Richard Wagner

今朝から聴いているのが、ティーレマンが振るワーグナーの《パルジファル》。

ワーグナーを聴いたのは久しぶり。と言うか、最近はろくに音楽を聴くことが出来ていなかったのだ。仕事が忙しいと言えば、それまで。だが、なにかほかの理由もあったような気がする。音楽を聴けなかったと言うことも、ワーグナーを聴けなかったと言うことも。

そのとき聴いている音楽というものは、おそらくは、その時々の身体と精神の状態を表しているはずで、例えば、モーツァルトを好んで聴く時は、なにか身体のなかの軋みのような、あるいは錆のようなものを外に出したいときだし、リヒャルト・シュトラウスを聴きたいときは、世界に疲れて、清らかな水で心臓を洗い流したいときだ。ジャズを聴くときは、たるんだ身体を引き延ばして世界に焦点を合わせたいときだ。

では、ワーグナーを聴きたいときの身体と精神の状態というのはどういうものだろう。

私がワーグナーばかり聴いていたのはおそらくは8年前のこと。2010年に新国立劇場で上演されたリング全曲公演を聴こうとしていたときだった。あるいは、東京春祭で演奏会形式のパルジファルを聴いたこともあった。あの頃は、世界の秘密をオペラの中に見いだそうとしていた時期だった。オペラは世界を映し出す鏡だ。100年以上前に作曲されたオペラであったとしても、現代の世界を照影する演出が加わることで、そこに世界認識と真理への道程が現れる。そうしたオペラ・システムに入れ込んでいたのが2007年から2013年ごろだったと思う。

おそらくは、ワーグナーのオペラは世界記述であって、たとえば、《パルジファル》であれば、世界の苦悩と救済が含まれている。あらゆる欲望がもたらす苦悩とそこからの救済。おそらくは、普通に生きていれば意識しなくて済むであろう苦悩が横溢している。たとえば聖槍や性的誘惑からの解脱ともいえる境地が描かれている(書いていて、思ったのだが、仏教的なモチーフで、2014年の新国立劇場《パルジファル》に仏僧が登場したのが自明に思える)。

で、なぜ今ワーグナーを聴きたくなったのだろう。振り返ってみると、巨大な奔流の中に飲み込まれ、包み込まれたい、と思い、ワーグナーをApple Musicで検索したのだった。それは昨日の夜のこと。何か、世界に疲れ果てて、まるで母胎に回帰するかのような気分で、ワーグナーの音源を探し求めていたのだ。

そこで、昨夜聴いたのが、ペーター・シュナイダーが振る《トリスタンとイゾルデ》。シュナイダーは大好きな指揮者だ。だが、意外なことに、いつものような高揚した感動がなぜかなかったのだ。

今朝になって聴いたのがティーレマンが振る《パルジファル》。最初はなにか冷め切ったスープを飲むような、なにか白けた感覚だけだった。ヘッドフォーンで聴くオペラはなにか滑稽なものにも思えた。オペラハウスで、暗い客席に幕の合間から差し込む光に打たれる瞬間はなににも代えがたいが、朝の満員電車の中で、ボリュームに気を遣いながら聴く《パルジファル》には、ミニチュアの世界遺産の模型を見るような不自然さがあったのだ。

だが、地下の駅から階段を登り切って地上に出て、思いきってヘッドフォンの音量を上げたとき、ワーグナーの奔流に包み込まれた感覚に襲われたのだった。

ちょうど《パルジファル》の第二幕で、クンドリの誘惑にパルジファルが耐え、「アンフォルタス!」と絶叫するシーン。後付けだが、なにか世界に抱きかかえられるような感覚だったのだと思う。音楽と一体となった瞬間だったのかもしれない。

地下の駅から仕事場までの10分間、ワーグナーの和声に包み込まれながら歩いたとき、そこに懐かしさを覚えたのだった。母胎に回帰、とさきに書いたが、まさにそうした感覚で、居るべきところに居るのだ、という感情だった。帰るべきところを見つけたような、なに安堵にも似た感情だった。そして、そこでなにか新しいものが見つかるのではないか、という期待のようなものを感じたのだ。

それから、雑巾のように絞られながら、仕事をした。窓の外には雪がちらついていた。夜になって、ようやくとくたくたになって、頭と眼の痛みに耐えながら仕事場をでて、地下の駅に向かう通路を歩きながらふと思ったのだ。もし、ワーグナーが存命であれは、おそらくはノーベル文学賞を取っていたのではないか。音楽家でもあり文学者でもあるワーグナーの音楽とテクストは多くの解釈を可能とするユニバースとでも言うべきもの。あるいは、宇宙への入り口にも思える。その狭い入り口に頭を突っ込んで、這いながら進んでいくと、つかみどころのない、豊潤という言葉でしか表すことのできない存在があるようだ。掴もうとすると離れていき、離れると寄ってくる。

ワーグナーを聴く時は、おそらくは世界を探しているときなのだ。

ワーグナーを聴いていた8年前もやはり世界探しをしていて、その後、さしあたりの居場所を見つけたのだろう。だが、今になってまた世界探しをしなければならない時期が来ている。そういうことなのだろう。

夜の列車はやはり人が多い。さすがにヘッドフォンの音量は絞るしかない。だが、今日、帰宅し、静かに机に向かう時間を持てるとしたら、もう一度《パルジファル》を聴いてみよう。

Richard Strauss,Tsuji Kunio

どうも、大晦日というと、ヨハン・シュトラウス《こうもり》を思いだしてしまいます。話の設定が大晦日から元旦射かけてのエピソードだからということで、ドイツ語圏の歌劇場で上演されることが多いとのこと。

確かめてみると、確かに。2018年12月31日、ウィーン、ブダペスト、ベルリン、ブラチスラバ、ローザンヌ、ケムニッツ、ダルムシュタット、デュイスブルク、フライブルク、ノルトハウゼン、シュトラールズントで《こうもり》が上演されます。

しかも、ウィーンは、国立歌劇場とフォルクス・オーパ両方で。

国立歌劇場のアイゼンシュタインは、新国立劇場で活躍していたアドリアン・エレートです。なんだかウィーンに上り詰めて良かったなあ、と。ロザリンデは、アンネッタ・ダッシュですか。この方は、バイロイトでも歌っている方ですが、2003年の新国立劇場《ホフマン物語》に出ていたなあ、とか。

しかし、取り上げるのは、《こうもり》ではないのです。私の中では、《こうもり》の倒錯した感覚、つまり、女中が女王を演じるとか、変装した妻を誘惑するとか、そういう倒錯の感覚や、ウィーン的な絢爛な演出という観点で、リヒャルト・シュトラウス《ばらの騎士》を思い出すのです。

シュトラウスつながり、というわけではなく、どうも、ウィーンの爛熟した貴族社会を描いているという観点で、あるいは、その貴族社会の没落の兆しが仄めかされているという観点で。

あるいは、カルロス・クライバーの《こうもり》と《ばらの騎士》双方が映像化されているので、なにか関連を感じているのかも。

(前振りが長くてすみません)

私が、《ばらの騎士》を初めて見たのは、2000年頃だったか、NHKBSでカルロス・クライバーがウィーン国立歌劇場で振った映像を見たからです。VTRで録画しましたが、今ではもう見られなくなってしまいました。元帥夫人がフェリシティ・ロット。オクタヴィアンがアンネ・ゾフィー・フォン・オッター。ゾフィーがバーバラ・ボニー。頭を殴られたかのような衝撃を受けたのを覚えています。この映像を見て人生が変わった人がいたということも聴いたことがあります。私は、VTRが観られなくなったのを機に、DVDを買いました。

カルロス・クライバーがウィーン国立歌劇場を率いて来日したときも、やはりこの《ばらの騎士》を演奏したそうです。1994年のこと。私はそのころ、まだオペラのことは全く知らず、下手なジャズ・サックスを吹く毎日でしたので、そうした公演があったことすら知りませんでした。ですが、その後、日本でもクライバーの《ばらの騎士》が聴けたという事実を知って、本当に驚き、あと10年早く生まれていたらいけたのかも、と思ったものです。

今日、大掃除のあいまに、辻邦生が信濃毎日新聞に連載していた記事をまとめた「辻邦生がみた20世紀末」をつまみよみしていたのですが、その中に、辻先生がクライバーが日本で振った《ばらの騎士》を見に行かれたという記述を見つけて驚きました。

ちょうど昨日、twitterを見ていたところ、件の公演のチラシを見ていたこともあり、なにか引き寄せてしまった感覚がありました。

それは1994年10月28日に掲載された「オペラの至福に酔って」という題が付された文章で、クライバーの「ばらの騎士」のチケットをとるのが絶望的で、つてを頼んだがダメだったのだが、キャンセル待ちをしていたら、チケットが入手出来て、見に行かれた、というものでした。アバドも一緒に来ていたのですが、アバドは「フィガロの結婚」と「ボリス・ゴドノフ」を振っていて、それらも見に行かれたようです。

クライバーの《ばらの騎士》に関しては、以下のような感想を書いておられます。

甘美なウィーンの頽廃美すれすれの円熟芳醇や舞台。時の経過を嘆く公爵夫人(フェリシティ・ロット)のアリアは西欧文化の至高の瞬間。クライバーはレース織りのような繊細な音楽を心ゆくまで歌わせた。つくづく芸術は、人間が生きるために欠かさないと思いつつ過ごした秋の幾夜かであった。

レース織りのような繊細な音楽、というのが、まさにそうなんだろうなあ、と思います。何か、伝聞と歴史がつながった感覚があります。

私も、今晩は《ばらの騎士》を観て、少しは明るい気分になって、過ぎゆく時のはかなさを感じながら、新年を迎えたいと思います。

それではみなさま、よいお年をお迎えください。本年、ほんとうにありがとうございました。また来年もよろしくお願いいたします。

Gustav Mahler

連休があけてきょうは仕事。掛け値なしに毎日大変です。心労という言葉がありますが、心の労働をしているという気もします。まあ、適宜やるのですが。

で、今日見つけたのが、ハーディングがウィーンフィルを振っているマーラーの交響曲第10番。ラトルがベルリンフィルを振ったバージョンと同じく、クック版第三稿第二版。2007年の録音。

まだ一度しか聞いていないので、語る資格はあまりありませんが、いやあ、これは本当に、淡い霧に包まれた街を眺めるような、そんな気分になります。ビロードかシルクのようになめらかで光沢のあるつややかなサウンドだなあ、と感じます。ウィーン楽友協会での録音。2007年10月23日だそうです。

しばらくは、この音源を聴いて、理解を深めてみようと考えています。指揮者の違い、オケの違い、ホールの違い。いろんなことが分かるはず。

さて、あと1週間で2018年も終わり。なんだかいろいろあった一年間ですが、あと1週間、出来ることをやろうと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

先日、マーラーの10番の第1楽章を聴いて、全曲版が気になり始め、さしあたりApple Musicで聴くことのできるラトル&ベルリンフィルのバージョンを聴いています。まだまだ、なにか理解は足らないですね。これまでも何度か聴いたことはありますが、その他のマーラーの交響曲に比べるとあまりに聴いた記憶が少ないです。

それで、このところ、クラシックと言えばほとんどこの曲ばかり聴いています。何度聞いても「果てしなさ」しか感じません。つまり、まったく分かった気がしない=飽きないのです。終わりを知ることなく、ただただ酩酊するだけ、と言う感じです。今日も大掃除をしながら何度も聞いていました。聴けば聴くほど新鮮な発見があるのです。神学の文脈における霊性という言葉が、なぜか心に浮かびます。この曲に彼岸を感じるというご意見を聞いたこともありますが、なにか、宗教的な文脈での死のイメージを強く感じるのです。

もちろん、この曲が書かれた背景というものもあって、妻であるアルマの不倫がマーラーを苦しめた時期にこの曲が書かれたなど、さまざまなのですが、そうした背景にとらわれずに聴いてもそこに何らかの意味を見いだしてしまうわけです。バスドラムとチューバの陰鬱なフレーズは、解説によれば、不倫相手が訪れたときの心のショックと言うことになっていますが、私にはどうにも天国の入り口でをノックして、裁きを受ける時の判決を知らせる音にしか聞こえませんでした。

それは、もしかするとすでに見知った前世の記憶なのかも知れません。ほかにも見覚えのある街を思い出す気がするのです。濡れた石畳とか、曇りきった港から出港する大西洋航路の客船とか。あるいは、マーラーのほかの交響曲の一節が聞こえたり、あるいは後代の作曲家であるベルクを思い出したり。

ウィキペディアによると、このラトルの演奏はクック版第3稿第2版を使っているとのこと。そうか、10番の補遺版はこんなにあるのか、と、ウィキペディアの記事はなかなか興味ぶかい情報が満載でした。マーラーも死に際して、扁桃炎にかかっていた記載も見つけまして、先日ひどい急性扁桃炎で苦しんだこともあり、すこし親近感を憶えたりもしました。

さて、今日は冬至。もう一息で正月ですか。早いものです。明日からは夏にまっしぐら! 早く夏になれ!と思います。

それでは、みなさまどうかよいクリスマスを。おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

昨夜からの雨は、今朝もまだ残っていて、自宅をでるときもやはり傘を差す必要があった。冬の雨は、夏の雨のように激しく降ることはなく、ただ、静かに、冷たく、地面を打つのみだった。

今朝から聞いているのは、やはりアバドが振るマーラーの交響曲第二番。

幼き頃(といっても12歳になったかならないかの頃だと思うが)、NHK-FMのエアチェックで、この曲を初めて聴いたときの記憶は忘れられない思いがある。第5楽章の最後の場面、これでもか、というほどに高揚する終幕部は、当時聴いたことのない音楽だった。こんな音楽があるものなのか、と、激しく驚いた。バーンスタイン振る音源だったはずだ。

あの高揚、何百回ときくうちに、初めて聴いた時の衝撃は蘇ることはなくなってしまい、かすかに衝撃の残滓が記憶に残るだけになった。記憶の海を縦横無尽に行き来することができるにせよ、衝撃体験はどう追想されどう再現すべきなのか。体験それ自体ではなく、体験が存在したことだけが記憶に残っているだけなのか。そんなことを考えながら、帰宅の電車の中で、衝撃を再現しようと何度も何度も第5楽章の最終部を繰り返し聞いてみた。

そういえば、今日の夕映が、仕事場の窓から差し込んでいた記憶があった。湾岸の海が輝いていて、金色の光が窓から差し込んでいた。時に夕映えは見事だが、感動は失われ、感動の記憶が残る。あるいは、その感動は変質する。二度と帰らないその場その場の感動に打ち込むことの重要性、一回性のアウラ、なんだと思う。記憶も複製とすれば。

Gustav Mahler

冷たい雨の降る夜に、何か、暗鬱な曲を聴きたくなりました。

ショスタコーヴィッチなどはその最たるもの。リヒャルト・シュトラウスでいうと、サロメやエレクトラ。マーラーでいうと、昨日聞いたから交響曲第5番の第1楽章、第2楽章、あるいは交響曲第9番第4楽章。何か、人間の本性のようなものなそこに表出しているように思うのです。

それで、きわめつけは、おそらくは交響曲第10番の第1楽章だなあ、と思います。これもやはり昨日と同じく、蒼くぬれた夜道を思い出します。

やはり、アバドの指揮で。このボックスは、20年前に買いましたが、いまではAppleMusicで聞けてしまう、という。寂しいような嬉しいような。

やれやれ。20年前に山野楽器で結構高く買ったのだが、今はAppleMusicで聴けてしまうのだ…。

今日も、なんだか大変な一日。一日一日をドキドキしながら過ごしている気がします。

今日は短めに。おやすみなさい。

Gustav Mahler

冷え込んだ朝でした。とにかく、久方ぶりの冬という感じでした。とはいえ、いつもの冬のおとずれより随分と遅き感じです。

とはいえ、どうやら明日から日の入りの時間は早くなるようです。今日の東京の日の入りは16時27分。明日は16時28分です。代わりに、というわけではないですが、日の出の時間はまだまだこれから遅くなります。

本当に夏が楽しみです。ただ、この秋にかならず身体を壊すというのは、広義の夏バテではないか、と疑ってるもいます。気をつけないと。

で、寒い朝、仕事場に向かう電車て聴いたのが、アバドの降るマーラーの5番。

この曲、さまざま解釈があるのだと思いますが、アバドの演奏から痛烈に感じたのは、官能と死という言葉でした。愛情とはそういうものなんでしょう。結局、最後は、何かしらの死で終わるわけです。最近読んだ辻邦生「黄金の時刻の滴り」を読んで、何か感性の間口が広がってしまったようです。人間の原初的なものを、特に第1楽章と第2楽章に感じた気がします。恐れ、妬み、悩み、苦しみのような感情が、直接心臓に差し込んできたのでした。第3楽章以降は明るい色調に徐々に彩られつつあるのですが、今は、それよりも第1楽章と第2楽章を聴きたいです。

アバドの指揮は、この退廃とも言えるような、暗く蒼い闇の中に冷たく光る石畳と銀色の街灯が連なる街の風景を思い起こさせました。あるいは夢の中に出てくる見知らぬ街の記憶なのかも知らないです。もう一人の自分が住む街とも言えそうです。

明日の夜から東京は雨のようです。冷たい雨になりそうです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Strauss

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東京は、快晴。寒い一日でしたが、日光を浴びるだけでも元気になります。

10月から、風邪を断続的に引いています。なおったとおもったらまた風邪を引く、という感じ。今週も、やはり微熱と喉の痛みが続き、食事を取るのがつらい感じ。やれやれ。

今日も午前中に出かけましたが、午後はさすがにダウンし、午睡をとり、あれ、しかし仕事をしないとと思い、起き上がったときに聴いたのがこちら。ジュゼッペ・シノポリが降る《ツァラトゥストラはかく語りき》。

 


シノポリの指揮になにか雄大さを感じるのですが、それは、あれ、こんなところで? というところで、テンポを緩めたりするからです。私、実は、今日CDを聴いたときに、これマゼール?と思ったりもしました。マゼールもやはり意表をつくテンポどりをみせてくれることがあります。もちろん、全体として、テンポが緩めで、それが雄大さを感じさせる、ということもあるでしょう。

いつも思うのですが、私はイタリア人が振るドイツ音楽が好きだなあ、ということ。アバド、ジュリーニ、シノポリが振る、ブラームス、シュトラウス、ブルックナーを好んで聴いてます。チェリビダッケもルーマニア系ということで、ラテン系と言えるのかも(これもかつてブログに書いた記憶あり)。

それにしても、シュトラウスは本当に素敵です。複雑に絡み合った旋律が空に舞い上がっていくさまは、ゴシック教会のようでもあり、あるいは近代高層ビル群のようでもあります。その美しさは、美しさそのものというよりも、洒脱さや皮肉も含まれていて、実に興味深いのです。この《ツァラトゥストラはかく語りき》もどういう意図で作曲されたのか……。

ちなみに、この曲は私が小さい頃(3歳頃)、一番お気に入りの曲だったそうです。この曲を流しながら、図鑑を二冊重ねた上に乗って、鉛筆を振り回していたとか。指揮者のマネごとをしていたようです。いまでははみだしサラリーマンですが、三つ子の魂百まで、ということでしょうか。

今日は、日本は冬型の気圧配置だったそうですが、みなさまもどうかお風邪など召しませぬよう。おやすみなさい。

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

暗い一日。とにかく暗く寒い一日。

と言うのも、なにかどんよりと暗い空。やれやれ。夏の快晴が恋しくてたまりません。

こんな時に聞きたくなるのはやはりショスタコーヴィチ。暗い気分の時には、暗く寄り添ってくれる音楽がありがたいです。ロストロポーヴィチが振る交響曲第10番。Apple Musicで聴いています。

ショスタコーヴィチの交響曲のなかで一番親しんでいるのはこの10番だと思います。第一楽章の沈鬱さが、なにか人間の根源にある苦しみや悩みを代弁しているように思うのです。これも少し前に書いたと思いますが、タレントのマツコ・デラックスさんが、夜中にショスタコーヴィチを聴く、と言う話をされていたのをテレビで観たことがあります。その気持ち、本当によく分かるのです。なにか普遍的な人間というものを描いているなあ、といつもおもいます。

それは、政治犯がただひたすら運河を掘り続けるとか、そういうものだと思います。政治犯はもちろん逃げることは極めて難しいのですが、現代に生きるということも、程度の差はあれ、逃げ場のない苦しみのなかで、もがき苦しむと言うことにおいてはあまり違いはないのではないか、と思うこともあります。

本当はその場を離れるべきなのに、離れることが出来ない、という感覚。それは、目に見えない鎖で手足が縛られていて、ただただスコップで地面に穴を掘り続けている、と言うことのようでもあります。運河が開通するのが先か、あるいは力尽きるのが先か。どちらが先かは運命しか知らない、そういう感覚です。

そんなことをショスタコーヴィチを聴きながら思いました。

今日は、朝から面倒なことがありつつも、午後に少し出張。戻ってまた仕事。風邪をまだ引いていて、最近は微熱が続いているので、電車では座席に座り身体を癒やしていました。秋はつらい。早く夏が来ないかな、と思います。

明日から三連休。仕事のある方も、仕事のない方も、明日は勤労感謝の日です。感謝されたことはあまりありませんが、働くと言うことをかんがえてみても良いのかも。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Strauss

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11月になりました。深まる秋。

相応しい曲は何だろう?と思いました。

思いついたのが、リヒャルト・シュトラウスの「家庭交響曲」や「ツァラトゥストラはかく語りき」でした。

で、マゼール盤をAppleMusicで。

マゼール盤は、巨大な演奏、という印象をかつては持っていましたが、今日聞くと、なにか音の輪郭がくっきりしたイメージで、つやのある果物が並んでいるのを眺めているような気分になりました。オレンジやチェリーが輝いていくつも並んでいるような、それも露店で、太陽の光を浴びているような、そんな感覚を持ちました。マゼールのオリジナリティは本当に素晴らしいです。

それにしても、いろいろあるこのごろ。頑張らないと。

おやすみなさい。グーテナハトです。