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今日もあまり音楽聴けませんでした。シュトラウス先生の「カプリッチョ」の終幕の場をベーム盤で聴いて少し心を休めたぐらいです。あとは、図書館で借りてきたデル・モナコの歌う「マノン・レスコー」などなど。「マノン・レスコー」は録音時代が古いので少し古めかしい雰囲気が出ているように思います。

先だって、「葉っぱに埃がついたので水をかけて払ってやったでちブログ」さんのコメントに「色眼鏡を書けないように、耳にフィルターをかけないように音楽を聴きたい」と書かせて頂いたのですが、頂いた返答に「人間は色眼鏡をしているものだから、そうであることを忘れてはならない」という旨、書いてありました。そうなのです。その通りなのでした。色眼鏡は皆が皆かけていて、外すことは出来ないのです。かつてそう習ったことがありました。その通りです。しまった、と思いました。

ですが、それでも色眼鏡がない、という状況を求めようとする何かあるような気がしてならないのです。

それで二つを分けて考えると、

  1. 色眼鏡をかけていることを認識した上で、認識する
  2. 色眼鏡をかけないように認識しようと意志する

という風に表せるのかな、などと、事務室で仕事をしながら考えてしまいました。

おそらく前者が認識論的方法で後者が形而上学的方法なのかなあ、などと分類してみたりして。どちらがよいとも言えないのですが、1番は近代的で、2番が古典的、と言った感じでしょうか。

いずれにせよ、普通は色眼鏡をかけて認識していますので、そのことを念頭に置くと言うことがスタート地点になると言うことは言えると思います。

もう少し考えてみたいと思います。

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コメント(2)

TITLE: こんばんは
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Shushiさま こんばんは

コメントに対して色々と考えてくださり、ありがとうございます。

確かに、Shushiさんの考えもよく分かります。私流に言い換えると、「色眼鏡をかけていることを認識した上で、かけないようにしたいと意思する」ということになるでしょうか。

もしくは、「色眼鏡などかけていない状態を意思する」かな、とも。

後者、これが私にとっては、あってほしいという理想かもしれないかな、って思ったりもしました。

カントをもじれば、「自らの認識が普遍的認識であるかのように認識せよ」とでもなりましょうか。
これこそが理想であるかなとも。

私も、もう一度考えてみます〜
ミ(`w´彡)

Shushi :

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rudolf2006さん、コメントありがとうございます。

カント的なんですよね。自らの認識が普遍的妥当性と客観的必然性を持つように、という文脈なんだろうな、と思います。

おっしゃるとおり「自らの認識が普遍的認識であるかのように認識せよ」が理想ですね。でも、限りなく不可能に近い理想ですが、それでもその状態を目指していかねばならない、という感じでしょうか。

こういう話は、認識を精査するという意味では、形而上学的というよりもやはり認識論なんでしょうね。すいません、勉強さぼっていたので、具体的な人名とか哲学学説を引き寄せて考えられません。お恥ずかしい限りです。

引き続き僕も考えていきたいと思っています。

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