今日もアラベラと高橋克彦な一日。幸せでござった。なーんて、歴史小説ばかり読んでいるので、なんだか、文章もそういう風情になってしまう。
アラベラの最終部分が美しくて惚れてしまった。聴いているのはカイルベルトが1963年にミュンヘンで振ったもの。アラベラはリサ・デラ・カーサで、マンドリカはフィッシャー=ディースカウ。ディースカウはまだまだ若々しい声。これから円熟していくんだろうなあ、という感じ。
この盤は、ステレオ収録なのですが、音質がいまいち。でも、それをも凌駕する洒脱さで、私は大好きです。
アラベラの初演は1933年7月1日。ナチスの政権奪取が3月なので、その後の政治的暗雲の立ちこめる時代でした。
ユダヤ人音楽家が追放されていて、フリッツ・ブッシュもドレスデンを去っていました。ナチス政権と対立したからだそうですが、詳しい事情は調査中。英語、ドイツ語のwikiにも詳しい状況は載っていません。
シュトラウスは、ナチス政権とやり合いながらなんとか初演にこぎ着けたのだそうです。初演の指揮はクレメンス・クラウス。シュトラウス晩年の良き理解者であり協力者ですね。初演会場はもちろんドレスデンのゼンパー・オーパー。
ワクワクしますねえ。続きは明日。
あと、面白い出来事。夜に、イギリス人と話す機会があって、オペラの話になりました。
彼も少しオペラを知っているらしく、「ワーグナーはヘビーすぎてどうもねえ。年取ると、集中力がなくなってくるからきついんだよねえ」なんて、言ってました。
で、日本人と欧州人の声の違いの話をしていました。市井の欧州人でものすごくrichでdeepな低音の持ち主が居るじゃないですか。あれにはかなわないなあ、とひたすら主張してみる。
彼もやっぱりrichでdeepなバスの声で、凄く良い声してますね、っていったら、それはstoutだからじゃない? って。まあ確かにそうだなあ。でも、日本人の巨漢が、必ずしも良い声の持ち主とは限らないしなあ。
昔どこかで読んだのですが、日本人は低い声は悪者の声だと聴く風情がある。赤ずきんちゃんに登場する狼の声って、みんな低い声で朗読するじゃないですか。
それから、日本人はおべっか使ったり、へつらったりする時って、高い声になる。あれも、不思議。やっぱり、高い声のほうがいいんだろうなあ。
でも、西欧では、低い声であっても必ずしも悪ではない。マルケ王もヴォータンも悪者ではないですし。
話は尽きぬなあ。。。
カイルベルトの振る「アラベラ」を聴きながら
三ヶ月ぶりの新国立劇場
新国立劇場のオペラ・トークに行ってきました。
楽しかった。一時間半があっという間でした。
っつうか、カバー歌手の方が歌を披露されたんですが、間近で聴いたのも相まって、ものすごく感動しました。歌手の方が素晴らしいのはもちろん、シュトラウスの偉大さを改めて思い知りました。
増田のり子さん、萩原潤さんが、アラベラとマンドリカの二重唱「あなたは私との結婚を望んでおられると」を歌ったんですが、増田さんはアラベラの高貴な性格を巧く表現していたし、萩原さんも力強い歌唱で、涙が出るぐらい。
あとは、フィアッカミッリの吉原さん。あんなに小柄なのに、高くて光沢のある声。目の前で、あのコロラトゥーラは迫力満点でした。
オペラで泣いたのは半年ぶりぐらい。やっと感覚が戻ってきました。
解説をされた一橋大学の田辺教授のお話も実に興味深く勉強になりました。内容は週末にまとめます。
ベルリンフィルのヴァルトビューネ、フレミングのカプリッチョがいい!
世の中とはままならぬもの。さりとて、打ち捨てるには惜しいほどの美しさに満ちている。だからこそ、世の背理に耐え、艱難を忍び、その向こう側にある彼岸へのまなざしを保持せねばならぬ。
昨夜、今年のベルリンフィルのヴァルトビューネの映像を見ました。フレミングが登場するということで、シュトラウスを歌ってないかなあ、と期待していたのですが、やっぱり歌っていました。それも私がもっとも愛する曲のひとつである「カプリッチョ」終幕の場面。フレミングの「カプリッチョ」はフレミング名義のオムニバス盤で、エッシェンバッハと組んで歌っているものでしたが、ベルリンフィルをバックにフレミングの、まるで伯爵夫人マドレーヌが乗り移ったかのような気迫にあふれた美しく力強く、それでいて正確無比な歌唱を聞いて、久々にゾクゾクしました。この曲、半年までに聴いていたら、涙があふれて大変なことになっていたはず。それが、失われたのが今年の三月以降だと思いますが、昨夜は調子が少し戻ってきた感触がありました。でもまだもう少し。しかし、ベルリンフィルは巧いですねえ。ホルンのドールもよかったですし。コンマス樫本さんが、コンマス席の左隣に座っていました。時代は変わっているんですね。
なんだか最近呆けているのか、絶望しているのか、よく分かりませんが、なんともいえぬ虚無感や無常感に苛まれている感じです。とはいえ、6月に「鹿鳴館」を聴いてから、オペラの実演はお預けですので、耳がなまってしまっているのかも知れません。私の2010年/2011年シーズンは、10月11日の「アラベラ」で幕を開けます。そうすると、また少し何かが変わってくるかもしれません。努力なしに果汁を飲むことは許されませんので。
久々に。。
久々に、オペラ観て涙が出るくらいじーんと来ました。
2008年新国立劇場の「トゥーランドット」。
テオリン歌うトゥーランドット姫が、カラフの嫁になるのはイヤだイヤだ、と皇帝にすがりつくシーン。あそこのトゥーランドット姫の旋律は奥深くて、イヤだイヤだと駄々をこねるシーンにしては感動的なのですが、テオリンが歌っているのを観て、さらに感動してしまった。
なぜなのでしょう? テオリンの声って、ビブラートが強くて、昔はあまり好きではなかった、というのはいつしかもここに書いたかもしれませんが、2009年のバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」を聴いて、一気に好きになり、今年の新国「リング」でさらに好きになったというところ。
やっぱり、常人には真似できないあの凄まじい音圧を持った声に痺れているのだと思う。ビブラートのことを、「ブースターである」と書いたこともありますが、あのビブラート、一度疑いが溶けると、一気に引き込まれてしまうのです。一言では書けません。ちょっと考えないと。何でだろう? おそらくは人間の極限を見ているように思えるからかもしれない。音楽という非実利的なものに超人的な力を発揮していることに感動しているからかもしれない。
人間なら、だれしもなにかに超人的な力を発揮できるよう努力しなければならないと言うことなのか。テオリンの歌を聴いて、身につまされるからなのか。
ただ、心配なことも。昨夜録音に成功したザルツブルク音楽祭の「エレクトラ」でテオリンがタイトルロールを歌っているのですが、ちょっと不安定に思えたのです。まださわりを聴いてiPodに入れただけなのですが、明日は移動時間が長いので、じっくり聞いてみます。指揮者はガッティ。
昨夜の「ワルキューレ」は、2幕の冒頭、藤村実穂子さんが出演したところでダウン。でも、第1幕観られて良かったです。
妖しすぎるプティボンのルル
プティボンのルル。こればかりは逃せませんので、気をつけていたのですが、なんとか録音することが出来ました。
それで、もうなんというか、凄くて。何が凄いかって、プティボンのパワーと妖しさの前にひれ伏す感じ。
私的には、シェーファーのルルがデフォルトだったのですが、もしかしたらある意味超えているかも。確かに、第一幕は少し押さえている感はあるのですが、第一幕の後半から第二幕にいたると、叫びとも歌とも何とも言えない激情的でドラマティックなプティボンらしい歌で、なんとも酔いしれておりました。
ルル組曲に採用されている聞き慣れた旋律をバックにして歌うあたりはすごいのなんのって。アルヴァ役のピフカ氏と一緒に最高点まで上り詰めていく感じ。凄いです。
ルル、本当に奥深い。もっと聴かないとなあ。
明日は、午後、所用で出張するので、電車の中でくりかえしたんまり聴けるはず。楽しみはまだ続く。くたばってはおられない。
Mit Patricia Petibon (Lulu), Tanja Ariane Baumgartner (Gräfin Geschwitz), Pavol Breslik (Der Maler), Michael Volle (Dr. Schön), Franz Grundheber (Schigolch), Thomas Piffka (Alwa) u. a.; Wiener Philharmoniker, Dirigent: Marc Albrecht (aufgenommen am 1. August in der Felsenreitschule im Rahmen der Salzburger Festspiele 2010)
2010年バイロイトのワルキューレ
なんだか、フリーメーソンの熱に浮かされたような日々でしたが、今日はあまりに平穏無事すぎてもうしわけないぐらい。
いよいよ先日録音した今年のバイロイトの「ヴァルキューレ」を聞きおえました。
充実した音作りで、なんとも素晴らしい。
何と言っても、ブリュンヒルデのリンダ・ワトソンがすごい。すこしだけピッチが不安定なところもありますが、雄々しいまでの女傑的ブリュンヒルデを堪能しました。
フンディングのKwangchul Youn氏もよかったです。 韓国の方のオペラ界における活躍は凄まじいものがあると聞いていましたが、その一端を垣間見た感じです。なんでも、韓国においては、キリスト教会が一定の力を持っていますので、聖歌隊あがりの方々がオペラ界に出ていくのだそうです。少し前にみたテレビでは、韓国人歌手なくしてヨーロッパのオペラは成り立たない、という状況なのである、と言っていました。
真偽のほどは定かではありませんが、確かに、ドレスデンでみた「カプリッチョ」にも韓国の方が出ておられたなあ、などと。しかも、イタリア人歌手の役を歌っていました。日本人と同じ東洋人だというのに、どうしてこんなに声が良いのでしょうか。おそらくは、分母が違うのだろうとは思いますけれど。
でも、われらが藤村実穂子さんのフリッカも素晴しいです。やっぱり、実演を聞きたかったなあ。今年のニューイヤーオペラコンサートの突然のキャンセルが残念でした。
それにしてもティーレマンの指揮は面白いですよ。え-、そこで、その速度に落としますか?? と思うぐらいにドラスティックに急にスピードを落としたりするのですが、それが実はかなりはまっていたりして、スリリングでした。
でも、バイロイトの響きって本当に素晴らしいです。ほどよりリバーヴに、オケの音が見事に解け合って素晴らしいサウンドで鳴っています。きっと実際だともっと凄いんでしょうね。一度でも良いから行ってみたいものです。これはまさに夢ですけれど、思っていればいつかはかなうかもしれません。
しばらく続くであろう妄念 その2 ──パルジファル、辻邦生、劇場
辻邦生「円形劇場から」と劇場の美
辻邦生に「円形劇場から」と言う中篇小説があります。このなかで、劇場における美的価値こそが、現実の世界を支えている、という直観が語られますが、私もそれと似たような直観を得た記憶があります。
あれはミュンヘンでの出来ごと。何度も書いたかもしれませんが、州立国民劇場でバレエ「眠りの森の美女」を観たのですね。で、あのとき激しく感動に打ち震えたのです。欧州人が数百年も守ってきたバレエ世界と言う虚構の世界を命がけで作っているという現実に。
どうしてそう思ったのか?
かなり年配のいい年恰好の男性ダンサーが老貴族の格好をして踊っていました。それも激しいくらい真剣に。普通のサラリーマンで行ったら部長ぐらいは務めているであろう男性が、虚構に真剣み取り組んでいるという激しい驚き。
そのあと、なんと子役のダンサー達が登場するんですが、年配の男性と子供達の年齢差にかかわらず、お互い虚構の美を目指しているという事実。美というものがこの世に存在することを初めて認識したのはあのときだったと思います。
帰国後、音楽の先輩にその話をしたのですが、笑われて一蹴されましたが。
「影のない女」のダメージ
で、その逆の体験がどうやら「影のない女」だったみたいなんです。美を目指したとしても、必ずしもそれが美である訳ではない。何かを求めるプロセスが大事なんである、なんていう青みがかったことは全く成り立たない。
あるのは、受容者にとって、それが美であったか否か、だけ。その冷厳さは、頭では理解していたつもりでしたが、体験したのは初めてでした。それが、僕が受けたダメージ。どれぐらいで回復するかは分かりません。
最近の精神状況の変化は仕事の質が変わったのも原因の一つでしょうから。
けれども、あの幸福な時間を取り戻したいという激しい衝動的な欲求はあります。ですので、一生懸命音楽を聴いてはいるのですけれど。
しばらく続くであろう妄念 その1 ──パルジファル、辻邦生、劇場
はじめに
iPodのホイールを回すのですが、何だか忙しくて音楽に没頭することも逃避することも能わない感じです。でも、こうして帰宅の電車に乗っているときは何とか聴かないと、と思い、ホイールを回し続けます。で、きょう拾ったのが、チェリビダッケのワーグナー曲集。このアルバム、この半年以内に聴いているはず。それも多分四月上旬だったはず。あの時は、ウルフ・シルマーの「パルジファル」の予習で手当たり次第に「パルジファル」を聴いていましたので。
チェリの前奏曲だけでは物足りなくて、カラヤン盤「パルジファル」を聞いて、激しく感動。あの、東京文化会館での思い出がよみがえってきました。グルネマンツのために生まれてきたのではないか、と思うぐらい適役であるクルト・モルには脱帽し敬礼したい。藍色を帯びた夜明け前の空の荘厳さを思わせるカラヤンの音作りはすばらしい。ここまで追求されると、やはり美的価値は存在するのだ、と思います。
「パルジファル」と「影のない女」の思い出
それにしても、4月の復活祭の日の東京文化会館。ウルフ・シルマー&N響コンビによる演奏会形式のパルジファルはすごかった。あの日は本当に泣まくりでしたよ。まだ、そんなに心がささくれ立っていなかったから、音楽が心に染み入る感じがしたんですね。でも、最近は、職場では軍隊的な規律によって統制されていますから、なんだか、音楽と仕事のバランス位置を見出せていないのです。なんだか下手な演奏を聞くと白々しささえ覚えてしまう。ちなみに、いま、私の会社での渾名は少佐です。
で、色々思い悩んでいたんですが、私にとってはあの「影のない女」でのショックが大きかった気がする。音楽的には素晴らしかった。それは認めますが、やはり、あの演出はイデアールなもの、彼岸の美しさを表現することが出来なかった。あれから、僕の劇場に対する信奉は少なからずダメージを受けてしまったかのように思えるのです。
つづく
近況
気を取り直して近況。故あって忙しいのだが、まあ、回っている独楽は倒れないと、いいますから、このまま回り続けましょう。
BSハイビジョンのスター・ウォーズは、早いもので、エピソード5に。エピソード1から順序よく観ていくと、いままで見えてこなかったものがよく分かります。ヨーダが、ルークに暗黒面への警告を出すあたり、アナキンがダース・ベイダーになったプロセスを知っているからこそ、よく理解が出来たり。あしたも、後半を少し観られるかしら、という感じ。カミさんが思いのほか喜んでみていてくれるので、私もうれしい。曰く、やっぱりエピソード4以降のほうが良いらしい。ハン・ソロのハリソン・フォードのなすところが大きいようです。
わたくしにとっての新国立劇場2009年/2010年シーズンを振り返る
今日は、新国立劇場の2009年/2010年シーズンを振り返ると題して。
オテロ
このステージの印象と言えば、イアーゴを歌ったルチオ・ガッロの素晴らしさが中心に鳴ってしまいます。。水が張られたベネツィアをイメージした舞台セットに照明が当たって、揺らめく水紋のきらめきに舞台が包まれていて、うっとり。デズデーモナのタマール・イヴェーリは、代役とはいえ、実にレベルの高い歌唱を聴かせてくれました。
魔笛
モーツァルトオペラを苦手とするわたくしにとって、「魔笛」はある種の挑戦でした。予習で聴いたデイヴィス盤でシュライアーの歌うタミーノに心打たれたことの方が印象深いほどです。しかし、フリーメイソン的、秘儀的である種突飛なストーリーは、やはり実演に接しなければ分からなかったのは事実です。やはり、一回見ただけじゃダメですね。ザラストロの松位浩氏が良い味を出しておられました。本当に日本人離れしたバスです。
ヴォツェック
これは凄かった! アンドレアス・クリーゲンブルクの鬼才たるゆえん。一部には水音に対する不満もあったようですが、舞台上を水で満たして、その上でパフォーマンスが進行するという実にエキサイティングな演出に興奮しっぱなしでした。ベルクの夢幻的音楽とあいまって、演出が織りなす非人間的である種のグロテスクさをも表出する舞台空間は、もう何も言うことがないほど素晴らしかったのです。ヴォツェックのトーマス・ヨハネス・マイヤーはもう完全にヴォツェックになりきっていて、歌もさることながら表情から演技まで大活躍。あとは、マリーを歌ったウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネンの素晴らしさ。私はあのマリーの子守歌のところでもうジーンと来てしまいました。NHKで二回ほど放映されたのでごらんになった方も多いと思います。
トスカ
このトスカは凄かった! トスカ役のイアーノ・タマーの美しさは、私の中で勝手にマリア・カラスに置き換わっていたぐらい。音楽の絢爛さとかシリアスさもさることながら、舞台演出の見事さのほうが印象的。実はこのプロダクションは数年前に見ているのですが、左バルコニー席だったので、第一幕の最後のテ・デウムの場面をちゃんと見られなかったのです。でも、今回は二階の正面に近い席ということもあって、テ・デウムの場面をきちんと見ることが出来て感涙。グランド・オペラ的な沸騰感を十全に満喫しました。それにしてもタマーのうまさ。スカルピアの殺害場面はものすごい緊張感と完成度。歌にも疵は感じなかったし、演技力や表現力が素晴らしかったのです。
ジークフリート
いよいよトウキョー・リングも後半戦。まずは、ジークフリート。クリスティアン・フランツの甘みのあるヘルデン・テノールぶりに、なんだか心が清らかになる気分。で、最後のブリュンヒルデの覚醒では、イレーネ・テオリンが登場し、すべてをかっさらっていく素晴らしさ。このあたりから、もう頭の中は指環でいっぱい。
神々の黄昏
みんな凄かった。でもイレーネ・テオリンが一番凄かった。それしか記憶を再構成できないぐらいです。あのパワフルな声量には舌を巻いてしまいます。テオリンのちょっと強めのビブラートは、ロケット・ブースターのようなもの。もう圧倒的なパフォーマンスで、私はもうふらふら。で、そのあとバックステージツアーに当選して、初めて新国立劇場の舞台裏に参りました。私の人生観が変わった一日。
愛の妙薬
私の2010年前半はワーグナー漬け。新国で「ジークフリート」と「神々の黄昏」を見て、4月9日は上野でシルマーが振った「パルジファル」を聴いたのですから。それに4月に入って、新年度となり、仕事がえらく忙しくなったのです。それでで、かなり体調は悪かったのですが、何とか行った「愛の妙薬」は、ワーグナー的な真剣さとは取って代わって、軽妙なオペラで、かなり勝手が違いました。当初は凄く違和感を覚えたほどです。このたぐいの楽しいオペラは、昨年見た「チェネレントラ」以来でしたので。でもとても楽しめたし、いろいろ面白い解釈可能性を思いついて、個人的には満足です。主役のふたりは素晴らしくとくにプリマのタチアナ・リスニックは巧いし美しいし、言うことなし。それから、狂言回し的なキーマンであるドゥルカマーラを歌ったブルーノ・デ・シモーネも! 彼のような方がいらっしゃるからこそ、オペラの伝統が受け継がれていくのですから。
影のない女
このシーズンで、リングと同じように期待していた「影のない女」リヒャルト・シュトラウスとホフマンスタールが作り出した幽玄と現実の混交。しかしながら、どうしたことか。やはり演出にあと一歩何かが足りなかった。でも、歌唱陣、特に、皇后、バラクの妻、乳母の三女声陣は素晴らしかった。バラクの妻を歌ったステファニー・フリーデを聴くのは三回目だったけれど、今回が一番よかった気がします。パワーと安定。皇后のエミリー・マギーだって凄かった。この方はリリックですこし冷たさの混じった瑞々しい声。乳母のジェーン・ヘンシェルは、2002年のパリで聴いた(?)「影のない女」でも乳母役を歌っていたから、7年半ぶりの再会。
カルメン
カルメンは、ドレスデンで見たことがあるぐらいでお恥ずかしい限り。しかし、カルメン役のキルスティン・シャベスは生まれときからカルメンであっただろうアメリカ人。奔放なカルメンのペルソナを巧く演じていて感動。ジョン・ヴェーグナーが元気がなかったのが気になったぐらい。あとは、ミカエラを歌った浜田理恵さんの素晴らしさ。2008年のトゥーランドットに続いての登場。ミカエラもリュウも似た境遇ですね。ああ、浜田さんが歌う「ペレアストメリザンド」を聴いておきたかった。。。。
鹿鳴館
池辺晋一郎氏の最新作オペラの世界初演。三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」のオペラ化で、故若杉弘芸術監督のアイディアで始まったという作品。若杉さんが亡くなって、池辺さんは途方に暮れたそうですが、このオペラの完成こそが若杉さんの望んだことだ、ということで、今年の春に完成したとのこと。音楽的には、様々な要素が絡まり合うユニークな作品。厳密に、なになに的な、というような形容は出来ないです。でも、池辺晋一郎氏が多作家であり、映画音楽やドラマ音楽を手がけていることから分かるように、標題音楽的な料理がなされた作品であることがよく分かる、良い作品でした。鵜山さんの演出もよかった。鹿鳴館時代の背伸びをしている日本人のけなげさとか滑稽さが巧く表現されていました。
総括
どうしても、このシーズンは、「ジークフリート」と「神々の黄昏」にその中心が置かれてしまうのは否めないです。あんなに感動して、あんなにインスパイアされた経験はありません。私の2月と3月はワーグナー一色だったと思います。期待していた「影のない女」は十全なできとは言えませんでしたが、音楽的には立派で素晴らしかったんですから。
あと、今年痛切に感じたのは、オペラトークがあれば、必ず行くべきだ、ということ。私は、音楽を聴くには予習が必要だと思っていますので、パフォーマンス前には集中して聞き込みをしますが、演出家や指揮者の方が肉声で語るオペラの魅力や演出の狙いなどを聴くと、よりいっそう作品への理解が深まります。次のシーズンもアンテナを張って、がんばっていきます。
この記事、もう少しリファインして、ウェブページに衣替えするつもりです。リンクはったりする予定。それは追々やっていこう。まずはエントリーが大事。
次は、2010年2011年シーズンに期待すること、を書いてみたいと思いますが、おそらくは週末になる見込み。
さて、そろりとバイロイトの録音準備に入らないと。ウェブラジオのまとめをしないとイカンですね。
シルマーの「カプリッチョ」とその発音──幸福な夏の午後
また遡行更新。すまぬ。
今日は素晴らしい一日。感謝せねば。
午前中、都心で用事を済ませたのですが、そのとき今年初の蝉の鳴き声を聞きました。すっかり夏。季節の巡りははやいはやい。
それから、カミさんと待ち合わせて、近郊の友人夫妻宅を訪問しました。彼は大学の友人で、私の尊敬すべきPCの師匠。
実を言うと、彼には抜かされたんです。私が初めてPCを買ったのは、おそらくは1995年だったはず。まだWindows3.1の時代。PCショップの店員になめられてはイカン、ということで、猛勉強(?)して、秋葉原で購入しました。
そのあと、彼もPCを買うと言うことで、一緒に秋葉原について行きました。そのときは、私が彼にアドバイスする立場だったのですが、すぐに逆転されてしまう。彼のテクニカルぶりは凄くて、いまやFLASHの権威になっておられます。当時から、私のライヴに来てくれて、デジカメで写真をとって、FLASHのコンテンツを作って見せてくれたりしたものです。
私も彼も就職したんですけれど、私は不幸にもレガシーシステムの面倒を見ることになってしまったのですが、彼は今も昔も最先端を走っている。私も守りに入っていてはおられん、とまた、昨日と同じことを考えてしまいます。
とにもかくにも、奥様のおいしい手料理と楽しい会話であっという間の幸福な土曜日の午後を過ごしました。本当にありがとう。
帰宅しようと、都心のターミナル駅で乗り換えようとしたら、電車が止まっていたのですが、おかげで、駅ビルのお店でセールに行けたし。よかったよかった。
今日は、シルマーの「カプリッチョ」ばかり聴いていた感じ。キリ・テ・カナワの伯爵夫人は柔らかい。そしてシルマーの振る「月光の音楽」はゆったりとたゆたう感じ。前にも書いたかもしれませんが、この録音でのドイツ語の発音が古風な感じです。Operは、今風な発音だと「オーパー」ですが、このアルバムでは「オーペル」と発音しています。ベーム盤のヤノヴィツは「オーパー」と発音しているのですけれど。やっぱり、これは、19世紀的な発音を意識して意図的に「オーペル」と発音しているんだろう、と。
Rickertという哲学者がいますが、昔の岩波文庫や、西田幾多郎の著作では「リッケルト」と表記されるんですが、最近の読み方だと「リッカート」でしょうから。しかし、若い私はリッケルトとリュッケルトを混ぜてしまっていて、助手の先生に怒られました。
今年の秋から春にかけて、「月光の音楽」を聴いただけでボロボロ泣いていたんですが、最近は涙が出てこない。別に嫌いになったからというわけじゃない。たぶん、心がかさついているだけ。今年度に入ってから、私を取り巻く環境が大きく変わったからだと思う。この変化はおそらくは、あまり良いたぐいの変化じゃないんだと思いますが、まあ、いろいろありますから。良い風に変わったこともあるんですから。