ヴォーン・ウィリアムズの田園交響曲で夏が終わったことを惜しむ

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夏が終わり、寂しさにくれる日々です。いつから夏が好きになったのだろう? 先だって、そんな思いを書きました。生きるということは盛夏にある、ということなのかも、と。もちろん、歳を重ねればまた変わることでしょう。

今日は、ヴォーン・ウィリアムズを聞いています。交響曲第3番「田園」夏の終わりに相応しい音楽のような気がしてなりません。

夏の夕暮れ、田園に落ちるバター色の夕陽。暑さにうだりながらも、そよぐ風の中に涼しさを感じるころ。夏を惜しむ蝉の声が聞こえる。収穫を終え、籠に積まれた夏野菜を積み込んで、ふと空を見上げると、淡い空に微かに三日月が見える。息を吸い込むと、湿り気を帯びた土の匂いがする。いつもの匂いなのに、なぜか愛おしく思う。そうか、この匂いは来年までお預けだからか。暮れゆく空は一層淡いモーヴ色に染まつた。峰々の向こうに姿を隠そうとする輝く太陽に手を合わせた。陽光が畝を照らし、木々は陽光で燃えるように輝いていた。

季節の変わり目で、気温はジェットコースターのように変わる季節です。皆様もお身体にお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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ルトスワフスキ交響曲第三番をサントリーホールにて

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今年は、災害が多い一年です。日本は災害が多い地域ですので、おそらくは自然信仰がなされていたのだと思います。こればかりは、備えをして、あとは祈るしかありません。どうかみなさまお気をつけください。

そんな中ですが、本当に久方ぶりにサントリーホールに参って、東京都交響楽団演奏会でルトスワフスキの交響曲第三番を聴いてきました。

プログラムは以下の通りで、オール・ポーランドでした。

  • ワーグナー 序曲《ポローニア》
  • ショパン ピアノ協奏曲第二番ヘ短調
  • ルトスワフスキ 交響曲第三番

指揮はアントニ・ヴィト。ピアノはシャルル・リシャール=アムランでした。

予習を幾分かしていたと言うこともあり、ほんとうにスリリングな体験でした。おそらく、実演で聴くことのできるチャンスはそうはないはず。貴重な機会をいただき感謝しかありません。

正直、前半の初期ワーグナーとショパンはあまりうまく聴くことができませんでした。予習不足でもあり、あるいは、今の音楽的嗜好が初期ワーグナーやショパンには向いていないと言うことだけでして、演奏は素晴らしかったと思います。

で、後半のルトスワフスキは前のめりになって聴いてまして、打楽器の連打や、金管の咆吼には、自然に笑みがこぼれてくる感じでした。予習で聴いていたとおり、まるでベルクのような響きにホールが満たされまして、ワクワクしながら次の展開を待ち続けるという感じでした。

さて、明日は金曜日。一週間はあっという間です。

ともかく、季節の変わり目です。どうかお身体にお気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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ルトスワフスキ、つまり現代音楽を聴いて思うこと。

ルトスワフスキを聴く

故あって、ルトスワフスキの交響曲第三番を聴くことにしました。

今聴いているのは、ベルリンフィルを作曲家自身が振っている音源です。

この曲はシカゴ交響楽団の委嘱で作曲され、初演は、ショルティがシカゴ交響楽団を振ったとのことです。何枚かCDも出ているようです。作曲家自身の演奏もいくつかあるようですし、サロネンなども録音しているようです。

何度か通して聴いていますが、かなり気に入ってきました。最初に聴いたときは、まずい、理解できるか?と不安に感じましたけれど。和声の感じが、ベルクの《ヴォツェック》を思わせる美しさで、かつてベルクばかり聴いていた頃のことを思い出しました。

管理された偶然性、と言うことで、指揮者が奏者のアドリブ演奏をコントロールする、ということのようです。まるでジャズのようなスタンスですね、と浅はかにも思ってしまいました。

楽譜の映像も見ましたが、なかなか手強い感じです。

現代音楽を聴くと言うこと

そういえば、現代音楽をアグレッシブに聴くのは何年ぶりだろう、と言う感じです。

20年ほど前、ずいぶん現代音楽に挑戦した頃がありました。コンロウ・ナンカロウとか、ヴォルフガング・リームなどを、アンサンブル・モデルンの演奏で聴いたのがとても懐かしいです。

また、ベルクも現代音楽だとすれば、前述のように、ベルクばかり聴いていた時期もありました。

現代音楽というくくり自体、難しい定義で、現代に作られているからといって現代音楽でもないわけで、そのあたりの勉強をしていたこともあったなあ、などと思い出したりしました。20年前はずいぶん音楽にアグレッシブで、そういえば、楽理科に入学できないか、などと思いついて調べたりした記憶もあったなあ、などと。

もっとも、音楽的な才能は、あるようなないような、と言う感じで、ということは、才能はあまりない、と言うことなので、それを理解してからは、あまり変なことを思うこともなくなったなあ、と思います。

ただ、そうはいっても、現代音楽、あるいはオペラでもよいのですが、音楽に対してアグレッシブに挑んでいた時期からみると、すこしその勢いもなくなってしまったように思え、これではいけない、とあらためて考えたのでした。

生活環境がかわり、なかなか時間がとれなくなったから、というのが一義的な理由なのですが、それはそれで、人間として寂しい限りだな、とも思います。

やはり芸術に触れることは、人間を人間たらしめること、と思います。緩んだ桶を箍で締め直すように、芸術は人間を締め直すのだと思います。

そういう意味では、今回ルトスワフスキを聞けたのは、よい機会でしたし、本当に嬉しい限りです。

おわりに

今日は西日本は台風とのこと。幸い関東には大きな影響はありませんが、それでも雨で電車が止まったりしているようです。どうか皆様、お気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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iPod Classicを復活させた。

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今月は、何故かパケットを多く使ってしまい、上限に達しつつあります。

こんなことはスマホに変えてから初めてです。一度だけ例外があります。それは私の操作ミスなので、原因はわかっているのです。ですが、今月は、普通に使っているだけ、と思っていました。さまざまなアプリを試している中で、余計なパケットを使っていたのでしょう。

不用意にパケットを止められてもいやだな、と考え、しばらく使っていなかったiPod Classicを復帰させてみました。このiPod Classic、2007年9月に届いたようです。11年前ですか。ブログ記事がいくつか残っていました。懐かしいです。

iPod Classicが我が家にやってきた その1

iPod Classicが我が家にやってきた その2

160GBのハードディスクが入っているのですが、この容量は当時としては瞠目するものでした。これで、iTuneに取り込んでいる楽曲を全部入れることができるじゃないか!と感動したのを覚えています。

ということで今日はヒンデミットの《画家マティス》をアバド指揮で。


あれ、と。こんなに音はよかったっけ、と思いました。

記憶では、iPod Classicにはアップルロスレスエンコーディングで同期していたはず。だからいいと感じるのか?ただ、体感なので真偽は不明。私のブログを読み返すと、音が悪くなった、という感想を書いているようで、あれ、そうなんだ、という感じ。普段聴いているApple Musicの音があまりに悪いので、iPod Classicの音がよく聞こえるようになったのか、あるいは耳が変わったのか。

それにしても、アバド、素敵ですね。どうも最近聴くクラシックはアバドに片寄っている気がします。

もう今週で8月も終わり。夏も終わりですか。暦の上ではすでに秋ですが、なんとなく9月にならないと、本当の秋になった気はしません。寂しいですね。早く来年の夏にならないかな、などと。

それでは皆様、おやすみなさい。グーテナハトです。

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テディ・ペンダーグラスを聴いてみる。

音楽遍歴的に言うと、小学校5年生の冬に買ってもらったカラヤンのカセットテープがすべての始まりで、高校のころにジャズに目覚め、大学でサックスを吹いて、ジャズ・フュージョンを聴きつつ、クラシックも長い間聴いていた、と言う感じで、そこに「洋楽」の入り込む隙間はありませんでした。

洋楽とは何か、という問題はありますが。そういう意味では、欧米のポピュラー音楽という観点で洋楽という言葉を使っています。もっと言うと、多分R&B)

ただ、ジャズ・フュージョンとなると、アル・ジャロウ、ジョージ・ベンソンといったボーカルに接する機会もありますし、あるいは、アース・ウィンド・アンド・ファイアーをカバーするジャズミュージシャンを通じて、「洋楽」に触れる機会もあったように思います。

それで、先日聴いた「村上RADIO」で、まだまだ聴いていないいい音楽があるなあ、と思ったり、あるいは、毎週土曜日9時からNHK-FMで放送している「世界の快適音楽セレクション」を聴いて、少しずついい音楽を発見したりして、まあもう少しさまざま聴いてみよう、と思った次第。

それで、AppleMusicのR&B系プレイリストを聴いていて見つけたのがテディ・ペンダーグラス。

なぜ気になったかというと「Love TKO」という曲を知っていたからです。この曲は、Fouplayの2010年アルバム「Let’s touch the sky」でカバーされており、知っていたのでしたが、もともとはテディ・ペンダーグラスの曲であったことをプレイリストを聴いて見つけたのでした。テディ・ペンダーグラスがなくなったのは2010年。ライナーノートには等に記載はありませんでしたが、もしかすると追悼の意味が込められているのかも、と思いました。

さらには、インターネットで調べると、ドリフの「8時だよ全員集合」の髭ダンスのベースラインはもともとはテディ・ペンダーグラスの「Teddy」というアルバムに収められた「Do me」という曲なのでした。結構かっこいいです。

70年代の素晴らしいサウンド。ストリングス、ホーンセクションが豪華で、古き良き時代だなあ、と思います。このアルバム、全般的にオケのアレンジが秀逸、あるいは70年代色満載で、オーボエやホルンも登場していて、お金がかかっています。ボーカルがオーボエ-に乗っているのを聴くと、オペラ的でもあります。また、どこかで耳にしたことのある邦楽のアレンジにも似ていて、おそらく70年代から80年代の日本のミユージシャンも大きな影響を受けたんだろうなあ、と思いました。

「洋楽」は本当に不勉強ですので、なにか新しい可能性を見つけたようで嬉しいです。ご存じの方はご存知でしょうから、いまさら感はありますが、自分的には新しい体験なので、あえて書いてみました。

 

さて、東京地方にはまた夏が戻ってきた気がします。でも、朝晩はやはり涼しいです。繰り返しますが、ありがたいような寂しいような。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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つれづれ

朝晩が涼しくなりました。炎暑の夏はやはり困ります。すこしは過ごしやすくなりました。でも、夏を愛する者にとっては、少し寂しい気分です。

少し前に、私より10歳ほど年上の先輩と休日働いたことがありました。その方と食事をしたときに話したのは、「夏が過ぎるとホッとするか、寂しいか」という話です。私は前述の通り寂しさを感じるほうですが、先輩はホッとする、とおっしゃいました。先輩曰く、歳を重ねると夏は厳しくなるのだ、とのことでした。ただ、私の場合、夏が好きになったのはこの数年だと思います。

かつては秋が好きでした。夏が過ぎて涼しくなり、日に日に過ごしやすくなり、まるで空気と同化できるような気温となる秋が大好きだったのです。それは、まだ若いころ、学生のころのことだと思います。

ですが、いつ頃からか、夏の日差しに灼かれることに愛おしさを感じるようになりました。

普通に考えると、夏こそが若い季節。若者ほど夏を好み、歳を重ねるにつれ徐々に過ごしやすい秋を愛するようになる、というところなんでしょう。ですが、例えば、若い頃は、若さに甘え、秋を好んだとしても問題はなかったが、歳を重ねるにつれて、若さに焦がれ、無理に夏を好きになっているのではないか、と。そうだとすると、それはなにか無理をして、若さを手放さないという心理ではないか、とも思うのです。

辻邦生「ある告別」においては、若さとの決別が描かれているのですが、そのなかに、歳を重ねているのに、まるで若い女性のような格好をしてパリを歩く女性の話がでてきます。決然と若さと別れ、次に進む、というのが人間のあるべき姿ではないか、というテーマでした。

しかし、ゆっくりと心の底に降りて見定めてみると、若さに執着して夏を好むと言うわけではないのではないか、とも思うのです。

若さへの執着ではなく、日差しが最も強い夏、生命が盛りを迎える夏が、なにか生命の極地ともいえる季節に思えて、毎年楽しみにしているのだ、と思います。炎暑は困りますので、ほどほどが良いのですけれど…。

今日もまた涼しい朝でした。また来年の夏が楽しみです。あるいは来年の夏休みが楽しみです。

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「結局いちばん役に立つのは、自分の体を動かし、自分のお金を払って覚えたことね。」──村上春樹「スプートニクの恋人」

雷雨
暑い毎日。

ですが、この週末、東京はずいぶん雷雨に見舞われました。土曜日の雷雨はずいぶん激しいもので、今日街を歩くと泥が側溝にたまっていて、周囲の道路も冠水していたようでした。

さて、先週は村上春樹「スプートニクの恋人」を読んでいました。

村上春樹作品はそんなに読んでいるわけではありませんが、通底するものがわかる気が致します。リアリティのあるアンリアリティ、という表現が胸の底の方から湧き上がってきました。現実とは何か、と言う問題。我々が現実と思っていることは、じつは現実ではない、のでは、とか、あの非現実は、実は現実ではないか、という思いです。

「結局いちばん役に立つのは、自分の体を動かし、自分のお金を払って覚えたことね。本から得たできあいの知識じゃなくて」という一節がなにか引っかかりました。これも、なにか常日頃思っていながらできていないことです。こういう箴言めいたものが心に残るというのも、村上春樹作品を読んでいてよく感じることです。

辻邦生の文学にこころが奪われていなながらも、村上春樹の文学に共感しているということはどういうことなのか、ということも考えないと、とおもいました。

来週はお盆の週。静かな週だとよいのですが。

それではみなさま、おやすみなさい。

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FM東京「村上RADIO」を聴く。

昨夜、村上春樹が出演する村上RADIOがオンエアされたということを、辻文学関連でお世話になっているYさんから伺いました。ほんとうにありがたいことです。

村上RADIO

私は、昨夜は聞き流したので、radikoで聴いています。radiko、よくぞタイムフリーで聴かせてくださいました。

いやはや、村上春樹の声を初めて聴きました。

iPod7台持っているとか、2シーターのオープンカーを何年も乗っているとか、なかやか面白いです(きっと賛否両論なんだとおもいますけれど)。

オンエアされている曲は、村上春樹がランニングするときに聴いている曲だそうです。が、音楽の選曲的は結構幅広いと感じました。個人的には趣味として合うところも合わないところも。昔、音楽嗜好について書いたことがありますが、そのことを思い出しました。

音楽嗜好総体のようなもの

マイウェイが好きじゃない、と言ってたのは、なかなか面白いと思いました。また、ペットショップボーイズは懐かしいなあ、と。演奏中に村上さんがコメントするのがなかなか面白いです。これは、音楽を聴いている人の頭の中身を覗いた気分です。音楽から書くことを学んだ、というのも共感できる気がしますが、共感していると錯覚しているだけかも。

夜の小説を読む時間を細々と続けていますが、今日はこちらを聴いて終わってしまいました。

村上さん、69歳なんですね。きっと、普通に暮らしている35歳より若いと思います。肉体的にも精神的にも。

さしあたり今日ははここまでです。みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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細川俊夫 ハープ協奏曲「回帰」─辻邦生の追憶に─

まずは、2001年、おそらくは東京都交響楽団の演奏会に行った際のパンフレット。もらったときにはすぐには気がつかなかったのですが、後から見返してみるとここに細川俊夫が辻邦生に捧げた「ハープ協奏曲「回帰」─辻邦生の追憶に─」についての記載がありました。もう17年前の資料です。折れたり汚れたりしているのはご容赦ください。

このハープ協奏曲、CDも発売されています。私の記憶では、2003年だったか、学習院大学で行われた辻佐保子さんの講演会の開始前にハープ協奏曲が会場に流れていたと思います。

先日このCDの話をとある場所でしたのですが、それ以来このCDを繰り返し聴いています。曲調としては現代音楽のトーンです。ハープがまるで和琴のように聞こえます。ライナーノートを読むと、嵯峨野明月記の最終部が引用されており、嵯峨野明月記や西行花伝といった日本を舞台にした作品にインスパイアされたものと考えました。決して明朗快活な音楽ではありません。しかし深みがあり、どこか悲しげで、それでいて達観を感じさせるものです。アルバムタイトルも《回帰》とあり、なにか永遠永劫の境地を感じさせます。ですが、私はまだそうした境地を知り得ていないはずもあります。

さて、今年の夏も名残惜しく過ぎていくような気がしてなりません。めまぐるしい現実の狂騒に疲れる毎日ですが、夏の午後に、太陽に灼かれる窓の風景を眺めながら、スピーカーから聞こえるハープとオーケストラの協奏を聴いていると、なにか現実こそが夢であるかのように思います。真の世界はあちら側にある。いや、「あちら」というべきではなく、「こちら」側か、などと感じています。

炎暑が続きますが、みなさまも、どうかお身体にきをつけてお過ごしください。

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今年も巡ってきた辻邦生のご命日園生忌、そして学習院大学資料館「背教者ユリアヌス展」へ。

今年も7月29日がやってきました。辻邦生先生のご命日である園生忌です。気がつくと、19年が経っているということに今日気がつきました。来年は没後20年です。本当に早いものです。

最近、公私とも仕事が忙しく、なかなか書く時間が取れず、なかなか書く機会がとれないのですが、もっと早く書ければよかったのですが、27日金曜日に学習院大学史料館で開催された背教者ユリアヌスの朗読会に参りつつ、「背教者ユリアヌス展」もあわせて観て参ることができました。

毎年辻邦生の日記の一部を読むことができるのですが、それは編集されていない辻先生の肉声を聴くような気がして、毎年とても多く学ぶことがおおく楽しみにしているのですが、今年は、20代半ばに浅間温泉から松本高校へ通っていた頃の日記が展示されていました。同い年だった三島由紀夫を意識した日記で、なにか世に出ることへの焦燥であったり、芸術を志すにあたって若き辻邦生が懊悩している姿を垣間見るようでした。辻先生が身近に感じられた気もします。

朗読会も、辻文学を音読で聴く機会もなかなかなく、司会をされた学芸員の冨田さんが、辻先生がご存命ならご自分で朗読したいと思ったにちがいない、ということをおっしゃっていたのが実に印象的でしたし、若い方々が朗読する「背教者ユリアヌス」は、なにかみずみずしいもので、清澄とした気分になりました。

一方で、なおユリアヌスが滅びなければならなかったという事実に、なにか名状しがたいものを感じたりもしたのですが、まさに展示されていた日記においてもそのユリアヌスの最期が「素晴らしい」と書かれているわけで、ここが辻文学のキーポイントだ、とあらためて思いました。

なお、背教はユリアヌス展は、8月11日(土)まで開催です。日曜日は閉室とのこと。10時から17時にご覧になれます。入場は無料です。

http://www.gakushuin.ac.jp/univ/ua/course/

(おわりに)

さて本当に久々になってしまったエントリー。前述の通り、なかなか時間がとれないというのもありますが、なにか書くということに引っかかりを覚える気もします。辻先生のように「ピアニストのように毎日書く」ということがいかに大変なことか、ということでしょうか。もっとも、日記は毎日書いてはいます。ただ、外に出す文章と日記では、なにか勝手が違います。また少しずつピッチをあげていかないと、と思いました。まあ、ブログというメディアも時代遅れですので、すこし考えないといけないのですが。また、発信すると言うことに関してもっとピッチをあげないと。本も読んでいれば音楽も聴いているので。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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