Philharmony

 今日もジムにいきました。自転車を一時間こぎ続けてヘトヘトです。

今日は、ハイティンクの「ドンファン」を何度も聞きました。数日前に初めて聴いたとき、私は目から鱗が落ちましたですよ。冒頭の激しい疾走感に身震いがして圧倒されました。それからその後の女性的美麗なところの恍惚感はすばらしいです。

ハイティンクのシュトラウスやワーグナーは本当にすばらしいですね。

American Literature

 ハーマン・ウォークの「戦争の嵐」を読んでいます。第二次大戦開戦前夜のアメリカ、ドイツ、イタリア、ポーランドを舞台にした歴史小説でして、実に長いです。私が読んでいるのは1974年出版の単行本でして、全三巻です。一方文庫版ですと全五巻ですので、割と読み応えがあります。物語は、ドイツのポーランド侵攻から日本の真珠湾攻撃までを描いているわけですので、戦争すべてを描いているわけではありません。とはいえ、個人的には欧州戦線についてはあまり詳しくはありませんのでいい勉強になります。続編として、"War and Remembrance"(戦争と記憶)という作品もありますが、こちらは邦訳がありません。情報によると太平洋戦争終結までを描いているようですので、邦訳がないのが残念です。というか、英語で読めばいいのですけれど、時間がかかりそう。

主人公の一人である、バイロン・ヘンリーがガールフレンドでユダヤ人のナタリーとともに、ドイツ包囲下のワルシャワから脱出する場面で、ナチス親衛隊がユダヤ人を選別しようとする場面で、あまりの緊張感と臨場感にしばし時と場所をわすれまして、危うく電車を降り損ねました。

まだ第一巻の三分の二ほどを読んだところですので、あと一週間半はこの本に取りかかっていると思います。それにしても、こんなにも読むべき本がたくさんあると、いくら時間があっても足らないです。がんばります。

 

American Literature

「ロング・グッドバイ」、これはすごい小説でした。これも高校時代か大学時代に読むべき本でしょう。私は大学時代何をやっていたのでしょうか? サックスを吹いて、音楽聴いて、バイトでデータベース(のようなもの)作ったり、雑誌を作ったりする毎日でした。おかげで就職できたのですが。

まずは、構成が優れています。いくつかの事件が発生し、それが連関している。なおも、事件は終わりの様相を見せるが、実はそうではない。最終幕は寂寥感を伴う驚愕。それから、登場人物の人間関係の緻密さ。周到で綿密な計画に驚きます。昔「罪と罰」を読んだ時に感じたものと似ています。 描写もすごく良いです。バルザックの作品の細かい描写をいとおしむように読む読書家の話を聴いたことがありますが、おそらくはこの作品も細部の描写を、まるで家具に施された緻密な彫刻を堪能するかのような気分で読むことが出来ます。

生き方。マーロウが警察に収監されるけれど、一切自白をしないというエピソードがスマートです。「警察でペラペラとしゃべるような私立探偵には用はない」的な自己分析が冷静でいい感じ。

それにしても、あれほど愛情を思っていた二人が、どうして離れ離れになってしまうのか、という古典的問いかけも、リヴァーヴ感とともに感じざるを得ないのです。もちろん戦争という特殊な状況だから、ということもありましょうが、現実問題としてそういう例もよく見かけます。まあ、生き続けるということは、罪悪感と悔悟感どんどん降り積もっていく道をかき分けていくわけです。生きれば生きるほど、積雪量は多くなるわけです。そうやって人間は強くもなり、一方で苦しみもするわけです。

本を読んで、しばし遠い国に旅することができた気分。次に読んでいるのもやはりアメリカの作家であるハーマン・ウォークです。こちらはかなり長い本です。そのあたりのことはまた今度。

 

American Literature

 数年前に、村上春樹が訳し直した「ロング・グッドバイ」、すなわち「長いお別れ」。本日読み終わりましたが、これは本当にすごかった。これほどまでに細部も構造も美しい小説だったとは。そして縦横無尽なプロット。私はなぜかドストエフスキーを思い出していました。村上春樹の訳もいい感じ。

書きたいほど山ほどあるのですが、今日は、帰宅が遅かったのでここまで。明日はもう少し書きたいと思います。短文ですいませぬ。

Opera,Richard Strauss

まずは、叫び声。ギャー! 昨日は選挙報道に就寝しすぎて、クラシックロイヤルシート、録画し損ねました。ハイティンクのシューマンとブルックナーだったのに……。

さて、気を取り直して。

8月23日夜のクラシックロイヤルシートは、カラヤンの「ばらの騎士」でした。 第三幕のところだけですが、金曜日の夕食中に観終わりました。実に興味深いです。1960年のザルツブルク音楽祭の映像で、モノラル録音です。おそらくはアマゾンで販売されているこのバージョンに間違いないと思います。

まずはカラヤンの若さ。ウィーンフィルを統率するカラヤンは自身がみなぎっています。それから、オットー・エーデルマンのオックス男爵は表情豊かに歌っていて見本のようなイデアールなパフォーマンスです。クルト・モルのオックス男爵がすごく上品に思えてきます。それぐらいオックスのある種の「品位」を巧く出しておられました。すごいですね。

そして私は生まれて初めてシュバルツコップの歌う姿を見ましたですよ。こういう方だったのですね。これももう見本のようなマルシャリンです。衣装もかなりクラシカルでして、なるほど昔はこういう衣装だったのかあ、と。

オケの音量が思ったより押さえられているのでは、と妻が申しまして、そういやあそうだなあ、と。PA使っていないからか、録音の編集でそうした加工がされているのか、というところ。

クラシックロイヤルシート、侮れないですね。

来月は、スカラ座の「ドン・カルロ」、新国の「トゥーランドット」、チューリヒ歌劇場の「カルメン」と、オペラ目白押し。月末はNHK音楽祭2009から、バレンボイム指揮のヴェルディ「レクイエム」。

CDはこの数ヶ月買っていませんが、聴くものはあまたあります。財布が寂しい今日この頃、助かりますです。

Concerto,Ludwig van Beethoven

今日の関東地方は幾分と涼やかになりました。昼食は近所のレストランで食事。外食するのは結構久しぶりでした。昔は、あんなに外食していたのに。外で食事を取らないと行けないときは、店になんて入らずに、軽食で済ませてしまいますので。まあ、家庭を持つと、家の食事が一番になってきますね。ラーメン屋の行列をみても、あまり食指が伸びませぬ。

昨日、ハイティンクのことを書いて、15年ほど前、高校生の頃の記憶がよみがえりました。ふとつけたNHK-FMであまりに刺激的なベートーヴェンの交響曲第四番を聴いた記憶です。それは第三楽章でして、激しく熱い演奏に心が震えました。アナウンサーが告げた演奏家はハイティンクとブレンデルでした。

私はあまりピアノ曲は聴きませんが、そんな中にあってブレンデルの録音にはひとかたならぬ思い出があります。ブレンデルの演奏をたまたま録音したのですが、それはシューマンの「交響的練習曲」と、リストの「巡礼の年第二年イタリア」でした。「交響的練習曲」の疾走感、躍動感、そして「巡礼の年第二年」の瞑想的な静謐さに、年若いからこそかもしれませんが、ずいぶんとのめり込んだ記憶があります。

そのブレンデルの才気が迸り、ハイティンクの明晰で怜悧な指揮だからこそ、ここまでにも興奮を呼び覚ます刺激的な演奏となったのでしょう。初めて聴いたときは、8ビートロックを聴いているのか、と思ったほど。第三楽章を今日改めて聴いてみると、やっぱり凄いのです。緻密で乱れのないリズム、大きな振幅、絶妙なスピードコントロール。F1的とでもいいましょうか。録音は1976年ですので、いまから33年前。うーん、すごい。終幕にいたる高揚感は、最終コーナーを回ったサラブレットがゴールを駆け抜ける気分。

ちょっとこれは聞き込みたい気分です。元気のない時に身を奮い立たせるのにも良さそう。早速iPodに入れましょう。

Richard Strauss,Symphony

 今日の関東地方は、昨日の涼しさが一転し蒸し暑い一日。最近ジムに通い始めました。週末だけですが。90分ほど汗をかきました。心地よい疲労感。ですが、体重が0.5キロ増えてしまいショックです。

さて、昨日から、ハイティンクの「アルプス交響曲」を聴いています。

ハイティンクを初めて聴いたのは中学生の頃でしたでしょうか。ショスタコーヴィチの「バビ・ヤール」を買って、どエライ音楽があるんだなあ、とかなり驚いたのを覚えています。その後、10年ほど前にマーラーを聴いたのですが、当時は、どこか気に入らないところがあって、少々苦手意識を覚えていました。ところが、昨年、「指環」を聴いたところ、これが滅法素晴らしくて、ハイティンクを聴いてみよう、という気持ちが強くなりました。

と言うわけで、先日の小澤盤に続いて、ハイティンク盤を聴いている次第です。

ハイティンクの指揮は、実に鮮明で清々しさを感じます。きわめてクリアな印象。小澤盤のようなねっとりとしたものは感じません。実は結構テンポを動かしていて、疾走感とか、重厚感がきちんと伝わってきます。過剰に抑制した指揮だったような昔の記憶が残っているのですが、そんなことないです。歳とともに感じることが変わってきているのでしょうか。これは愛聴盤になりそうな予感。

アルプス交響曲、実はこの二三年で聴くようになった曲です。中学生の頃にプレヴィン指揮の音源をエアチェックしたのですが、音質が良くなくて印象が悪いままでした。シュトラウスのオペラをよく聴くようになってから、ウェブラジオで聴いて、開眼したような格好です。作曲されたのは1914年から1915年にかけて。「ばらの騎士」を終えて、「ナクソス島のアリアドネ」を作曲していたころと時間が重なるでしょうか。カラヤン盤、ケンペ盤、小澤盤、そして今回のハイティンク盤程度しか聴いていませんが、この数年で好きになった曲の一つです。

それにしても、シュトラスの描写力は凄いです。水の流れや、頂上から眺める景色や、風の音から、鳥の声、牧場の風景、稲妻、何でも聞こえてきますので。

私も、少々ハイキング程度の山登りはしますが、アルプスぐらい急峻な山に登るのは気分が違うでしょうね。私はせいぜい丹沢をかじったぐらいですので。まあ富士山は運が良ければ誰でも登ることができるでしょうけれど。

そう言えば、半年ほど前に、私の家内の友人で、クラシックが好きな方とお話をしたのですが、私が「昔はマーラーが好きでしたが、最近はシュトラウスですねえ」と言うと、「普通逆じゃないですか?」と笑われました。私にしてみると、まあ現実というものは、えてして不条理ですので、せめて音楽を聴くときぐらいは、酔わせて欲しいのだ、というところなのです。なんていいつつ、「ヴォツェック」とか「ルル」も好きですが。そういえば、この半年はマーラー聴いていないなあ……。

 

 

European Literature

 このスパイ小説は、ハードで文学的。内面描写は具象と抽象の間を行ったり来たりして、目がくらむ思いです。

イギリスの情報機関の諜報部員クィラーの活躍は、あまりに生々しく、冷たいリアリズムに背筋が冷たくなります。自動車事故に見せかけてロンドンで殺された同僚の事故現場を離れた直後に記憶を失い、次の瞬間自分も交通事故に見舞われる。要は命を狙われたと言うこと。キーは北京にあるとみて、中国首相の葬儀に参列するイギリス外相の随行員になるのだが、当の外相も爆弾テロで命を奪われる。手がかりを求めて韓国に潜入するが、情報を得る寸前で情報源は殺される。なんという救いのなさ。

著者のアダム・ホールは、ペンネームで、本名はエルンスト・トレヴァーとおっしゃるようで、えらくたくさんのペンネームをお持ちです。

ともかく、終盤は意外な展開で、驚きますし、途中に挟み込まれた悲壮なエピソードも衝撃でした。

とはいえ、キャセイパシフィック航空が金浦空港から平壌への定期便をDC-10で飛ばしている設定が出てくるのですが、そんなことってあったのでしょうか? キャセイはDC-10も保有していなかったようですし……。

American Literature

アシモフの「夜明けのロボット」を読終わりました。先週の木曜日から読み始めまして、最近にしては少し時間がかかりました。これまでのロボットシリーズよりも長くなっているようでして、文庫本だと上下二冊です。私は図書館から借りた単行本を読みました。

今回の事件はショッキングです。ダニールと同じヒューマンフォームロボットであるジャンダーが「殺されて」しまうというもの。ロボット殺しとは、ロボットの頭脳である陽電子コンピュータをフリーズさせる、あるいはデッドロック状態に陥れることです。ロボット三原則がありますよね。

  1. ロボットは人間を傷つけてはならない。
  2. 1.に抵触しない限りにおいてロボットは人間の命令に従わなければならない。
  3. ロボットは上記二項に抵触しない限りにおいて自分のみを守らなければならない。

ロボット殺しは、このロボット三原則といった根本的な命題、定理の三竦み状態のような状態に陥らせることで、ロボットはフリーズし再起不能となるわけです(本当はそんなに単純な話でもないのですが)。ですので、殺人とは少し様相が違います。

今回もファストルフ博士の要請によりイライジャ・ベイリが捜査にあたり、地球から惑星オーロラに向かいます。オーロラは、スペーサー達の中心惑星。オーロラは「夜明け」という意味がありますので、タイトルの「夜明けのロボット」には「オーロラのロボット」という意味を撮ることができます。

今回も、「鋼鉄都市」からおなじみの、ヒューマンフォームロボットのダニールが登場。そして「はだかの太陽」に登場したグラヴィアも。グレディアとイライジャ・ベイリの関係も面白いのですが、グレディアとジャンダーの関係も興味深いです。殺されたヒューマンフォームロボットのジャンダーとグレディアの隠されていた関係とは何か。

捜査に当たる中で、ベイリは宇宙人(スペーサー)達の派閥抗争にも巻き込まれます。銀河を地球人の手で開拓すべきだというファストルフ博士と、開拓はあくまでスペーサーが行うべきであり、人口の少ないスペーサー達自身ではなく、スペーサーと同じ能力を持つヒューマンフォームロボットを量産して開拓に当たらせようというアマディロ博士の対決です。議論の前提としてあるのは、スペーサーたちの人口は制限されており、ロボットを使用した安穏無事故の世界に留まっているがゆえに、開拓といった仕事は不可能である、と言うことがあります。

ベイリは、ファストルフ博士と「鋼鉄都市」の中でこういった問題を議論し、地球人が銀河系開拓に向かえるべく運動に従事するようになっているわけで、派閥抗争はベイリの捜査にも影響してきますし、ベイリの運動にも影響があるわけです。地球人独力では銀河の開拓は出来ないわけで、オーロラなどのスペーサー達の星間連合の協力なくして出来ないわけですから。

ここから先はこたえが書いてあるので、色を変えます。

それにしても、アシモフの本を三冊読みますが、緻密な構成には舌をまきます。犯人らしき人物が判明するのですが、実はそれが違う、とか。ベイリも真犯人であるロボットのジスカルドのことを気づいているのですが、人の心を読み、人の心の操作までも可能なジスカルドが、この物語の中でどのような役割を演じたのか、薄い層となって物語全体に敷衍されていますので、してやられた、という感じです。

というわけでロボットシリーズの三冊を楽しみました。引き続き「ロボットと帝国」を読む予定ですが、その前に読む本が3冊ほどあります。がんばりましょう。

Richard Wagner

2009年1月24日にベルワルトホールで録音された「トリスタンとイゾルデ」第二幕を聴いています。 ニーナ・シュテンメのイゾルデ、ペーター・ザイフェルトのトリスタンです。指揮はダニエル・ハーディングでスウェーデン放送交響楽団の演奏をスウェーデンのラジオから録音した音源を聴いています。

私は、ザイフェルトのトリスタンを始めて聴きましたが、これはすごいです。甘さを兼ね備えたつやのある凛々しい声です。良いですね。ジークムントもお似合いですが、トリスタンもいける。かなりナイーヴな感じのトリスタンです。私はすぐに気に入りました。シュテンメのイゾルデは少し柔らか味を帯びた母性的イゾルデでしょうか。ザイフェルトとシュテンメの声質が大分と違うのでコントラストが面白いですね。

さて、最近の読書状況ですが、アシモフの「夜明けのロボット」を読んでいます。先週の木曜日から読み始めまして、今日読み終わるかどうか、というところ。これまでのロボットシリーズよりも長くなっているようでして、文庫本だと上下二冊です。私は図書館から借りた単行本版を読んでいます。詳しくは明日書けるでしょうか。

仕事がやばい。綱渡り状態。明日が無事な一日でありますように。