Book

それにしても、読み終わらないです。意外にも。タッチしているのは11冊。いずれも場所を選びながら読んでいる状況。風呂場ではこの本。電車ではこの本。昼休みはこの本、と言った具合です。もっとガツガツ読まないと。つうか、新書ばかりだ。

主なものをいくつか。

風呂場ではこちら。ジャーナリスト夫妻のハーバード大学留学記。なんだか羨ましいです。大人になって大学で学べて、しかもハーバードですから。アメリカの国力、包容力を感じさせる一冊。リラックスして読めます。ただ、書かれたのは9.11直前です。その後の世界の変貌を織り込んで読むとなお興味深いです。

ハーバードで語られる世界戦略 (光文社新書)
田中 宇 大門 小百合
光文社
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電車ではこちら。先日も紹介した池内恵さんの「現代アラブの社会思想」。イスラム国問題が熱い昨今ですが、その源流を考えるのにちょうどいい一冊。六割ぐらい。

現代アラブの社会思想 (講談社現代新書)
池内 恵
講談社
売り上げランキング: 8,479

同じく電車ではこちら。同じく池内恵さんの「イスラーム国の衝撃」。これ、もう三刷だそうです。売れに売れています。池内恵さんは独文学者の池内紀さん。カミさんは数年前から知っていたそうです。これは今日から少し読み始めました

イスラーム国の衝撃 (文春新書)
文藝春秋 (2015-01-28)
売り上げランキング: 1

昼休みはこちら。再読始めたばかりの辻邦生の情緒論。70年代後半に「思想」で連載されたものです。必然的可能性としての死を、言語とその表現するものの関係になぞらえるあたり、凄まじく、驚いています。

Opera

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寒い一日。今日は原稿を書き終えて、一方で部屋の模様替えをしました。模様替えをしてすっきり。食卓でテレビが観られるように成りましたが、これはどういう効果になるのか。今まで以上にオペラや映画を見る機会が増えるかも。

昨日の続きですが、オペラというのは、西欧のものであり、自ずと母国語以外の言語によるもので、音楽家や演劇関係ではない日本人がオペラを観る、というのは、なにか、少し肩に力をいれるもの、のような気がします。

また、以前、鈴木道彦訳の「失われた時を求めて」の月報で、オペラにおける階級の話を聞いたこともあります。
外国人である我々がどこまで入ることが出来る世界なのか。

つまり、アウェイ感満載なのがオペラということなんですが、それにしてもなお魅力的であり続けるという恐ろしさ。そして、どうにも興味が止まらないという不思議さ。

おそらくは、非西欧諸国で最も早く西欧化に成功した日本が故にできることとも言えると思います。それから、オペラ自体が変わり続けているということもあるのでしょう。がゆえに、昨年の新国立劇場《パルジファル》では、とうとう仏教の僧侶が登場してしまいましたから。

西欧音楽が普遍を目指しているその証の一つである、と言われるものなのかもしれません。それは、まるで普遍を目指しているのはカトリシズムと似ています。それが真に普遍なのか、というとそれはそれでまた大きな問題です。

それから、私はこの考えをしている最中に、昨年の新国立劇場での《鹿鳴館》を思い出すのです。鹿鳴館で踊る人々の姿は、実に示唆的で、考えさせられるものでしたので。

まあ、考えすぎずに、お酒でも飲みながら舞台を愉しむのが一番かも。特に何もなければ、次の《こうもり》に行けると思いますので、愉しむ事ができるといいのですけれど。


今朝のニュースは残念な結果でした。ですが、それはすでに必然だったのかもしれません。今日の21時からNスペで、当該問題についてのレポートを見ました。分かり合えない人間。分かり合えない文明同士。ただ、世界史レベルで言えることは、文明というものは流動的である、ということです。数百年というレベルにおいて、今回の問題はどう位置づけられるか。世界は「正しい方向」に進むわけではありません。常に波のように上下に振れていくものではないか。そういう見方もできなくもなく、が故に、心配ばかりです。


おっと、そういえば、1月は毎日欠かさず更新でした。ブログ始めてから初めてかも。なにか効果が出れば良いのですが。

ではグーテナハトです。

Opera

Photo

いつもの写真ですいません。月が出ている夕方の風景。東京の冬の空は最高です。何度も書いているように観光資源ですね。

今日はなんとか休息日。ですが、とある原稿の〆切なのでピリピリしています。物書きに〆切はつきものですが、このピリピリした感覚はどうしようもないですね。なんとか計画的にことを進めようとはしていますけれど、計画通りには行きません。最近はそれでも随分計画的に継続的に事をすすめることができるようになったので、精神的には楽なのですが。

オペラティック (批評の小径)
ミシェル レリス
水声社
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そうそう、今読んでいるレリスの「オペラティック」のことで一つ思いました。

レリスは闘牛愛好家ですが、オペラ愛好家も闘牛愛好家も似ている、と示唆しています。オペラもまた闘牛のように、なにかしら手に汗を握るということがあるのかもしれないのでしょう。あの難しい場所をどう乗り切るのかとか、あの高音をヒットしてスゴイ、とか、そういうパフォーマンス性が大事なのでしょう。本当のオペラ愛好家はパフォーマンスを大事にします。レコードだけであれば、それは音楽愛好家なのであり、オペラ愛好家ではないのである、と。

まあ、しかし、時代が違いますので、現代に置き換えて考えてみますと、確かに実演に行けるのが一番です。ですが、最近では、ライブビューイングというのがありますよね。ネットや映画館でパフォーマンスを味わえるというものです。同じ空間を共有できればなおいいのですが、ライヴ性という意味では、ライブビューイングもギリギリ大丈夫ではないか、と思います。

オペラ映画は、編集が入りますが、ライブビューイングは、スキームにもよりますが、編集が入らないこともあり、そうした緊張感がライヴ性を保つのではないでしょうか。

ただ、ですね。。。やはり音楽というのは、音だけではなく、ましてやオペラはパフォーマンスだけではない、というのも事実です。その場所に行き、その場所の空気を感じる、ということ。そういうことも大事なのではないか、という見方もあるでしょう。

で、この続きは明日。だとした場合、我々はこの場でなにができるのか、ということ。これが難しいのです。

取り急ぎグーテナハトです。

Jazz

マイク・スターン。私が学生時代に聴いていたギタリストです。Bluenoteにも聴きに行きました。サインも貰いました。

で、やはり一番好きなアルバムがこちら。Time In Place。1988年にリリースだそうです。

Time In Place
Time In Place

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Atlantic Jazz (2005-01-04)
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マイク・スターンのアルバムには、必ず私の好きなサクソフォーンが入ります。このアルバムは、ボブ・バーグとマイケル・ブレッカーの二人。激しいメカニカルな曲ではマイケル・ブレッカーが吹き、叙情的なナンバーにではボブ・バーグが活躍します。

二曲目のTime in Placeが一番かなあ。叙情的な方のナンバーです。マイク・スターンらしいのびやかな音。そしてなによりボブ・バーグのすばらしさ。とくに、曲の終わりからフェードアウトまで続くバーグのソロは、実に歌っているのです。本当に歌っています。フェードアウトのその先まで聴きたいソロです。

その他にも、マイケル・ブレッカーが活躍する超弩級テクニカルナンバー、Chromazoneなどもいいっすよ。

そうか。このアルバムを私が聴いていたのは1995年なんですが、曲自体は80年代なんですね。

そんなマイク・スターンも今年の1月10日で62歳! 驚きです。時代だなあ。。

最近つとにおもう「倫理は贅沢品」。頑張らないとなあ。

寒い日が続いています。みなさま、どうかお身体によい週末をお気をつけてお過しください。

ではグーテナハトです。

Book

Photo

本当に素敵な本です。「オペラティック」。

いろんな切り口でオペラのことを語っています・

でも、ワーグナーには辛口です。やはり、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》や《ローエングリン》などにみられるドイツ国粋主義に嫌気がさしているみたいです。

で、やはり、レリスも、音楽愛好家と音楽家との間の溝に苦しんでいるようで、音楽家でない人間がオペラについて何かを書くということを「ずうずうしい」あるいは「おめでたい」というふうに自虐的に書いています。

まあ、そうなんでしょうね。音楽と語ることは、全く位相の違うものなのですから。そして、音楽を演奏しない者にとって、音楽を演奏するということは、ほとんど秘儀に近いものに見えるのですから。

で、やはりこういう時に思い出してしまうのは、小澤征爾が村上春樹に語ったこととか、岩城宏之が、音楽愛好家を忌避していたエピソードとかですかね。

もっとも、レリスはその後、美学に関心をもつ文学者が何かしらのことを書けば音楽家にとっても有用かもしれない、と書いています。

そうした交感がないと行けない、ということなのでしょう。各々仕事があり、その仕事を全力でやる。仕事の内容は壁を超えてお互いを感化することもある、ということでしょうか。

ではグーテナハトです。

P.S. ISISの件、今夜が山です。無事を祈っています。

Miscellaneous

マゼールの振ったシュトラウスを仕事場の若い方にお貸ししたら喜んでいただけました。あまり、気をてらってはいないけれど物語のようだった、とのこと。気に入っていただけたようで良かったです。録音もよかったとのこと。それはバイエルン放送交響楽団がヘラクレスザールでやればいいですよね。よかったよかった。

R.シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
バイエルン放送交響楽団
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それにしても、今回の事件は本当にショックですので、私はこちらの二冊をかって来週から少しずつお勉強しようと思います。というか、知らないことだらけだなあ。宗教の教義などは、さすがに世界史でもやりませんから、自分で壁をこわして取りに行かないといけないですね。

こちらは、相当売れているようですね。リアル本はプレミアついているらしく、FACEBOOKで著者の池内さんが苦言を呈しておられました。Kindleも制限がかかったりしているみたいで。。私はKindleで入手しましたが、こちらも来週までおあずけ。

イスラーム国の衝撃 (文春新書)
文藝春秋 (2015-01-28)
売り上げランキング: 2

では取り急ぎツイートのようなエントリですが、とりいそぎ。

あ、最近の若い方はブログをやらないでツイッターをする場合が多いそうです。なんだか、そういう感じですね。ブログもツイッターも両方必要な私も、ツイッターは少しお留守でして。。

では、グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

Photo

1月の新国立劇場は《さまよえるオランダ人」でしたね。

飯守泰次郎さんの指揮が素晴らしかったです、緊密というか、Solidという言葉を思いだしながら聴いていました。前回のパルジファルと同じく、微細なテンポコントロールが見事で、ダイナミズムや重厚さを表現していたと思います。

で、なんだか変なことに気づいてしまいました。

《オランダ人》は《アラベラ》と似てますね。オランダ人もマンドリーカも父親が連れてきた花婿で、あまり世間なれしていない男。で、ふたりとも妻となるべき女性の素振りを誤解して、すねてしまうという。《オランダ人》にも《アラベラ》にもそれぞれ、エリック、あるいはマッテオという、ヒロインに片思いを寄せる男が出てきますし。

2010年新国立劇場《アラベラ》のマンドリーカも、今回のオランダ人もどちらも、トーマス・ヨハネス・マイヤーで、私は強い既視感を覚えまして、こんなことを思いついてしまいました。もちろん、トーマス・ヨハネス。マイヤーの歌唱はやはり素晴らしかったのです。この方の《ヴォツェック》は忘れられないですね。

でも、この考え、意外と図星かも。同じことを考えている方がいらっしゃいました。「頭がいい人、悪い人の話し方」を書かれた樋口裕一さんです。

http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-283f.html

リンク先は、その2010年の《アラベッラ》についての感想を書いておられます。もう4年も前の話ですね。

それにしても、いろいろ興味深いです。もう少し考えてみないと。

なんだか今日も世界の波にのまれるような一日でした。いろいろありますが、良いことばかりではありません。

ではグーテナハトです。

Book

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昭和39年に出版され、昭和46年に17刷となった講談社現代新書の「現代思想事典」。

大学に入った頃、事典ばかり読んでいて、それでなんとかしないと、と思っていたころに古本屋で250円で買いました。

「シュールレアリスム」について調べていたんですが、その次の項目である「象徴主義」をなんと福永武彦が書いているのですね。驚きました。マラルメ、ランボー、ヴェルレーヌなどの詩人の名前をあげて、その源流がボードレールだと言います。それは「暗示によって映像を喚起する方法」として総括されていて、「詩の中に、超感覚と批評と魂の告白と詩句の音楽性」を育てた、ということになっています。「美が想像力のうちに、いいかえれば仮象的世界の暗示的現前のうちに整理する」とも。

最後に、小説における象徴主義のことが書いてあって、これが実に面白いのです。当たり前の方には当たり前かもしれませんが。

詩は一人でもかけるが、小説は読者なしには作れない。なぜなら、小説は「その世界がなんらかの形で、暗示的、喚起的な映像によって読者の参加を待つ」というのです。これがなければ、小説は「たんなる読み物」で、映画やテレビに太刀打ち出来ない、とあります。

この「読者の参加」インタラクティブ性が、小説の小説たる所以、ということになるのでしょうか。語りすぎず、読者を引きずり込むような小説こそが、真の小説である、ということなのでしょうか。まあ、あまりに「象徴的」過ぎるものもなかなか困りますが。

余談ですが、面白いことに、福永武彦は、昭和39年当時にあって、当時を「小説の衰弱した時代」としています。先日来書いているレリスの「オペラティック」においても、やはり、オペラは常に衰退している、とありました。まあ、長く続く芸術形式というのは、衰退し続ける運命にあるのでしょう。つまりに、人間は不治の病に侵されている。つまりそれは死という病である、というあの手の議論になるのかもしれません。

今晩も鍋を食べました。冬は鍋に限りますね。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

昨夜、NHKで「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」という番組をやっていて、その中で三島由紀夫が取り上げられていました。

三島由紀夫は1925年1月14日生まれ。今年で生誕90年です。

一方の辻邦生も、1925年9月24日。

ですので、二人は同い年です。

二人が過ごした時代は同じです。終戦時に価値観がひっくり返ってしまったというのも同じです。

三島由紀夫は、価値観の転倒をうけて、日本古来の伝統へ回帰しようとしたわけで、が故に三島事件を引き起こしたとされています。一言で語るには重いものではありますが。

辻邦生は、パルテノン神殿に向かい、美が世界を支える、という方向に進んだのだと思います。

いずれも、揺れ動く現実を、どこかで繋ぎとめよう、としたのは同じだ、と思います。価値がひっくり返ったことをどうやって処理していくか、ということ。難しい課題です。

我々にとっても、価値がひっくり返るどころか、価値があまた溢れている状態にあって、何が支えになるのか。あるいは支えなんていらない、という方向に行くのか、など考える必要があります。ですので、他人事ではないのです。

明日からまたウィークデーですね。ウィークデーこそが大切です。がんばらないと。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

廻廊にて (新潮文庫 つ 3-2)
辻 邦生
新潮社
売り上げランキング: 332,545

辻邦生がそう思っていたかどうかはわかりませんが、辻文学のテーマの一つとして「性急な改革は失敗する」という物があると思っています。

たとえば、「背教者ユリアヌス」におけるユリアヌスの失敗、「春の戴冠」におけるサヴォナローラの失敗、「光の大地」における教団の失敗、「廻廊にて」におけるマーシャの挫折などなど。あるいは、「サラマンカの手帖から」で、主人公たちが、サラマンカを去るのもそれに当たるかもしれません。

結局は、真実を目指したとしても、それは現実に必ず跳ね返されるわけです。それはどうしようもない真理。なぜなら、現実が、それが道理にあおうがあうまいが、現実界においてはそれが正しいからです。

がゆえに、そうではない粘り強い取組みが必要とされる、というのが、20年以上辻邦生を読んできた結論の一つです。

こうした、正しさと現実との「ずれ」というものが、あらゆる痛ましい出来事の原因になっている。昨今の事件をみて、そう思わざるを得ません。

今日も短く。グーテナハトです。