あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
毎年、攻めようと思うのですが、本当に攻めているのか?、と思います。今年はもっと攻めないと。
お仕事をされている方もいると思いますが、みなさまもどうか良いお正月をお過ごしください。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
毎年、攻めようと思うのですが、本当に攻めているのか?、と思います。今年はもっと攻めないと。
お仕事をされている方もいると思いますが、みなさまもどうか良いお正月をお過ごしください。
今年もあとわずか。
なんだかあっという間でした。
世界も激動ですが、個人的もたくさんのことがありました。仕事も目まぐるしく変わりました。
大切なことはただできることをきちんと考えて確実に行うと言うことでしかありません。大切なことを果たしてできていたのかは後になってみてわかることです。積み重ねが物事を作りますので。
来年はもう少しアグレッシブな一年にしたいものです。
辻邦生関連で言いますと、夏にあった学習院大学史料館での辻邦生ミニ展示と講演会が本当に素晴らしいもので、とても多くのことを考えました。ただ、秋に恵比寿で会った展示と講演会は故あって参れませんでした。残念。
来年の学習院大学史料館も展示は「背教者ユリアヌス」です。夏が待ち遠しい今日この頃です。
今年はコンサートには全く行くことができず。公私において多忙極まる毎日でした。そんななかで、できたことと言えば、マーラー5番の聞き比べをしたことが記憶に残っているぐらいでしょうか。ただ、そんな中、なにか音楽の希少性と重要性を再認識したとも思います。音楽の奥深さ、あるいは畏ろしさ、のようなものをあらためて感じたと思います。
総じて、今年は記事を書く機会が少なく、反省することしきりです。書くことが、考えることであり、ひいては存在することである、というのがモットーなんです。来年はもっと存在したいものです。
あるいは、来年はよい年になることを本当に願っています。地政学、経済の面で、世界史的重大局面にあるなかで、個人としてなせることは本当にないのですが、ともかく人間の叡智と倫理性が、人類史的に向上していることを願わずにはいられません。願うことしかできない、ということ自体が、問題の深刻さを物語っているようにも思います。
本年も本当にお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
よい年をおむかえください。
すでにご存じの方も多いと思いますが、中公文庫から「背教者ユリアヌス」が復刊となりました。まずは、第一巻が12月22日に刊行されています。
中公文庫のTwitterで紹介されているのをキャッチしました。
なんだか、「ある生涯の七つの場所」が文庫化されたときに、2ヶ月に一度の刊行が待ち遠しくてならなかったのを思い出しました。もちろん、旧い中公文庫は持っています。すこし迷います。
そんなことをかいているうちに、2017年ものこり1日となりました。明日で最後。さて、振り返りをする時間はあるだろうか?
それではみなさま、おやすみなさい。

年の瀬が光速で迫っています。
ほんとうに今年はたくさん勉強できた一年間でした。どんなことであろうとも、マイナスになることはないのでしょう。
それでもなお、大切なことを見うしなうことなくことにあたらないといけない、と思います。
辻邦生「言葉の箱」から。
いいですか 。このことを忘れてはいけません 。あなた方一人ひとりの大事な一回こっきりの人生ですからね 。一回こっきりですよ 。二度も三度も生まれてこないんですから 、一回こっきりの大事なきょうのこのときだと思うんですよ 。こんなに大事なときに 、あしたもあればあさってもあれば 、きのうもあったし 、きょうなんてどうでもいいや 、ではダメなんです 。この一回こっきりの自分というもの 、自分のいまの世界を本当に大事にしてください 。
この一カ月、リマインダーにこの言葉を入れて、読めるようにしていたつもりでしたが、リマインダーを見る暇もないほど時間がありませんでした。
ようやく、今週に入って見直しました。
一体、望んだ一年を送れたのかなあ、とこの言葉を読みながら考えますが、確かに、たくさん勉強したけれど、その結果はまだよくわからないなあ、と思いました。
まだ今年は続きますが、今日からすぐに仕切り直さないと。
みなさまも良い年の瀬をお過ごしください。
おやすみなさい。
先だっての日曜日。貴重な休みの日でした。
で、ふと思い立って、自宅のコンポで、ジャズというか、いわゆるフュージョンを聴いてみたのですが、なんかいいっすね、と。
18年ほど前に買ったコンポに、5年ほど前にヤフオクで安く買った中古のスピーカーを繋いでいるだけですが、結構いい音がしてしているような気がして、驚き、癒されました。
聴いたのはこちら。
マイケル・ブレッカーが参加しているので買ったCD。私が5年ほど前に古内東子ばかり聴くことになったきっかけなアルバムがこちらです。参加ミュージシャンか20年前のジャズ・フュージョンの大御所たちばかりで、サウンド全体の完成度が素晴らしいです。きっと録音もいいんだろうなあ、と思います。
これはもう四半世紀前のアルバム。3曲目のBIG CITYは、毎日のようにDigital Hornでコピーしましたので、ソロは全部覚えてました。懐かしくて泣きました。
それにしても、スピーカーからスネアドラムの音やベースの音が質感をもって聴こえてくるのは驚きでした。毎日ヘッドフォンで聴いていますので、こういう感覚が意外に新鮮です。
もっとも、オーディオの世界は底なし沼でして、今、いい音だ、と思っても、すぐにそのいい音に慣れてしまい、また次のいい音を求めなければならなくなります。時間、お金、場所がないと成立しないものなので、過度な深掘りは禁物です。
また、クラシック、ジャズ、フュージョンやロックなど、ジャンルごとに、オーディオの鳴らし方も違うんだろうなあ、とも思います。
いやあ、決して足を踏み入れてはいけないゾーン。そもそも、ゆっくり部屋で音楽聴く時間はないし。
ところで、毎朝6時前に家を出ますが、いよいよ気温がマイナスになりました。さすがに寒いです。通勤電車の座席のヒーターがありがたいです。みなさまもクリスマス、年末に向けてご自愛ください。
おやすみなさい。
さまざま、巧く行かないことが多い最近だなあ、と。まあ、面白いぐらいに本当に巧く行かないのですが、しぶとくやってます。周りに迷惑をかけているのなら申し訳ないなあ、とも思いながら。
まあ、人生いい時も悪い時もあるのかなあ、と。
とにかく、悪い時は、身を低くしてでも粘り強く生き続けないと、と思います。スランプの時ほど作家は机について書き続けると言いますし。
これまで何度も修羅場のような場面をくぐり抜けましたが(それすら修羅場ではないのかもしれませんが)、まだなお生きてますので、まだまだ粘らないと、と思います。
今日もばらの騎士。ハイティンク盤を聴いています。
人生の儚さを歌うマルシャリン、つまり元帥夫人のモノローグ。
2年ほど前に新国立劇場でばらの騎士を観た時、この言葉にガツンとやられたのでした。
「なぜ腹がたつの? これが世の中なのに」
以来冒頭言にしています。
静かに歌われる、過ぎ行く時間とままならぬ人生。それを雄々しく受け入れ手放す心意気,。これこそが、大人の粋な生き方だなあ。
あえて怒ることはあろうとも、それは別になにか空虚なもののように思います。本当はどんなにいきどおろうとも、なにも変わらないのですから。
昔は、第二幕、ばらの献呈のシーンが一番好きでした。次に、第三幕終幕の場が好きになりました。今は、第一幕最後の元帥夫人のモノローグが一番好きだなあ、と思います。
それでもなお、元帥夫人も人間です。早くに返してしまった恋人のオクタヴィアンへの未練がまだある。そうした、非合理もまた大人の粋でしょうか。
寒い日々が続きます。みなさまいかがお過ごしですか?
さて、11月末から先日まで、新国立劇場で、ウルフ・シルマーのばらの騎士が上演されていました。ジョナサン・ミラーの演出。2007年に初めて見た新国立競技場のばらの騎士では、最初から最後まで泣きっぱなしでした。指揮はペーター・シュナイダーでした。以来3回ばらの騎士を新国立劇場で観ました。どれも素晴らしい思い出。2011年は震災直後の4月公演で万感迫るものがありました。
今年も、本当に本当にいきたかったのですが、行けるわけもなく断念。次にオペラに行けるのは数年単位で先になりそうです。
代わりにといってはなんですが、ばらの騎士を聴き比べててみようか、と思いました。
この二ヶ月、マーラー5番ばかりで、じっとしていると、マーラー5番目が心に浮かびぐらいになってましたが、そろそろ別の曲もいいかなあ、と。
というわけで聴き始めたばらの騎士、本当に素晴らしいです。
洒脱と諧謔。悲しみと高揚。マーラーの世界とシュトラウスの世界は、入り口は違っても、同じことを言っている気がします。今日はショルティ。「騎士団長殺し」に登場する音源です。
ショルティの躍動感、くっきりとした輪郭。ますますショルティが好きになります。
オペラで感涙したことを思い出しました。涙はカタルシス、浄化。そうでないとやっていられません。
さて、それにしても長い労働。週末休めるだけでもありがたいと思わないと。毎晩のワインが美味しい毎日です。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
一ヶ月続いた風邪もやっと抜けました。風邪は辛かったです。
いい時も悪い時もある。いまはどちらかは、今わかることもあれば、先にならないとわからないこともある。
それで撮った写真。

朝日の中に、黄葉が光り輝いていました。装飾品のようなきらめきに心が打たれました。ただ、これから散りゆく運命にあることも確かです。枝からは、すでにだいぶんと葉が散っています。それは去り際の美しさ。あるいは惜別の感覚。その向こう側にある高層マンションでは、変わらない日々の生活が営まれていることでしょう。その中で、まるで、気づかれることなくひっそりと去りゆく名優のように、黄葉は散りゆくのでしょう。
こう言う美しさも、単調な生活の中で大切にしなければ、と言うことなんだと思います。
辻邦生なら、きっと写真に撮ることなく、文章だけで表現するでしょう。加賀乙彦さんは、先だっての夏の講演で、辻邦生が旅先で写真を撮ることなくただただ風景を書き連ねていた、と述べておられました。「ピアニストがピアノを毎日弾くように」、辻邦生は絶えず書いていたと言うことです。
さすがは師走。寒い毎日。インフルエンザも流行りだしました。みなさまもお気をつけて。
おやすみなさい。グーテナハトです。
冬。最後の黄葉。素晴らしい冬の快晴の一日でした。関東のこの快晴は、寒い冬の中にあって唯一の楽しみです。
早く夏になってほしいですが、この光を見ると関東の冬も捨てたものではない、と思います。

今月も忙しそうな毎日になりそうです。そこで何ができるのか、で真価が問われるのだと思います。
寒い日々が続きます。みなさまも、お身体にお気をつけて。
なんだか、ひどくいろいろなことをやっていて、くさくさした感じになってしまい、これはもう、何かストレス解消になるようなことをしないと、と思っていたのですが、この本を読んで一気に沈静化してしまいました。
辻邦生「詩への旅 詩からの旅」。1973年出版です。
古本で買ったものですが、いつどこで買ったのか全く覚えていません。ところが、裏表紙を見ると、辻邦生のサインが。

実際に40年以上前に辻先生が手に取られた本が、21世紀となった今、私が手に取っている、という感動はそこはかとないものです。
この本、かつて読んでいるはずなのですが、もう20年も立っているので、ほとんど初めて読む感覚でして、冒頭のパリの描写にシビれてしまい、しばらく先に進むことができません。先日書いた「エルEllE」の中で、フランスの個人主義について少し触れましたが、その個人主義が「死」に立脚しているという指摘に痺れてしまったり、あるいは、フランスのカフェの微細な描写に、外国に行った時の緊張感のようなものを思い出したり。
朝のカフェのこの感じ、この雰囲気は決して伝えることはできない。そのなかに生きる以外にはそれを味わう方法はない。だが、そのことは小説を書くことに似てはいないだろうか。なぜ小説では、微細な細部が描かれるのか。なぜ裁断し、批評し、説明し、要約しないのか。それはただ、微細な描写が生きた雰囲気、なまなましい感じの容器となって作用しているからではないのか。この感じ(サンサンシオン)は、そうした描写にひょって、そのまま保たれているからではないのか。
11ページ
なんだか、もう外国に行くこともなくなってしまい、本当に悔しさとか悲しさとか歯がゆさとか、そういうことを感じずにいられません。が、人生は短く長い。これからどうにかしないと、とも思いました。諸々頑張ろう。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。