Wolfgang Amadeus Mozart

数年前に撮った秋らしい写真。どこだったか…。

秋が深まり、日が短くなりました。日没がもっとも早まるのは11月末です。この前まで19時ごろまで明るかったはずなのに、なんて。

時間が経つのが早い、という感覚を通り過ぎて、時間の前後もなくなり、時間がひとつに重なっているような気がします。量子コンピュータの重ね合わせのような感覚。

こんな迷妄のときに聴くのは、決まってジェフリー・テイトのモーツァルト。

特に、32番と35番が思い出深く、何度となく聴いています。この清澄な感覚は格別。

かつてEMIボックスで買って、iPodに入れて聞いていました。最近はAppleMusicで。

何か辛口の白ワインを飲む感覚のモーツァルト。草原でピクニックをするときに、飲む白ワインのような。太陽の光を浴びながら、飲む白ワインは格別だろうな、と想像します。一度もやったことがありませんが、多分、そういう爽やかな愉楽を感じるモーツァルトだと思います。

安息の日々は安息の先取りから。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

文化の日は晴れの特異日だったはずですが、東京地方は曇り空で、寂しい文化の日でした。もはや文化の日という新鮮味も感じられない茫漠とした感覚にさいなまれていましたが、こんな時には音楽を聴かないと、と思い、思いついたのがこちら。

マーラー交響曲第10番嬰ヘ長調クック版第三稿。

10年ほど前、マーラーの死に至る道程にとても興味を持ち、体調を崩してニューヨークからウィーンに帰り着きそこで息を引き取るというストーリーが映画のように思えたことがありました。

雨の降りしきるニューヨーク港に馬車でやっとの事でたどり着き、傘もさせずに、雨に打ちぬれながらタラップにようやくたどり着き、助けを借りながらようやくとタラップを昇る姿が目に浮かんだものです。

マーラーの最後の演奏会は、カーネギーホールでニューヨークフィルを振っているのですが、その演目ははブゾーニの「悲劇的子守歌」。母親の棺によりそう男の子守歌、ですからね……。

マーラーは51歳で亡くなっていますから、まあそろそろその気持ちもわかってくる時分になった気がしています。勝手な想像ですけれど。

ともかく、最近、世界の見え方がこれまでとは劇的に変わります。相転移ともいえる状態。ベルグソン的に言うと創造的進化。今が妥当なのか、遅すぎるのか、早すぎるのか。やれやれ。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

今日は久々にリモート勤務。これまでとは違うワークスタイルにはなかなか慣れませんが、実のところ、かつてから憧れていたワークスタイルだったことに気がつき、またひとつ願いが叶ったんだなあ、と思いながら過ごしました。

自宅で仕事する最大のメリットは音楽を聴けるということ。今日はティーレマンのブラームスを合間に聞きながら、仕事をしました。

アーティキュレーションに斬新さを感じたりしながらも、安心しながら拡がりのあるサウンドを楽しんだ感じがします。とにかく音楽を聴いている瞬間は幸福でしかありません。

最近思うことは、どうも音楽を聴くとき、あるいは泳いでいるとき、あるいは文章を書いているときの幸福感が人生ないしは世界を支えているのではないか、という直感があります。こうやって人生と世界を支えることで、人生も世界も少しずつ良くなっていくのではないか、と思います。それは錯覚だとしても害のない良い錯覚なのでしょうから、現世を忘れ、ただただ今に打ち込むためには、そうした幸福感が必要なのだと思います。

いまこの瞬間、この刹那に集中すればするほど、どうやら人生がうまくいくのではないか、という直感を得ている気がします。この瞬間に永遠が宿っているような、気もするのです。なんだか、禅のような話ですし、若い頃哲学科にいたころは、全く共感できなかった議論で、教授からはそういう「体験」を戒められていた記憶もあり(勝手な記憶ですが)、封印してきたような感覚もありますが、実のところ、かつて読んだ西田幾多郎やリッケルトの哲学本に書かれていたことを今まさに体験しているのではないか、とも思います。感慨深いです。

とにかく、四つの交響曲を聴き通した感想として、ブラームスは幸福です。厳粛な第一番、典雅な第二番、悲愴な第三番、神聖な第四番。そんなことを考えられて、よかったなあ、と思います。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

Peter Ilyich Tchaikovsk,Symphony

たまには音楽のことを。

ペトレンコがベルリンフィルを振ったチャイコフスキーの悲愴。

最近、音楽と向き合う機会があまりなく、どちらかというと、心を癒やすために音楽を聴いていた感もあり、アグレッシブに目的意識をもって聴けていなかったなあ、という思いがありました。

といいながら、週末あたりから、何か体系的に音楽を聴きたいという思いもあり、音楽学者の広瀬大介さんが作ったプレイリスト「若いうちに聴きたいクラシック100曲」を聴いていたのです。これがずいぶんと面白くて、選曲もさることながら、演奏家のチョイスも今風で、実に心地よかったのです。

その中の一曲がペトレンコの悲愴で、ああ、なんだかこういう新鮮で清々しい悲愴を聴くことのできる幸せをかみしめたのでした。

今日はこのあたりで短く。おやすみなさい。グーテナハトです。

Arnold Schönberg,Tsuji Kunio

夜の時間ができました。こんなことは本当にまれなことです。AppleMusicを開き最初に目に入ったのがジャニーヌ・ヤンセンのアルバムに収められたシェーンベルク「浄められた夜」。

Arnold Schoenberg la 1948.jpg

シェーンベルク最初期。作品番号は4番。おそらくはシェーンベルクの楽曲の中でも知名度が高い部類に入るでしょう。私もこの曲を20年ほど前に一生懸命聴いた記憶があります。

この曲は、リヒャルト・デーメルの詩にモティーフを得て作曲されたものです。このあたりのエピソードもほとんど忘却の彼方からいまここにたぐり寄せたものです。

Rudolf Dührkoop - Richard Dehmel (HMuF, 1905).jpg
Zwei Menschen gehn durch kahlen, kalten Hain;
der Mond läuft mit, sie schaun hinein.
Der Mond läuft über hohe Eichen;
kein Wölkchen trübt das Himmelslicht,
in das die schwarzen Zacken reichen.
Die Stimme eines Weibes spricht:
Ich trag ein Kind, und nit von Dir,
ich geh in Sünde neben Dir.
Ich hab mich schwer an mir vergangen.
Ich glaubte nicht mehr an ein Glück
und hatte doch ein schwer Verlangen
nach Lebensinhalt, nach Mutterglück
und Pflicht; da hab ich mich erfrecht,
da ließ ich schaudernd mein Geschlecht
von einem fremden Mann umfangen,
und hab mich noch dafür gesegnet.
Nun hat das Leben sich gerächt:
nun bin ich Dir, o Dir, begegnet.
Sie geht mit ungelenkem Schritt.
Sie schaut empor; der Mond läuft mit.
Ihr dunkler Blick ertrinkt in Licht.
Die Stimme eines Mannes spricht:
Das Kind, das Du empfangen hast,
sei Deiner Seele keine Last,
o sieh, wie klar das Weltall schimmert!
Es ist ein Glanz um alles her;
Du treibst mit mir auf kaltem Meer,
doch eine eigne Wärme flimmert
von Dir in mich, von mir in Dich.
Die wird das fremde Kind verklären,
Du wirst es mir, von mir gebären;
Du hast den Glanz in mich gebracht,
Du hast mich selbst zum Kind gemacht.
Er faßt sie um die starken Hüften.
Ihr Atem küßt sich in den Lüften.
Zwei Menschen gehn durch hohe, helle Nacht.

男と女がいて、女が身ごもる子供の父親は、そのかかる男ではない。だが、男は苦悩の先において、女が身ごもる子供を我が子のものとして育てる決意をする、というもの。

これは、なにか聖書であるか、あるいは村上春樹の「騎士団長殺し」のモティーフでもあるかのような。愛情とはこのように、「私(わたくし)」を捨ててすべてを受け入れるものなのか、と。

芸術というものは、文学であろうと音楽であろうと、人間の極地を描くことにより、人間の価値を高め認め育てるものです。このある意味で愛情に関する排他性を乗り越える感覚というのは、無私の愛であり、ある種アガペーに近いものでもありえます。

ロボット三原則のなかには、自分の身を守らなければならない、という条項があるように、人間もやはり自分の身を守る必要がありますが、その先の試練として無私の愛があり、それを乗り越えるという営為が想定されているのではないか、という感覚。

辻邦生の「ある生涯の七つの場所」のなかの感動的な短編を思い出しました。「赤い扇」という短編です。その中の一節。

相手が好きになるとは、相手のみになるのではなくて、自分の好みに相手があうかどうかを定めることじゃありません?
(中略)
もしそうだとしたら、恋愛で一番大事なのは自分です。よく恋のために死ぬなんてことがありますわね。でも、それは、自分の好みを実現している相手に殉じるのですから、結局は自分のために死ぬのと同じです。本当に無私ならば、決して自分の好みなどに引きつけてかんがえるわけはありません

辻邦生『赤い扇』ある生涯の七つの場所より「椎の木のほとり」中公文庫415ページ

普通の恋愛は、おそらくはエロスとよばれ、神の愛はアガペと呼ばれますが、先日、美はアガペーのようだ、ということを書いたりもして、おそらくはこの浄められた夜の男は無私の愛の境地に達し、そうだとすると、それ自体が人間の高貴な秩序にむけたアガペー的で美的な行為ということになるのでしょうか。ここではアガペーという言葉を幾ばくか恣意的に使っているわけですが、それは美的行為が神的意味を有するという相関関係においてわざと使っていることになるでしょう。

さて。この夜は、少しずつ涼しくなっていて、コオロギの声が聞こえ始めました。会社の若い人が「ようやく秋ですね」と話しかけてきて、「もうすぐ春ですね」もフレーズが聞こえてきて、春を待ちわびるのも、秋を待ちわびるのも質的には変わらないのかも、と思いました。シェーンベルクは無調の世界へと旅立ちますが、私たちはどこへ向かうのか。この秋を超え、冬を越え、次の夏へと向かう道程において何が待つのか。そんなことを考えながら、デスクライトに照らされたPCに向かって文章を書いています。これが幸福なのでしょう。

また次も書けますように。みなさまもよい夜を。おやすみなさい。グーテナハトです。

Giacomo Puccini

昨日に続き、オペラ。

Facebookの投稿で、イタリアのレストランで、レストランのご主人がトスカのアリアを歌っているのを見まして、急にトスカを聞きたくなりました。カラヤンが降るリチャレッリとカレーラスの音源。

本当にオペラ歌唱というのは、絶品だと思います。人間の限界に近い美しい歌声は、音楽的・音響的にとどまらず、人間のパワーやエネルギーが発露しているようにも思え、本当に素晴らしいものです。

カレーラスの切々としてテノールがなんだかなつかしいなあ、と。でもドミンゴのトスカが聴いてみたくなったりして。

(三大テノールでいうと、私はドミンゴが大好きです。どんな時評があっても、芸術そのものは、芸術そのものとして存在します)

今日も短く。長く書こうとするから続かないのでしょうから。。

東京地方は、梅雨明けして暑くなりましたが、もう残暑ですね。どうかみなさまお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Strauss

最近、初心?にかえって、意識的にオペラを聴くことにしています。今日は、シュトラウスの「カプリッチョ(カプリッツィオ)」を聴きたくなりました。

この曲を初めて聴いたのは、おそらくは2005年か2006年のことなので、15年ほどは親しんでいるのですが、ここまで来ると、曲を聴くと、人生のあれやこれやを思い出すようになるものです。「失われた時をもとめて」のマドレーヌではありませんが。これもまた人生の楽しみですし、よいものはできるだけ早く知っておいた方がよい、ということでもあるなあ、と思います。

もちろん、できるだけ早く、というのは、今、このとき、なのですけれど。

「カプリッチョ」といえば、10年ほど前の以下の記事を思い出しました。素晴らしい公演でした。

https://museum.projectmnh.com/2009/11/23211020.php

というわけで、東京地方は暑い日々が続きます。豪雨災害の地域もあるので、本当に心が痛み、無事を祈るばかりです。こういうときは祈ることしかできません。

それではみなさま、どうかお身体にお気をつけて。おやすみなさい。

Gustav Mahler

まあ、たまには飲むのも許されるでしょうか。世界を笑い飛ばしたいことも多々あります。ウィークデーはひたすら働き、明日も深刻な1日になりそうなので、まあ少しの間脱力しても罰は当たりますまい。

ということで、大地の歌。

最近、マーラーを聴くと落ち着くようになってしまいました。何か、世界の混濁をそのまま表しているような気がします。今日もメータやラトルのマーラーを渉猟していたんですが、ワイン飲み始めたのと「大地の歌」を聴くのが同時になってしまい、なんだか運命的だなあ、などと思いながら。

やれやれ、アルコール飲みながら、第5曲「春に酔える男」を聴くのもなかなかオツなものです。

もう 歌えなくなったら
今一度 眠りに堕ちよう
春が一体 なんだというのだ
このまま 酔わせてくれ

人生とはこういうものです。乾杯。

それでは、みなさま、グーテナハトです。

Gustav Mahler

やれやれ、1週間が終わりました。いろんな意味で終わったという感覚も。

仕事のあとの静かな時間は、マーラーの9番をラトルの指揮で。ベルリンフィルを振った比較的新しい盤。AppleMusicでありがたく。

ラトルの、振幅のある、ある種生々しい躍動が、聴くほうの心の振幅に共鳴して、心臓の周りを音楽の膜にぴったりも覆われている感覚。

第一楽章の後半に、トロンボーンとフルートの二重奏(多分)があるのですが、あの部分、本当に恐ろしい。「復活」を思わせるメロディをフルートが吹いたあとに、悪魔的な執拗さでフルートを追いかけ、揶揄し、遮るトロンボーン。天使を追い回す悪魔ではないか。そんな感覚を覚えるのです。復活を妨げようとする悪魔。それに負けずに、天使は空を舞う、というような。

何かしら悪魔的な要素は、どこにでもあって、戦い続け、そうやって第一楽章最後に到る静謐は、戦いの疲れを癒す牧歌的風景であるかのような気がします。アルカディアの風景。

しかし、そこにはパンがいるのですが、そのパンこそが、キリスト教にあっては悪魔の原型ともなるという相対性があるわけですが。悪魔か天使か。それは価値観と解釈でしかないのでしょうけれど。

ともかく、このマーラーの9番に織り込まれた静謐は、砂漠に染み込む水のように心に入り込んできます。それだけは現時点では唯一の真理です。

というわけで、もう一度聞き直しながら、今日の夜更を楽しもうと思います。

みなさまも良い週末の夜をお楽しみください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

今日はラトルの指揮で聴くマーラーの「復活」。

マーラー「復活」を聴くシリーズになってきていますが、こう言ったテーマを作って書くのは、忙しい中にあっては、テーマを決める苦労がなくなり、ありがたいです。
(昔、ブラームスの交響曲第2番を聴くシリーズをやりましたが、あの時も楽しかったです)

ラトルのテンポ感がたまらなく素晴らしく、随分と楽しんでいます。ラトルはマーラー指揮者として若い頃から有名だったとのことで、大昔に買った音楽之友社のムックでも大きく取り上げられていました。バーミンガム市交響楽団の指揮者だった頃。

当時はあまりラトルを聴く機会はありませんでしたが、AppleMusicを使うようになってからは、心置きなくたくさんの音源を聴けるようになり、ラトルの演奏も随分聞いた記憶があります。

音源を聴きながら目を瞑ると、ラトルが恍惚とした表情を浮かべながら、タクトを静かに操る様子が見えてきたりします。

音楽を聴いて、こうしたことを書いたり想像したりできるというのはとても幸せなことだなあ、と改めて思います。


やれやれ、それにしても、随分と書くことから遠ざかっていたので、キーボードを打つ手もなんだかぎこちなく、困ったものです。尊敬する辻邦生は「ピアニストが毎日弾くように」、文章を毎日書いていたのだそうですが、あやかれないものですね。

会社では文章を書きますが、会社の文章とここに書く文章は全く違います。正直いうと、会社で書く文章は昔から違和感を感じていて、大嫌いで、嫌々苦労しながら書いています。

だからと言って、ここに書く文章がうまいかと言われると、今はよくわからないです。戻していかないと……。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。