Wolfgang Amadeus Mozart

数年前に撮った秋らしい写真。どこだったか…。

秋が深まり、日が短くなりました。日没がもっとも早まるのは11月末です。この前まで19時ごろまで明るかったはずなのに、なんて。

時間が経つのが早い、という感覚を通り過ぎて、時間の前後もなくなり、時間がひとつに重なっているような気がします。量子コンピュータの重ね合わせのような感覚。

こんな迷妄のときに聴くのは、決まってジェフリー・テイトのモーツァルト。

特に、32番と35番が思い出深く、何度となく聴いています。この清澄な感覚は格別。

かつてEMIボックスで買って、iPodに入れて聞いていました。最近はAppleMusicで。

何か辛口の白ワインを飲む感覚のモーツァルト。草原でピクニックをするときに、飲む白ワインのような。太陽の光を浴びながら、飲む白ワインは格別だろうな、と想像します。一度もやったことがありませんが、多分、そういう爽やかな愉楽を感じるモーツァルトだと思います。

安息の日々は安息の先取りから。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

今日の東京地方の予報は曇天でしたが、実際には、豊かな日差しが降り注ぐ良い一日でした。少し自転車で遠出をする用事があったのですが、近所の農地の中を自転車で走るのはずいぶんと気持ちが良いものでした。波打つように拡がる農地を横目にみて、日差しを浴びながら、冷たくなった風を頬に感じるのは、なにか日々の芥を洗い流すような気分になりました。

空は完全に秋空。うろこ雲に満ちています。東京地方の日没は16時40分。冬至まであと一ヶ月と少し。秋も深まり冬へ突入しますが、その先の春と夏の何かしらの予兆をなんとか感じようとしている、そんな感じです。

この2020年という年は、世界が大きく変わる年でしたが、2020年が終わりに近づくにつれて、なにか先行きのようなものが見えてきた気がします。個人的にも、なんだか、長いあいだトンネルの中を歩いていたような気がしますが、ギアが入り始め、歯車が正回転を始めた、そんな感じがします。できることは、せっせと本を読んで音楽を聴いて文章を書くことのはずです。あまりできていませんでしたが、また始めないと……。

Gustav Mahler

文化の日は晴れの特異日だったはずですが、東京地方は曇り空で、寂しい文化の日でした。もはや文化の日という新鮮味も感じられない茫漠とした感覚にさいなまれていましたが、こんな時には音楽を聴かないと、と思い、思いついたのがこちら。

マーラー交響曲第10番嬰ヘ長調クック版第三稿。

10年ほど前、マーラーの死に至る道程にとても興味を持ち、体調を崩してニューヨークからウィーンに帰り着きそこで息を引き取るというストーリーが映画のように思えたことがありました。

雨の降りしきるニューヨーク港に馬車でやっとの事でたどり着き、傘もさせずに、雨に打ちぬれながらタラップにようやくたどり着き、助けを借りながらようやくとタラップを昇る姿が目に浮かんだものです。

マーラーの最後の演奏会は、カーネギーホールでニューヨークフィルを振っているのですが、その演目ははブゾーニの「悲劇的子守歌」。母親の棺によりそう男の子守歌、ですからね……。

マーラーは51歳で亡くなっていますから、まあそろそろその気持ちもわかってくる時分になった気がしています。勝手な想像ですけれど。

ともかく、最近、世界の見え方がこれまでとは劇的に変わります。相転移ともいえる状態。ベルグソン的に言うと創造的進化。今が妥当なのか、遅すぎるのか、早すぎるのか。やれやれ。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

いつのまにか11月。

なんだか、1ヶ月ほど書けない状況でした。何かしらの調子が崩れたのだと思います。そのあいだも淡々と仕事していましたが、書くという活動は難しかったのです。書くことが、生活に結びついていない以上、致し方ありません。

そして、なにか、精神的には、冷凍睡眠の状態だったような気がします。ただただ、目の前を流れ去る景色を見ているだけ、のような、そんな感じの一ヶ月だった気がします。

まあすべては波です。波とは円運動が進行したものですから、これも太陽なのか月なのか、何かの天体の動きと関係があるのかもしれないです。

2020年も余すところあと2ヶ月。みなさまもどうかお身体にお気をつけてお過ごしください。

Johannes Brahms

今日は久々にリモート勤務。これまでとは違うワークスタイルにはなかなか慣れませんが、実のところ、かつてから憧れていたワークスタイルだったことに気がつき、またひとつ願いが叶ったんだなあ、と思いながら過ごしました。

自宅で仕事する最大のメリットは音楽を聴けるということ。今日はティーレマンのブラームスを合間に聞きながら、仕事をしました。

アーティキュレーションに斬新さを感じたりしながらも、安心しながら拡がりのあるサウンドを楽しんだ感じがします。とにかく音楽を聴いている瞬間は幸福でしかありません。

最近思うことは、どうも音楽を聴くとき、あるいは泳いでいるとき、あるいは文章を書いているときの幸福感が人生ないしは世界を支えているのではないか、という直感があります。こうやって人生と世界を支えることで、人生も世界も少しずつ良くなっていくのではないか、と思います。それは錯覚だとしても害のない良い錯覚なのでしょうから、現世を忘れ、ただただ今に打ち込むためには、そうした幸福感が必要なのだと思います。

いまこの瞬間、この刹那に集中すればするほど、どうやら人生がうまくいくのではないか、という直感を得ている気がします。この瞬間に永遠が宿っているような、気もするのです。なんだか、禅のような話ですし、若い頃哲学科にいたころは、全く共感できなかった議論で、教授からはそういう「体験」を戒められていた記憶もあり(勝手な記憶ですが)、封印してきたような感覚もありますが、実のところ、かつて読んだ西田幾多郎やリッケルトの哲学本に書かれていたことを今まさに体験しているのではないか、とも思います。感慨深いです。

とにかく、四つの交響曲を聴き通した感想として、ブラームスは幸福です。厳粛な第一番、典雅な第二番、悲愴な第三番、神聖な第四番。そんなことを考えられて、よかったなあ、と思います。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

Movie

先日書いた「アリスのままで」のエントリーのなかで、最終シーンで語られる挿話について書きました。その挿話の出所がわかり、うれしく思っています。

この挿話は、もともとは劇作家トニー・クシュナーの手によるものとのこと。

私の心を打った最後の部分の原文もありました。

Nothing’s lost forever. In this world, there’s a kind of painful progress. Longing for what we’ve left behind, and dreaming ahead. At least I think that’s so.

永遠に失われるものなどないのだ。たしかに、この世において歩みを進めるということはある意味苦しいもの。過去を恋しく思いながらも、将来に夢を見る。つまるところ、そういうものなのだ。

(私家訳)

永遠というのは、時間を超えて過去にも未来にもあるもの。時間と空間という形式において存在する世界において、その時間の中で歩みを進めると言うことは、戻らぬ過去を振り返りながらも、まだ来ぬ定められた将来を夢見て想像し、あるときは希望を抱きあるときは不安を抱く。瞬間瞬間の時間において生きる私たちにとっては、そうとしか生きられないと言うこと。

記憶を失うということは、過去も未来も失うのだが、つまるところ、今この瞬間を生きると言うこと。過去も未来も我々が創っているものである以上、存在しているのは「今ここ」だけなのではないか。

辻邦生の言う「今ここをに生きる」「今ここに打ち込む」ということが、最近さまざまなところで気づかされます。


10月に入り、いろいろなものが動き始めた気がします。年末に向けて頑張らないと。どんどん涼しくなる季節。どうかお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

今日は中秋の名月。素晴らしい満月。そして晴れ上がった美しい夜。

本当に月の姿は不思議です。銀色の光を地上に投げかけ、あらゆるものを浄めるような。

小さいですが、火星と一緒にとった写真。月の左側にかすかに赤白い火星がみえませんか。さすがに、普通のカメラでは撮れない……。火星は10月6日に地球に最接近。

これからお祈りをして寝ようと思います。

みなさまもどうかよい夜を。おやすみなさい。グーテナハトです。

Movie

表題の映画を見ました。昔NHKで放映されていたようで、録画のなかに遺っていたのでした。

優秀な言語学者アリスは、50歳の誕生日を迎えた。子どもたちにも恵まれ、幸福絶頂。だが、若年性アルツハイマーとなってしまい、自我を失っていく…。

自我を失うことはどういうことなのか。過去の記憶と未来の記憶を失うということは、人間としての存在が失われること、と理解していました。

しかし、どうもそうではない、とも思わせる最終場面でした。娘のリディアが創作したと思われる挿話を聴いて、アリスは必死に言葉を探し、なんとか「愛Love」とつぶやくのです。

その挿話とは、宇宙へといくつもの魂が旅立つ様を描写したものでした。

飛行機に乗って、1万メートルのオゾン層の境界へと到達すると、戦争や飢餓で命を落とした人々の魂が上ってくるのが見える。オゾンと魂の成分は一緒だから、オゾンの破れたところを魂が網のように補完していく。進歩とは、失ったものへの哀惜と未来を夢見ると言うことである……。

何をもって、その挿話をアリスが「愛」と表現したのだろうかと。「愛」にはいくらかの種類があります。昔、哲学の授業で習いましたが、アガペー、フィリア、エロス、ストルゲーの4種類。

魂を引き上げるという感覚においては、神の愛アガペーを感じたのでは、というのが普通の解釈です。あるいは、自分へと読み聞かせてくれている娘リディアの愛情か?

おそらくは、アリスは実際に魂が宇宙へと上っているのをいているのではないか? そしてその魂が神の手に抱かれ、オゾン層=宇宙と一体化している様を観ているのではないか。たしかに、そのシーンのアリスは何かを見つめるようなまなざしであるかに見えましたし……。

自我を失ったアリスは、逆になにか神々しささえ感じます。自我を失って一体何を見て誰と会話しているのか? アメリカの上流階級の生活とその中に忍び込む神秘あるいは神聖な空気という感じでした。

邦題は「アリスのままで」ですが、英語は「Still Alice」。「まだアリス」という訳を思い浮かべましたが、それは切迫し直截的がゆえに、「アリスのままで」のほうが品がいいですね。

それでは。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

日本の貧しさがそのまま精神の貧しさに直結しているような思い──それは私を何度か焦燥と不安にかりたてたのも事実だった。それで最初に取り除かれたのは、十年前はじめてギリシアでパルテノンの神殿を観たときである(中略)それまでの私は、現実の貧しさが精神の貧しさに直結していると、ほとんど無意識に考えていた。それは逆に言えば、豊かな精神、豊かな芸術は、豊かな生活の結果にうまれると信じることに他ならなかった。なるほど古代ギリシア文化が地中海公益と植民地支配による富の一結果であることは事実であろう。にもかかwらずこの精神の豊かさに匹敵しうる生活の豊かさなど、ほとんど存在するとは思えなかった。そこには、なにか言いしれぬ隔絶があった。ギリシアの不毛の自然が象徴するごとき貧しい現実と、神殿が象徴するごとき豊かな精神との、きわめて明白な対立があった。つまり人間の精神は、貧しい現実をこえて、かくも豊かな内容をつくりあげたという、啓示的な事実が、そこに示されていた。

辻邦生「文学のなかの現実」辻邦生全集17巻、2005年、293ページ

最近、パルテノン体験に関する文章がどんどん目に入ってきているのですが、この文章が収められた「文学の中の現実」という文章を本日見つけました。これは1969年10月8日、9日の両日にわたって読売新聞に掲載された文章のようで、「海辺の墓地から」ならびに「辻邦生全集第17巻」に収められています。前回の「時の終わりへの旅」を遡りますが取り上げます。

ギリシアの貧しい過酷な状況にあっても、精神的高みにあれば、パルテノンを打ち立てることができるのである、という直感です。物質的な豊かさが精神的豊かさを生み出すのではなく、精神的豊かさが物質的豊かさを作り上げるのである、ということです。

確かに、物質的豊かさ=現実があってから初めて、精神的豊かさ=芸術がある、というのが一般的な考え方です。まずは、営利事業があって、その余裕でもって文化事業をなす、というのが社会の常識でしょう。だから、文学であっても音楽であっても、それらは社会を支える本質的なものではあり得ないとされているわけです。

しかし、どうもそれは逆ではないか、と問うているように思うのです。精神的豊かさと物質的豊かさは論理的な相関関係はありますが、そこには前後関係はなく、同時的論理関係があるということなのではないか、と思うわけです。

物質的豊かさと切り離して、なお精神的豊かさを持てるのが人間の強靱な魂であるということでしょうか。あまりにも厳しい状況にあっても、希望を捨ててはならない、ということで、これは「言葉の箱」においてフランクル「夜の霧」を念頭に語った内容が思い出されます。

言葉が現実の事実と同じように生命を支えていた。あるいは、現実のそういう力委譲に言葉が生命を支えていた。だから、言葉はまったく無力ではない。むしろ言葉があって初めて現実そのものを変えることができるという認識が、しだいに自分のなかに生まれてきたということも、ひとつ大きくつけ加えなければいけません。

辻邦生「言葉の箱」メタローグ、2000年、30ページ

言葉=精神的豊かさが現実を変えることができるという信念は、パルテノン体験によって得られた直感だっと思います。がゆえに、精神的豊かさもやはり物質的豊かさと同じように大切なのでしょう。フランスやドイツなどが文化を大切にする理由がわかるような気がします。文化を大切にすると後から経済的豊かさがついてくる、ということをわかっているのでしょう。(私はあまり好きではありませんが)ゴールを設定して仕事を進める流行の仕事方法と同じではないか、とも思うのです。

Tsuji Kunio

今回も発見ネタで恐縮です。

数ヶ月前に、書棚を整理していたところ、茶封筒を発見。中を見てみると、こんなものが。「北の岬」のパンフレットでした。

入手の経緯は、おそらくはヤフオクで落とした記憶が微かに。貴重なものなのでしょうか。どうすべきか困っています。学習院に寄贈した方がいいのでしょうか…。しばらくお預かりしておきます。

今日も短く。みなさま、良い週末をお迎えください。おやすみなさい。グーテナハトです。