随分サボってしまいました。9月最初の投稿。めまぐるしい毎日で、ほとんど何もできず。やっと少し時間が取れました。
9月に入って、涼しい日が続いていましたが、今日は残暑の風情でした。本格的な秋に向けて、夏の名残を楽しみました。
今日は短く。みなさまもお身体に気をつけてお過ごしください。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生

随分サボってしまいました。9月最初の投稿。めまぐるしい毎日で、ほとんど何もできず。やっと少し時間が取れました。
9月に入って、涼しい日が続いていましたが、今日は残暑の風情でした。本格的な秋に向けて、夏の名残を楽しみました。
今日は短く。みなさまもお身体に気をつけてお過ごしください。
うーむ、スクリャービンをあまり聞いたことがない事に気づきました。
いや、聞いたことはあるのですが、理解するまでには聞いていないなあ、と。かつて、交響曲全集を買ったものの、CDラックに収まったまま。
で、Apple Muicでムーティが振るスクリャービンを聴いています。
これは実に難関。難関というのは、理解し難いとか、好きじゃないとか、そういう意味ではありません。素晴らしく、美しい音で満たされているのですが、この奥行きのある世界を理解するのはしばらく時間がかかりそう、というのが本音です。
スクリャービンは独自に神秘和音を作り出し、調性を崩したことで、現代音楽の一つの源流となっているようです。
確かに、そうだなあ。マーラーやベルクの耽美的な部分を取り出した感じですが、本当に危険を感じるほどの美しさで、近寄ることを躊躇する感覚があります。ブルックナーやブラームスに親しんでいた向きには、何か近寄ると大火傷をするような美人に感じる危険を感じたり。トーマス・マンの「小フリーデマン氏」を思い出します。
それにしても、19世紀の音楽はオプティミズムに彩られているよなあ、と改めて思います。例外はあるのかもしれませんが、啓蒙主義からフランス革命に至り、市民革命が各地に広がる、というヘーゲル的な進歩史観がまだ有効だった時代だなあ、と思います。この辺り、以前にも書いたことがありますが、また改めて書いてみたいテーマです。
さて、今日の東京、夕方になって実に涼しいです。秋が来てしまいました。寂しい限りです。今年の残暑はどうなるでしょうか。
みなさまも、残り1日の8月の夜をお楽しみください。
おやすみなさい。グーテナハトです。
この日曜日、NHKFMの「きらクラ」を聞きました。ふかわりょうさんがお気に入りとしてオンエアしたのが、ジェラルド・フィンジの《エクローグ》でした。昨年もオンエアしていて、どうやら毎年夏の終わりに取り上げてくださっているようです。
本当に夏の終わりには本当にぴったりな曲。
で、このアルバムをApple Musicで探し当てました。エクローグ以外の曲も実に素晴らしいです。
何よりサクソフォーンがふんだんに使われているのが嬉しいです。私もサクソフォーン奏者の端くれとして、とても惹かれるアルバムです。例えば、Five Bagatellesなどは、クラリネットとピアノのための室内楽をオケとサクソフォーンのために編曲しているようです。クラシックにあったアルトサクソフォーンの音色が、夏の夜の気だるい感じに実によく合います。まるで、名探偵ポワロのテーマ音楽のようなアンニュイな感じ。
昨年、フィンジの映画が作れそう、という話を書いた気がします。どうやら、曲から勝手に物語を作り出そうとしているようです。レベルは違うかもしれませんが、どうもこういう感興が楽興と呼ばれるものであり、それこそが辻邦生の書いた「楽興の時」なんじゃないかなあ、と思いました。
昨年の記事はこちら。
https://museum.projectmnh.com/2016/08/15233435.php
もう少しで8月も終わり。季節は巡る。あと何度この季節の巡りに立ち会えるのだろう。そう思うことが生きる歓びとである、と辻邦生なら描きそうです。
とにかく、みなさま、暑熱の中どうぞお身体にお気をつけて。
おやすみなさい。グーテナハトです。
夏が終わり近づいています。
何か、この夏は、なしうることをきちんとできないまま終わったような。それは、東京地方が冷夏で、夏らしい晴れた日が少なかったということがあるのかも、とも思いました。
そんな中で、いくらか元気をもらうことも。
この夏一番の元気のネタは、山の日の連休に見た、こちらの番組。トランス・ジャパン・アルプスレースを取り上げた番組。
富山湾から駿河湾まで、三つのアルプスを縦走するという恐ろしいレース。本当の超人達が限界を超え続けるというレース。
ここまでできる人間というか日本人というか、本当にすごいものだなあ、と。まだまだできることはあるのかも、ということを思いました。
今日はこちら。
以前、「私を構成する9枚」という記事を書いたことがありますが、その中の一枚でした。
https://museum.projectmnh.com/2016/02/01232447.php
Humpty Dumpty, MadHatterRhapsodyl。どれも何か聞いていると故郷にかいってきたかのような感覚を覚えるものでした。
そうそう、このテレビを見た後に、うちの家族は「他人の人生を生きてどうする?」と言いました。
それから、テレビで元気をもらうというのものどうかな、とも。
確かにね。
自分でもベストは尽くしているつもりですが、まだまだ足らないなあ、と。三つのアルプスを縦断するのと同じぐらい頑張らないといけないことが我々一人一人にはあるはず。ということで、それぞれのミッションを頑張りましょう、というのがこの夏の結論かもしれません。
それでは、残り少ない夏を惜しみながら、おやすみなさい。グーテナハトです。
日曜日。やっと少し時間が取れました。
とにかく、時間が取れない。ですが、それは言い訳です。時間は掠めとるものです。映画を見る暇もありませんが、Amazon Primeで見られる《のだめカンタービレ》を、通勤電車の中でなんとか見たのです。
筋書きは、みなさまご存知の通り。面白かったです。
ですが、何が一番すごかったかって、最後のシーン。のだめが、千秋真一との落差にショックを受けて、パリをさまようシーン。マーラーの交響曲第5番アダージェットが流れる中で、パリの街並み。
夕日に輝くセーヌとノートルダム寺院。白い壁の並ぶパリ。そして、雨が降り始める。夕立を逃げ迷う人々。雨に濡れるのだめ。
その時思い出したのが、この絵でした。
By Gustave Caillebotte – 5wEUCOlEf-EaVQ at Google Cultural Institute maximum zoom level, Public Domain, Link
なんという美しいシーン。ギュスターブ・カイユボットの絵。「パリの通り、雨」と言う絵で、シカゴ美術館にあるそうです。この絵は、アマティ四重奏団のCDのジャケットで知っていました。
音楽だけでもなく、映像だけでもなく、両方あってこその美しさ。こればかりは、もう映画やオペラには何をも勝つことのできない美しさなのだと思うのです。
Franck: Piano Quintet/Faure: String Quartet
のだめカンタービレの映画版は、前編後編の二つあります。映画版は時間の制約から、千秋真一とのだめのラヴストーリーが結論となって居ました。
ただ、漫画版は、確かそうではなかったと言う印象です。確か、フランスの地方の城館でのだめがモーツァルトを演奏するシーンで終わったはず。音楽とその体験の幸福な融合が体現された場面だったと勝手ながら思って居ます。それは、以下の本で学んだこと。
音楽だけではなく、音楽を演奏する人を見つつ、その前後の体験、つまり食事であるとか会話であるとか会場の様子であるとか、そうした全ての体験が音楽を聴くことである、と言うこと。岡田暁生さんは、イタリアでのコンサート体験を例にとってそうしたことをおっしゃっていたと記憶しています。
映画でも、いつも聞いた時には感じない感動をえたような気がします。映画の中では音楽は短縮されているのですが、それでもショパンやバッハのピアノ協奏曲、序曲1812年がいつもと違う色彩を帯びて聞こえてきて本当に驚きました。
そう言う意味では、通勤電車の中でApple Musicで聴く音楽というのは、実際のところどうなのかなあ、などと思ったりもしました。ちゃんと音楽を聴けるようになるのはもう少し先になりそう。それまでは、せっせと別の勉強をしなければ、と思いました。
音楽映画、他にも色々とあるので、また見てみようと思います。
今日は本当の徒然メモ。
振替休日でしたが、日頃の寝不足を解消すべく、しばらく眠りにつき、起き出して、食事。やらなければならない家事をこなす。洗濯もしたし、食器も洗い、やるべきことを整理したり。今週に入って、休みだった近所のプールが今日から再開したので、泳ぎに行きましたが、ブランクが空くと、途端に泳げなくなっていて、あれれ、という感じ。
今日もこちらでございます。
まだまだ理解不足。
こちらも部屋の片付け中に、少し読みました。「フーシェ革命暦」が途中で終わってしまったあたりの、少し悲しい感じなどを読んで、寂しい思いでした。
それでは、みなさま、おやすみなさい。
イドメネオ。
攻略中のオペラです。こればかり聴いているわけではありませんが、連日AppleMusicで攻略の楽しみを味わっています。もしかすると、名曲の宝庫なのではないか、と思います。色々な版があったり、録音も色々あるようで、もう少しきちんと聞かないと、語れないのですが、徒然と題して書きます。いや、これはもう、ハマってしまったかもしれないので。
特に、今聞いているベーム盤が素晴らしいからかも。ペーター・シュライアーも素晴らしいですし、何より、ベームの洗練されたダイナミズムとか、あるいはドレスデン・シュターツカペレの絹のような弦の音とか。先日聞いていたガーディナー盤よりも、ベーム盤の方が、華やかで少し聞き応えがあるような気がします。
イドメネオを聞いていたら、なぜかリヒャルト・シュトラウスを思い出してしまいました。「ばらの騎士」か「ナクソス島のアリアドネ」か。モーツァルトなのに、あれ、シュトラウスでは、と思う瞬間がありました。ギリシアを舞台にしていると言う点で似ているだけなのかもしれませんが、何か、典雅と切迫の混ざり合う空気感が似ているような気がします。
それにしても、モーツァルトの素晴らしさというのは破格だなあ、と改めて思いました。18世紀後半、まだ世界に理想があった頃、あるいは、理想を目指していた頃の音楽だなあ、と。そういう、何かオプティミズムを感じます。
これは、モーツァルトだけではなく、19世紀ロマン派に到るまでのクラシック音楽の根底にある一つの理念ではないか、と最近思います。そういう意味では、クラシック音楽とは実に時代遅れな音楽でもあり、懐古的な音楽でもあるわけですが、それが時代遅れであったり、懐古であったりという時代は、西欧の終わりとでも名付けられる時代なのではないか、とも思いました。あるいは、西欧の中にも西欧はないのではないか、そういうことを思ったりします。
このことはまた別の機会に。
いずれにせよ、また音楽を聞くのが楽しくなって来ました。本当にありがたいことです。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
辻邦生のミニ展示で、「JOURNAL」と題された自筆の日記を読むのが毎年楽しみです。ブルーブラックの中太ぐらいの万年筆で縦書きで緻密に書かれた日記には、本当に興味深いことが書かれています。
今回は、私の記憶では、確か「内容」と「様態」を小説でどう取り扱うか、と言うテーマが書かれているページだったと記憶しています。
小説家は「内容」は書いてはいけない。「様態」を書かなければならない。そう言うテーマだったはずです。何かを表現しようとした時、それをそのまま文章で書いてしまうことを、おそらくは「内容」と言っているはず。対して、「様態」とは、何かの様子を描写することで、「内容」を表現する。そう言う風に理解しました。
例えば、「疲れ切ったサラリーマンが、何人も座席で寝ている」と言うのが「内容」だとすれば、「20時。通勤列車のロングシートに座る白いシャツを着た男たちは、一様に目を閉じて列車に揺られている。列車が動きに合わせて、男たちの身体が一斉に動く。まるで、眠れる兵士が隊列を組むように」みたいな、情景の描写が、「様態」なんですかね、なんてことを思います。
いずれにせよ、直接的な表現に甘えてはならず、描写によって事物を表現せよ、と言うことなのだと理解しました。
おそらくは、そう言うテーマが「小説への序章」にあったはず。展示されていた日記は、「夏の砦」を書くために山へ向かうシーンが描かれていた部分です。「夏の砦」成立と同時期に「小説の序章」がかかれていますので。このあと確認して見ます。
今日も東京地方は雨。夏はどこへ言ったのか。また来週から夏が戻りますが、すでに「残暑」と呼ばれる季節になってしまいました。日の出の時間もどんどん早くなります。東京ですと、残念ながら朝5時を回ってしまった、と言う悲しみ。毎朝5時に起きていますので、暗い中起きる季節がまた巡って来てしまいました。早く、夏至にならないかなあ、と思います。心の底から!
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
受験のために、東京へ向かったのが1992年のこと。宿泊は格安プランの品川プリンスホテルでした。プリンスホテルとはいえ、古い部屋で、窓も小さく、だから格安プランなんだ、と納得した記憶があります
その東京へ行くにあたっては、中公文庫の辻邦生全短篇を1冊持って行きました。「洪水の終わり」を新幹線ホームで列車を持ちながら読んだ記憶があります。
それはそうと、その品川プリンスホテルの中に入っていた小さな書店で、辻邦生の本を見つけたわけです。「霧の聖マリ」でした。ある生涯の七つの場所が中公文庫から刊行されましたが、その最初の一冊でした。その頃は、まだ辻邦生という作家のことをまだよくわかっていなかったわけですが、そうであったとしても、ここで出会ったのも縁だと思い、購入したんだと思います。
それで、あとがきを見て驚いたのでした。辻邦生によるあとがきの最後は「高輪にて」と締めくくられていたのでした。品川プリンスホテルは高輪に面しています。そうか、ここで辻邦生の本を買ったということは、本当にすごい縁なのだ、と勝手ながら思ったものです。
辻邦生のマンションは高輪にあったというのは有名な話。逝去をつたえる新聞記事にもご住所が掲載されました。部屋は二つお持ちだったのではないでしょうか。一つは生活される部屋。もう一つは仕事部屋。エッセイの中で、夕暮れをマンションから見ていたら、変人扱いをされた、というような話も載っていたかと思います。
私は、辻邦生がなくなった1999年の後、そのマンションまで五反田駅から歩いて見たことがあります。その道は、「銀杏散りやまず」の冒頭で描かれたあの通り道だったはずです。その通り道にあった古書店で、シュティフターの「ヴィティコ」という本を見つけて書った記憶があります。
この話、以前も書いたかどうか、忘れてしまいました。
それ以外にも辻邦生と個人的な縁を感じることがいくつか会ったように記憶しています。折があれば書いてみようと思います。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
この週末、本棚を眺めていました。なぜか美術系の本が並んでいる棚に、こちらが入っているのを見つけました。
私が初めて読んだ辻邦生の活字は、この本に印刷されていた「樂興の時 十二章」『桃』だったのです。
手に取ったのは夏の暑い日、当時住んでいた高槻の街から京都へ向かう快速電車の中だったと記憶しています。まだ湘南色を身にまとった快速電車でした。
この小説を読んで、辻邦生ってすごいなあ、と思ったのでした。その後新潮文庫版の「見知らぬ町にて」を古本で購入し、辻邦生文学へと進む毎日が始まったのでした。
昨日、改めて読み返しました。
本編のストーリもさることながら、ゴシックで書かれた別の物語に興味を覚えました。子供たちが夏の森の中を進んで、牧神に出会い、一緒に踊り、さらに進んで海辺へいたり、主人公の老人の物語と同一し、薔薇色の海の中へと、泳いでいく、という物語です。おそらくは老人が見ている夢です。
この物語は、アルカディアのイメージです。私はこちらの絵を思い出しました。国立西洋美術館にある「踊るサテュロスとニンフのいる風景」。子供たちとサテュロスが踊る理想郷を描いた絵です。私はこの絵が本当に大好きで、数年おきに上野に行きたくなります。踊るサテュロスやニンフたちの姿はもちろん、その向こう側に広がる風景や大気の様子が素晴らしく、上野にいくたびにずっと眺めていて、いつか吸い込まれてしまうのではないか、と思ってしまいます。
おそらく、主人公の老人も、夢の中でこういう風景を見ながら、薔薇色の海に入って行き、息を引き取ったのでしょう。
ある意味、満たされた死。これが、加賀乙彦先生がおっしゃっていた「死を描きながらも明るい小説という不思議」「膨らみ、明るくなり、黄金色に輝く世界」がここにあるのだ、と思いました。

しかし、考えることの多い作品だなあ、と思います。老人の住む世界と、老人の妻あるいは老人の娘の住む世界の相違、という問題。この世界の相違というのは、本当に問題です。
それにしても、高校時代に読んで、この小説に感動するというのも、今から思うとどうかと思います。当時から、何か世の中の儚さのようなものを勝手に想像していたようです。今では、それが現実になっている気がします。
昔書いたこちらも。
https://museum.projectmnh.com/2006/11/10203036.php
どうも暑くなったり涼しくなったり、という東京の気候です。体調を崩してしまいそうです。みなさまもどうかお気をつけてお過ごしください。
おやすみなさい。グーテナハトです。