Peter Ilyich Tchaikovsk

東京地方は雲の垂れ込めた湿気の多い一日でした。梅雨入り間近なのでしょうけれど、まだ梅雨には入っていない模様。

ですが、潤いのある涼しい風が部屋の中を吹き抜けるのはそんなに悪い物ではありません。なにか一年ぶりに会う懐かしい友のような感じです。こうした一年ぶりに季節を巡るということは、懐かしい友人達と会うと言うようなものともいえます。それも命ある限り必ず会うことのできる友人達です。

私も一般的には中年期で、コロナ感染者の年齢区分で言うと「若い人」になるようですが、友人達と会う回数も意識できる数になりつつあるのでは、と言う思いもあります。

今日は、カラヤンの古い映像を見まして、なかなか感慨深いものがありました。

カラヤン×バーンスタイン よみがえる伝説の名演奏

ドイツで冷凍保存されていた巨匠たちの名演、35ミリネガフィルムを8Kの高精細映像と立体音響でリマスター。新しい映像コンテンツに生まれ変わりました。その魅力をハイビジョン映像でお届けします。▽ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/交響曲第6番「悲愴」~チャイコフスキー▽レナード・バーンスタイン指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/交響曲第5番~マーラー

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」をもちろんベルリンフィルを率いて振りまくるカラヤン。目を閉じて振るさまは、王者か宗教家かという感じです。

そして、映像的に、ああ、これ、ヴィスコンティだ、と思いました。クラシックのコンサート映像でありながらも、耽美的なトーンに彩られていて、古い映画を見ているようにしか思えませんでした。もちろん、それはビデオによる収録ではなく、フィルムによる収録ですので、色合い風合いが映画的であるということもありますが、構図やライティングが上質な映画のそれに匹敵するもので、音楽もさることながら、映像をみて、本当に70年代的美しさだな、ということを感じました。構図の中央にカラヤンがあり、オーケストラや観衆のまっただ中にあって、一心に注目を浴びるカラヤンの圧倒的なカリスマは、あえてもう一度述べると、やはり王者か宗教家だなあ、と思いました。

おそらくは、以下リンク先の映像と同一と思われ、相だとすると1973年の映像となります。すでに半世紀前の映像となるわけですが、それであっても、聴きながら涙をおさえることができず、それは美しさ故か、あるいは現世と彼岸の断絶が故なのか、いまはまだよく分かりません。いずれにせよ、こうした映像が地上波で放映されることのありがたさはこのうえないのと思います。

https://www.phileweb.com/news/d-av/202001/31/49635.html

明日はバーンスタインをみてみようかな、と思います。

毎日外向けの文章を書くとうことを自分に課してみようか、とおもい、少なくとも6月末まではそれを続けよう、という感じです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Apple Music

はじめに

ニュースを見ていたらワクワクするニュースが出ていました、

Apple Music、ドルビーアトモスによる空間オーディオを発表、さらにカタログ全体がロスレスオーディオに

https://www.apple.com/jp/newsroom/2021/05/apple-music-announces-spatial-audio-and-lossless-audio/

新しいものが好きな私にとってはワクワクするニュースです。Apple Music のヘビーユーザ?としていろいろ思うことがあり、久々に少し書いてみようと思いました。

Apple Musicを振り返る

Apple Musicができてから何年たったでしょうか。このブログでも何度か取り上げました。

私にとっては本当に革命的なプロダクトで、音楽生活が充実するとともに、これまでの音楽生活との決定的な断絶を感じ、さまざま考えてきた感があります。

https://museum.projectmnh.com/category/apple-music

Apple MusicはTowerを倒すのか、という4連続の記事を書いていました。

今読むと面白いです。昔の自分は半分他人です。よく書いたもんだ。。これを読むと2015年7月からApple Musicを使い始めたことになるようです。6年しか経っていないのか、という感もあります。もっと昔から使っている感覚がありますので。

Apple Musicなどのサブスクリプション型音楽サービスで決定的になったことは、音楽のコモディティ化といった問題もさることながら、音楽を聴いていないことへの言い訳ができなくなった、ということです。結局聴く気があれば音楽はいつでもどこでも聴けるわけです。そうした状態において、とある演奏を聴いていないということは、単純に人生の中で優先度を下げた、ということにしかなりません。かつては、CDを持っていないとか、お金がない、といた言い訳がありましたが、そうした言い訳はなくなっていますのです。そうすると、音楽鑑賞という行為は、写真と同じような選択芸術になってしまうわけです。いま、ここに居合わせて、何を聴くか、という選択が全てを決定するということです。自由というのは責任を伴いますが、音楽を聴くという行為も、やはり選択の責任が問われるものとなり、その責任は、自分の音楽人生を左右するものとなり得るわけです。

あるいは、Apple Musicを聴く人間は、おそらくはCDを買うことはないでしょう。そうなると、Apple Musicにない音楽は存在しない音楽となってしまいます。Amazonで買えない本は存在しない。Apple Musicに存在しない音楽は存在しない。そういう時代が来ている気もします。SpotifyでもAmazon Musicでもおなじことです。プラットフォーマのヘゲモニーに支配される音楽というものは、もちろん利点もあるのでしょうけれど、なにか「1984」的な危うさも感じるのです。

Apple Musicが変わる

で、前置きが長いですが、そのApple Musicの音質が変わるというニュースが入ってきました。

ドルビーアトモスは、空間オーディオ。どうやら、Air PodsやBeatsといった、Apple 純正のヘッドホン・イヤホンで空間オーディオが有効になるようです。

そして、ロスレスオーディオ。これはおそらくはあまねく利用ユーザー全体に音質向上という恩恵をもたらすものになるはずです。

前者について言うと、BOSE信者の私もついついAirPodsのページでさまざま調べてしまいました。そういえば、最近は会社の人達のほとんどがAirPodsでWeb会議に臨んでいるような印象もあり、私も買おうかな、という物欲のささやきに一瞬とらわれそうになりました。ダークサイドにはまるところで、オビワンに助けられた感があります。おそらくは、純正ヘッドホン・イヤホンの売上向上につながるのでしょう。

一方で、ロスレスオーディオ。いままでよりぼもビットレートが上がりますので、外で愉しむためには、パケット通信量が増えることになります。私は古いタイプの契約で、一月7GBですので、そろそろ20GBのプランに変更することを検討しなければならなくなります。古いガラケーのメールアドレスは捨てることになりそうです。

ともかく、音質がかわれば、心がかわります。確かに、どんなに良いヘッドフォンを使っても、AppleMuiscの音には限界を感じることがあるのも事実です。音の厚みや実体感というものは、少なからずフラストを感じることがありますので。そうした事案が改善するとすれば、ありがたいことには違いありません。しかも追加コストがないのですから。

あらためて音楽を考える

それにしても、音楽も文学もそうですが、こうやって徐々にコモディティ化して行ってしまうことへの不安は感じるわけです。恩恵を感じながらも、そこにある種の危険や不安を感じてしまうということです。それは、もしかすると記憶のせいなのでしょう。加齢による記憶です。18世紀の人間は、まだ分業されていなかった17世紀を懐かしむという話を辻邦生のエッセイで読んだことがあります。昔の方がよかったという考えは、善し悪しあるのでしょうけれど、経験を積んだ人間にとっては、それが悪しである前提にたつぐらいがちょうど良いのかもしれないです。昔の方が良かったというバイアスのほうが強いでしょうから。そうだとして、こうしていつでもどこでもなんでも聴ける音楽が、高度化し、コモディティ化していく、という事実を捉えたときに、消費者として、あるいは芸術の享受者として、あるいは自身が音楽を作る担い手となるとして、そのそれぞれの観点において受け止め方が違うと言うこともいえます。

消費者としては、コンテンツの値段が明らかにさがり、質が上がるわけで良いことづくめでしょうが、それが芸術的に受け止められるのかというと、ベンヤミン的な観点で、アウラを喪った音楽の価値が下がってしまうと言うこともいえますし、担い手となるとすれば、これまでよりも広いマーケットで勝負できる機会を得ることでもあり、逆にコモディティ化することにより収益が下がってしまうと言うことになるわけです。

神のための音楽が、王侯貴族のための音楽となり、市民革命の原動力になるまでの力を持ち、その後は資本主義の中で商品として高度化していった音楽があふれかえり、通貨価値が下がるようにインフレーションを起こしている状態で、おそらくはそうした音楽を語る場も膨大なものとなり、音楽についての言説の一つ一つの価値も失われている状態ということなのでしょう。神のための音楽が、コインで買える時代にあって、音楽、もう少し踏み込むと同じくインフレーションを起こして居るであろう文学も同じですが、そうした芸術的所産がどうやって人間あるいは人類を支える力をもてるのか、と言う課題なのだと思います。

(この芸術的所産が人間を支えると言うテーゼはもちろん辻邦生に依るものでここでは一種の公理系としてみているわけですが)

芸術は人間や人類をより善く支えるものである、という立場において、音楽がコモディティ化している現状をどう捉えるべきか。一人でどうこうできるわけではないとしても、どう考えてなにをすべきか。

結論がでるぐらいなら、すでに何かしらおきているわけで、一つの課題として捉えて、生きていくしかない、と言うことになります。

おわりに

といいながら聴いていたのは昨日とおなじく、ブラームス交響曲第4番。第二楽章はしびれます。久々に3000字書いてしまいました。まだまだですが、物量を書けば徐々に感覚も戻ってくるでしょうか。

東京地方もそろそろ梅雨のようです。どうかお身体にお気をつけてお過ごしください。おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Johannes Brahms

 先日から気になり始めたブラームスの交響曲第4番。初めて聴いたのは、ショルティがシカゴ交響楽団を振った音源で、おそらくは中学か高校の夏だったはずです。

 特に昨日からは第二楽章を聴くのが心地よく感じます。静謐な田園の風景という感じで、冒頭のホルンと木管の掛け合いが、これもまたなにか夜明けの風景で、まだ皆が寝静まっているなかを、ひとりで歩く愉しみ、という感じ。もしかするとそういう日々が訪れるのではないか、そういう愉しみ。季節はやはり夏で、山と海があって、薔薇色の朝日と飴色の夕日が見えるところで、朝と晩に、光を浴びながら散歩をするという日々。おそらくは木々が地面に落とす影を愉しみ、草の匂いを含んだ風につつまれつつ、海岸の方へ降りると、潮風と波音のなかで群青色の波面を第二楽章を聴いてそんなことを思いました。

 音源はいつものアバドが振るベルリンフィル。アバドの指揮は、この場で何度も書いていますが、しなやかな緩急で、まるで佇み感じるそよぐ風に似た温かみがあるものです。近頃はアバドなしには生きていけません。

  さしあたり今日の仕事は終えて、自分を労らないと。労働は労りながらでないと。

 それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Classical

 この言葉を聞いてどんな曲を思い浮かべるでしょうか。私はこちらでした。モーリス/ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲。

 まだまだコロナもなく、震災もなかった2004年に、新国立劇場で上演された「スペインの燦」というシリーズで、この「ダフニスとクロエ」をバレエで見ました。牡牛の角を突けたダンサー達が、舞台上で雄々しく生命力の横溢する動きを見せていたのを記憶しています。17年前ですか。

 遠い地平線の向こう側が徐々に赤みを帯びて、予兆を感じた鳥たちの鳴き声も聞こえ、最初の曙光が差し込む瞬間が圧倒的な色彩で表現されています。さらには朝日に照らされた荘重な自然の風景。そしてまた鳥の鳴き声。もしかすると、動物あるいは人間が歩いて居るのかもしれず。

 アバドの若いときの演奏をとりました。アバドのフランス音楽、あまり聴いたことがなかったことに気づきました。合唱の感じが70年代雰囲気を醸し出しています。1970年の録音の模様。

 そういえば、徹夜明けの朝3時か4時。まだくらいうちから鳥の声が聞こえることがあります。暗いうちから気配を感じる鳥たちは、かすかな光を感じているのでしょうか。

実は、今日は仕事でした。明日も仕事。仕事は24時までしかやらない、と決めていて、24時になった途端にワインを開けて飲み始めました。どうも24時からが本当の時間であるように思います。これ、今ではなく高校時代からの考えです。時間の感覚は、鳥も人間もなにか本能のような感覚によるところがあるのでしょうか、などと思ったり。

ともかく、健康第一で。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms

 またまたご無沙汰してしまっています。なんだかたくさんのことがありすぎて我を忘れている感があります。とはいえ、気候も落ち着き、寒暖差はありながらも徐々に夏へと近づいているという嬉しさが湧き上がっているのも感じます。

 秋に生まれたというのに、何故に夏が好きなのか、よく分かりませんが、とにかく、太陽の光を狂ったように浴びたいと言うことにつきます。

 今日の東京地方の日没は18時39分で、半年前よりも2時間も長く太陽が出ていることになります。先日も話しましたが、太陽がでているうちにイタリアの白ワインを飲むのが目下の夢です。

 半年前と言えば、冬の暗い時期に何度も何度も聴いて心の支えにしてきたブラームスの交響曲第一番ですが、日差しを浴びながら散歩しているときに、もしかして今は四番の方が相応しいのではないか、と思いました。それで聴いているのは、アバドが振った交響曲第四番。

 アバドの指揮は、軽くもなく重くもなく、早くもなく遅くもなく、しなやかに空を舞うような演奏で、心にぴったりとフィットしてきます。ドイツ音楽をイタリア人が演奏する、というのは、なにかドイツ人がイタリアに馳せる思いが具現化しているようなものではないか、と思うときがあります。第二楽章の伸びやかな演奏を聴いていると、ゲーテがイタリア旅行をして、長く伸びる夕陽を浴びて、陰翳のある遠い西の空を眺めやるような感覚を覚えました。

 さて、これからもう一仕事です。皆様どうか良い金曜日の夜を。

おやすみなさい。

 

Miscellaneous

5月になりました。どんどん夏が近づいています。

今日は在宅勤務で、窓の外に拡がる夏の日差しを感じながらデスクワークに勤しみましたが、夕方、これはさすがに太陽の光を浴びないわけにはいかない、と外に出ました。本当に素晴らしい夏の夕刻という感じで、飴色の光に大地が浸っているのを見ているだけで、幸福感に包み込まれた気がします。日差しの色は、8月のそれにあたるのでしょうか。8月の暑熱はなく、ただただ爽やかな陽気の中にいる幸せでした。

OTTAVAというクラシック音楽を流しているインターネットラジオがありますが、ちょうどそのとき、今日は昼からイタリアワインを飲んでいますというお便り紹介があり、この日差しの中で軽い白ワインを飲むのは幸せだろうな、と思いました。ワインもおそらくは生の愉しみであることには間違いありません。過度な禁欲や節制は慎むべきもので、確かにアルコールは身体に悪いことは分かっているとはいえ、果実が遠いイタリアの地で受け取った太陽の光をワインというかたちでいただくことも悪くはあるまい、などと思ったりしました。

皆様もどうかよい5月の日々をお過ごしください。

 

Philharmony

 

良い感じ?の夜明けの写真。明日は良いことがありそうです。

それにしても、この一年は不思議なことばかりでしたが、また落ち着いて本を読むことができる日が訪れるようです。ありがたいことです。

ということで、今日の一枚。

最近は、もうこの音源に助けられることばかりでした。ジョン・ウィリアムズがウィーンフィルを楽友協会大ホールで振ったアルバムです。

映画音楽が機会音楽とすれば、かつての交響曲もやはり機会音楽でした。ジョン・ウィリアムズは機会音楽たる交響曲の伝統の最先端にいたと言うことなんだな、と考えながら聞いていました。

もちろん、そこにはなにかアメリカのヘゲモニーを世界へ拡大するという意図があったとも捉えられるのですが、そうであったとしても、音楽的な素晴らしさは筆舌に尽くしがたいものがあります。

それは映像やストーリーに裏打ちされたものであるかもしれませんが、それはオペラにおける、演出や脚本と音楽の関係のそれと同じでしょう。

それにしても、ウィーンフィルの素晴らしさは想像以上で、贅沢が過ぎるというのはこのことなんだろうなあ、と思います。指揮への追随も半端ないです。

ウィーン楽友協会大ホールの響きの良さは格別です。「未知との遭遇」のフォルテの残響があまりに美しく、何度も何度も聞いています。

 

ちなみに、Apple Musicでは、映像も見られます。

CDからはカットされている歓声が収められていて、臨場感という観点では、映像のほうがおすすめです。

こちら。。

https://music.apple.com/jp/music-video/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%81-from-star-wars-the-empire-strikes-back-live/1513603867
それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。

Jazz

それにしても、落ち着かない日々が続きます。

しかし、ここまでブログ書かないでいると、気持ち悪さはあります。

辻邦生は「ピアニストが書くように」文章を書いていて、「絶えず書く人」と言われていましたので、足下にも及びません。

とはいえ、そういえば、土曜日にとある人から「いつもメモしていますね」と言われました。まあ、人に見せないメモはいくらかかいているのかしら、などと思ったり。日記も毎日書いてはいますが。

また少しずつ毎日発信していくことを自分に課していかないと、などと思います。

本当に毎日書かないとなあ。。。

ということで、今日の一枚。ポンチョ・サンチェス。この半年以内のいつだったか、ラジオで聴いて以来折に触れて聴いております。特に4曲目のGiant Steps。この曲吹けないと一人前ではないと言うことなんですが、私は老けないな……。パーカッションの入った4ビートはよどんだ空気を一新してくれます。ありがたいことです。

今週も少しずつアジャストしようとおもいます。

みなさまもどうか良い日々を。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

度が替わって一日が経ってしまいました。

年度に何ら必然性がなく、あるいは、天文学的には1月1日も無意味なのだそうですが、4月というのは日本人にとってはなにかひとつ神聖な月でもあります。入学の月であり、入社の月であり。

本当にありがたい季節です。

写真は都内某所の桜で、先週撮影したものです。

みなさまも今年度もどうかご一緒に頑張りましょう。

Movie

NHKBSで放映されていた「シックス・センス」を見ました。本当にいまさら。1999年公開。

ネタバレは厳禁なので、詳しくは書きません。
いえることは、物事を打開するためには人に求められていることに応えることなのでは、ということでしょうか。

常々感じていることでもあり、なにか使い古された言葉でもありますが、他者への貢献が、自らを助けると言うことは本当に良くあることです。
それは人間だけではなく、たとえば植木に毎日水をやるという行為にも、植物との感情の交感があるように思え、それが主観的な想像であったとしても、助けられていることは事実なので、主観的な想像でありながら、客観的な事実へと転化するものでもあるわけです。

つまるところ貢献自体が自らのミッションにもなり得る、ということでもあります。

自利利他という言葉があるようで、利他がひいては自利になるということと聴きました。過剰な利他はともかく、自利と利他が円環を形成できればいいのですが。

そういうことを感じながら観ました。

(ネタバレにならないように書くのは限界ありますね…)

 

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。