が連なる街の風景を思い起こさせました。あるいは夢の中に出てくる見知らぬ街の記憶なのかも知らないです。もう一人の自分が住む街とも言えそうです。

明日の夜から東京は雨のようです。冷たい雨になりそうです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Strauss

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東京は、快晴。寒い一日でしたが、日光を浴びるだけでも元気になります。

10月から、風邪を断続的に引いています。なおったとおもったらまた風邪を引く、という感じ。今週も、やはり微熱と喉の痛みが続き、食事を取るのがつらい感じ。やれやれ。

今日も午前中に出かけましたが、午後はさすがにダウンし、午睡をとり、あれ、しかし仕事をしないとと思い、起き上がったときに聴いたのがこちら。ジュゼッペ・シノポリが降る《ツァラトゥストラはかく語りき》。

 


シノポリの指揮になにか雄大さを感じるのですが、それは、あれ、こんなところで? というところで、テンポを緩めたりするからです。私、実は、今日CDを聴いたときに、これマゼール?と思ったりもしました。マゼールもやはり意表をつくテンポどりをみせてくれることがあります。もちろん、全体として、テンポが緩めで、それが雄大さを感じさせる、ということもあるでしょう。

いつも思うのですが、私はイタリア人が振るドイツ音楽が好きだなあ、ということ。アバド、ジュリーニ、シノポリが振る、ブラームス、シュトラウス、ブルックナーを好んで聴いてます。チェリビダッケもルーマニア系ということで、ラテン系と言えるのかも(これもかつてブログに書いた記憶あり)。

それにしても、シュトラウスは本当に素敵です。複雑に絡み合った旋律が空に舞い上がっていくさまは、ゴシック教会のようでもあり、あるいは近代高層ビル群のようでもあります。その美しさは、美しさそのものというよりも、洒脱さや皮肉も含まれていて、実に興味深いのです。この《ツァラトゥストラはかく語りき》もどういう意図で作曲されたのか……。

ちなみに、この曲は私が小さい頃(3歳頃)、一番お気に入りの曲だったそうです。この曲を流しながら、図鑑を二冊重ねた上に乗って、鉛筆を振り回していたとか。指揮者のマネごとをしていたようです。いまでははみだしサラリーマンですが、三つ子の魂百まで、ということでしょうか。

今日は、日本は冬型の気圧配置だったそうですが、みなさまもどうかお風邪など召しませぬよう。おやすみなさい。

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

暗い一日。とにかく暗く寒い一日。

と言うのも、なにかどんよりと暗い空。やれやれ。夏の快晴が恋しくてたまりません。

こんな時に聞きたくなるのはやはりショスタコーヴィチ。暗い気分の時には、暗く寄り添ってくれる音楽がありがたいです。ロストロポーヴィチが振る交響曲第10番。Apple Musicで聴いています。

ショスタコーヴィチの交響曲のなかで一番親しんでいるのはこの10番だと思います。第一楽章の沈鬱さが、なにか人間の根源にある苦しみや悩みを代弁しているように思うのです。これも少し前に書いたと思いますが、タレントのマツコ・デラックスさんが、夜中にショスタコーヴィチを聴く、と言う話をされていたのをテレビで観たことがあります。その気持ち、本当によく分かるのです。なにか普遍的な人間というものを描いているなあ、といつもおもいます。

それは、政治犯がただひたすら運河を掘り続けるとか、そういうものだと思います。政治犯はもちろん逃げることは極めて難しいのですが、現代に生きるということも、程度の差はあれ、逃げ場のない苦しみのなかで、もがき苦しむと言うことにおいてはあまり違いはないのではないか、と思うこともあります。

本当はその場を離れるべきなのに、離れることが出来ない、という感覚。それは、目に見えない鎖で手足が縛られていて、ただただスコップで地面に穴を掘り続けている、と言うことのようでもあります。運河が開通するのが先か、あるいは力尽きるのが先か。どちらが先かは運命しか知らない、そういう感覚です。

そんなことをショスタコーヴィチを聴きながら思いました。

今日は、朝から面倒なことがありつつも、午後に少し出張。戻ってまた仕事。風邪をまだ引いていて、最近は微熱が続いているので、電車では座席に座り身体を癒やしていました。秋はつらい。早く夏が来ないかな、と思います。

明日から三連休。仕事のある方も、仕事のない方も、明日は勤労感謝の日です。感謝されたことはあまりありませんが、働くと言うことをかんがえてみても良いのかも。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Strauss

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11月になりました。深まる秋。

相応しい曲は何だろう?と思いました。

思いついたのが、リヒャルト・シュトラウスの「家庭交響曲」や「ツァラトゥストラはかく語りき」でした。

で、マゼール盤をAppleMusicで。

マゼール盤は、巨大な演奏、という印象をかつては持っていましたが、今日聞くと、なにか音の輪郭がくっきりしたイメージで、つやのある果物が並んでいるのを眺めているような気分になりました。オレンジやチェリーが輝いていくつも並んでいるような、それも露店で、太陽の光を浴びているような、そんな感覚を持ちました。マゼールのオリジナリティは本当に素晴らしいです。

それにしても、いろいろあるこのごろ。頑張らないと。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

昔、マツコ・デラックスが、「夜中にショスタコーヴィチを聴くのよ」という話をしていたのを聴いたことがあります。

確かに、真夜中に、一人でショスタコーヴィチの緩徐楽章を聴くという贅沢はなににも代え難い気がします。

私のショスタコーヴィチ体験は、記憶に残っている限りでは、ロジェストヴェンスキーが振るこの交響曲第10番です。NHK-FMで放送されていたのをエアチェックしました。SONYのHF-60というノーマルテープ両面に入れたのですね。第二楽章の一番カッコいいところでリバースがかかり悔しかったのを覚えています。

とにかく、第一楽章の深みは実に素晴らしくて、今聴いてもなにか心を打つものがあります。なにか小説のネタがたくさん詰まっているような、そんな気がします。強制収容所のイメージなのか、あるいは、深い森の中で暮らす木樵の物語か、あるいは都会の古い高層マンションの最上階で長い間一人で暮らす老人の物語か。

音楽のなかに意味を見いだすのは、危険なことではありますが、音楽体験が、作り手と聴き手の共同作業である、ということを踏まえつつ、そこになにかを感じ取ることがあってもいいのでは、と思います。

史実においては、戦争終結後の勝利の交響曲として期待されていた交響曲第9番があまりに短く軽い交響曲だったと言うことで、批判にさらされたショスタコーヴィチが、スターリン死去の後に、短期間で作曲したのがこの交響曲である、とされています。まあ本当はどうだったのかは、誰も知り得ないわけですけれど。

まあ、孤独と苦悩が描かれているんだろうなあ、とうことを漠然と考えています。

さて、10月最後の週末も終わり。明日からまた仕事。まるで毎週末に息継ぎをしている感じです。いつまで続くのか。

それではみなさま、よい日曜日の夜をお過ごしください。グーテナハトです。

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

ふらっと、聴いてしまったのが運の尽き。

ショスタコーヴィチの交響曲第10番は底なし沼のようで、足を取られたら最後、ずぶずぶと深みにはまって行ってしまった。

暗く古い森。湿った空気を嗅ぎながら、進んでいくと、最後は、歓喜なのかパロディなのか、華々しい歓呼に迎えられる。何を信じればいいのか分からない。

そんな曲だな、と思う。

幼い頃は、ただ「カッコいい」というイメージだったが、齢を重ねると、裏側が見えてくるもの。カッコいいものには騙されてはいけない。

演奏は、ベルリンフィルをカラヤンが振ったもの。私のデフォルト盤はロジェストヴェンスキーなので、カラヤン盤はすこしスマートに聞こえる、と言う印象。これもやはりカラヤンというのは……という先入観によるものかもしれないけれど。

明日で、今週も終わるけれど、まだまだ戦いは続く。この戦い、どうもショスタコーヴィチ的な戦い、と思う。詳しくは書けないけれど……。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

チック・コリアを聴いていたら、なぜかショスタコが聴きたくなりました。

暗く静かな世界を見たくなったのかも。

で、交響曲第七番《レニングラード》。ロジェストヴェンスキーの指揮で。


暗鬱、戦闘、悲しみ、勝利の予感?

描かれていることは、レニングラード攻防戦という陰惨な出来事だというのに、なぜ聞くのだろう、と思いました。本当に戦争は嫌なものです。

ロジェストヴェンスキーの指揮、昔から結構好きでした。とくに交響曲第10番を聴いたときの衝撃は忘れられません。まだソ連があった頃に聴いたはずで、NHK-FMのエアチェックテープを何度も何度も聞いた記憶があります。躍動感、炸裂感…。

やはりこの音源も素晴らしい。何というか、ソ連がアメリカと張り合っていたころのソ連の推進力のようなものを感じたり。オケの名前はソヴィエト国立文化省交響楽団。そして懐かしのメロディアレーベル。時代を感じさせます。

さて、それにしても、今週は本当大変でした。一体何回会議をやったんだろう? 4日間で19回でした……。

それではみなさま、よい週末を!

おやすみなさい。グーテナハトです。