上野に来ました。歩いていたら、路面電車発見。いい時代。
とりいそぎ。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
写真は近所からとった朝の風景。先日のことです。どんどん日が短くなります。
バタバタとしております。昨年の10月からずっと。で、明後日でようやく落ち着くと思われます。いや、まだひとやま、ふたやまあるな。ものを創るということは大変です。
今年に入ってブログ皆勤ですが、毎日コンスタントに書くのは難しいです。。
取り急ぎおやすみなさい。グーテナハトです。
引き続き《こうもり》のこと。今日もクライバーの《こうもり》を聴きました。なんというか、古き良き時代。このような時代が100年以上前にヨーロッパにあったということなんですね。
新国立劇場の《こうもり》は、2006年にプルミエを迎えたハインツ・ツェドニクの演出を使います。今回が4度目です。なかなか息がながいですね
私は2009年と2011年の二回観にっています。
2009年はなかなか楽しい思い出でした。
https://museum.projectmnh.com/2009/02/02235843.php
が、2011年は、エッティンガーの指揮が軍楽隊のようで、という感想でした。(リンク先、WordPress移行で情報が乱れている模様)
https://museum.projectmnh.com/2011/12/11225001.php
では、今回はどうでしょうか。
今回の式は、アルフレッド・エシュヴェです。フォルクスオーパーで指揮をしているアルフレッド・エシュヴェはみずから「ウィーン気質」と言っています。《こうもり》の経験も多そうですね。洒脱な《こうもり》が聞けると良いのですが。
こちらがインタビュー記事です。
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/news/detail/150122_006234.html
いろいろ画像をみていると、前回2011年もアイゼンシュタインを歌ったアドリアン・エレートは、どうやら口ひげをつけて登場のようです。また、2009年、2011年とは違うキャストの方も入っていますので、今回は随分印象が変わるのではないか、と思っています。
そしてこちらが予告編。2011年の模様となっています。
すでに全5回のうち2回がおわり、金曜日と日曜日二回公演が残っているのみです。
こんな時だからこそ、見に行かないと、と思います。いわゆる、辻邦生のいう「戦闘的オプティミズム」です。
ではおやすみなさい。
今週末、新国立劇場で《こうもり》を見る予定です。色いろある世の中ですが、こういう時に違うことをすると、かえってよくありませんのであえて行くことにします。
戦闘的オプティミズムという感じ。それも贅沢かもしれませんが、保つためには必要なことではないか、と。
で、やっぱりクライバーはすごいのですね。クラシックの楽しみ方はいろいろありますが、指揮を愉しむ一つの方法は一拍一拍の音の長さを意識してみるということがあります。微細な長さの違いが絶妙な味わいを出しているということがよくわかります。
しかし、《こうもり》もなにか《アラベラ》と似ているところが。。前座→パーティー→結論、という流れは同じですね。新国立劇場の演出でも、二つは似ているような気がします。
最近は随分と日が長くなりました。ようやく朝起きる時間が明るくなってきました。さすがに暗い時間に起きだすのは辛いものがありましたので、少し楽になったかなあ、などと。
ではおやすみなさい。
それにしても、読み終わらないです。意外にも。タッチしているのは11冊。いずれも場所を選びながら読んでいる状況。風呂場ではこの本。電車ではこの本。昼休みはこの本、と言った具合です。もっとガツガツ読まないと。つうか、新書ばかりだ。
主なものをいくつか。
風呂場ではこちら。ジャーナリスト夫妻のハーバード大学留学記。なんだか羨ましいです。大人になって大学で学べて、しかもハーバードですから。アメリカの国力、包容力を感じさせる一冊。リラックスして読めます。ただ、書かれたのは9.11直前です。その後の世界の変貌を織り込んで読むとなお興味深いです。
電車ではこちら。先日も紹介した池内恵さんの「現代アラブの社会思想」。イスラム国問題が熱い昨今ですが、その源流を考えるのにちょうどいい一冊。六割ぐらい。
同じく電車ではこちら。同じく池内恵さんの「イスラーム国の衝撃」。これ、もう三刷だそうです。売れに売れています。池内恵さんは独文学者の池内紀さん。カミさんは数年前から知っていたそうです。これは今日から少し読み始めました
昼休みはこちら。再読始めたばかりの辻邦生の情緒論。70年代後半に「思想」で連載されたものです。必然的可能性としての死を、言語とその表現するものの関係になぞらえるあたり、凄まじく、驚いています。
寒い一日。今日は原稿を書き終えて、一方で部屋の模様替えをしました。模様替えをしてすっきり。食卓でテレビが観られるように成りましたが、これはどういう効果になるのか。今まで以上にオペラや映画を見る機会が増えるかも。
昨日の続きですが、オペラというのは、西欧のものであり、自ずと母国語以外の言語によるもので、音楽家や演劇関係ではない日本人がオペラを観る、というのは、なにか、少し肩に力をいれるもの、のような気がします。
また、以前、鈴木道彦訳の「失われた時を求めて」の月報で、オペラにおける階級の話を聞いたこともあります。
外国人である我々がどこまで入ることが出来る世界なのか。
つまり、アウェイ感満載なのがオペラということなんですが、それにしてもなお魅力的であり続けるという恐ろしさ。そして、どうにも興味が止まらないという不思議さ。
おそらくは、非西欧諸国で最も早く西欧化に成功した日本が故にできることとも言えると思います。それから、オペラ自体が変わり続けているということもあるのでしょう。がゆえに、昨年の新国立劇場《パルジファル》では、とうとう仏教の僧侶が登場してしまいましたから。
西欧音楽が普遍を目指しているその証の一つである、と言われるものなのかもしれません。それは、まるで普遍を目指しているのはカトリシズムと似ています。それが真に普遍なのか、というとそれはそれでまた大きな問題です。
それから、私はこの考えをしている最中に、昨年の新国立劇場での《鹿鳴館》を思い出すのです。鹿鳴館で踊る人々の姿は、実に示唆的で、考えさせられるものでしたので。
まあ、考えすぎずに、お酒でも飲みながら舞台を愉しむのが一番かも。特に何もなければ、次の《こうもり》に行けると思いますので、愉しむ事ができるといいのですけれど。
今朝のニュースは残念な結果でした。ですが、それはすでに必然だったのかもしれません。今日の21時からNスペで、当該問題についてのレポートを見ました。分かり合えない人間。分かり合えない文明同士。ただ、世界史レベルで言えることは、文明というものは流動的である、ということです。数百年というレベルにおいて、今回の問題はどう位置づけられるか。世界は「正しい方向」に進むわけではありません。常に波のように上下に振れていくものではないか。そういう見方もできなくもなく、が故に、心配ばかりです。
おっと、そういえば、1月は毎日欠かさず更新でした。ブログ始めてから初めてかも。なにか効果が出れば良いのですが。
ではグーテナハトです。
いつもの写真ですいません。月が出ている夕方の風景。東京の冬の空は最高です。何度も書いているように観光資源ですね。
今日はなんとか休息日。ですが、とある原稿の〆切なのでピリピリしています。物書きに〆切はつきものですが、このピリピリした感覚はどうしようもないですね。なんとか計画的にことを進めようとはしていますけれど、計画通りには行きません。最近はそれでも随分計画的に継続的に事をすすめることができるようになったので、精神的には楽なのですが。
そうそう、今読んでいるレリスの「オペラティック」のことで一つ思いました。
レリスは闘牛愛好家ですが、オペラ愛好家も闘牛愛好家も似ている、と示唆しています。オペラもまた闘牛のように、なにかしら手に汗を握るということがあるのかもしれないのでしょう。あの難しい場所をどう乗り切るのかとか、あの高音をヒットしてスゴイ、とか、そういうパフォーマンス性が大事なのでしょう。本当のオペラ愛好家はパフォーマンスを大事にします。レコードだけであれば、それは音楽愛好家なのであり、オペラ愛好家ではないのである、と。
まあ、しかし、時代が違いますので、現代に置き換えて考えてみますと、確かに実演に行けるのが一番です。ですが、最近では、ライブビューイングというのがありますよね。ネットや映画館でパフォーマンスを味わえるというものです。同じ空間を共有できればなおいいのですが、ライヴ性という意味では、ライブビューイングもギリギリ大丈夫ではないか、と思います。
オペラ映画は、編集が入りますが、ライブビューイングは、スキームにもよりますが、編集が入らないこともあり、そうした緊張感がライヴ性を保つのではないでしょうか。
ただ、ですね。。。やはり音楽というのは、音だけではなく、ましてやオペラはパフォーマンスだけではない、というのも事実です。その場所に行き、その場所の空気を感じる、ということ。そういうことも大事なのではないか、という見方もあるでしょう。
で、この続きは明日。だとした場合、我々はこの場でなにができるのか、ということ。これが難しいのです。
取り急ぎグーテナハトです。
マイク・スターン。私が学生時代に聴いていたギタリストです。Bluenoteにも聴きに行きました。サインも貰いました。
で、やはり一番好きなアルバムがこちら。Time In Place。1988年にリリースだそうです。
マイク・スターンのアルバムには、必ず私の好きなサクソフォーンが入ります。このアルバムは、ボブ・バーグとマイケル・ブレッカーの二人。激しいメカニカルな曲ではマイケル・ブレッカーが吹き、叙情的なナンバーにではボブ・バーグが活躍します。
二曲目のTime in Placeが一番かなあ。叙情的な方のナンバーです。マイク・スターンらしいのびやかな音。そしてなによりボブ・バーグのすばらしさ。とくに、曲の終わりからフェードアウトまで続くバーグのソロは、実に歌っているのです。本当に歌っています。フェードアウトのその先まで聴きたいソロです。
その他にも、マイケル・ブレッカーが活躍する超弩級テクニカルナンバー、Chromazoneなどもいいっすよ。
そうか。このアルバムを私が聴いていたのは1995年なんですが、曲自体は80年代なんですね。
そんなマイク・スターンも今年の1月10日で62歳! 驚きです。時代だなあ。。
最近つとにおもう「倫理は贅沢品」。頑張らないとなあ。
寒い日が続いています。みなさま、どうかお身体によい週末をお気をつけてお過しください。
ではグーテナハトです。
本当に素敵な本です。「オペラティック」。
いろんな切り口でオペラのことを語っています・
でも、ワーグナーには辛口です。やはり、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》や《ローエングリン》などにみられるドイツ国粋主義に嫌気がさしているみたいです。
で、やはり、レリスも、音楽愛好家と音楽家との間の溝に苦しんでいるようで、音楽家でない人間がオペラについて何かを書くということを「ずうずうしい」あるいは「おめでたい」というふうに自虐的に書いています。
まあ、そうなんでしょうね。音楽と語ることは、全く位相の違うものなのですから。そして、音楽を演奏しない者にとって、音楽を演奏するということは、ほとんど秘儀に近いものに見えるのですから。
で、やはりこういう時に思い出してしまうのは、小澤征爾が村上春樹に語ったこととか、岩城宏之が、音楽愛好家を忌避していたエピソードとかですかね。
もっとも、レリスはその後、美学に関心をもつ文学者が何かしらのことを書けば音楽家にとっても有用かもしれない、と書いています。
そうした交感がないと行けない、ということなのでしょう。各々仕事があり、その仕事を全力でやる。仕事の内容は壁を超えてお互いを感化することもある、ということでしょうか。
ではグーテナハトです。
P.S. ISISの件、今夜が山です。無事を祈っています。
マゼールの振ったシュトラウスを仕事場の若い方にお貸ししたら喜んでいただけました。あまり、気をてらってはいないけれど物語のようだった、とのこと。気に入っていただけたようで良かったです。録音もよかったとのこと。それはバイエルン放送交響楽団がヘラクレスザールでやればいいですよね。よかったよかった。
それにしても、今回の事件は本当にショックですので、私はこちらの二冊をかって来週から少しずつお勉強しようと思います。というか、知らないことだらけだなあ。宗教の教義などは、さすがに世界史でもやりませんから、自分で壁をこわして取りに行かないといけないですね。
こちらは、相当売れているようですね。リアル本はプレミアついているらしく、FACEBOOKで著者の池内さんが苦言を呈しておられました。Kindleも制限がかかったりしているみたいで。。私はKindleで入手しましたが、こちらも来週までおあずけ。
では取り急ぎツイートのようなエントリですが、とりいそぎ。
あ、最近の若い方はブログをやらないでツイッターをする場合が多いそうです。なんだか、そういう感じですね。ブログもツイッターも両方必要な私も、ツイッターは少しお留守でして。。
では、グーテナハトです。