世界を探す。ワーグナーを聴いて。

今朝から聴いているのが、ティーレマンが振るワーグナーの《パルジファル》。

ワーグナーを聴いたのは久しぶり。と言うか、最近はろくに音楽を聴くことが出来ていなかったのだ。仕事が忙しいと言えば、それまで。だが、なにかほかの理由もあったような気がする。音楽を聴けなかったと言うことも、ワーグナーを聴けなかったと言うことも。

そのとき聴いている音楽というものは、おそらくは、その時々の身体と精神の状態を表しているはずで、例えば、モーツァルトを好んで聴く時は、なにか身体のなかの軋みのような、あるいは錆のようなものを外に出したいときだし、リヒャルト・シュトラウスを聴きたいときは、世界に疲れて、清らかな水で心臓を洗い流したいときだ。ジャズを聴くときは、たるんだ身体を引き延ばして世界に焦点を合わせたいときだ。

では、ワーグナーを聴きたいときの身体と精神の状態というのはどういうものだろう。

私がワーグナーばかり聴いていたのはおそらくは8年前のこと。2010年に新国立劇場で上演されたリング全曲公演を聴こうとしていたときだった。あるいは、東京春祭で演奏会形式のパルジファルを聴いたこともあった。あの頃は、世界の秘密をオペラの中に見いだそうとしていた時期だった。オペラは世界を映し出す鏡だ。100年以上前に作曲されたオペラであったとしても、現代の世界を照影する演出が加わることで、そこに世界認識と真理への道程が現れる。そうしたオペラ・システムに入れ込んでいたのが2007年から2013年ごろだったと思う。

おそらくは、ワーグナーのオペラは世界記述であって、たとえば、《パルジファル》であれば、世界の苦悩と救済が含まれている。あらゆる欲望がもたらす苦悩とそこからの救済。おそらくは、普通に生きていれば意識しなくて済むであろう苦悩が横溢している。たとえば聖槍や性的誘惑からの解脱ともいえる境地が描かれている(書いていて、思ったのだが、仏教的なモチーフで、2014年の新国立劇場《パルジファル》に仏僧が登場したのが自明に思える)。

で、なぜ今ワーグナーを聴きたくなったのだろう。振り返ってみると、巨大な奔流の中に飲み込まれ、包み込まれたい、と思い、ワーグナーをApple Musicで検索したのだった。それは昨日の夜のこと。何か、世界に疲れ果てて、まるで母胎に回帰するかのような気分で、ワーグナーの音源を探し求めていたのだ。

そこで、昨夜聴いたのが、ペーター・シュナイダーが振る《トリスタンとイゾルデ》。シュナイダーは大好きな指揮者だ。だが、意外なことに、いつものような高揚した感動がなぜかなかったのだ。ヘッドフォンで聴いただけ

今朝になって聴いたのがティーレマンが振る《パルジファル》。最初はなにか冷め切ったスープを飲むような、なにか白けた感覚だけだった。ヘッドフォーンで聴くオペラはなにか滑稽なものにも思えた。オペラハウスで、暗い客席に幕の合間から差し込む光に打たれる瞬間はなににも代えがたいが、朝の満員電車の中で、ボリュームに気を遣いながら聴く《パルジファル》には、ミニチュアの世界遺産の模型を見るような不自然さがあったのだ。

だが、地下の駅から階段を登り切って地上に出て、思いきってヘッドフォンの音量を上げたとき、ワーグナーの奔流に包み込まれた感覚に襲われたのだった。

ちょうど《パルジファル》の第二幕で、クンドリの誘惑にパルジファルが耐え、「アンフォルタス!」と絶叫するシーン。後付けだが、なにか世界に抱きかかえられるような感覚だったのだと思う。音楽と一体となった瞬間だったのかもしれない。

地下の駅から仕事場までの10分間、ワーグナーの和声に包み込まれながら歩いたとき、そこに懐かしさを覚えたのだった。母胎に回帰、とさきに書いたが、まさにそうした感覚で、居るべきところに居るのだ、という感情だった。帰るべきところを見つけたような、なに安堵にも似た感情だった。そして、そこでなにか新しいものが見つかるのではないか、という期待のようなものを感じたのだ。

それから、雑巾のように絞られながら、仕事をした。窓の外には雪がちらついていた。夜になって、ようやくとくたくたになって、頭と眼の痛みに耐えながら仕事場をでて、地下の駅に向かう通路を歩きながらふと思ったのだ。もし、ワーグナーが存命であれは、おそらくはノーベル文学賞を取っていたのではないか。音楽家でもあり文学者でもあるワーグナーの音楽とテクストは多くの解釈を可能とするユニバースとでも言うべきもの。あるいは、宇宙への入り口にも思える。その狭い入り口に頭を突っ込んで、這いながら進んでいくと、つかみどころのない、豊潤という言葉でしか表すことのできない存在があるようだ。掴もうとすると離れていき、離れると寄ってくる。

ワーグナーを聴く時は、おそらくは世界を探しているときなのだ。

ワーグナーを聴いていた8年前もやはり世界探しをしていて、その後、さしあたりの居場所を見つけたのだろう。だが、今になってまた世界探しをしなければならない時期が来ている。そういうことなのだろう。

夜の列車はやはり人が多い。さすがにヘッドフォンの音量は絞るしかない。だが、今日、帰宅し、静かに机に向かう時間を持てるとしたら、もう一度《パルジファル》を聴いてみよう。

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しばらく時を忘れた──早瀬耕「未必のマクベス」

なんだか、ひさびさに没頭できる小説を読みました。「未必のマクベス」。

昨年買っていたのですが、ようやく、この数日、読み続けて時を忘れました。先日書いたように、少しは小説も読まないと、と思って手に取りましたが、ずいぶんとたくさんのことを勉強しました。

企業小説、恋愛小説、あるいはスパイ小説的な側面もあり、間口が広い作品です。

時間構成がすばらしく、経時的に物語を展開させるのではなく、さまざまなエピソードが時間を反復しながら進んでいくのが見事でした。辻邦生作品でいうと「風越峠にて」という作品がありますが、あの作品もやはり、戦時中と現代を行ったり来たりしながら進みます。「未必のマクベス」も、そうした趣があり、物語進行に重層的な膨らみと豊かさを感じたなあ、と思います。

また、筆致が実にリアリティに富んでいて、こういう世界はきっとどこかにあるのだろうな、と思わせるものでした。もちろん誇張や想像も含まれてはいるのでしょうけれど、そうした違和感を感じて首をひねるようなことは全くありませんでした。ただただ、ページをめくる速度が、先を知りたくなり、読み進めるにつれて加速していくような、そういう作品でした。

題名にあるように、シェークスピアの「マクベス」をモチーフにしていることもあり、そのあらすじとストーリー転回を重ねてしまうところも、この作品の素晴らしさだと思いました。バップジャズは、使い回されたフレージングの組み合わせを楽しむような趣があります。定められたパターンの中で、予測したパターンと、実際の演奏を比べて、その差違を楽しむような、そうした感覚がありますが、この「未必のマクベス」においても、やはり「マクベス」と「未必のマクベス」の差違を知らず知らず探すということを読みながらしていたように想います。

全くレールのない作品よりも、ある程度のレールがあって、そこにどういう列車がどういう速度で走るのか、というのを予測する楽しさ、というような感覚があるのだなあ、ということと思います。

なんだか、ずいぶんとたくさんのことを書いてしまいました。主人公はいわゆる団塊ジュニア世代ではないでしょうか。おそらくは、現在40代の男性が読むとぴったりはまりそうです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

4+

つれづれ──今週は長く短かった

1月最後の週が終わり、2月に入りました。あまりにたくさんのことがあった一週間で、月曜日が遙か彼方のように思います。けれども、なんだかあっという間に終わった感じもします。

時間の感覚が狂っています。睡眠時間も、4時間の日もあれば、7時間の日もあります。仕事場へ向かう電車のなかも睡眠をとっています。なにか朝なのか夜なのか、あるいは寝ていたのか起きていたのかよくわからない、といったような、そんな感じもします。時間感覚に違和感があり、二ヶ月のスパンがかなり短く感じています。つい二週間ほどまえ、扁桃炎で寝込んでいたような気がします。

本も、時間を見つけて何冊かよめましたし、昨日は500m、今日は400m泳ぎました。まあ充実した一週のかもしれませんが、それにしてはなにか感覚が違います。なにか人生レベルの変化が起きているような気もします。何が起きたのか、もうしばらく眺めてみないと、と思っています。

きょうはこちら。大学でジャズをやっていたときにとてもとても流行っていたIncognito。7年ほど前にもマイブーム的なものがあって、ずいぶん効いた記憶があります。

そうか、Incognitoを聴いていたのは7年前なのか。私はすでに、時がたつのが速く感じることに慣れていた気がしていましたが、なにか、慣れていたということ自体にも違和感を覚えているようです。時間の長さを感じるのは、時間÷年齢という算式によるもので、反比例的な曲線を描くと思っています。ジャネーの法則というそうです。しかし、一年ほど前に読んだ雑誌記事では、人間の代謝の速度に関係しているのではとありました。代謝が落ちると、心的時間が長くなるが物理時間が短くなるとのこと。

イベントが多いと時間の経過は遅いけれど、年を重ねると時間の経過は速くなる、のだとしたら今週はそんな一週間だったのかと思いました。

人生まだまだ加速していくのだとしたら、動きを加速しないと。やるべきことはたくさん。がんばらないと。

それではみなさま、おやすみなさい。

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読書の割合に気を遣う──カラヤンのモーツァルト

今年に入って、Kindleの読み上げを使って本を読んでいますが、家事をしているときもBluetoothイアホンを使うことで本を読む(?)機会が増やすことができたなあ、と思っています。人生もそろそろ後半にさしかかりつつありますので、あらためて読む本のことを考えないとなあ、と思っています。

随分前に買った「自分を変える読書術」という本のなかで、本を読む割合について書かれていたのを思いだし振り返ってみました。こちらでは、ビジネス書を40%、小説を30%、その他を30%。4:3:3の割合で読むべし、とのこと。ビジネス書は専門家が書いた経済、経営、マーケティングなどの本。小説はもちろん小説。その他とは、生物、軍事、歴史、哲学、エッセイなんだそうです。ビジネスパーソンも、ビジネス書だけでなく、小説を読み、生物や軍事などの教養を高めるべし、と言う感じです。ど

我が身に翻ると、これらのジャンルはすべて好きなんですが、なんとなく、ビジネス書っぽい本を読むことが多くなってしまっている感があります。小説は、時間をつくってなんとか読んでいる感じになっていて、歴史、軍事、生物、哲学はあまり読めておりません。反省しました。

実際に、昨年の読書記録を見返してみると、3:1:1の割合になっていました。あるいは4:1.3:1.3。ビジネス書が多いように思いますが、あまり自慢できるような本はあまり読めていない、という感じです。やれやれ。さすがに、神経を文字通りすり減らして、ぼろきれのようになって夜の通勤電車に乗ると、読める本も工夫しないと限られてしまいます。小説、歴史、軍事、生物、哲学をもっと増やそう、と思います。記録しないと、また偏りそうなので、手帳に記録をしているところです。あるいは、小説をもっと読まないと行けないのかも、と思ったり。などと思いながら、一日がすぎてしまいました。読んだのは(Kindle読み上げだったので、聴いたのは、ですが)、やはりビジネス書でした。

さて、今日はカラヤンのモーツァルトを聴きました。私の好きなハフナーが入っているもの。

先日もアバドのモーツァルトを効いたときにも思いましたが、ふるさとに帰ってきたような落ち着きを覚えました。このふるさとに帰ってきた感覚、というものが、自分にとって良いものなのか、どうなのか。音楽もずいぶんと聞いてきましたが、やはり偏っているのかなあ、などと。後半生を充実させるためにはどうしたいいのか。いや、充実なんていう言葉よりも、後半生はさらにアグレッシブにしていきたいとも思う今日この頃です。カラヤンも晩年にヘリコプターの免許をとりましたし。なんてね。本もたーんと読んで、懸案をなんとか克服しないと。

それにしても寒い毎日。1月20日の大寒を過ぎましたが、まだまだ寒いです。ウィキの大寒の項目によれば、実際には1月26日から2月4日あたりまでが寒いのだ、と書いてありました。まさにこの週末から。また身体を冷やさないように過ごさないと、と思います。どうかみなさまもお身体にはお気をつけて暖かくしてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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影ということばから──星影のステラを聴く その2

昨日の「星影のステラ」の続きです。
あまりジャズ・スタンダードには詳しくなく、グローバー・ワシントン・ジュニアが、かっこいい「星影のステラ」Stella by Starlightを吹いていた記憶もありましたが、他の音源はないかな、と重い、AppleMusicで探すと、マイルス・デイヴィスの音源がずいぶんでてきます。そのなかから、The Complete Live At the Plugged Nickelという音源に入っているもの。

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Complete_Live_at_the_Plugged_Nickel_1965

冒頭は静かに始まるんですが、フレージングが急にぞんざいな感じで崩れ初めて、ピアノのハービー・ハンコックがなんとかそこに合わせに行き、その後テンポが倍になって緊張感のあるテイクに。そのうち、あのMilestonesのフレーズがでてきたりして驚いたり、なんだか緊張感満載でした。どこかに飛んで行ってしまいそうなマイルスを、係留索でなんとかつなぎとめようとするリズム隊。影のようにフロントのマイルスを支えながらも、しっかりとバンドの行く先を照らしている感じです。バンドのコミュニケーションがわかったような気がします。

もちろんこれは私が感じたものでしかないので、実際はそうではないかもしれませんが。予定調和なジャズではなく、何が起きるかわからないジャズという感じで、ああ、ここまでできるのはさすが天才たちだなあ、と感嘆しました。

このアルバムのメンバー、マイルス・デイヴィス、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、ロン・カーター、トニー・ウィリアムズなので、あのV.S.O.Pクインテットのメンバーとトランペット以外は同じでした。

さて、寒い日々が続き、また体調崩し気味。胃腸炎的な。昨日今日でずいぶんよくなりました。どうも睡眠が足りておりません。今日は早く寝ようと思います。
みなさまもお気をつけてお過ごしください。おやすみなさい。グーテナハトです。

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影ということばから──「星影のステラ」を聴く

今朝、仕事場に向かう電車で、「影」という言葉に思い当たりました。古語辞典では、影とは、星や灯火の光を指します。普通、影というと暗いイメージですが、逆の意味で使われるという、なにか座りの悪さを感じます。もちろん、この知識は高校一年の古文の授業でならったはず。ですので、常識といえば常識ですが、日本語の不思議な感覚です。葦(あし)を葦(よし)と読ませたり、なにか物事を逆から説明したり捉えたりするような、そういう感じです。

次に思い出したのが「星影」という言葉で、前述のとおり、この文脈で影とは光のことなので、これは星の光、という意味です。星の影が、光とは、と少し不思議な感覚。

それで、「星影」という言葉から連想されたのが、「星影のステラ」。ジャズスタンダードのStella by Starlightという曲でした。この曲、昔から好きで、多分大学のころはサックスで吹けたんですが、最近はなぜか吹けなくなってしまいました。なにか不思議な捉えどころのない曲になってしまい、もちろん、私が下手になってしまった、ということなのか、まったくかみあわなくなってしまったのでした。この曲、はまると結構気持ちがよいのですが。

それで思い出したのがこちらの動画。平原まことさんが吹く「星影のステラ」Stella by Starlightの映像。

 

平原さんの使っておられるマウスピースはJAKEというマウスピースなはずで、私も同じものをつかっており、なんだか音がとてもよく似ていて、勝手に親近感を感じています。で、この映像は本当に素敵な演奏で時を忘れます。

で、他も聞いてみようと思ったのが、マイルス・デイヴィスが吹く「星影のステラ」Stella by Starlightでした。

今日はここまで。また次回です。

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世界は分断しているのか──アバドのモーツァルトを聴きながら

今日は、「分断を示唆する本」と、「分断がないことを示唆する本」、両方に触れてしまいました。まあすべてをフラットに考えた方が良いのでしょう。ニュースにはさまざまな分断が取りあげられますが、どれも誇張されたものなのかも知れない、そう思います。

分断というのは、例えば、西欧と東洋、隣国と日本、先進国と発展途上国などなど。

確かに、仕事においても、単純に、分断のパースペクティブを取り込むと仕事が進むことがままあります。それが正しいのか誤っているのかは別として。そうしないと、仕事が進まないのも事実で、必要悪と割り切るしかないのですが。

そんなことを思いながら、帰宅の電車で、聴いたのがこちら。アバドの振るモーツァルト。

私は、モーツァルトの交響曲でいうと35番が一番好きなのです。あの冒頭の跳躍がすばらしく感じます。アバドのモーツァルトを聴くと、慣れ親しんだアバドの指揮と、同じくかつてから親しんだ35番の音型に、なにか家に帰ってきたような落ち着きを感じました。違和感を感じることなく、落ち着いた気持ちになれるという意味において。

ところが、冒頭に書いた「分断を示唆する本」のことを思い出したのです。何故、西欧の音楽に慣れ親しみ、家に帰ったような落ち着きを感じるのか。私にしてみれば、普通に思うことですが、西欧への勝手な私淑である、という思いをふと感じたわけです。

おそらくは、欧州に行ったところで、なにかつまはじきにされるだけなんだろう、という思い。これは実際に欧州に行ってみて分かることです。こうした異文化との葛藤を、分断と理解すると、その分断が固定化してしまうのでは、と思うのです。

おそらくは西欧は一枚岩ではありません。日本も一枚岩ではないように。あらゆる分断における、彼岸と此岸は盤石ではありません。両岸をフラットに冷静にみるまなざしが必要であり、あるいはフラットに冷静に見ることは難しい、ということを認識しながら、努力すること。これがあらゆる「分断」において必要なことなのだろう、と考えました。

相変わらず冬場の体調不良が仕事場を席巻しています。インフルエンザ、胃腸炎。どうかみなさまもお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

3+

本を読む工夫──Romain Collin “Press Enter”

ともかく、最近は本を読む時間を捻出するために、いろいろと工夫しています。

第一の工夫は、紙の本を読むときにストップウォッチをつかってみよう、というもの。紙の本は電車のなかか、風呂につかって読むことにしていますが、なんだかいつも30分読むと疲れを感じていました。そこで、ストップウォッチでいったいどの程度の時間なら読むことができるのか、計ってみよう、と思ったわけです。ストップウォッチで計ると、逆に30分以上本を読まないと、という風に思うようになり、紙の本を読むのがずいぶんはかどるようになりました。

第二の工夫は、Kindleの読み上げ機能を使うというもの。iOSのKindleですと、少しクセはありますが、大抵の本を読み上げてくれます。画面はKindleのままにして、二本指で画面を上からスワイプすると、読み上げを開始します。画面をそのままにしておくと、ページめくりも勝手にやってくれます。これだと、オーディオブックを買わなくとも、耳で聞きながら読書ができましてすごく便利ですね。歩きながら、洗濯しながら、掃除しながら、という感じで、本を読み進められるというもの。便利です。

やり方はこちらをご参考にしてください。

http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1701/21/news018.html

というわけで、どんどん本が読めるといいのですが。

 

今日は、こちら。

フランス生まれのジャズピアニスト、Romain Collinの2015年のアルバム。バークレー出身。ジョー・ロバーノやウェイン・ショーターハービー・ハンコックなどとテイクしたりしているようです。このアルバム、ピアノのソロアルバムの様相が強いのですが、ケンドリック・スコットが参加していたりもしています。Apple Musicのプレイリストでこのアルバムに含まれるRound about midnightの、静かなアレンジにこころを惹かれたからでした。夜中に独りで聞くのがいい感じです。ということで、夜中に独りで聞いているところです。

さて、インフルエンザが流行っているらしく、休まれている方の話を聞くようになりました。私は、今年はタイミングがわるくインフルエンザワクチンを受けていません。有効性はよくわかりませんが、ここ何年もインフルエンザにかかったことはありませんので、効いていたのでしょう。今年はどうでしょうか? ともかく免疫力のために早く寝ないといけないのですが、夜更かし癖がついてしまい、やれやれ、という感じです。

それではみなさま、おやすみなさい。

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あの素晴らしい期待感をもう一度──Windowsを使う機会を増やしておもったこと

今年に入ってから、Windowsを使う機会が増えました。きっかけは、お正月に、WIndowsマシンに入っているファイルを取り出そうと思い、数年ぶりにデスクトップマシンを立ち上げたのがきっかけです。デスクトップマシンのなかには、懐かしいファイルがいくらか入っていたり、なくしたと思っていたPDFが見つかったりと、なかなか刺激的だったのでした。一番驚いたのは思いのほか使いやすいということ。仕事場はもちろんWindowsなので、仕事場と同じ感覚でPCを使えるのもいいなあ、とおもったのでした。

この機会に、かつてのように、ディスプレイを3枚つないで、写真のような環境にしてみました。3面ディスプレイは快適ではあります。ただ、無駄に画面が広く、なんだか注意散漫になるような感じも。もう少し試してみたいと思います。

さて、Windows10が出始めたとき、その使い心地はなにかつまらないものに思ったのを今でも覚えています。なんだか、かわりばえのしないプロダクトだなあ、と感じたのを漠然と覚えています。

昔、Windowsが出始めたころ、Windows3.1やWindows95が出たときのわくわく感のようなものは全くありませんでした。それよりもなによりも、Macのほうが全然使いやすいですし、デザインも優れていますので、わくわく感というとMacに勝るものはない、とおもっていました。

ですが、今年に入ってWindowsをつかってみると、なんだか新鮮さを覚えたのでした。2015年だったか、最初に触ったWindows10は、3年のうちに何度かのFuture Updateでずいぶん変わっていました。なるほど、なんだか面白い世界だな、と(ただ、そのうちいくつか(ダークモードや日没後に色温度を調整する機能)はMacの影響だな、ということも感じました)。

Macは、Appleによって構築された完成された世界で、仕事をしている感覚でした。それはそれで快適な世界です。Retinaディスプレイは美しく、iCloudでリンクしたMacとiPhoneやiPadがシームレスに、スケジュールや連絡先、タスクなどが連携する世界は、かつては夢に思えた世界です。また、リリースされているソフトウェアも実に質が高いです。Omnifocus、Scrivener、Ulyssesなど、美しく操作性の素晴らしいソフトウェアがMacで使えるというのは大きなアドバンテージです。

しかし、それはなにかAppleの管理下にあるもので、映画「マトリックスの世界」のように、管理された世界のなかで生きているような息苦しさを微かに感じていたのも事実です。なにか「1984」的とまではいかないまでも、管理され監視されているような感覚です。もちろん、Applenに限らず、プラットフォームを手にした企業であれば、収益のためにはもちろん「管理」をするのはいうまでもないわけですが。

ひるがえって、Windowsはどうか、というと、やはりそこもMicrosoftによって形作られた世界で、快適とはいえないまでも、Microsoftに厳格に管理された一つの世界なのでしょう。

しかし、WindowsにMacにはない自由を感じるのも事実です。マシンは自分でくみ上げることもできますし、Googleのサービスを使うのか、Microsoftのサービスを使うか、選ぶこともできます(もちろん、Macにおいても、GoogleやMicrosoftのサービスを使うことは可能ですが、Apple謹製のサービスを使うことを前提としている以上、その選択肢がベストチョイスになるのは事実)。

この点に関しては様々な意見があるのは事実で、これは個人的な現時点での感想に過ぎませんので、特にどちがら優れているとかそういう議論をするつもりは全くありません。また、すべては「波」ですので、個人的な関心がWindowsに向いているということにしか過ぎないわけで、また来月になると「やはりMacだよね」となるにちがいないのです。

以下のURLにあるように、Appleの業績が低下しているとか、昨今、イノベーティブなプロダクトがあまり出てこない、とか、そういう背景がこうした個人的な感想に結びついているのだ、とも思っています。これもよく言われていることですが、ジョブズがいなくなったAppleからイノベーティブが失われているのではないか、という論調。たしかに、Apple Watchなどのプロダクトが生まれて、わくわくしたものですが、さて、それ以降はなにがおこるか、想像できません。中国での売り上げ減少に言及したティム・クックのコメントを見ると、確かにイノベーションに関する言及ななく、ただ、「店頭で電話の下取りをしやすくしたり、割賦販売を行なったり、お使いの電話から新しい電話へのデータの移行をお手伝いしたりすること」とのみが、マクロ経済の条件が変わったとしても、実行するAppleのイニシアティブ、と語られているのが残念、という論調を読むと、そういう感想になってしまいます。もちろん、そう簡単にイニシアティブに関する企業秘密を語ることもできないのでしょうけれど。

ティム・クックからAppleの投資家への手紙https://www.apple.com/jp/newsroom/2019/01/letter-from-tim-cook-to-apple-investors/

どうしたアップル? 売上高の伸び悩みに関するティム・クックCEOの説明https://www.gizmodo.jp/2019/01/apple-shock-ceo.html

一つ心配なのは、やはりAppleもMicrosoftも大きくなりすぎた、ということなんだろうな、とも思います。大きい企業に身を置くと、これも実にたくさんのところで語られるような、大きい企業ならではの問題を感じます。こうした組織でイノベーションを起こすのは極めて難しいのでしょう。たくさんの人間がいると、派閥ができ、部門間で構想し、人間の嫉み妬みに横溢しているのでは、と想像してしまいます。規則に従うことが善となると、規則に反しないことが仕事となり、枠を変えた発想は抑圧されるでしょう。

職場がよどむ手続き優先上司 規則順守は「バカの壁」
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO38859350S8A211C1000000?channel=DF200920184399&n_cid=DSPRM1489

ともかく、Appleなのか、Microsoftなのか、あるいはGoogleなのかFacebookなのか、Nvidiaなのか、いやここまで挙げた企業はすでに成熟してしまいましたので、もっと別の企業なのかわかりませんが、あの90年代初頭のような、これからなにが起こるのかわからないという感覚を覚えるようなものを、また見せてくれる企業が現れないかなあ、いや、現れるはず、あるいは私が知らないだけ、あるいはあの分野?あの会社?、と期待を持つ今日この頃です。

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大水青の思い出

連休一日目。今日の東京地方は初雪を観測したようです。私もお昼前に、雪が舞い落ちるのを眺めました。はらりはらいと紙片のような雪が舞っていましたが、積もるべくもなく、アスファルトの上で蒸発していきました。

幸い、この連休は家で過ごすことができます。少し部屋を片付けていたら、古い中央公論1999年10月号が出てきました。整理しようかな、と思って、しかし、中央公論を買うとは、なにか理由があるはず、と思って目次をもう一度見ると、辻佐保子さんが、辻先生が亡くなられたあとに書かれたエッセイ「大水青と銀霊草と栗鼠と…」が掲載されたものでした。もちろん、このエッセイは「辻邦生のために」に納められていますので、整理してもよいのでしょうけれど、なにか、運命のようなものも感じますので、もう一度書棚に戻しました。

このエッセイのなかに、大水青や銀霊草についての思い出が書かれています。この大水青、私の記憶では1999年、辻先生が亡くなった年に、夜の風呂場で目撃したのです。たしか亡くなる前のことだったように思います。黒々とした闇に面した窓ガラスに、青白く輝く大水青が光るようにとまっていました。かなり大きいですし、蛾ですのですこし気味悪く思ってもおかしくないのですが、なにか神々しさのようなものも感じた記憶があります。この「神々しさを感じた」という記憶は辻佐保子さんのエッセイに触発された作られた記憶かもしれませんが、確かに大水青を目撃したのは確かなことです。

今日、ふとした表紙にこの中央公論を開いたのも何かの導きでしょうか。今年は没後20年という節目のとしてでもあります。本当に早いものです。

5年前にも同じことを書いていました。2014年の没後15年の折りでした。

辻邦生没後15年によせて その4 大水青

今年もまた、辻文学を読みながらたくさんのことを考えていこう、とあらためて決心しました。

今日は南岸低気圧が通過するようです。どうかみなさま、お風邪など召されぬようお気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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