平日は、黙々と働き、休日も黙々とタスクをこなす。休む間もなく。まあ、身から出た錆ですので仕方がありません。何はともあれ音楽があることと、こうして何かを書くプラットフォームが存在するだけでもありがたいと思います。
2009年/2010年シーズンも無事に終わりました。しばらくオペラ観劇はお休みですが、7月の予定をざっくりと。
ちょっと、書かねばならない文書がありますので、それを月内に終わらせる。そのためには、毎週5枚のレポートを書かねば間に合わない。それから、会社のeラーニングをやること。これも一週間に3レッスン終わらせないと、100レッスン終わらず、受講料が天引きされてしまう。7月は忙しい。暑いし。
7月末はバイロイトですね。
“http://www.bayreuther-festspiele.de/":http://www.bayreuther-festspiele.de/
「リング」は、昨年に引き続きティーレマンが振ります。「パルジファル」もガッティが再び。「トリスタン」はお休みのようです。今年はシュナイダーが出ないのが残念。こちらもウェブラジオでエアチェックする予定。昨年は「リング」も「パルジファル」も録音失敗していますので、今年こそはなんとか成功させねばなりません。なかなか難しいのですが、がんばりましょう。
今、音楽之友社「作曲家・人と作品シリーズ ワーグナー」を読んでいますが、うーむ、面白い。新潮文庫版のワーグナーの伝記を数年前に読みましたが、この本のほうが充実している気がします。
それは、とりもなおさず、私のワーグナー視聴量が増えたからにほかなりません。この本の特徴はワーグナーの死で終わらないところ。ワーグナー死後、現代に至るまでのバイロイト音楽祭の状況を簡潔にまとめているので、ワーグナー演奏の通史的理解を得るには実に都合のよい本で、お勧めです。
ただ、私のワーグナー歴はまだまだ浅い。読むべき本もたくさんある。聞くべき音源も無限大に存在する。一生のうちに全部読んだり聞いたりできないかもしれませんが。
っつうか、辻邦生も読みたい。でも、今は「沈まぬ太陽」の第四巻を広げてしまったので、ちょっとお預け。辻邦生の本は常に携帯することにしましょう。折に触れて読み返すと、元気が出ること間違いありません。
週末のほうが忙しいのではないか?──「ワーグナー」作曲家◎人と作品シリーズ
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」も!
吉田秀和先生「オペラ・ノート」で、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」が絶賛されていました。幸い、私もバーンスタイン盤の音源を持っていましたので、昨日の帰宅時間より聞き始めたのですが、さすがバーンスタインです。
二日かけて全曲聴きましたが、一幕聞いただけで本当に心が揺り動かされてしまいました。
バーンスタイン的な、きわめて慎重に事を運び、しかも最大限スケールやダイナミクスを導入するという、壮大気宇な演奏です。
ペーター・シュナイダーの演奏は、透き通った膜の向こう側に構築美が立ち現れるという演奏でしたが、バーンスタインの場合、ほとんど主観とか客観とか分かれない、純粋経験的境地、というぐらい心技一体の演奏に思えます。
情感たっぷりなんですが、だからといってベッタリとした甘っちょろいものではなく、深く広がる情感の池に徐々に身がゆっくりと浸っていくようなイメージです。
一般的にはバーンスタインのテンポどりは遅いほうだと思いますが、そういう意味でもこの録音はバーンスタイン的です。
あとは、録音がいいんですよ。中低音域に軸足のある、たっぷりとした音でして、聞いたとたんに没入度120%というぐらい、ほかのことが気にならなくなるぐらい。押しが強い音というわけではなく、ぐいぐいと引き込まれていく音です。
演奏はバイエルン放送交響楽団、トリスタンはペーター・ホフマン、イゾルデはヒルデガルド・ベーレンス。べーレンス、巧いです。絶妙なピッチコントロールと安定した声質。ペーター・ホフマンはちょっとべーレンスに圧倒され気味かも。
やっぱり、ヴァーグナーを聞くと、安心します。安心できる場所にとどまることは、保守をイメージさせますが、私の場合、安心できる場所だが知らない場所ですので、どんどんそこを掘り下げていくことが必要かと考えています。
記念日──吉田秀和「オペラノート」
今日は、とある記念日でしたので、仕事をハイスピードで終えて、家族で近所の街のレストランで食事を。なかなか良い気分で食事ができました。幸い私の自宅近辺では大雨に見舞われることもなく、ぬれずに帰宅できました。
最近の通勤時間はなかなか楽しくて、今週に入ってから「沈まぬ太陽」御巣鷹篇をあっという間に読み終えて、吉田秀和氏の「オペラ・ノート」を。
さすが、吉田秀和先生。本当に天才的ですね。中原中也と友達だったとか、桐朋学園を設立したとか、文化勲章をもらっているとか、伝説的な事績に触れるごとに、この方を超える音楽批評をできる方はそうそういらっしゃらないのではないかという思いを新たにします。
この本、まだ半分ほど読んだところです。冒頭に「利口な女狐の物語」を取り上げるという変化球に圧倒されて、それから私の大好きな「ばらの騎士」の考察、それから、ワーグナーのリングを取り上げる。バイロイトにおけるパトリス・シェローの演出を様々な角度から考察していらして面白いです。「ラインの黄金」で巨人が登場するところ、リアリズム的に本当に大きな巨人が出現して、思わず笑ってしまったとか。ヴィーラント・ワーグナーの新バイロイト様式に慣れた目には、シェローのある種リアルな演出が突飛に思えたというところでしょうか。
シェローの映像は、私も持っていますが、リングともなると惰弱な精神力では観ることは能いません。ちゃんと劇場にいって、5時間みっちり缶詰にされないとなかなか観ることができないというところ。これを、トーマス・マンは幸福な孤独と言っていたはずですが、私も同感です。
どうやら、前半が終わったようですが、得点は入っていないようです。これから眠るか、起きているか、ちと迷う。
新国立劇場:池辺晋一郎「鹿鳴館」
今日は本当に湿っぽい一日でした。もう夏です。昨年の今頃は屋久島に行っていたなあ、なんて。
早速、本日見てきた池辺先生の「鹿鳴館」のことを。
中劇場といういつもより小降りの箱で、凄く一体感のあるパフォーマンスでした。
男の論理と女の論理
この作品、影山伯爵と伯爵夫人朝子の対立軸が一つのポイントとなっていると思います。すべて憎悪が政治を動かすのである、という極めて現実主義的権力主義的影山と、我が子を守ろうとする朝子が知らず知らずのうちに対決しているという構図。最後はもちろん朝子は敗れ去ります。影山には何らの傷もつかない。朝子は、影山と別れて、影山の政敵である清原の元へ向かうことを示唆しますが、劇の最終部の銃声で、清原の死が暗示されています。男の論理の完全勝利。
だが、どうにもこれには釈然としないのです。本当に影山は完全勝利を得たのか? やはり朝子を失ったことは疵ではないのか? 影山は、朝子と清原に関係があったことを知って、嫉妬があると吐露しますが、影山が感情らしいところを出したのはあの場面だけ。あとは、淡々と政敵を追い詰め、さらには嫉妬を覚えた清原や久雄を始末するという結末。勝利はしたけれど、おそらくはむなしさも覚えていているのではないか、とも思えます。どうしようとも朝子との関係修復は無理でしょうから。
けれども、男の論理ではそんなことはどうでもいいのかもしれません。けれど、なぜか悔しさを覚える。朝子の敗戦が気の毒に思えるからなのか。
演奏について
歌手の方々で言うと、影山夫妻を歌ったお二方が大変素晴らしかったです。ソプラノの腰越満美さんの朝子は、実に気品溢れる演技で、歌の方もピッチの狂いも感じられず、特に伸びやかな高音域は素晴らしかったです。そうか、イタリアに留学された方でしたか。この方、実は「ばらの騎士」の元帥夫人とか、「カプリッチョ」の伯爵夫人を歌えるフレミングタイプのソプラノの方ではないか、と思いました。
影山伯爵の与那城敬さんも素晴らしかった。落ち着き払った演技で、巧かったですし、歌唱も善かった。
で、思ったのですが、やはり、日本語の歌詞を日本人が歌われると実にしっくり来るのですよ。ごくたまに感じる物足りなさなんて微塵もない。やっぱり日本語の歌詞は日本人のためにあるのだなあ、と。なんだか偏狭なナショナリスト的言動ですが、正直な感想です。ドイツ人のネイティブスピーカーがドイツ語を歌う日本人を聴いてどう感じているのか、ちょっと分かった気がします。
音楽は、もうなんというか、いろいろな要素がミクスチャされたもの。調性はめまぐるしく変わりますし、鹿鳴館の舞踏シーンのシニカルな音楽は、鵜山仁さんの、これまたシニックな演出と相まって、鹿鳴館時代の日本の一生懸命さを皮肉っぽく表現していました。
今の日本のオペラも、鹿鳴館時代と同じなのかもしれない。そうした批判意識があるのでは、とも深読みしてしまいました。
それから、飛田をセリフなしにしたのは第正解。怪しさ満点で、政治の裏でなされているダーティーな仕事を示唆していて効果的でした。飛猿みたい。
まとめ
実に刺激的な一日。三島の文学と、池辺さんの音楽に、鵜山さんの演出が混ざり合って一つの大きな価値が生み出された瞬間に立ち会えたという幸福な一日でした。
カーテンコールの最後、舞台奥に故若杉弘さんの写真が映し出されました。カーテンコールを受けていた演奏者や池辺さんも後ろを振り返って、若杉さんの遺影に拍手を送りました。
これで、若杉さんが企画した2009年/2010年シーズンは終了です。明日はちょっと今シーズンを振り返ってみたいと思います。
マッチョなデ・グリューを聴こう──マノン・レスコーな思い出 その2
さて、今朝は「マノン・レスコー」をテバルディとデル・モナコのバージョンで聞いたんですが、デ・グリューを歌うモナコが格好良すぎて、なんだか、勇敢なるデ・グリューになっていました。ドミンゴのように甘さを加えると、まだ青い未熟な青年的な微妙な甘え具合が出るんですけれど、オテロやカラフを歌わせたトランペットの声で、デ・グリューというのはちょっとモナコにしてみれば役が足りないのかもしれません。このマッチョな男らしい歌には、凱旋帰還するオテロの姿思い浮かんでしまう。なーんて、えらそうなことを言ってますが、「マノン・レスコー」は本当に素敵なオペラ。
テバルディもすごくいいですよ。伸びがあってピッチの微妙な傷も気にならない。特に高音域の伸びは絶品です。ああ、これをお昼休みに聞ける幸せ。 iPodラヴ。
あ、もうひとつちょっと由々しき思い出。私が「マノン・レスコー」をはじめてみたのは実はBS2で10年以上前に放送されたグラインドボーン音楽祭の映像でした。たしか、なぜかジョン・エリオット・ガーディナーが指揮をしていたはず。
しかしながら、この音源だけは理解することができなかったです。やはり、VHSビデオで録画したものだったので、音質も画質もきわめて悪い状態で音楽の美しさを掬い取ることができませんでした。
あとは、これは今だから言える想像ですが、古楽派のガーディナーがプッチーニを振るという違和感のなせる事象なのではなかった、とも。演出はグラハム・ヴィックで、彼の演出である同じくグラインドボーンの「ルル」がすばらしかっただけに、ちょっと残念な思いもしました。
あのときに、環境が整っていれば、今はもっとオペラを聞けていたはず。私はこの「マノン・レスコー」の映像をみて、オペラを一度あきらめたんですから。代わりにブラームスの室内楽の世界やブルックナーの敬虔で激しい交響曲群を惑溺するようになったんです。
やはり、出会いというものは重要です。早くても遅くても巧くいかない。まあ、そういう糸の通し違いが人生を面白くしているんですけれどね。なるべくならそういうことがないように生きていこうとするのも正しいあり方ですけれど。
でも、仕事に関してだけは、糸の通し違いは決して起こしちゃいけません。それが最近見てきたいろいろな出来事から導いた結論です。
マノン・レスコーな思い出
なんだかiPodの調子がおかしい。いやな予感。。。HDD160GB積んでいること自体に無理があるのかもしれません。SSDはまだ高いので仕方がないんですけれど。
今朝は、マノン・レスコーを。
いま、追っかけで「男と女はトメラレナイ」を見ています。リアルのほうは、人形浄瑠璃を取り上げています。うーむ、オペラだけが対象ではなかったのか。。。残念。
で、「男と女はトメラレナイ」での「マノン・レスコー」の回は、マノンは「魔性の女」である、という観点から、トークが繰り広げられていて、実に面白い。
デ・グリューと愛を誓いながらも、やっぱり金持ちじゃないとイヤ、というわんばかりに、金持ちの老人ジェロンテの屋敷に転がり込み贅沢三昧。けれども、デ・グリューが現れると、やっぱり心変わり。やっぱり年寄りじゃいやなの、みたいな。デ・グリューも人がよすぎる。「魔性の女」マノンに完全にイカレテしまっている。姦通罪で有罪になったマノンを追っかけて、辺境の地、ルイジアナまでいってしまうんですから。
しかし、「魔性の女」、いますよねえ。被害者を何人か知っていますが。。。「男と女はトメラレナイ」では、鴻上尚史さんがゲストだったのですが、一度「魔性の女」に引っかかってしまい、あまりの辛さに、仕事を入れまくって、しのいだそうです。なるほど。仕事入れればいいのか。
今日の魔性の女、マノンを歌うのはマリア・カラスです。古いモノラル録音ですが、音質はかなりいいです。指揮はセラフィン。デ・グリューはジュゼッペ・ディ・ステファノ。この方は激烈な人生を送っておられる。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BC%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%8E":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BC%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%8E
マリア・カラスの声は、私には硬質に思えます。むしろ、ちょっと硬すぎるのかもしれない、と思うぐらい。ピッチも微妙な部分があるかもしれない。でも存在感はすごい。きっと、実演だとものすごいことになるんでしょうけれど。私のデフォルト盤は、シノポリ&ドミンゴ&フレーニ盤です。フレーニの柔らかみを帯びた声のほうが好みかもしれない。今は、ですが。
「マノン・レスコー」は、新国立劇場でも次シーズンで上演が予定されています。
私は、一度だけ実演に触れています。2003年にミュンヘンでアンドレアス・ホモキの演出で見ました。
これは、2004年にミュンヘン行ったときの写真。ちと威張って立ってみました。まだリーマン・ショックを知らない時代。
ミュンヘンの「マノン・レスコー」の読み替えは凄烈でした。もちろん、会場はバイエルン・シュターツ・オーパーなんですが、幕が開くと、舞台も、同じシュターツオーパーで、客席に座るわれわれの頭上にぶら下がる巨大なシャンデリアがそのまま舞台上にも現れたんですから。合唱は正装したオペラ観客に扮していて、みんなプログラムなんかを持っているんですよ。警官役は歌劇場の守衛の制服を着ているんです。マノンが捕らえられるシーン、あそこは、マノンが覚せい剤を持っていたという設定になっていて、警官役がマノンのハンドバッグを取り上げると、中から白い粉が舞台にばら撒かれるという仕掛け。リアリティが刺激的過ぎる。
これが、くだんのシャンデリア
当日は、全四幕を連続して2時間休みなしで演奏。指揮は誰だったんだろう。当時のリブレットにはファビオ・ルイジの名前が書かれているのですが、絶対に違う。もっと年配の職人気質的指揮者だった記憶が。ちょっと探してみないと。。
ともかく、演奏者も、客席も、私も、強烈な集中力のなかで舞台は進行していって、あっと今の2時間。あれほど集中したオペラはそうそうありません。私は舞台に向かって一番左端の一番前という席で、目の前がオケピットでした。インテルメッツォの恍惚感が忘れられません。昨日のことのようだ。
ホモキ氏って、1960年生まれなんですね。若いのにすごい。ホモキ氏は、新国立劇場でも「フィガロの結婚」、「西部の娘」を演出しています。「フィガロ」のほうも斬新な読み替えでエキサイティングしたおぼえがあります。これも2003年のこと。「西部の娘」は2007年でした。ダンボールを巧く使った演出で、現代アメリカに読み替えていました。
来シーズン、「フィガロの結婚」が再演されますので、こちらでアンドレアス・ホモキ氏のアグレッシブな演出を楽しめます。私も観るのは二度目になりそうですが、楽しみですね。同演出異歌手に巡り会えるのも新国立劇場がしっかりしてくれているからこそ、ですから。
期待膨らむ新国の「トリスタンとイゾルデ」
うーん、すごいなあ、シュナイダー師。昨日に引き続き「トリスタンとイゾルデ」第二幕を聞いているんですけれど、絶妙なテンポの揺らし方がすばらしくてため息が出てしまう。第二幕の白眉はトリスタンが登場して、二人で歌い続けるところでして、まあ、現実の恋人達はあんなにたくさん歌うことなんてないかもしれないんですがね。意外にも、というか、やっぱりというか、ブランゲーネ役のミシェル・ブリートさんもいいんですよねえ。見張り台に立って、「二人ともいちゃいちゃしないで注意しないとだめよ~」と歌うところ、最高ですね。
「トリスタンとイゾルデ」は、来年1月に新国立劇場の新製作で登場します。指揮は、欧州で大活躍の大野和士さん。イゾルデはもちろんイレーネ・テオリン様! ブランゲーネはなんと、エレナ・ツィトコーワというコンビ。想像しただけでゾクゾクきますね。
エレナ・ツィトコーワの思い出。
ツィトコーワの実演に接したのは4回ですね。
まずは、2003年だったと思うのですが、新国立劇場で「フィガロの結婚」のケルビーノを歌っていたんですが、それはそれはすばらしかった。華奢な体だというのに深みのあるメゾ的ソプラノで、すごく感嘆した覚えがあります。
次が、私の中では人生最良最大演奏のひとつとして数えている新国立劇場2007年の「ばらの騎士」のオクタヴィアン。美人なのに、ショートカットにして、男装すると、それはそれは格好のよいオクタヴィアン。演技も巧い巧い。第三幕の、オクタヴィアン役のソプラノが女装するという不可思議な演技を十全に演じていて、私はもう涙が止まらなかったですよ。
それから、彼女は、昨年2009年の「ラインの黄金」と「ヴァルキューレ」でフリッカを演じました。けれども、フリッカにしてはかわいらしすぎてちょっと拍子抜けしてしまった。フリッカといえば、ギリシャ神話で言うとヘラのような存在で、ヴォータンにしてみれば口うるさい妻といった、ちょっと癖のある役柄なんですが、ツィトコーワは美しすぎたんですねえ。もっと体格のたっぷりとした方だと似合ったのかも。でも、声はすばらしかったです。
期待膨らむ新国の「トリスタンとイゾルデ」
で、来年1月に、ツィトコーワは新国の「トリスタンとイゾルデ」でブランゲーネを歌うのですよ。しかも、テオリン様と競演とは! お二人はどう見ても対照的。きっと、強き女性たるイゾルデと、従順で忠実で、ちょっと気を利かせすぎてしまったブランゲーネという感じで、しっくり来るパフォーマンスになるんじゃないでしょうか。期待は膨らむ膨らむ。
ただ、このオペラは、長いのが欠点。体に十分に音楽をしみこませておかないと、最後まで聞きとおすのはつらいかも。私も2008年の秋に、バレンボイムがベルリン・シュターツオーパーを振った「トリスタンとイゾルデ」をNHKホールで聞きましたが、かなりつらかった記憶があります。風邪引いていましたし、前々日にイタリア旅行から帰ってきたというかなりハードなスケジュールでしたから。
そうこうしているうちに、第二幕の盛り上がりのひとつの頂点、愛の死のテーマに入ってきました。ロバート・ディーン・スミスとイレーネ・テオリンの二重唱炸裂中。
あ、昨日知ったんですが、ロバート・ディーン・スミスって、新国で 「 -ローエングリン- ワルキューレ」に出ているんですね。今度、新国の情報資料室に入り浸ろうかと画策中です。
つれづれなるままにひぐらし──シュナイダー師「トリスタンとイゾルデ」
うーん、昨日無理したらしく、今日はなんだか気が抜けた一日になってしまいましたが、オペラばかり聴いて過ごしていました。ちと散漫な聴き方でしたけれど。
さすがに、毎朝五時半過ぎに起きて、仕事でフルフル働いて、土曜日はジムに行き、で、この暑さと来れば、ちょっと無理した感じかもしれないですねえ。
Twitter風に。。
* 昨日ご紹介した、ハーディングやシュテンメの「トリスタンとイゾルデ」をもう一度聴きなおしたり、NHK-FMで「ドン・カルロ」を聴いたり、最近入手したパヴァロッティの「道化師」を聴いたり、シュナイダー師とテオリン様の「トリスタンとイゾルデ」のDVDをiPodに入れたり。
* オペラ、もっとガツガツ聴かないと、と思います。がんばらんと。
* あとは、古いノートにWindows7を入れたり、なんやかんやと。あっという間の一日でした。
* しかし、Windows7は、軽くていいOSです。
* あ、今読んでいる本、凄いです。読み終わったらブログに書きます。
* 久々に髪の毛切っていただいたら、頭が軽い、軽い。今まで三頭身でしたが、ようやく五頭身ぐらいにはなった気がします。
で、早速テオリン様のイゾルデが凄いことを実感。幸せ。シュナイダーの指揮は本当に素晴らしい。抑制され、羽毛のように快い弦の響きは、おそらくはバイロイトの絶妙な残響とあいまって、恍惚感さえ感じます。
この音源において、シュナイダーが最高に素晴らしいのは、第二幕の最後、メロートを刺し殺したあとのアインザッツですね。いつもここで、えもいわれぬ感覚、魔法にかけられたような気分になります。
ああ、そうこうしているうちに、絶妙なテンポの動かし方にまた感動してしまう。決して大きくテンポを揺らすことは決してないのです。すべてが抑制された微妙なテンポ取りなのです。あまりにテンポを揺らすのは、見え透いた感じであまり感心しなくなってきたんですが、シュナイダー師のテンポの取り方は、自然で上品で高貴ささえ感じます。
今年はバイロイトに登場しないシュナイダー師。たしか今頃、ウィーンで「カプリッチョ」を振っていて、来月はチューリヒで「ばらの騎士」を振るはず。いずれもプリマはフレミング。私は仕事で絶対に行けません。無念。
シュナイダー師のファンクラブってないのかな。嵐みたいに。
あとはシュナイダー師の古い音源を入手したいのだが、あまりないんだよなあ。このDVDが出たのもほとんど奇跡的だと思いますし。
すごい。シュテンメのイゾルデ!
うーむ、やっぱり、ニーナ・シュテンメは凄いですね。
iTuneで、何気なく選んだ、昨年の冬に録音したニーナ・シュテンメ、ペータ・ザイフェルト、ダニエル・ハーディングが演奏する、「トリスタンとイゾルデ」の第二幕抜粋版の音源。聴いているのは2009年1月に、ダニエル・ハーディングが振ったウェブ・ラジオ音源。
ニーナ・シュテンメの中低音域に翳りを含み憂いを帯び、それでいて矜持を失わない強さをも含んだイゾルデに甘い痺れを覚えます。この音源、何度か聴いているのですが、こんなに凄かったのか、と改めて感涙。
シュテンメは、ドミンゴとも「トリスタンとイゾルデ」の録音をしていますが、こちらの音源は遙かに緊張感がある気がします。
それは、やっぱりハーディングの音作りによるのかもしれません。ハーディングの指揮は、かなりドライヴしています。速度は少々早めで、妙なアゴーギクを聴かせることなく、アスリートのような引き締まった筋肉質の音作り。いやあ、いまちょうど1時間ぐらいのところなんですが、ハーディングの牽引力は凄いですよ。ぐいぐいと緊張感を引き上げていく。音量のうねりと微妙な速度調整でグルーヴしている。鳥肌が立つぐらい。
トリスタンのザイフェルトも素晴らしいです。倍音域は少々高めで、切迫感があって、追い詰められた男という感じ。
実は、幸いにもニーナ・シュテンメの実演に接しております。2007年の秋にチューリヒ歌劇場の来日公演「ばらの騎士」の元帥夫人がシュテンメでした。あのときは、かなり神経質な元帥夫人を演じていて、演出的に少し違和感を覚えた記憶があります。それから、声の質感の印象もあまり強くないのです。
ですが、その後、「四つの最後の歌」や「サロメ」最終部が納められたCDで感動を新たに。
EMI Classics (2007-02-28)
売り上げランキング: 501517
元帥夫人のような包容力のある女性よりも、サロメやイゾルデのような強さを持った役が似合いそう。そういう意味では、ブリュンヒルデを聴いてみたいです。
また日本にいらっしゃらないかなあ。
音楽でゾクゾク来たのは久々かもしれないです。最近、忙しすぎて感動する暇がないんですが、今日は久々に早起きができて、感動する余裕が出てきた感じ。
ニーナ・シュテンメ(ソプラノ)カタリーナ・カルネウス(メゾソプラノ)ペーター・ザイフェルト(テノール)ブリンドレイ・シェラット(バリトン)ダニエル・ハーディング指揮スウェーデン放送響
ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」第1幕への前奏曲と第2幕
(2009.1.24 ベルワルド・ホール)
今日もこれから、都心に出かけて、お昼に地元にとって返して、ジムやら図書館やら。頑張ろう。
しかし、肩こりがひどいな。
ホセとカルメン─男と女はトメラレナイ
昨日に続き「カルメン」がらみ。
ここのところ、録りためていた「スコラ」と「男と女はトメラレナイ」を順調に消化しているのですが、両番組とも本当に興味深いです。「スコラ」は音楽的に興味深く、「男と女はトメラレナイ」は、ああ、こういうことを女性たちが話しているのね、みたいな、感じ。前にも書いたけれど、是非アルコールを入れて語って欲しい。
スコラ 坂本龍一 音楽の学校
“https://museum.projectmnh.com/2010/04/22094240.php":https://museum.projectmnh.com/2010/04/22094240.php
男と女はトメラレナイ
“https://museum.projectmnh.com/2010/04/30212528.php":https://museum.projectmnh.com/2010/04/30212528.php
それで、昨日見てきた「カルメン」に重ね合わせてみると……。
やっぱり、女性は実に現実的。いつも引きずる外れくじを引くのは男と決まっているらしい。「カルメン」のホセなんて、本当手にその典型です。帰営ラッパが鳴り響いて、兵舎に戻らないと、とホセがサラリーマン精神を発揮するのを、カルマンは、なによ、私と仕事どっちが好きなのよ、とすごんでみせる。しまいには密輸団の仲間にさせられてしまって「自由、最高!」みたいな勘違いな状態。最後にはカルメンに愛想を尽かされ、カルメンを刺し殺すだなんて。
こんなの、本当に今のサラリーマン哀詩に他ならない。私は、もう、ホセが意地らしくて仕方がない。ああいう運命をたどるサラリーマン男子は少なくないはず。ニュースになるのはそのひとかけらです。ハインリヒの法則。
“ハインリヒの法則":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
それに対して、やはり女性は強い。女声も強いですが。常に現実を見極めながら、悪意が湧き出でる現実という沼沢地のか細い道を、きちんと歩み進んでいく。
そうした姿を、この一ヶ月間、たくさん見てきた気がします。「カルメン」しかり、「女たちのジハード」しかり。
あっしらもがんばらんとなあ。負けまへんで。
次の新国立劇場は今シーズン最後、池辺晋一郎さんの新作オペラ「鹿鳴館」です。土曜日にオペラトークに出かけてきたのですが、そのことについてちょっと触れていこうと思います。