Chamber,Johannes Brahms

久々にブラームスを聞きたくなりました。というわけで、ピアノ三重奏曲第一番を。 ブラームスの室内楽には16年前から本当にお世話になりました。

今の私の嗜好はオペラ、大オーケストラに向いていますが、当時はほとんどブラームスの室内楽を聞き続けるという日々でした。きっかけは大学の助手の先生から借りたアマデウス弦楽四重奏団の室内楽曲全集でした。クラリネット五重奏曲と弦楽五重奏曲に耽溺していました。 それから、指揮がどなたか忘れてしまったのですが、シェーンベルクがブラームスのピアノ四重奏曲を編曲したオケ版を聴いたことがあって、あれ以来、ピアノ四重奏曲が気になって仕方がなく、たしかルビンシュタインがピアノを弾いたピアノ四重奏曲のCDを死ぬほど聴いていました。当時、ルコント監督の「仕立て屋の恋」を観たのですが、あの映画で第四楽章の気欝な感じの甘いフレーズが効果的に使われていたのに感動したのを覚えています。

当時は、まだサクソフォーンをバリバリに吹いている頃でした。当時の僕にとって見れば、室内楽の音のつくりとジャズコンボの音のつくりが多少似ているところがある、と思っていたらしいのですね。おそらくは、リズムを合わせる緊張感とか、音楽全体を構成する要素が数人規模であるところとか。ずいぶんと共感を覚えていたと思います。

少し話はそれますが、私は1995年から1999年頃まで、今思っても大変な幸福な出来事だったのですが、偉大な先輩方と一緒にバンドを組んでライヴをやったりしておりました。当時で言う「ホームページ」なるものを作りまして、いろいろと貴重な体験をしたわけですが、その時代が、ちょうど私が室内楽を聴いていた時代と重なるわけです。あのバンドでは、楽譜もまともに読めず、リズム感も音程も悪い私を良く拾ってくださったと思っています。

まあ、そういう淡い思い出的な要素もあって、今日聞いたピアノ三重奏曲はすてきでした。演奏はもちろんピリスとデュメイの黄金コンビ。私は、もうこの演奏でメロメロです。甘みのある倍音を含んだヴァイオリン、柔らかい雨だれのようなピアノ。まあ、ショパンの夜想曲をピレスで聞いていたからそう思うのだと思うのですが。この曲、何度か実演で聞いたことがありますが、やはりここまでの完成度に達した演奏は聴いたことがないです。

このお二方が演奏するフランクのヴァイオリンソナタも名盤中の名盤でして、そういえば、私の結婚式のBGMに使いました。

American Literature,Book

 この二ヶ月ほど、なぜか読書できない日々が続いていたのですが、そうした鬱々とした日々は過ぎ去ったようです。ようやく単行本を再開することができました。「倒壊する巨塔」です。だいぶ前に、新聞の書評欄を読んだカミさんが教えてくれた本ですが、これは大いなる力作でしょう。読んで正解でした。

2001年9月11日に至る現在のイスラム原理主義とアメリカが対峙している歴史的経緯を明らかにしてくれるわけですが、正直申し上げて、イスラム現代史には少々疎かったものですから、実に刺激的な内容が盛りだくさんでした。

私はあの日を鮮明に覚えています。当時は会社から歩いて10分の寮に住んでいたのですが、ちょうど10時に帰宅して部屋でテレビをつけると、世界貿易センタービルから煙が上がっているライブ映像が映っていて、あれれ、これはひどい火事だなあ、と思って見ていると、突然画面の右側から黒い飛行機とおぼしき影が飛び込んできて、ビルから火炎ががあがるその瞬間をライブ映像で見てしまったのです。これは映画かと見まがうほどの映像。そのうちに、同時テロということで、航空機が乗っ取られて、ワシントンやらニューヨークやらで自爆テロをしている、とか、何機もの飛行機が乗っ取られた、とか、防空のためにF16が飛んだとか、まあそういったたぐいのニュースがどんどん飛び込んで来て、テレビに釘付け状態でした。これは、文明史上の大事件だ、と直感したのですが、それはどうやら当たったようでしたが、さすがにイラク戦争へと至とは思いませんでした。

1991年の湾岸戦争当時、トンデモ本に「この戦争は何十年も続くのだ」という予言がある、という記述を見つけたのですが、あれから20年の出来事を振り返ると、その予言が当たったと言うことではないか、と思ったものでした。

さて、今まで読んだところで、一番印象的だったのが、イスラム世界における反ユダヤ的思潮の源泉の一つがナチズムにあると言うこと。詳しくは書いていないのですが、戦後、ナチスの残党がエジプトで活動していたとのこと。ナセルのwikiのページに多少記述がありますので、間違いないでしょう。それから戦時中、ナチスが短波のアラブ語放送で反ユダヤ的宣伝活動をしていたとのこと。第二次大戦前はアラブにおいては反ユダヤ的風潮は少なかったそうですので、なんだかあっけにとられてしまいました。

急進的イスラム主義運動に火をつけたサイイド・クトゥブ、サダト暗殺に関わったアイマン・ザワヒリ、ビンラディングループの成功者であるムハンマド・ビンラディンと、その息子であるあのオサマ・ビンラディンなど、イスラム急進主義を巡る人々のドキュメントが連なっていくわけですが、私がいるのはまだ上巻の三分の二あたり。これからどのように展開していくのか。これはもう推理小説よりも興味深い。現実は小説より奇なり、でしたっけ。いや、これは興味深いを通り越していて、今後の世界を考える上で必読本なのかもしれません。

あともう数日はこの本を読み続けると思います。何とか読み終われるといいのですけれど。

 

Opera,Richard Strauss

ハイティンクの「ばらの騎士」。タワレコで4000円強で売っていて、買おうかどうか迷った末に、あきらめて帰宅。アマゾンを覗いたら、なんと2000円弱で売っている!(マーケットプレイスですが)即購入しました。なんとアルゼンチンからの国際郵便で送られてきました。あけてみると新品でした!

マルシャリンはキリテ・カナワ、オクタヴィアンはアンネ・ゾフィー・オッター、ゾフィーはバーバラ・ヘンドリクス、オックスはクルト・リドル。オケはSKD(シュターツカペレ・ドレスデン)で、ルカ教会での録音ですよ! これはもう期待するしか。

第一幕を再生した途端に驚愕しました。ホルンがすごい。それから、SKDの弦楽器の音がまた良いですねえ。ルカ教会の残響と巧く融合した、少しざらつきのある高音域の倍音が豊かで、きっとこれは来世の音です。夢心地です。

クルト・リドルのオックスは、2007年のザクセン州立歌劇場引っ越し公演の「ばらの騎士」で聴いて、今年の新国「ヴァルキューレ」のフンディングのすばらしい歌を聴いたのですが、やっぱりこの音源でも確固とした存在感を示しています。クルト・モルのオックスも大好きですが、クルト・リドルのオックスもいいなあ。キリ・テ・カナワは、ティーレマンのDVD「アラベラ」で聴いたり、シルマーの「カプリッチョ」でもお目にかかっていますが、最近つとに気に入ってきています。柔らかさにうっとりします。

さしあたり、冒頭部、ばらの献呈の場面、最後の三重唱をきいてみましたが、ハイティンクってすごいのですね。テンポは割りと抑え気味で、じっくりと歌わせているわけですが、それがこの輝き煌くSKD+ルカ教会ですので、浄福の境地でございます。第二幕のオックスのワルツも、入りのテンポが遅くて、それが徐々にスピードを増していくなだらかな稜線が見え始めるという具合で、実に面白いのです。ハイティンクのセンスのすばらしさ、というところでしょうか。 とはいえ、若干ピッチに不安を覚える場面もあるのですが、それは目を瞑ることが出来ます。全体にすばらしいので。

今日は1幕から聴き始めています。またお気に入りの「ばらの騎士」が増えました。

 

Opera

さて、新国にいきましたら、来シーズンラインナップの先行発表と言うことで、「アラベッラ」と「トリスタンとイゾルデ」の発表が出ていました。

 http://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/20000882.html

「アラベッラ」の指揮はウルフ・シルマーでして、「西部の娘」、「フィガロの結婚」、「エレクトラ」で新国に登場済みで、私も実際に聴いていますが、特に「エレクトラ」がすばらしかった記憶があります。シルマーは来春、演奏会形式の「パルシファル」でN響を振ります。それから、忘れてはならないのは、パリ・オペラ座で振った「カプリッチョ」の映像でして、私はBSで見ましたが、すばらしかったです。DVDも出ています。演出はフィリップ・アルローでして、2003年の「ホフマン物語」でのすばらしい演出がまた見られるのでしょうか。私の記憶では、2002年/2003年シーズンに「アラベッラ」は取り上げられていたはず。やっぱりありました。

http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/opera/2002~2003/arabella/arabella.html

 このときは、新国の最新舞台装置を駆使した、的な鳴り物入りの舞台装置だった記憶が。指揮は若杉さんだったのですね。私は仕事で行けず、悔しい思いをしたのでした。

「トリスタン」のほうは、大野和士さんで、私はこれまで演奏に接したことがなくお恥ずかしい限りですが、こちらも楽しみ。

 

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

なんだかまたご無沙汰、と思いましたが、28日にベルクを聞いていたのですね。なんだか時間の感覚が変な感じで、一週間前のことが、ずっと前にも思えますし、つい最近のようにも思えます。

今日は新国にて「魔笛」を観てきました。先週書いたように予習は主にデイヴィス盤でした。シュライアーのタミーノが素晴らしくて感激していたのですが、今日の演奏も実に立派でして随分堪能しました。

全体的にまとまりのあって疾走感のあるアンサンブルでした。ザラストラの松居さんは、新国の「さまよえるオランダ人」で聞いたことがありましたが、あのときと同じく安定した歌でして、甘みのある倍音を含んだ声はゴージャスでした。パミーナのカミラ・ティリングも立派な声でした。「ばらの騎士」ゾフィーもレパートリーと書いてありましたが、さもありなむ。 夜の女王の安井陽子さん、デイヴィス盤のルチアーナ・セルラに遜色のないコロラトゥーラ。しかし、この歌が18世紀にはもう歌われていたという先進性には圧倒されます。

全体的にレベルが高くて安心して聞いていられたと思います。初めて新国でオペラをみたのはちょうど七年前になりますが、あのころと比べると隔世の感があります。その分値段も高くなりましたが。ノヴォラツスキーが監督になってから、値段が上がったと記憶していますがそれだけのことはあったのではないでしょうか。そういえばその前はダブルキャストで、キャストの格で値段が変わり、チケットの確保のし安さも全然違いました。

次回の新国は、前にも書いたように、「ヴォツェック」です。個人的には、やはりオペラはワーグナー以降、プッチーニ以降が好みらしく、明日からの予習が楽しみでなりません。来週はオペラトークで勉強してきます。

Alban Berg,Chamber

最近本が読めなくなったということを書いたことがあったでしょうか。7月、8月と私は30冊近く読んだのですが、9月中旬頃から読めなくなってきました。とある人には、本を読めるだけの余裕がなくなってきたからじゃない? と言われましたが、確かにそうかもしれないです。仕事やらなんやらでちょっとばたばたしていますので。

というか、おそらくは11月は怒濤のような一ヶ月になる見込み。まあ、ヴォツェックとカプリッチョをみるのも大変な事件ですが、仕事的には、大きな案件を二つ抱えて、細かい案件を二つ三つ、それに突発的インシデントが三つほど。くわえて、組織の社内教育担当に任命されていて、難しい調整をいくかこなさないとならない。まあ、このご時世で忙しいというのはある意味ありがたいことでもあります。

さて、こんなどんよりした一日にぴったりなのがアルバン・ベルクでしょう。何ヶ月ぶりかに聴く「抒情組曲」は最高! もちろん演奏はアルバン・ベルク弦楽四重奏団という正統派であります。以前に何度も書いていますが、私はアルバン・ベルクの人生そのものに強い興味を覚え続けていまして、もし時間ができたら色々と調査したり研究したい、と思っています。定年後の手すさびになるかもしれませんが。ハンナ・フックスとの不倫愛とか、どうしてマノン・グロピウスのためのレクイエム的ヴァイオリン協奏曲を書いたのか、とか、虫さされで死ぬという今で考えればある意味不気味な最期とか。 時間はなくても、せめてモティーフだけでも維持できるように努力しないといけませんね。これもがんばります。

当の抒情組曲は、昨年の秋冬にひたすら聞き込んでいまして、結構記憶の中に残っていますので、聴いていて心地よささえ感じます。私は、「カプリッチョ」の透徹とした美しさも好きですが、「抒情組曲」のような、ある意味一般的で感情的な用語においては、美しいとは評価されないであろう、こうした曲も大好きです。まあ、私は美学も音楽学もさぼっていますのであまり難しいことはかけませんが、美というものの定義付けは現代においては実に複雑で困難な仕事になるようですので、このあたりでとめるしかありません。

しかし、何故、僕が「抒情組曲」を好むのか、自分なりに反省してみてもいいのかもしれません。 一般的には不協和音とされるであろう激しい弦楽器のぶつかり合いとか、一度聴いても覚えられないですし、鼻歌混じりに髭をそることもできないほど複雑な旋律群。それらが四方八方から飛びかかってくるのを一つ上のレベルから眺めている感じ。これが僕がこの曲を聴くときに感じているものらしいです。抽象画をみるときに感じるスリルと同じといえましょうか。

 

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

やっと昨日書けました。今日ももかけるかも。仕事のほうがいろいろ忙しくて時間的な余裕がなくなっているのかも。残業制限で早く帰れるようになりましたが、その分効率を上げないといけない。仕事量は変わらんないのですよ。当然ですが。無限残業のころと今を比べると、大変さはあまり変わらないですねえ。

今日も魔笛を。私はもう、クルト・モルとペーター・シュライアーがすばらしくてこの盤をしばらく手放すことが出来ないでしょう。図書館に在籍していて本当に良かったです。 「魔笛」は実演に接するのは初めてです。雰囲気は映画「アマデウス」で知っているぐらい。曲は以前からiPodに入っていましたので、折に触れて聴いていましたが。そういえば、「アマデウス」では、チェレスタを弾いていたモーツァルトが倒れてしまう、というエピソードがあったような。あの場面は鮮烈に覚えています。

それにしても、あらすじはいつ読んでも難しい。フリーメイソンの影響といわれるわけですね。ちなみに、ザラストロって、ツァラトゥストラに似ていて、さらにさかのぼって、ゾロアスターに似ている。ネットで調べてみると、やっぱり同じことをおっしゃっていることがいました。

http://blog.goo.ne.jp/traumeswirren/e/8e35e41cace8a00a388d124f325b81b2

神秘思想ですか。知らないといけないことはたくさんありますが、何一つ知っている気がしません。。無限地獄。Wikiによれば、ゾロアスターはザラスシュトラとも言われるようで、そうすると完全にザラストロと一致します。奥深すぎる。

とりあえず、今週はこの盤で突っ走る予定で、11月1日の魔笛@新国を目指します。翌週2日からは、ヴォツェック@新国を目指して、ヴォツェックを聴き込まないと。その合間に、パルジファルの予習も必要だなあ。聴く課題がたくさんあって楽しいです。

Opera

 昨週も書けずじまい。毎日のようにプレートルの「カプリッチョ」を聴いていました。カーザの伯爵夫人がすてきでした。ブログの下書きも書いていたのですが、これは後日アップします。

金曜日から「魔笛」を聴いております。サー・コリン・デイヴィスがSKDを振った盤で、クルト・モルとペーター・シュライアーが凄い盤です。これもかなりおすすめですが、amazonでは取り扱っていないです。モルはもちろん大好きな歌手なのですが、シュライアーがこうも素晴らしいというのを忘れていました。初めて聴いたのはリヒターの「マタイ受難曲」の福音史家だったと思います。切迫感と緊張感のある声で、今回再発見と言う感じ。

次のオペラは、来週日曜日の新国「魔笛」ですので、ちょっと予習しているところです。明日もきっと「魔笛」を聴きます。

そうそう。来年の春、東京・春・音楽祭というのがありますが、ウルフ・シルマーがN響を振って、演奏会形式の「パルジファル」をやるんですよ。今日から予約開始でして、なんとか予約できました。でも演奏時間は正味四時間。15時開始なので、終わるのは21時頃かなあ。日曜日なので翌日は会社。厳しい……。

 

Concert,Richard Strauss

昨日は少々酔っ払いながら書いたので、なんだか変な文章になりました。どうも最近こっそり夜に飲む癖がついてしまいました。最後のほうの記憶はほとんどなく。私、最近飲むと記憶が飛ぶことが多いのですよ。。飲んじゃダメ、ということなんでしょう。この癖、直さないといけないのですが、まあ色々ありますので。

さて、昨日の続き。今日はプレヴィンの家庭交響曲についてです。テンポを過剰に動かすことなく、またひとつのテンポに安住することもなく。お年を召されると、テンポが緩くなったりするものだと思うのですが、そういう意味では実にアグレッシブな演奏といえると思いました。Twitterにも書きましたが、老成という言葉は当たらないと書きました。なんだか充実した壮年の覇気のようなものを感じました。

しかし、家庭交響曲は、聴くだけではなく、見ることによっても理解が深まりました。ヴァイオリンはおそらくはパウリーネで、チェロがおそらくはシュトラウス自身を示しているわけですが、そのあたりの掛け合いの様子を視覚的にみることが出来て、曲の理解が深まった気がします。この対応関係は「英雄の生涯」と同じでしょう。それから、息子フランツが登場してシッチャカメッチャカにするあたりの描写も実に楽しいです。

それから、第三部の夫婦愛的なところの高揚感はすばらしいです。これぞオーケストラ音楽の醍醐味というところ。迫力、重厚、壮大。夫婦愛の高尚さ、神秘性、神聖性。ここまで高らかに歌い上げられると、圧倒されるばかり。相当感動的な高揚感で、聴いているときは、これはあまりに幸福で贅沢な瞬間だ、と感謝の気持ちで一杯。幸せというのはこういうものを指すんだろうなあ。

終幕部、ティンパニが音階を駆け上がる例の場面近辺も凄い迫力で、私は舌を巻きました。wikiによると、あの音階はウィーンフィルのティンパニ奏者が提案して、シュトラウスの追認があったらしい。ひらめいたんでしょうねえ。ウィーンフィルの奏者ともなれば耳も良ければひらめきもずば抜けているんだなあ。あの場面は、聴いているほうもアドレナリン全開で興奮渦に巻き込まれてしまいます。

そうそう、そういえば、日曜日の演奏にサクソフォーン奏者がいましたでしょうか? どうにも見あたらなかったような。あとでスコア見て確認してみます。

曲が終わると圧倒的な拍手で、プレヴィン氏はやはり足が思うように動かないらしく、楽団員の助けをもらいながら、指揮台を降りて客席に顔を向けてくる。好々爺だなあ。背中もまがって小さくなってしまったイメージ。でもね、ミケランジェロが、大理石から彫刻を救い出したように、オケという無限の可能性の中からこの小柄なご老人が、あの圧倒的な演奏を引き出していると言う事実。

プレヴィン氏の録音盤を聴いていますが、感動はN響のほうが数段上。演奏的にも私は今回の演奏の方が重みがあって好きです。

ともかく、今回も本当に恵まれました。ありがとうございました。

次回は、11月1日に新国で魔笛を見る予定。っつか、11月はオペラ目白押しだなあ。魔笛@新国、ヴォツェック@新国、カプリッチョ@二期会。やばい、また予習しなくちゃ。ヴォツェックのオペラトークにも行きますよ。

 

 

Concert,Richard Strauss

昨日は満を持してNHKホールへ向かいました。N響定期公演、アンドレ・プレヴィン指揮で、ヴォルフガング・リームとリヒャルト・シュトラウスの作品を。すばらしいひとときで、私は我を忘れ続けました。

まずは、ヴォルフガング・リームの「厳粛な歌」。ベルクの「ヴォツェック」や「ルル」を思い出した私は単純でしょうか。ティンパニの打点がどうにも似ていまして。NHKホールの微妙なリヴァーヴ感とあいまってです。今から思えば、アバドの「ルル組曲」を感じていたみたい。ともあれ、奏者の配置も面白くて、弦楽器が右前方、木管楽器群が左前方に向かい合って並んでいました。意外と旋律的でしたが、プロの方はあのテンポ取りでどうやったらあんなにきちんと演奏できるのでしょうか。。私も昔似たようなことをやった記憶がありましたが、相当辛かったですので。 それにしても、イングリッシュホルンのあの方、本当にいい音だすなあ。

さて、二曲目はシュトラウスのオペラ「カプリッチョ」終幕の場面。私は、この曲の演奏をお目当てにチケットをとりました。しかも伯爵夫人マドレーヌは、フェリシティ・ロットとくればなおさら。

月光の音楽が始まりますと、とろけるような甘いホルンのソロから。多少瑕はあったかもしれないのですが、私はもうここでこみ上げてくるものを押さえられなかったです。涙が溢れ、嗚咽に似たものが上へ下へと行きかうのに必至にこらえる感じ。隣に座っていたカミさんに気づかれたのでしょうか? 

ロットの歌いだし、オケがずいぶんとなっていましたので、バランス的に少し声が小さく感じましたが、その後お互いに調整してかなりいいバランスになりました。そして、あのソネットの部分!

Kein andres, das mir so im herzen loht,
Nein schoene, nichs auf diser ganzen Erde,
Kein andres, das ich so wie dich begehrte,
Und Kaem’ von Venus mir ein Angebot.

わが心を 燃え立たせるものなど麗しき人よ
この世にまたとあろうかそなたほど 
恋い焦がれるものは他になしたとえ 
美の神ヴィーナスがきたるとも……

もう何百回(言いすぎですか? でも100回は聴いたと思います)と聴いたカプリッチョ終幕の部分。ヤノヴィッツ、フレミング、シュヴァルツコップ、キリ・テ・カナワ、シントウ……。今日もやっぱり完全に陥落してしまい、涙が頬を伝っていって止まらない。私はこの一瞬のためにも、日々仕事をしている、といっても過言ではありません。

フェリシティ・ロットの歌は、恋焦がれる伯爵夫人というより、慈愛を注ぐ母性的存在であるかのように感じました。これは、もちろん、私がクライバーの「ばらの騎士」でフェリシティ・ロットがマルシャリンを歌い、オクタヴィアンへとゾフィーに注ぐ慈しみの歌を知っているからでしょうか。あるいはロットの今の心情を反映しているのでしょうか。

実は、私はこの曲を2006年の秋にドレスデンのゼンパー・オーパーでペーター・シュナイダーの指揮で聴くという今から思えば信じられないような幸運に恵まれました。ですが、あの時、私はここまでカプリッチョを理解できていたのか? 答えはNeinです。 あの時はサヴァリッシュ盤で予習をするだけでして、しかもモノラル音源でした。そして、旅行の寸前にクラシックロイヤルシートで放送された「カプリッチョ」。ウルフ・シルマー指揮で、伯爵夫人はルネ・フレミングで、クレロンがアンネ・ゾフィー・フォン・オッターという大僥倖。日本語訳が手に入らなかったので、このオペラを観ながら字幕を全部テキストに起こしました。それを持ってドレスデンに乗り込んだのでした。

あの時、やはり月光の音楽で静謐な美しさに心を打たれましたが、ここまでではなかった。でも、シュナイダーの指揮のうねりとか、演出の美しさ、つまり、白を基調とした舞台の背景が群青色に染め上げられて月光が淡く照らし出す光のイメージが生み出すあまりにあまりに濃縮された美意識、そういったものが複雑に織り込まれていき、このオペラの最終部への理解が深まった気がしています。まあ、ここでいう理解とは何か、という問題はあるのですが。

昨日の演奏のプレヴィンの指揮もすばらしかったです。テンポは少し抑え目に感じましたが、徐々に迫る高揚感への円弧のラインがすばらしかったはずです。「はず」とは何事か、といいますと、正直申し上げて、私はある意味我を忘れておりましたので、反省的な聴き方をあまり出来なかったようだからです。 たしか、月光の音楽はプレヴィンも録音しているはず。いまその演奏を聴いているのですが、これもすばらしい。うねりと高揚感。 ちなみに、隣に座っておられた方は、眠っておられた様子。入り口に待機している係員の女性もやっぱり眠っておられたようです。ある種、それは宝の山を前にしてその価値をわからないという状態。でも、あの方々を責めることはできません。それは、ある種私のかつての姿と同じだからです。

徐々に終幕へと導かれていく音楽。答えのでない問題。それがあるから人生である。フラマンもオリヴィエもきっと伯爵夫人マドレーヌにふられる気がするのは私だけでしょうか。

曲が終わると万雷の拍手で、何度も何度もロットとプレヴィンが舞台に呼び出される。さすがに80歳のプレヴィンは歩くのも少々つらそうですが、あそこまで大きな作品を形作ることができるなんて。

そして、休憩を挟んで次は家庭交響曲。こちらは明日書くことにいたします。