Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

モーツァルトのオペラ、《魔笛》、《フィガロの結婚》、《ドン・ジョヴァンニ》、《コジ・ファン・トゥッテ》あたりは、実演含めて聴いたことがあって、なんとなく馴染みがありますが、それ以外はあまり聴いたことがないかなあ、と思い、なんか聴いて見ないと、と思って、思い出したのが《イドメネオ》。

《イドメネオ》という言葉は、私の中では、亡きサヴァリッシュが、インタビューの中で「イドメネオ」と言葉を発した記憶があるだけ、だということに気づきました。

最後に新国立劇場に行ったのは、2015年7月だったか。その後、《ダナエの愛》を見て、それ以来オペラの実演には触れられておらず、まあ、もう少し経てば、また行く機会もあるだろう、と思いながら今日に至っていて、そんな中で新しいオペラを開拓することもままならないわけですので、いきおい、新しいオペラを音源として聴くということもなかったわけです。

でも、先日来、とある本を読んだおかげで、モーツァルトばかり聴いている状況で、あれ、そういえば、モーツァルトのオペラで聴いていないのはなんだっけ、という自問に対して、自答の結果が、サヴァリッシュが「イドメネオ」と、我々には表現しきれない絶妙なイントネーションで声を発する記憶だったのです。

初めて聴くオペラというのは、全くの未踏峰のようなものですから、どこから取り付けばいいのかわかりません。指揮者なら、譜面を眺めるところでしょうけれど、リスナーに取ってみると、ただただ、音源を聞くところから始めるのですが、一度聞いてわかるようなものではありません。一度聞き終えたということは、山頂へ登る一つの道を、登ることだけが精一杯な状況で疲労困憊し、ようやく山頂へたどり着いた、ということにすぎません。余裕も何もないので、周りの景色も見えていないはずです。ですので、何度も聴くこと、つまり、一つの道をなんどもたどることでもあるし、別の登山道で山頂に登るということでもあるのですが、繰り返し聴くことで、山の全容、つまりはオペラ全体の様相がやっとわかり始める、ということなのです。

ただし、聞いただけでは、オペラの理解にはたどり着かないというのも、これまた難しいところで、実演を見て、テキストの内容を理解し、さらに、様々な演出で、あるいは同じ演出を違うキャストや指揮者で、と行った具合に、さまざなな切り口でオペラを受容していかなければならず、印欧語族ではない我々に取っては、言語の壁というものもありますので、よくもまあ、こんな高峰に挑むなんて、無謀な! とでも言われるようなことをやっているのかもしれません。

それでもなお、そこにオペラがあるから聴くしかないわけでして、十全に理解できずとも、曲を聴くだけでも、あまりに美しいアリアに出会ったり、荘重なシンフォニアに巡り合ったり、とそれはそれなりの楽しみ方があるものです。

この3時間に及ぶ《イドメネオ》について言えば、まだまだ4合目ぐらいにたどり着いただけなのですが、あれあれ、こんなにいい曲なんだっけ、という驚きがたくさんありました。これ、24歳で作ったのか、というのもまた一つの驚きでもあります。

聴いているのはこちら。Apple Musicで聴いています。本当にいい時代になりました。この時代がいつまでも続くことを願っても止みません。

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さて、色々ある昨今。乗り切るためには体力をつけないと、ということで、クロールで200メートル相当泳いでみました。明日も泳げるだろうか…。頑張ってみます。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

今年も園生忌が参りました。一年が経つの早いものです。
写真 1 - 2016-07-29
先日の講演会のあと、色々と考えました。暗い窖にどんどんずり落ちて行く感覚を感じていた今日この頃でした。そうしたなかで、全てを放擲してしまうのか、それとも、ずり落ちないように、精神の屹立を目指すのか。(私の言葉ですが)精神の屹立を成し遂げるために、辻邦生が美を追求したのでしょう。美こそ、人間らしく生きることを保証する最後の防波堤、最後の砦なのではなかったか、と。死を包み込むような美があるからこそ、加賀乙彦先生は「不思議な小説」とおっしゃったのではないか、と想像しています。
そういえば、高校時代、辻邦生を読み始めた時、「あ、これは死の小説だ」と思ったのでした。当時読んでいたのは、いわゆる「西欧の光の下で」という名前で括られる短編群でした。中公文庫で「辻邦生全短篇」という名前で2冊出ているものです。

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私は、友人に「辻邦生の小説には、死があるのだ」と語った記憶があります。確かに、「洪水の終わり」「風越峠にて」「空の王座」など、すべて死に彩られています。しかし、そこには陰惨なものはなく、ただ精神を高めながらも、その半ばにおいて、その精神の高さが故に死へとつながってしまう、というような、高みへ向かう死のようなものがあったように思うのです。これは、もちろん、短篇だけではなく、「安土往還記」「夏の砦」「背教者ユリアヌス」という長編軍においても同じだと思います。

なにか、この死をも包み込んでしまうような、何か、加賀乙彦先生が「不思議」とおっしゃったもの、それが辻邦生の一つの本質なのではないか、とも思います。

もちろん、死は単なる偶然の結果であり、死を目指すものではないということはいうまでもありません。何か、燃え尽きるような感覚、まるでイカロスが太陽に触れてその翼を失うような感覚、そういう感じを持っています。

私は、辻文学以外の文学小説をあまり読むことができません。村上春樹はいくらか読みますが、それ以外は実のところ読むのが難しく思います。どうも、この「不思議」な世界に足を踏み入れているから、なのかも、と思います。

しかし、当時の訃報の新聞記事。小説家の訃報としては非常に大きく取り上げられているなあ、と改めて思います。とにかく、18年前の夏の、なんともいえない悲しみ、悔やむような気持ちが思い出されました。

それではみなさま、どうか良い週末を。おやすみなさい。

Miscellaneous

今年も玉前神社参拝に行ってまいりました。



平成の大修理が終わり、恐らくは漆塗りの社殿は光り輝き、荘厳な空気を醸し出していました。社殿に入る機会を得たのですが、祭壇も金箔と漆に輝いていました。荘重で典雅でした。

一本の角を持つ狛犬が社殿内に有りまして、これはもうユニコーンだなあ、と思ったりしました。玉前神社では、かつてもオペラ《魔笛》の世界を見つけたりしました。東西の文化がどこかでつながっていることを実感します。

赴いたのは今週の頭。あまり気温も高くなく、過ごしやすい一日でした。東京の湿気を帯びた暑熱はありません。なにか太陽に焼かれる九十九里というイメージがあったので、少し意外な気分でした。
ちなみに三年連続で大吉でした。

また一年攻めの姿勢で頑張ろうと思います。
それではみなさま、良い週末を。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

作家の加賀乙彦先生の公式ブログに「フランス留学時代の辻邦生」という文章が掲載されていました。

https://ameblo.jp/asamayama-taro/entry-12261296070.html

先日の講演会の序盤において、辻邦生との出会いについて加賀先生が話しておられましたが、そのお話の内容と同じものが書かれているように思います。昨年末パリで開かれた「辻邦生 - パリの隠者」展の冊子にフランス語で掲載されたもののようです。

実は、明日まで少し早めの夏休み。先週末土曜日に辻邦生展に参ったことで、何か別世界に来てしまったような気がします。明後日からまた社会復帰ですけれど。

それではみなさま、おやすみなさい。

Tsuji Kunio

今年も夏が参りました。

私のなかではすでに夏の風物詩となっていますが、学習院大学史料館で開催されているミニ展示と、辻邦生がパリ留学中に交流した加賀乙彦氏による講演「辻邦生の出発─『夏の砦』」に行って参りました。

家の仕事が忙しく、直前ギリギリで会場に到着してしまい、講演会の直前ということもあって、ミニ展示は大混雑でした。残念ながら、きちんと見ることはできず、ざっと見るだけではありましたが、太い万年筆で書かれた自筆原稿を見ることができて本当に幸せでした。

小説家の加賀乙彦先生の講演会「辻邦生の出発──『夏の砦』」は、前半は辻邦生と加賀乙彦先生の最初の出会いのシーンから、辻邦生のパリの生活、加賀乙彦先生が小説を書いたきっかけなどが語られ、後半は、夏の砦を加賀乙彦が改題する、という内容でした。

驚いた事に、加賀乙彦先生は、当初全く小説を志しておらず、辻邦生の影響で小説を書き始めた、とのこと。勝手な想像で、医師ということから、北杜夫のように前から知り合いで、ということを想定していたのですが、どうもそうではなく、本当に偶然にパリへの留学の船旅で乗り合わせ、嵐の日に甲板で偶然出会った、という奇跡的な出会いだったということでした。もし、辻邦生と加賀先生が出会わなければ、おそらくは加賀乙彦という小説家は存在しなかったという事になるのかもしれません。

また、辻邦生の小説家になるという自負が強烈だったということも、初めて知った気がします。友人の加賀さんだから言えることなのかもしれません。例えば、世界一の天才だ、などという趣旨のことを辻邦生は言っていたようです。実際に、辻邦生は天才ですし、そうでなかったとしても、それを公言するぐらい強くなければ小説家にはなれない、ということなのだと理解しました。

後半、「夏の砦」を加賀乙彦先生が解説されたのですが、加賀乙彦先生は、「夏の砦」こそが辻文学の最高傑作であると言っておられ、「死を描きながらも明るい小説という不思議」、「膨らみ、明るくなり、黄金色に輝く世界」などと言っておられたました。本当にその通り。数々の死に彩られながらも、なぜか、ポジティブな小説だった、という読後感で終わるのです。それが辻邦生の不思議さであり、価値であり、魅力である、ということなのだと理解しています。

個人的には、「夏の砦」は3回ほど読み、先日Kindle版を入手し、また読もうと思いましたが、加賀先生のお話で、読むための視点のようなものを発見しました。歳を重ねると、かつてとは違う読みかたをしてしまうようになり、それは何か辻文学の輝きがあまりにも強く眩しく、何か足踏みをしてしまうような気がしていたのです。しかし、視点を得たことで、いま世界に感じている問題に繋がるような何かアクチュアルな読み方を発見できるのではないか、とも思っています。その視点は今は描きませんが、おそらくはこの後「夏の砦」を読んで、振り返る事になりそうです。

夏の砦 (P+D BOOKS)

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それにしても、加賀先生は88歳だというのに、矍鑠としてきちんと話をしておられ、たまにユーモアを交えながら、会場を温め、会場を見ながら緩急をつけて話をしていて、加賀先生も本当にすごい、と感嘆しました。

会場もかなりの人数の方々が来訪されていました。無料なので、コストは大丈夫なのか、と心配になりましたが、資料館のアナウンスによれば、寄付などで運営しているとのこと。やはり今でも、辻邦生は、様々な立場の多くの人々に愛され続けているのだなあ、と思いました。

講演会の後、辻ファンの方々とお茶をしてお話を。辻文学を語る機会はあまりなく、本当に勉強になるひとときでした。

書ききれたのかわかりませんが、まずは速報として。

暑熱が続きます。どうか皆様もお体にお気をつけてお過ごしください。おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

ブラームス:交響曲全集

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今日も色々とあった日。あるいはなかった日。作らなければ何もない日。

そんな中で聞いたラトルのブラームス交響曲全集。そのうち、第3番を聞いたのですが、いつもながら、私にとっては意表をつくようなダイナミズムに圧倒されてしまいました。それでも何か、そういうラトル節のようなものをすでにわかってしまっているような気もしていて、何かもう少し違うものを聞きたいような気もしたりします。

何をするにも、とにかく、時間を作ることが必要。今日はとうとう睡眠時間を少し削ってみました。いつか、毎日7時間寝て、毎朝5時に起きて充実した仕事をするのが夢です。夢の実現に向けて頑張ろう。

今日も全国で大変な雨になったようです。東京では雹が降ったとか。

今日は短く、おやすみなさい。

Miscellaneous

《ゴッド・ファーザー》がAmazonプライムで観られるのですが、なかなか見る機会なくこれまで来てました。やる気と意識の問題。で、やっと観ました。本当にいまさら。45年前の映画なのですから。小説は8年前に読んでいたので、あらすじは知っていますが、映画の迫力にはかないません。

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内容は良いのは言うまでもないのですが、勝手ながら、辻邦生《春の戴冠》と似たシーンがあって、イタリアつながりということもあり、あるいは執筆タイミングと公開時期が同じということもあり、深掘りをしたくなりました。

その場面というのは、ヴィトー、つまり、ドン・コルリオーネが襲撃されたあとの場面。ファミリーが全員ヴィトー家に集結するシーン。

これ、パッツィ家の叛乱でピエロ・デ・メディチが暗殺されたあと、メディチ党が全員メディチ家に集結するシーンだ、と思ったのです。主人公のフェデリゴもやはり、メディチ党の一人として、叛乱を恐れながらメディチ邸に入りました。

ルネサンスもマフィアも、やはりファミリー。辻邦生が、《ゴッド・ファーザー》を見て参考にしたかどうかは定かではないですが(確認しようとしたら、いつまでたっても投稿できないので、見切り発車してますが)、イタリアの血生臭さという意味では共通したものがあってもおかしくないなあ、と、なにか得心した思いがあります。凄惨な復讐もなにか同じもので、《ゴッド・ファーザー》の暴力シーンを見ても違和感を感じませんでした。

それにしても、本当に平坦な毎日。平坦であることを目指して頑張っています。日々我慢。

それでは皆さま、おやすみなさい。

Tsuji Kunio


先日、学習院大学史料館から案内状が届きました。写真は1959年ごろとのこと。終戦から14年。今から14年前は2003年。2003年に戦争が終わって、今ごろパリにいる、という時代感覚かなあ、と。

今日は短く。おやすみなさい。

Tsuji Kunio

辻邦生の「春の戴冠」をKindleで読んでいます。

春の戴冠2 (中公文庫)

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この長編小説は、大学を出てから読んだ気がします。20年ほど前。以降、3回ほど読んだ記憶があります。

初めて読んだときは、恐らくは物語の楽しみを味わうことに終始した気がします。フィレンツェの国際政治の乗り切り方を手に汗握る思いで読んだ記憶があります。

2回目は、恐らくは哲学的な観点で読んだはず。プラトンアカデミアで語られるプラトニズムから、美とは何か、分有という言葉をキーワードに読んだ記憶があります。恐らくは2004年ごろのことかと。

3回目はその数年後に読んだと思うのですが、何か晦渋さを感じながら読んだ記憶があります。もっとも、あのシモネッタとジュリアーノが恋に落ちる仮面舞踏会のシーンに感動したり、最後の場面の少年たちの狂騒に文化大革命の紅衛兵を感じたり、そういった発見もありました。

その後、昨年だったか、「春の戴冠」をKindleで入手し、読み始めたのですが、なかなか進みません。何故なのかなあ、ということを考えると、何か遠いところに来てしまった、という思いが強くあり、入って行けなくなってしまった、ということなのかもしれません。美しい描写も、その文章の上をうわ滑ってしまうようなそういう感じです。昨日も書いたことですが、あまりに違う世界にいますし、時代も大きく変わりました。

辻邦生の生きた時代が過ぎ去っていくことを感じたのは、「夏の光満ちて」を読んでいた時のことでした。辻邦生がパリへ向かう飛行機がエールフランスのボーイング727だったという記述があったはずで、それを読んだ時に、ああ、本当に違う時代のことなんだ、と体感したのでした。ボーイング727は30年前に活躍した旅客機で、日本で見ることはできません。なにか、時代の隔絶を感じたのです。それは、江戸と明治の差かもしれないし、戦前と戦後の違いなのかもしれないと思うのです。

なにか、手の届かないところへと遠ざかっていく感覚は、昨日触れた、高層ビルから眼下を眺めるということとも言えます。

それで、昨日、この「春の戴冠」をKindleで読みましたが、ちょうど出てきたのが、<暗い窖>という言葉でした。

それは自分の立っている場所がずり落ちてゆき 、いわば 〈暗い窖 〉のなかに陥るような不安をたえず感じざるを得ない人たちです。(中略)生きることに一応は意味も感じ 、努力もするが 、心の底に忍びこんだ 〈失墜感 〉をどうしても拭いきれない。

この失墜する感覚に対して、全てに神的なものが分有されていることを認識することで、その迷妄を断ち切る、というのが、フィチーノがその場に結論なのですが、どうなのか。結末のサヴォナローラを知っているだけに、複雑な思いです。

何度か書いたことがあるのかもしれませんが、文学は人生論ではないとは思いますが、やはり時代という背景の中で書かれ読まれる文学には、文脈に応じた意味が付与されることになります。窖という言葉は、そうした時代や、あるいは人間の一生の中で感じる何かしらの失墜感を表すものではないか。どうしようもなく、抗うことのできないものの象徴なのではないか。

初めて「春の戴冠」を読んで20年で、何かそういう思いにとらわれています。逆にいうと、この「窖」の答えもまた「春の戴冠」の中に隠されているはず、とも思います。

台風が東京地方に迫っております。どうかみなさまお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Jazz


つれづれな日々が続いています。とはいえ、少しずつ物事が動き始めた感覚もあります。なんとかねばり強く攻めの姿勢を保たないと。

で、歳月はどんどん周り、7月に突入となりました。今年も、もう半分終わりました。正月におせちを食べながら、早く来年の正月に実家ならないか、と、思ったものですが、よく感えると、今年の正月はないかも、とも。

歳月といえば、今年でブログを始めてなんと14年になろうとしていることにも気づいてしまい、時の速さに打ち震えています。

当時は先進だったブログも、今やレガシーなメディアになっている感もありますが、どのプラットフォームにも依存しない自由な感覚が好きで、乗り換えたり閉鎖したりする気にはなりません。せめて、ここは自由に過ごしたい場所にしておきたいと思うわけです。もちろん節度ある自由であることは言うまでもありません。

かつての記事は、今の本意とは異なるものになっているものもあるかもしれず、あるいは、書き直したいほどのものもあるのかも知れませんが、それもこれも、一つのプロセスでもあるので、そのままにしておくことしかできないのでしょう。

とにかく、こうして思うと、本当に時の流れに乗って長い長い旅をしてきて、思えばずいぶんと遠くまで来てしまったものだ、と思います。ほれば、まるで、高層ビルから地上を見下ろすような気分になるものです。そして、この先どこへ向かうのやら、と。

そんなことを思いながらこちら。

イリアーヌ・イリアスがビル・エバンスをカバーしたアルバム。土曜日にNHK-FMでかかっていたので、そちらをAppleMusicで聴いています。

Something for You

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Eliane Elias
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ビル・エバンスのベスト盤を繰り返し聞いたのは、高校2年の夏のこと。あれからもう30年。こちらも気が遠くなるような感覚。スコット・ラファロのベースが普通だと思ってしまったのは、少し問題だったかも。

イリアーヌ・イリアスのアルバムにはまったのは2006年のこと。癒しを求めるように、毎日のように聴き続けたのですが、それはたかだか10年前に過ぎない、とも。

この、Somerhing for youというアルバム、イリアーヌらしいタッチが楽しめますし、ボーカルもいつものように素晴らしく、気だるい感じに力を抜いて歌う感覚が、疲れたときに聴くには、その中に倒れこみたくなるような感覚を覚えます。村上春樹なら暖かい泥の中に、とでもいいそうな。

暑熱の迫るこの頃、どうかお身体にお気をつけてお過ごしください。みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。