Johannes Brahms,Miscellaneous

先日発売になったApple TV 4Kを導入してみました。

目的としては、居間で音楽を気兼ねなく聴くということと、Macの画面を居間のテレビでシームレスに映したい、というのが目的ですが、1日使った感じでは良い感じです。とにかくiPhoneを使わずにAppleMusicを使えるのは気楽です。

とはいえ、こういうレビューのような記事は、往々にして最初の印象となりがちです。一定の期間使わないとその善し悪しは分からないはずで、Apple TVもやはりそうなんだろうな、と思います。

現在のライフスタイルは、映画を見る時間を作っておらず、代わりに読書時間を増やしているので、映画のような動画をみることもあまりないでしょうし、ゲームもいまはまだしない感じ。

とはいえ、なにかテレビがApple製品と繋がるというのは、また囲い込まれてしまった、というヤラレてしまった感はありながらも、シームレスにものごとを進めると言う観点では、生活の質があがるのでは、と言う期待を持っています。

数ヶ月後に感想を書こうと思ったときに、どんな感想をかくことになるのか……。きっと良い感想ではないか、と期待しています。

さて、今日もやはり、ブラームスを聴いて過ごした感じです。アバドのブラームス大一番。何度も何度も、浮かされたようにこの半年間聞き続けている感じ。第一楽章冒頭のテンポ感を聴くのが主目的になっていますね。。ラトルの演奏も聴いてみましたが、テンポ感が一番フィットするのがこのアバド盤です。少し遅いテンポ感で広大な空間を想起させるもので、これ以上遅くなっていくと空間がガラガラと崩れてしまうところ、ちょうど良いバランスで崩壊寸前の美しさを現前させている、と思います。

明日の東京地方は久々に晴れるとのこと。雨も趣深いですが、やはり太陽の光が恋しいですね。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tohmas Mann,Tsuji Kunio

 辻邦生が小説を書くにあたって参考にしていた本はなにか、という問いに対して、奥様の辻佐保子さんはトーマス・マンの「ファウストゥス博士の成立」を挙げておられました。これは、1994年の辻佐保子さんの講演会で直接肉声をもって私が聴いたことでした。早速この「ファウストゥス博士の成立」を購入したのを記憶しています。確か池袋の今はなきリブロにて。定価で買いましたので今確認すると4,500円もしていたようです。

 その後、ずっと書棚に収まっていてなかなか読む機会もなく、という状態でしたが、今週から少しずつ読み解きを始めました。

 マンが「ファウストゥス博士」を書き始めたのはアメリカ亡命中の1943年ですが、その当時の日記を引用しながら、「ファウストゥス博士」執筆にいたる状況をドキュメンタリーのように淡々と振り返るルポルタージュと感じます。ヨーロッパ戦線やアフリカ戦線の状況が、ロンメル、モンゴメリ将軍といった聞き知った人物名や、ソロモン海戦という地名とともに書き記されつつ、アメリカ国内のパーティの様子や、孫との団らんといった、戦時下とは思えない状況も書かれていて、その現実世界における戦争と平時のアンバランスを感じつつ、さらに、「ファウストゥス博士」のなかにおいても、現実と虚構がいり混ざる感じが、臨場感とともに書かれていて、これはこれで一つの文学である、と感じました。

この作品に付きまわっている独特な現実性の特色を示すことなのである。その独特な現実性というのは、一面からみれば技巧なのであって、レーヴァーキューンなる人物の作曲や伝記という虚構を、厳密に、煩瑣にわたるほどに、現実化するための遊戯的な努力のことであるが……

小説の人物と現存の人間とが現実性においても非現実性においてももはや区別がつかないようにしてしまう

それが現実のものらしく思われて、耳に聞え、本当のものと信じられる

引用したこれらの文章は、虚構を現実として見せることがこの作品の特性である、と見ています。

 これは、本当に辻邦生が小説を書く姿勢そのものだな、と思います。辻文学は理想すぎる、ということが言われますが、理想という虚構を厳密に、煩瑣にわたるほどに、現実化していて、逆に、現実を理想のために、虚構のなかで現実化することもあるはずです。昨日書いたフィレンツェのホテルも、看板の出方が異なっていたり、駅から少し離れていたりと、現実のレオナルド・ダ・ビンチホテルとは異なっているのですが、もしかすると、辻邦生の文学的「現実」においては、それが「現実」であったということなのだ、と思います。

 出典は差し控えますが、辻邦生は、小説で描かれた名勝に小説の読者が実際に行ってみる、という行為を否定的に捉えていたことを思い出しました。小説に描かれた名勝は、小説の中における名勝であって、現実の名勝とは全く断絶しているわけです。

 おそらく、一般的には現実と小説の中の「現実」(文学的「現実」)は同じであるべきで、そうでなければ、批判される向きがあるのかもしれませんが、それは区別して考えるべきでしょう。

 それにしても、この「ファウストゥス博士の成立」に登場する人物達は、有名人ばかりです。アドルノ、ブルノ・ワルター、アルトゥール・ルビンシュタイン、ストラヴィンスキー、ホルクハイマー、フランツ・ヴェルフェル・リトヴィノフ、パウル・ベッカー……。

 華麗な社交ととるか、亡命者たちのグループとみるか……。いずれにせよ、多くの才能がアメリカに集まっていたと言うことなんでしょうね。ちなみに、リトヴィノフは、ソ連大使ですので少し違いますが。

 読んでいるうちに、辻邦生が書いた文章ではないか、と思ってきたりしてしまいますが、この「ファウストゥス博士の成立」を読んで、辻文学の秘密をもう少し読み解いてみようと思います。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

ぐずついた天気が続きます。一ヶ月前、あんなに晴天に恵まれていたというのに、なんだか別の星に来てしまったようです。
休憩中にTwitterをのぞいてみると、辻邦生のホテル評をまとめたページに行き当たりました。

https://yangsen65-highstreet.com/%e4%bd%9c%e5%ae%b6%e3%81%a8%e3%83%9b%e3%83%86%e3%83%ab/?fbclid=IwAR1N4_0XsN2zN0wj-_QiPPr1YEq17fFHaVDW3fofM2RI39tzEF0Kb22eR2E#%E8%BE%BB%20%E9%82%A6%E7%94%9F

辻邦生とホテルというとこんな思い出があります。

 

辻先生がイタリアを旅する旅行記である「美しい夏の行方」で、フィレンツェのホテルの話が出てきます。「レオナルド・ダ・ヴィンチホテル」に泊まろうとした辻先生は、その風情に大変失望したようでした。

細長い切り抜き文字の看板が縦に「LEONARDO DA VINCI HOTEL」と出ていた。しかし隣の建物の正面がそれよりもすこし前に迫り出しているため、車がそばに近づくまでは見えなかった。(中略)ぼくはこの正面の印象だけで、いやな予感がした。金属パイプの手すりのついたコンクリートの階段にしても、なんだかあまり実用一点張りで、場末の水族館の入口とか、さいはての空港建物の屋上への登り口とかを連想させる。(中略)夜食事まで部屋に休んでいると、時々スピーカーでアナウンスの声がする。そして汽車が通ってゆくらしく、建物がぐらぐら揺れる。僕は思わず椅子から飛び上がって、二重窓を開けて覗いてみると、そこは駅なのであった。

私は、かなり前にフィレンツェに行ったことがあります。夕方、遅い時間にフィレンツェ空港に到着し、中央駅へとバスで向かいました。駅に着こうとするときに、窓からHOTEL LEONARDO DA VINCIが見えたのでした。私は、この「美しい夏の行方」の挿話を覚えていましたので、とっさにバスから写真を撮ったのです。

Google Mapで確認すると、確かに、このホテルは駅のそばです。

https://g.page/hotel-leonardo-da-vinci-firenze?share

 

私の記憶通りでした。

辻先生の記述と、看板では、HOTELの位置が違いますが、ここが辻先生が泊まったHOTEL LEONARDO DA VINCI なのでしょうか。おそらくは立て替えられたりして印象は違うのかもしれませんが、確かに、駅から遠くはなく、レオナルド・ダ・ビンチの名前を関したホテルということですので、関連がある可能性がたかいのだろうな、と思いました。

ただ地図をみると、線路からは少しだけ離れていて、「二重窓を開けてのぞいてみるとそこは駅なのであった」という表現はあてはまるのかどうかはわかりません。

まあ、ここは、もしかすると、イマージュのなかで、辻先生が作り上げた「現実」なのかもしれない、などと思いました。必ずしも、文学作品は、我々が普通に見聞きする現実に忠実である必要はなく、文学作品の中に立ち現れる「現実」においてリアリティがあればよいわけです。「美しい夏の行方」と、私が実際に見て写真をとったHOTEL LEONARDO DA VINCIは一致する必要せいもなく、あるいは辻先生が実際に泊まったLEONARDO DA VINCI HOTELと、「美しい夏の行方」に描かれるLEONARDO DA VINCI HOTELは同じものである必要もないわけです。

文学における「現実」というのは我々が思う現実とは違うものなのだ、ということを考えさせられる、私のフィレンツェの思い出、でした。

というわけで、久々に辻先生のことを書くことができてほっとした感があります。

どうも「現実」ということを考えないといけない時期に来たようです。

ということで、みなさまどうかよい夜を。時季外れというべきか、梅雨前線による大雨が心配されています。どうかお気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Johannes Brahms

ブラームスの4番を聴く日々。今日は有名なクライバーによるものを聴いています。最近は第二楽章に心を惹かれます。自然を描いている感覚もあれば、途中で重厚なフーガが登場して、驚く場面もあります。第一楽章も荘重と壮麗も心に染み入ります。真善美という古い倫理美学規範があり、昔哲学科の先生に大笑いされたことがありますが(まだそんなこと信じてるの?!と)、なにかそういう不利?規範がブラームスに生きているのではないか、と考えてしまいます。

本当にこのところブラームス漬け。

今朝もジュリーニのドイツレイクエムを聴いたり。ロスレスになるともっといい音で聴けるようになるだ、と思うと今から楽しみで仕方がありません。

さて、とにかく、仕事が佳境な一日でした。あまりにワクワクしすぎて、会議が終わったあと、発熱してしまうという。演技力が試されます。先週末は休日仕事でしたので、休みなく?働いている感もあり、身体制御が巧くいっていないのかもしれないです。プールで冷却したいところですが、緊急事態宣言でプールは休止中です。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Peter Ilyich Tchaikovsk

東京地方は雲の垂れ込めた湿気の多い一日でした。梅雨入り間近なのでしょうけれど、まだ梅雨には入っていない模様。

ですが、潤いのある涼しい風が部屋の中を吹き抜けるのはそんなに悪い物ではありません。なにか一年ぶりに会う懐かしい友のような感じです。こうした一年ぶりに季節を巡るということは、懐かしい友人達と会うと言うようなものともいえます。それも命ある限り必ず会うことのできる友人達です。

私も一般的には中年期で、コロナ感染者の年齢区分で言うと「若い人」になるようですが、友人達と会う回数も意識できる数になりつつあるのでは、と言う思いもあります。

今日は、カラヤンの古い映像を見まして、なかなか感慨深いものがありました。

カラヤン×バーンスタイン よみがえる伝説の名演奏

ドイツで冷凍保存されていた巨匠たちの名演、35ミリネガフィルムを8Kの高精細映像と立体音響でリマスター。新しい映像コンテンツに生まれ変わりました。その魅力をハイビジョン映像でお届けします。▽ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/交響曲第6番「悲愴」~チャイコフスキー▽レナード・バーンスタイン指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/交響曲第5番~マーラー

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」をもちろんベルリンフィルを率いて振りまくるカラヤン。目を閉じて振るさまは、王者か宗教家かという感じです。

そして、映像的に、ああ、これ、ヴィスコンティだ、と思いました。クラシックのコンサート映像でありながらも、耽美的なトーンに彩られていて、古い映画を見ているようにしか思えませんでした。もちろん、それはビデオによる収録ではなく、フィルムによる収録ですので、色合い風合いが映画的であるということもありますが、構図やライティングが上質な映画のそれに匹敵するもので、音楽もさることながら、映像をみて、本当に70年代的美しさだな、ということを感じました。構図の中央にカラヤンがあり、オーケストラや観衆のまっただ中にあって、一心に注目を浴びるカラヤンの圧倒的なカリスマは、あえてもう一度述べると、やはり王者か宗教家だなあ、と思いました。

おそらくは、以下リンク先の映像と同一と思われ、相だとすると1973年の映像となります。すでに半世紀前の映像となるわけですが、それであっても、聴きながら涙をおさえることができず、それは美しさ故か、あるいは現世と彼岸の断絶が故なのか、いまはまだよく分かりません。いずれにせよ、こうした映像が地上波で放映されることのありがたさはこのうえないのと思います。

https://www.phileweb.com/news/d-av/202001/31/49635.html

明日はバーンスタインをみてみようかな、と思います。

毎日外向けの文章を書くとうことを自分に課してみようか、とおもい、少なくとも6月末まではそれを続けよう、という感じです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Apple Music

はじめに

ニュースを見ていたらワクワクするニュースが出ていました、

Apple Music、ドルビーアトモスによる空間オーディオを発表、さらにカタログ全体がロスレスオーディオに

https://www.apple.com/jp/newsroom/2021/05/apple-music-announces-spatial-audio-and-lossless-audio/

新しいものが好きな私にとってはワクワクするニュースです。Apple Music のヘビーユーザ?としていろいろ思うことがあり、久々に少し書いてみようと思いました。

Apple Musicを振り返る

Apple Musicができてから何年たったでしょうか。このブログでも何度か取り上げました。

私にとっては本当に革命的なプロダクトで、音楽生活が充実するとともに、これまでの音楽生活との決定的な断絶を感じ、さまざま考えてきた感があります。

https://museum.projectmnh.com/category/apple-music

Apple MusicはTowerを倒すのか、という4連続の記事を書いていました。

今読むと面白いです。昔の自分は半分他人です。よく書いたもんだ。。これを読むと2015年7月からApple Musicを使い始めたことになるようです。6年しか経っていないのか、という感もあります。もっと昔から使っている感覚がありますので。

Apple Musicなどのサブスクリプション型音楽サービスで決定的になったことは、音楽のコモディティ化といった問題もさることながら、音楽を聴いていないことへの言い訳ができなくなった、ということです。結局聴く気があれば音楽はいつでもどこでも聴けるわけです。そうした状態において、とある演奏を聴いていないということは、単純に人生の中で優先度を下げた、ということにしかなりません。かつては、CDを持っていないとか、お金がない、といた言い訳がありましたが、そうした言い訳はなくなっていますのです。そうすると、音楽鑑賞という行為は、写真と同じような選択芸術になってしまうわけです。いま、ここに居合わせて、何を聴くか、という選択が全てを決定するということです。自由というのは責任を伴いますが、音楽を聴くという行為も、やはり選択の責任が問われるものとなり、その責任は、自分の音楽人生を左右するものとなり得るわけです。

あるいは、Apple Musicを聴く人間は、おそらくはCDを買うことはないでしょう。そうなると、Apple Musicにない音楽は存在しない音楽となってしまいます。Amazonで買えない本は存在しない。Apple Musicに存在しない音楽は存在しない。そういう時代が来ている気もします。SpotifyでもAmazon Musicでもおなじことです。プラットフォーマのヘゲモニーに支配される音楽というものは、もちろん利点もあるのでしょうけれど、なにか「1984」的な危うさも感じるのです。

Apple Musicが変わる

で、前置きが長いですが、そのApple Musicの音質が変わるというニュースが入ってきました。

ドルビーアトモスは、空間オーディオ。どうやら、Air PodsやBeatsといった、Apple 純正のヘッドホン・イヤホンで空間オーディオが有効になるようです。

そして、ロスレスオーディオ。これはおそらくはあまねく利用ユーザー全体に音質向上という恩恵をもたらすものになるはずです。

前者について言うと、BOSE信者の私もついついAirPodsのページでさまざま調べてしまいました。そういえば、最近は会社の人達のほとんどがAirPodsでWeb会議に臨んでいるような印象もあり、私も買おうかな、という物欲のささやきに一瞬とらわれそうになりました。ダークサイドにはまるところで、オビワンに助けられた感があります。おそらくは、純正ヘッドホン・イヤホンの売上向上につながるのでしょう。

一方で、ロスレスオーディオ。いままでよりぼもビットレートが上がりますので、外で愉しむためには、パケット通信量が増えることになります。私は古いタイプの契約で、一月7GBですので、そろそろ20GBのプランに変更することを検討しなければならなくなります。古いガラケーのメールアドレスは捨てることになりそうです。

ともかく、音質がかわれば、心がかわります。確かに、どんなに良いヘッドフォンを使っても、AppleMuiscの音には限界を感じることがあるのも事実です。音の厚みや実体感というものは、少なからずフラストを感じることがありますので。そうした事案が改善するとすれば、ありがたいことには違いありません。しかも追加コストがないのですから。

あらためて音楽を考える

それにしても、音楽も文学もそうですが、こうやって徐々にコモディティ化して行ってしまうことへの不安は感じるわけです。恩恵を感じながらも、そこにある種の危険や不安を感じてしまうということです。それは、もしかすると記憶のせいなのでしょう。加齢による記憶です。18世紀の人間は、まだ分業されていなかった17世紀を懐かしむという話を辻邦生のエッセイで読んだことがあります。昔の方がよかったという考えは、善し悪しあるのでしょうけれど、経験を積んだ人間にとっては、それが悪しである前提にたつぐらいがちょうど良いのかもしれないです。昔の方が良かったというバイアスのほうが強いでしょうから。そうだとして、こうしていつでもどこでもなんでも聴ける音楽が、高度化し、コモディティ化していく、という事実を捉えたときに、消費者として、あるいは芸術の享受者として、あるいは自身が音楽を作る担い手となるとして、そのそれぞれの観点において受け止め方が違うと言うこともいえます。

消費者としては、コンテンツの値段が明らかにさがり、質が上がるわけで良いことづくめでしょうが、それが芸術的に受け止められるのかというと、ベンヤミン的な観点で、アウラを喪った音楽の価値が下がってしまうと言うこともいえますし、担い手となるとすれば、これまでよりも広いマーケットで勝負できる機会を得ることでもあり、逆にコモディティ化することにより収益が下がってしまうと言うことになるわけです。

神のための音楽が、王侯貴族のための音楽となり、市民革命の原動力になるまでの力を持ち、その後は資本主義の中で商品として高度化していった音楽があふれかえり、通貨価値が下がるようにインフレーションを起こしている状態で、おそらくはそうした音楽を語る場も膨大なものとなり、音楽についての言説の一つ一つの価値も失われている状態ということなのでしょう。神のための音楽が、コインで買える時代にあって、音楽、もう少し踏み込むと同じくインフレーションを起こして居るであろう文学も同じですが、そうした芸術的所産がどうやって人間あるいは人類を支える力をもてるのか、と言う課題なのだと思います。

(この芸術的所産が人間を支えると言うテーゼはもちろん辻邦生に依るものでここでは一種の公理系としてみているわけですが)

芸術は人間や人類をより善く支えるものである、という立場において、音楽がコモディティ化している現状をどう捉えるべきか。一人でどうこうできるわけではないとしても、どう考えてなにをすべきか。

結論がでるぐらいなら、すでに何かしらおきているわけで、一つの課題として捉えて、生きていくしかない、と言うことになります。

おわりに

といいながら聴いていたのは昨日とおなじく、ブラームス交響曲第4番。第二楽章はしびれます。久々に3000字書いてしまいました。まだまだですが、物量を書けば徐々に感覚も戻ってくるでしょうか。

東京地方もそろそろ梅雨のようです。どうかお身体にお気をつけてお過ごしください。おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Johannes Brahms

 先日から気になり始めたブラームスの交響曲第4番。初めて聴いたのは、ショルティがシカゴ交響楽団を振った音源で、おそらくは中学か高校の夏だったはずです。

 特に昨日からは第二楽章を聴くのが心地よく感じます。静謐な田園の風景という感じで、冒頭のホルンと木管の掛け合いが、これもまたなにか夜明けの風景で、まだ皆が寝静まっているなかを、ひとりで歩く愉しみ、という感じ。もしかするとそういう日々が訪れるのではないか、そういう愉しみ。季節はやはり夏で、山と海があって、薔薇色の朝日と飴色の夕日が見えるところで、朝と晩に、光を浴びながら散歩をするという日々。おそらくは木々が地面に落とす影を愉しみ、草の匂いを含んだ風につつまれつつ、海岸の方へ降りると、潮風と波音のなかで群青色の波面を第二楽章を聴いてそんなことを思いました。

 音源はいつものアバドが振るベルリンフィル。アバドの指揮は、この場で何度も書いていますが、しなやかな緩急で、まるで佇み感じるそよぐ風に似た温かみがあるものです。近頃はアバドなしには生きていけません。

  さしあたり今日の仕事は終えて、自分を労らないと。労働は労りながらでないと。

 それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Classical

 この言葉を聞いてどんな曲を思い浮かべるでしょうか。私はこちらでした。モーリス/ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲。

 まだまだコロナもなく、震災もなかった2004年に、新国立劇場で上演された「スペインの燦」というシリーズで、この「ダフニスとクロエ」をバレエで見ました。牡牛の角を突けたダンサー達が、舞台上で雄々しく生命力の横溢する動きを見せていたのを記憶しています。17年前ですか。

 遠い地平線の向こう側が徐々に赤みを帯びて、予兆を感じた鳥たちの鳴き声も聞こえ、最初の曙光が差し込む瞬間が圧倒的な色彩で表現されています。さらには朝日に照らされた荘重な自然の風景。そしてまた鳥の鳴き声。もしかすると、動物あるいは人間が歩いて居るのかもしれず。

 アバドの若いときの演奏をとりました。アバドのフランス音楽、あまり聴いたことがなかったことに気づきました。合唱の感じが70年代雰囲気を醸し出しています。1970年の録音の模様。

 そういえば、徹夜明けの朝3時か4時。まだくらいうちから鳥の声が聞こえることがあります。暗いうちから気配を感じる鳥たちは、かすかな光を感じているのでしょうか。

実は、今日は仕事でした。明日も仕事。仕事は24時までしかやらない、と決めていて、24時になった途端にワインを開けて飲み始めました。どうも24時からが本当の時間であるように思います。これ、今ではなく高校時代からの考えです。時間の感覚は、鳥も人間もなにか本能のような感覚によるところがあるのでしょうか、などと思ったり。

ともかく、健康第一で。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

 またまたご無沙汰してしまっています。なんだかたくさんのことがありすぎて我を忘れている感があります。とはいえ、気候も落ち着き、寒暖差はありながらも徐々に夏へと近づいているという嬉しさが湧き上がっているのも感じます。

 秋に生まれたというのに、何故に夏が好きなのか、よく分かりませんが、とにかく、太陽の光を狂ったように浴びたいと言うことにつきます。

 今日の東京地方の日没は18時39分で、半年前よりも2時間も長く太陽が出ていることになります。先日も話しましたが、太陽がでているうちにイタリアの白ワインを飲むのが目下の夢です。

 半年前と言えば、冬の暗い時期に何度も何度も聴いて心の支えにしてきたブラームスの交響曲第一番ですが、日差しを浴びながら散歩しているときに、もしかして今は四番の方が相応しいのではないか、と思いました。それで聴いているのは、アバドが振った交響曲第四番。

 アバドの指揮は、軽くもなく重くもなく、早くもなく遅くもなく、しなやかに空を舞うような演奏で、心にぴったりとフィットしてきます。ドイツ音楽をイタリア人が演奏する、というのは、なにかドイツ人がイタリアに馳せる思いが具現化しているようなものではないか、と思うときがあります。第二楽章の伸びやかな演奏を聴いていると、ゲーテがイタリア旅行をして、長く伸びる夕陽を浴びて、陰翳のある遠い西の空を眺めやるような感覚を覚えました。

 さて、これからもう一仕事です。皆様どうか良い金曜日の夜を。

おやすみなさい。

 

Miscellaneous

5月になりました。どんどん夏が近づいています。

今日は在宅勤務で、窓の外に拡がる夏の日差しを感じながらデスクワークに勤しみましたが、夕方、これはさすがに太陽の光を浴びないわけにはいかない、と外に出ました。本当に素晴らしい夏の夕刻という感じで、飴色の光に大地が浸っているのを見ているだけで、幸福感に包み込まれた気がします。日差しの色は、8月のそれにあたるのでしょうか。8月の暑熱はなく、ただただ爽やかな陽気の中にいる幸せでした。

OTTAVAというクラシック音楽を流しているインターネットラジオがありますが、ちょうどそのとき、今日は昼からイタリアワインを飲んでいますというお便り紹介があり、この日差しの中で軽い白ワインを飲むのは幸せだろうな、と思いました。ワインもおそらくは生の愉しみであることには間違いありません。過度な禁欲や節制は慎むべきもので、確かにアルコールは身体に悪いことは分かっているとはいえ、果実が遠いイタリアの地で受け取った太陽の光をワインというかたちでいただくことも悪くはあるまい、などと思ったりしました。

皆様もどうかよい5月の日々をお過ごしください。