2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

先日の私のブログを読むと、演出批判に読めてしまうのに気づきましたが、そんなことは全然無いのですよ。
ともかく、読み替えのスケールが大きいのです。
特に、演出舞台は、本当に素晴らしいものでした。入った瞬間に、おー! と歓声をあげてしまったぐらいです。
私は二階右サイドでしたが、舞台をちゃんとみようと一階に降りて、しばらく眺めていました。
細かい意匠が素晴らしいのは先日書いた通りです。合唱の方の開幕前の演技も素晴らしいのですよ。みなさんちゃんと会話していました。ただ歩いているだけではないのです。商品を買って、クレジットカードで決済して、ありがとうございました、というところまでやってますし、待ち合わせしていたり、知り合いと会って、あーら、お元気?、みたいな会話までちゃんとやってましたから。
あとは、自動ピアノがおいてあって、ナブッコのテーマが演奏されていましたね。
ともかく、その美しさと、緻密さに感動しっぱなしでした。
これは、ぜひ再演してほしいところ。
オペラ演出も無形文化財だ、と思います。先日のアイーダもそうですが、今回の演出も日本の宝ですね。
「自然」に感じた、少しばかりのざらついた違和感は、私の感覚が演出意図とずれているからかもしれない、などと思います。それはもしかしたら、日本と西欧の差異なのかもしれません。
引き続き戦線継続中。あ、じつは先週、辻邦生ゆかりの地へ。かなりのこじつけですが。

2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

一ヶ月ぶりの新国立劇場。
グラハム・ヴィック演出によるヴェルディ「ナブッコ」を新国立劇場にて見て来ました。
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<ネタバレ注意>
通常、開場と同時にホールに入場できるのですが、今回はロビーで少し待たされました。
やっと中に入ってみると、舞台上は欧米でありがちなデパートの店内になっていて、合唱団員の演技が始まっていました。
アップルストアのパロディで、リンゴではなくナシがモティーフになったお店があったり、服飾品のブティックや、カフェがあります。金持ちそうなお客がお店の中にいっぱいです。
本物のMacが飾ってあったり、Macのパッケージを持つ人がいたり、リアルに作られていました。さすがにMacのパッケージのロゴはリンゴでしたが。
そうなると、気になるのが読み替えのコンセプトです。
本来は神殿であるはずの舞台設定がデパートになっているのは、現代資本主義の殿堂が、売買の殿堂であるデパートという設定なのです。
ヘブライ人は、「人びと」と訳されていて、特定の民族ではなく、人間一般というふうに読み替えられています。
バビロニアは、アナーキストとされていますが、私にはヒッピーのように見えました。
私には、ヘブライ人の読み替えの「人びと」が、現代社会における支配階級、つまり高所得者であったり政治家であったり資本家であったり、という階級であり、それへの敵対勢力としてバビロニアの読み替えであるアナーキスト、あるいは私はヒッピーだと思うのですが、そうした勢力の対立の構図として読みました。ウォール街占拠事件やロンドン暴動が裏に読めるのではないか、と。
エホバ神は「自然」に置き換えられています。日本人にとって、絶対神という概念は二重の意味でなかなか実感しがたいものです。ひとつは、日本人にとって特定の宗教への肩入れが少ないという意味において。あるいは、宗教心を持っていたとしても、一神教ではなく多神教であるという意味において。
その中でも「自然」の猛威については、日本人にとって身近であろう、というのがその考えのようです。
それが表現されていたのは、舞台中央の床板が外された中に土床が作ってあって、そこに植物が植えられているという点と、最後に雨が降る場面でした。
ただ、「自然」の威力を舞台上で表現するのは難しいと思いました。本来エホバ神は怒る神です。私は、最後に津波ですべてが流されるぐらいの強烈な演出ではないか、とも予想してしまっていて、そこまでやるのは問題だなあ、と心配していたので、少し肩透かしを食らった気分でした。
明日に続きます。というか、思った以上に難仕事です。。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

春のさかりももう終わりですか。春は光速で去って行きます。


いやあ、もう、週末に限って体調を壊すというモーレツ社員でして、朦朧とした中で、モーツァルトとのフリーメーソンな世界の中にいるのは半端なく辛い体験でした。

なので、オール日本人キャストの魔笛をちゃんと聴けたかというと、これはもうなんともかんとも。

ただ、すこし事故があったとはいえ、望月さんの安定した技巧に驚きました。

なにより萩原さんのパパゲーノの剽軽ぶりに驚きました。

おそらく、これも事故と思いますが、本当は舞台からせり上がってくるはずのワインが出てこなかったところ、うまくやりおおせていたなあ、と思います。時に日本語も交えていましたし。

萩原さんの印象は、ヴォツェックのカバーに入っておられた時に、オペラトークでピアノ伴奏でヴォツェックを歌ったときの印象が強いのです。真面目なイメージでしたが、良い意味で裏切られました。

タミーノの砂川さんもお美しくあり、かつダイナミックな歌で、感動でした。

ザラストロの松位さんも相変わらずの美声でした。

悔やまれるのは私は私の体調のみ。全くついてません。

最近、仕事は修業なので、どんなに辛くても耐えられるのですが、身体はついて来ませんね。もう少し大人になります。

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あー、これがオペラなんですね。私、なんで知らんかったんだ。。

とおもってしまうぐらい圧倒的なパフォーマンスだった新国立劇場の「アイーダ」でした。

このプロダクションは1998年の開場時のものです。それから14年ですが、まだ色あせていません。帰り際に思い立ちました。これは無形文化財なんじゃないか、と。

作ったのはゼッフィレッリ。

ここまで絢爛、というのは誰しもが思うもとです。加えて、舞台に奥行きがあるのです。何時もにもまして。

ギリシア風よりも野太く無骨な柱がそそり立つ柱廊がはるか先まで続いているように感じましたし、神殿の奥の薄暗い奥から立ち昇るアウラを感じたり。

衣装の意匠も素晴らしく、無からの創造よりも、古代エジプトの絢爛を汲み上げて再構成するほうが余程苦しいプロセスだと感じるほどでした。

生きた馬が登場するのは、知っていましたが、実際に見ると迫力抜群です。

「アイーダ」ともなると、超人気演目ですので、いつもとは違うお客さんが多いようで、なかなか面白く、例えば、指揮をしたミヒャエル・ギュットラーがカーテンコールで舞台上に姿を表すと、「キャー、イケメン指揮者っ」、とか「マジカッコいい、マジカッコいい」という声があちらこちらから聞こえてきたように思います。まあ、確かにイケメン指揮者なので異存はありません。

ミヒャエル・ギュットラーは、前回「フィガロの結婚」で登場しましたが、あの時は音楽の制御にずいぶん苦労していたように思いましたが、今回は、冒頭は少しハラハラしましたが、以降はオケ合唱含めて最後まで統御し切っていました。テンポのコントロールは前回の「フィガロの結婚」の時のように無理矢理感がなく、流れの中で波立たせるところは波立たせ、流すところはきちんと流す説得力の高いものでした。

キャストですが、外国勢三名は、大オケと張り合う強力な声量の持ち主でした。特にアムネリスのマリアンネ・コルネッティの最終幕は素晴らしかったです。パワーと情感が混然一体となっていました。

アイーダのムーア、ラダメスのヴェントレも声量はバッチリ。もちろん細かい点に気になる点などはありましたが、やはり声量がないといけません。

冒頭、みんな、なんだか疲れているようで、縦線が合わなかったり、歌の細部の処理がうまくいっていなかったりと随分心配したのです。ところが、ムーアが登場して、アイーダをガッツリ歌った途端に空気が変わりました。少なくとも私の頭のネジががっちり締まったのがよくわかりました。すごかったですよ。

いろいろと思うようにならないこともありますが、十指に入る名演といっていいと思います。4時間きっちり堪能することができたと思います。

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暮れなずむ新国立劇場はほんとうに美しいです。特にこの手摺のランプに灯りが灯るのが最高です。

本日は一旦ここまで。書きたいことたくさんだなー。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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報告遅れましたが、9日(土)に新国立劇場で「愛の妙薬」を聞いて来ました。

徹夜明けの新国立劇場にも慣れた気がするけれど、なんだか日常との乖離に涙が出るほど。

今回のキャストのかたがた、みんな安定していて、素晴らしかった。

シラクーザ、キャンベル、ジローラミ、成田さん、九嶋さん、みんな良かったなあ。

しばし現実を忘れました。

今回も合唱が素晴らしかったし。

シラクーザの思い出

シラクーザが歌いだして、あー、こりゃ贅沢だー、と思いました。いつも書いてますが、これを東京で見られるという奇跡に感謝ですよ。

新国立劇場でシラクーザを聴くのは今回が三回目です。一回目が、あの伝説の2002年の「セビリアの理髪師」。そう、私が初めて聞いた実演オペラ。

これも何度も書いてるんですが、今回も書きます。

当時の新国立劇場はダブルキャストで、シラクーザは降り番でした。

で、第二幕。なかなか始まらなくてやきもきしていたら、スタッフが舞台上に出てきて、アルマヴィーヴァ役のテノールが風邪のため二幕以降歌えない、ということになりました。

で、代わりに登場したのが、シラクーザ! 場内湧きに湧きましたよ! 風邪を引いたテノールに申し訳ないぐらい。

その後のシラクーザの素晴らしい歌唱とコミカルな演技を堪能して、私は新国立劇場に通うようになったというわけです。

そうか、シラクーザのおかげだったのですね。

二回目は「チェネレントラ」でしたね。あの時もすごかった。生まれて初めて、劇中でアンコールで同じ所を歌う、というのに出くわしました。

https://museum.projectmnh.com/2009/06/14195823.php

ニコル・キャンベル

アディーナを歌ったのはニコル・キャンベル、前回のプロダクションのアディーナとくらべて背が高くて、身のこなしが都会的で、劇中で本を読んでいる姿がなんだか先生みたいでしたが、歌はめちゃうまいです。声はやわらかみのある感じです。「ばらの騎士」の元帥夫人を聞きたいなあ、とおもいました。フィガロの伯爵夫人を歌っているから、行けそうですね。

 

レナート・ジローラミ

あとは、ドゥルカマーレを歌ったレナート・ジローラミ。

もう、こういう方が居らっしゃるからオペラが楽しくなるわけですね。

軽妙洒脱な演技がすごくてすごくて。こういうのを見るにつけて、オペラとかヨーロッパの懐の深さを感じてしまいます。

この分野で日本人が勝つのは並大抵ではないなあ、とおもいます。

まあ、西欧人が歌舞伎役者になるのが難しいのと同じ理屈だと思いますけれど。

演出

演出もめちゃ楽しい。

原色をふんだんに使った衣装が、映える舞台。本をうまく使った舞台設営。

現代アートのを見てる感じで、本当に楽しいです。

 

で、今回もありましたよ。

 

ドゥルカマーレの「愛の妙薬」のグラマラスな売り子が、第二幕の最初に、タクトを振り上げようとする指揮者のジュリアン・サレムクールに売りつけるシーン。

二幕の雨に、売り子さんが客席でスタンバっていて、サレムクールの方をポンポン、とたたいて、薬を売ります。

サレムクール、嬉しそうに投げキッスしてました。2本目はコンマスの弦にお札をつけて買ってましたね。

こういうの楽しくて大好きです。真後ろ二列目で見てたので、余計に面白かったです。

今回はないかな、と思ったんですが、ありましたね。

指揮サレムクール

サレムクールの指揮、重みがありながらも推進力がある感じ。私は全然軽さを感じませんでした。ですが、それはストーリーを阻害するものではなく、かえって引き締めているものに思えました。

バレンボイムの弟子、という先入観があったかもしれませんが、そう感じました。

最悪だった私の体調

しかし、私の体調は最悪でした。

前日の8日、5時半に起きて、そのまま24時間働いて、帰宅したのが9日の午前6時半。4時間仮眠して初台に行きました。

レッドブル投入しましたが、さすがに集中力な持たないです。。

寝落ちはしませんでしたが、疲労が鉛のように体の底に溜まっていて、気持ちが感動に向かおうとする時に足を引っ張るのですね。せっかくの第二幕最後のシラクーザ、気持ちが付いて行かなかった。これはショックです。

で、10日も仕事して。

今日は流石に休みましたが、さっきから寒くて寒くて。体温調整ができていないようです。

次回はアイーダ

次回はアイーダですね。

昨日から、カラヤン盤、ムーティ盤、アーノンクール盤を聞きました。

そしたら、今日のNHK-FMで、リストがピアノ用に編曲した「トスカ」が流れていて、おもしろかったですよ。

昨日の深夜にもBSプレミアムで「アイーダ」放送されていましたしね。

 

それでは、また。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

昨日、2月2日に新国立劇場で「タンホイザー」を見て来ました。

今日は夜遅くなってしまいましたので、これからすこしずつ深堀りしますが、いままでの「タンホイザー観」が変わってしまいました。

全体的にはそんなにドラスティックに変わったわけではないのですが、演出一つで物語が大きく変質することに改めて驚きました。

まあ、ヴェーヌスにおける、リンダ・ワトソンとエレナ・ツィトコーワの違いなんですけどね。

画像は、私の参考CDであるハイティンク盤。こればかり聴き過ぎたのかもしれません。ルチア・ポップがエリーザベトを歌うのですが、巧すぎて巧すぎて、かえってエリーザベトっぽくなく思えるようになりました。

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昨夜は、大学生時代の音楽サークルの先輩後輩と久々に。とある方とは15年ぶりに飲んだのですが、全く変わっていなくて、タイムスリップした観があります。若返りの飲み会。

過剰な追憶モードは慎みたいものですが、たまには過去を振り返って自分の今の立ち位置を確認するのもいいものだと思いました。

そういう意味では、ブレブレな人生だなあ。

 

そうそう。今日もあのバークレー出身のギタリストと会話を。

こっちもとても面白かったです。

 

ではまた明日。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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先日の新国立劇場の「セビリアの理髪師」の演出。二回目なんですが、今回はいろいろ気づくところがたくさんありました。

そのうちのひとつ、面白かったところが序曲の部分です。

あそこでは、登場人物達が一人ずつ登場して、舞台の最前部でマネキンのように動きを止めます。最後にフィガロが登場するのですが、フィガロが合図するごとに、登場人物達は操り人形のように動き出し、また合図をすると動きを止めます。

なんだか、マネキンと言うよりフィギュアが登場したような感じでした。私はフィギュアは持ってませんのでよく分かりませんが、華やかな衣装を着けたキャストが人形のように立っているので、そう思えました。

フィガロがフィギュアのような登場人物達を操るのは、フィガロがこの物語の狂言回しだからでしょうか。にしては、劇中ではメタフィクション的な動きが見えませんでしたね。

一昨年の「コジ・ファン・トゥッテ」では、アルフォンソが狂言回しでしたので、途中で登場人物達の動きを止めてコントロールするシーンがありましたが、そうした動きはなかったと思います。席が前すぎて俯瞰できなかったのかも。。

何れにせよ、演出は本当に面白いです!

 

2012/2013シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera,トスカを聴こう!

先日から連載しているトスカの件ですが、その後も引き続き調査を続けています。その中でわかったことをお伝えします。

トスカ成立の話の中でフランケッティという作曲家が登場しました。もともとトスカの作曲権を持っていたのですが、ジュリオ・リコルディにしてやられて、プッチーニに作曲権を渡してしまうという話でした。

その際に、フランケッティはプッチーニの学友だったという話を書いたと思います。このエピソードは、プッチーニの伝記として有名なモスコ・カーナーの著作に登場します。私はそこから引用しました。

ところが、南條年章氏の「プッチーニ」(音楽之友社)おいては、それが誤解ではないか、という説が紹介されていました。

曰く、フランケッティは、プッチーニと同じマージという先生に習っただけなのだそうです。いわば兄弟弟子です。ですが、一緒に学んだことはなかったとのこと。プッチーニはルッカで、フランケッティはヴェネツィアで、マージに師事したということになります。

歴史の中に埋れた真実はその手がかりをつかむのは難しいです。

(イタリア語がわかれば良いんですけどね。あと10年すれば、翻訳エンジンの性能が上がるでしょうから、文献程度なら辞書がなくてもわかる日がくるでしょう)

このシリーズ、来年元旦には、形にまとめてご披露できるよう頑張ります。

 

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

セヴィリアの理髪師、劇が一瞬中断する瞬間がありますね。

それは、第一幕の最終部分、第16場のところです。

http://www.youtube.com/watch?v=SYwG4199BCg

「銅像のように冷たく動けなくなったわ」以降では、キャストがみんな止まって、六重唱が始まります。この映像でいうと、2分27秒のあたり以降です。

演出にもよると思いますが、新国立劇場の演出では、登場人物達が停止し、背景の警察達が曲の拍節に合わせて体を動かし始めます。ストーリーの中の時間速度が遅くなる、あるいは停止して、登場人物達がストーリーから抜けだす瞬間です。

これは一種のメタフィクションなのでしょう。

リブレットを読むと、一応、バルトロが銅像のように固まってしまったと揶揄する場面と理解できるんですが、実演を観るとそうは思えません。

バルトロだけじゃなくてみんなかたまる必要はないんです。

でも、Youtubeの演出もみんな止まってますし、先代の新国立劇場演出でもやはりかたまってしまいました。

なんだか、この場面いつも奇異に思えます。

それに、歌が終わった後に、場面転換を告げるかのように信じられないほど静謐な旋律が出てくるのですよ。

その後またドタバタハチャメチャな喜劇に戻るのですよね。

これはリブレットを読んだだけだと理解できない世界です。

ここだけ、際だっているのですよねえ。

ググってみたんですが、どうも答えは見つかりません。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

はじめに

昨日の興奮冷めやらぬままこちらのCDきいているんですが、ちょっと、これすごくないですか!! フィガロのPaneraiがスゴイ。。

http://www.icartists.co.uk/classics/catalog/cds/carlo-maria-giulini

 

これは、また後日として、昨日の続きです。

演出

今回のケップリンガーの演出は2005年に続いて2回目ですが、以下の二つ理由から、今回のほうがより楽しめた気がします。

一つは、ビジュアル面でしょう。今回の公演、皆さんカッコイイ方ばかり。ロジーナのコンスタンティネスクも美人さんですし、伯爵のボテリョもずいぶんとイケメンです。あとは、フィガロのイェニスの粋な身振りが素晴らしいです。

(2005年公演では、ロジーナの方がアルマヴィーヴァより背が高いという状況だったと言うこともありますが)

舞台設定

もう一つ。席が良かったです。今回も奮発して前の方だったので、舞台の細かいところまでちゃんと観ることが出来ました。いろいろな仕掛けをつぶさに観ることができて面白かったです。

たとえば、電気器具や調度品の時代考証も凝っていて、置かれている白黒テレビは当然ですが、第一幕冒頭でフィオレッロが持っている白いラジオがレトロ調で格好良かったです。

フランコ統治下のスペイン

舞台は1960年代のセヴィリアです。ですので、フランコの肖像がバルトロの部屋に飾られています。image

そういうこともありますので、どうやらグアルディア・シビルとよばれる治安警察が踏み込んできたという設定になっているようです。あの特徴的な帽子の形でそうだと分かりました。フランコ政権時代はこのグアルディア・シビルが国内統治に利用されていたようです。

若者と老人、フランコとアルマヴィーヴァ

今回の演出においては、アルマヴィーヴァ、ロジーナ、フィガロの三人の若者が、バルトロ、バリジオなどの年寄りに反旗を翻すという物語にも見えました。

演出のケップリンガーの説明においては、原作が書かれたが書かれたフランス革命前夜とおなじく、演出の舞台である1960年代のセヴィリアも「社会構造の変革を前にした「熱い時代」」であると語られています。

フランコ政権は1938年に始まり、1975年のフランコの死によって幕を閉じます。後継者として国王に指名されたファン・カルロス一世によりそれまでの全体主義体制から立憲君主制へと移行し、「スペインの奇跡」と称されるほんの少し前の時代です。image

来るべき新しい時代が3人の若者によって象徴されているのか、などと思ったり。

ですが、アルマヴィーヴァは伯爵位にあります。いわば旧体制に属しながらも、若い世代に属しているというゆがみが生じているのだ、と思います。

警察(グアルディア・シビル)の隊長がアルマヴィーヴァの伯爵位に恐れをなし、同時にフランコの肖像を担ぎ出すのはそういうゆがみがなせるわざでしょう。

(余談ですが隊長は、2002年に観た新国立劇場の「セビリアの理髪師」では堂々たる人物でしたが、今回の演出では権威主義的でだらしない男になってました)

あるいは、アルマヴィーヴァもフランコと重ねあわされているような場面もありました。ロジーナがバルトロの奸計でアルマヴィーヴァとフィガロの企てに疑いを持った瞬間、フランコの肖像が壁から落ちましたね。あれはどうしてなんだろう?と思うのです。

旧体制に属しながら新しい時代を切り開く人物であるアルマヴィーヴァはいったい誰なんだろう? ファン・カルロス一世なのかなあ、などなど。

いやいや、我々はこの物語の続編を知っています。モーツァルトの「フィガロの結婚」です。そこでは、アルマヴィーヴァがバルトロのような俗物に成り下がっています。そうした示唆なのか……。

 

次回に続きます。