《短信》加賀乙彦先生の公式ブログに「フランス留学時代の辻邦生」が掲載されていました。

作家の加賀乙彦先生の公式ブログに「フランス留学時代の辻邦生」という文章が掲載されていました。

https://ameblo.jp/asamayama-taro/entry-12261296070.html

先日の講演会の序盤において、辻邦生との出会いについて加賀先生が話しておられましたが、そのお話の内容と同じものが書かれているように思います。昨年末パリで開かれた「辻邦生 - パリの隠者」展の冊子にフランス語で掲載されたもののようです。

実は、明日まで少し早めの夏休み。先週末土曜日に辻邦生展に参ったことで、何か別世界に来てしまったような気がします。明後日からまた社会復帰ですけれど。

それではみなさま、おやすみなさい。

辻邦生ミニ展示と加賀乙彦氏講演会「辻邦生の出発──『夏の砦』」

今年も夏が参りました。

私のなかではすでに夏の風物詩となっていますが、学習院大学史料館で開催されているミニ展示と、辻邦生がパリ留学中に交流した加賀乙彦氏による講演「辻邦生の出発─『夏の砦』」に行って参りました。

家の仕事が忙しく、直前ギリギリで会場に到着してしまい、後援会の直前ということもあって、ミニ展示は大混雑でした。残念ながら、きちんと見ることはできず、ざっと見るだけではありましたが、太い万年筆で書かれた自筆原稿を見ることができて本当に幸せでした。

小説家の加賀乙彦先生の講演会「辻邦生の出発──『夏の砦』」は、前半は辻邦生と加賀乙彦先生の最初の出会いのシーンから、辻邦生のパリの生活、加賀乙彦先生が小説を書いたきっかけなどが語られ、後半は、夏の砦を加賀乙彦が改題する、という内容でした。

驚いた事に、加賀乙彦先生は、当初全く小説を志しておらず、辻邦生の影響で小説を書き始めた、とのこと。勝手な想像で、医師ということから、北杜夫のように前から知り合いで、ということを想定していたのですが、どうもそうではなく、本当に偶然にパリへの留学の船旅で乗り合わせ、嵐の日に甲板で偶然出会った、という奇跡的な出会いだったということでした。もし、辻邦生と加賀先生が出会わなければ、おそらくは加賀乙彦という小説家は存在しなかったという事になるのかもしれません。

また、辻邦生の小説家になるという自負が強烈だったということも、初めて知った気がします。友人の加賀さんだから言えることなのかもしれません。例えば、世界一の天才だ、などという趣旨のことを辻邦生は言っていたようです。実際に、辻邦生は天才ですし、そうでなかったとしても、それを公言するぐらい強くなければ小説家にはなれない、ということなのだと理解しました。

後半、「夏の砦」を加賀乙彦先生が解説されたのですが、加賀乙彦先生は、「夏の砦」こそが辻文学の最高傑作であると言っておられ、「死を描きながらも明るい小説という不思議」、「膨らみ、明るくなり、黄金色に輝く世界」などと言っておられたました。本当にその通り。数々の死に彩られながらも、なぜか、ポジティブな小説だった、という読後感で終わるのです。それが辻邦生の不思議さであり、価値であり、魅力である、ということなのだと理解しています。

個人的には、「夏の砦」は3回ほど読み、先日Kindle版を入手し、また読もうと思いましたが、加賀先生のお話で、読むための視点のようなものを発見しました。歳を重ねると、かつてとは違う読みかたをしてしまうようになり、それは何か辻文学の輝きがあまりにも強く眩しく、何か足踏みをしてしまうような気がしていたのです。しかし、視点を得たことで、いま世界に感じている問題に繋がるような何かアクチュアルな読み方を発見できるのではないか、とも思っています。その視点は今は描きませんが、おそらくはこの後「夏の砦」を読んで、振り返る事になりそうです。


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それにしても、加賀先生は88歳だというのに、矍鑠としてきちんと話をしておられ、たまにユーモアを交えながら、会場を温め、会場を見ながら緩急をつけて話をしていて、加賀先生も本当にすごい、と感嘆しました。

会場もかなりの人数の方々が来訪されていました。無料なので、コストは大丈夫なのか、と心配になりましたが、資料館のアナウンスによれば、寄付などで運営しているとのこと。やはり今でも、辻邦生は、様々な立場の多くの人々に愛され続けているのだなあ、と思いました。

講演会の後、辻ファンの方々とお茶をしてお話を。辻文学を語る機会はあまりなく、本当に勉強になるひとときでした。

書ききれたのかわかりませんが、まずは速報として。

暑熱が続きます。どうか皆様もお体にお気をつけてお過ごしください。おやすみなさい。グーテナハトです。

私の夢。ささやかな夢──ラトルのブラ3


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今日も色々とあった日。あるいはなかった日。作らなければ何もない日。

そんな中で聞いたラトルのブラームス交響曲全集。そのうち、第3番を聞いたのですが、いつもながら、私にとっては意表をつくようなダイナミズムに圧倒されてしまいました。それでも何か、そういうラトル節のようなものをすでにわかってしまっているような気もしていて、何かもう少し違うものを聞きたいような気もしたりします。

何をするにも、とにかく、時間を作ることが必要。今日はとうとう睡眠時間を少し削ってみました。いつか、毎日7時間寝て、毎朝5時に起きて充実した仕事をするのが夢です。夢の実現に向けて頑張ろう。

今日も全国で大変な雨になったようです。東京では雹が降ったとか。

今日は短く、おやすみなさい。

いまさら《ゴッド・ファーザー》を観て《春の戴冠》を思う。

《ゴッド・ファーザー》がAmazonプライムで観られるのですが、なかなか見る機会なくこれまで来てました。やる気と意識の問題。で、やっと観ました。本当にいまさら。45年前の映画なのですから。小説は8年前に読んでいたので、あらすじは知っていますが、映画の迫力にはかないません。


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内容は良いのは言うまでもないのですが、勝手ながら、辻邦生《春の戴冠》と似たシーンがあって、イタリアつながりということもあり、あるいは執筆タイミングと公開時期が同じということもあり、深掘りをしたくなりました。

その場面というのは、ヴィトー、つまり、ドン・コルリオーネが襲撃されたあとの場面。ファミリーが全員ヴィトー家に集結するシーン。

これ、パッツィ家の叛乱でピエロ・デ・メディチが暗殺されたあと、メディチ党が全員メディチ家に集結するシーンだ、と思ったのです。主人公のフェデリゴもやはり、メディチ党の一人として、叛乱を恐れながらメディチ邸に入りました。

ルネサンスもマフィアも、やはりファミリー。辻邦生が、《ゴッド・ファーザー》を見て参考にしたかどうかは定かではないですが(確認しようとしたら、いつまでたっても投稿できないので、見切り発車してますが)、イタリアの血生臭さという意味では共通したものがあってもおかしくないなあ、と、なにか得心した思いがあります。凄惨な復讐もなにか同じもので、《ゴッド・ファーザー》の暴力シーンを見ても違和感を感じませんでした。

それにしても、本当に平坦な毎日。平坦であることを目指して頑張っています。日々我慢。

それでは皆さま、おやすみなさい。

「辻邦生の出発」案内状届く


先日、学習院大学史料館から案内状が届きました。写真は1959年ごろとのこと。終戦から14年。今から14年前は2003年。2003年に戦争が終わって、今ごろパリにいる、という時代感覚かなあ、と。

今日は短く。おやすみなさい。

暗い窖のこと

辻邦生の「春の戴冠」をKindleで読んでいます。


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この長編小説は、大学を出てから読んだ気がします。20年ほど前。以降、3回ほど読んだ記憶があります。

初めて読んだときは、恐らくは物語の楽しみを味わうことに終始した気がします。フィレンツェの国際政治の乗り切り方を手に汗握る思いで読んだ記憶があります。

2回目は、恐らくは哲学的な観点で読んだはず。プラトンアカデミアで語られるプラトニズムから、美とは何か、分有という言葉をキーワードに読んだ記憶があります。恐らくは2004年ごろのことかと。

3回目はその数年後に読んだと思うのですが、何か晦渋さを感じながら読んだ記憶があります。もっとも、あのシモネッタとジュリアーノが恋に落ちる仮面舞踏会のシーンに感動したり、最後の場面の少年たちの狂騒に文化大革命の紅衛兵を感じたり、そういった発見もありました。

その後、昨年だったか、「春の戴冠」をKindleで入手し、読み始めたのですが、なかなか進みません。何故なのかなあ、ということを考えると、何か遠いところに来てしまった、という思いが強くあり、入って行けなくなってしまった、ということなのかもしれません。美しい描写も、その文章の上をうわ滑ってしまうようなそういう感じです。昨日も書いたことですが、あまりに違う世界にいますし、時代も大きく変わりました。

辻邦生の生きた時代が過ぎ去っていくことを感じたのは、「夏の光満ちて」を読んでいた時のことでした。辻邦生がパリへ向かう飛行機がエールフランスのボーイング727だったという記述があったはずで、それを読んだ時に、ああ、本当に違う時代のことなんだ、と体感したのでした。ボーイング727は30年前に活躍した旅客機で、日本で見ることはできません。なにか、時代の隔絶を感じたのです。それは、江戸と明治の差かもしれないし、戦前と戦後の違いなのかもしれないと思うのです。

なにか、手の届かないところへと遠ざかっていく感覚は、昨日触れた、高層ビルから眼下を眺めるということとも言えます。

それで、昨日、この「春の戴冠」をKindleで読みましたが、ちょうど出てきたのが、<暗い窖>という言葉でした。

それは自分の立っている場所がずり落ちてゆき 、いわば 〈暗い窖 〉のなかに陥るような不安をたえず感じざるを得ない人たちです。(中略)生きることに一応は意味も感じ 、努力もするが 、心の底に忍びこんだ 〈失墜感 〉をどうしても拭いきれない。

この失墜する感覚に対して、全てに神的なものが分有されていることを認識することで、その迷妄を断ち切る、というのが、フィチーノがその場に結論なのですが、どうなのか。結末のサヴォナローラを知っているだけに、複雑な思いです。

何度か書いたことがあるのかもしれませんが、文学は人生論ではないとは思いますが、やはり時代という背景の中で書かれ読まれる文学には、文脈に応じた意味が付与されることになります。窖という言葉は、そうした時代や、あるいは人間の一生の中で感じる何かしらの失墜感を表すものではないか。どうしようもなく、抗うことのできないものの象徴なのではないか。

初めて「春の戴冠」を読んで20年で、何かそういう思いにとらわれています。逆にいうと、この「窖」の答えもまた「春の戴冠」の中に隠されているはず、とも思います。

台風が東京地方に迫っております。どうかみなさまお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

ブログ始めて14年になろうとしているのか…。


つれづれな日々が続いています。とはいえ、少しずつ物事が動き始めた感覚もあります。なんとかねばり強く攻めの姿勢を保たないと。

で、歳月はどんどん周り、7月に突入となりました。今年も、もう半分終わりました。正月におせちを食べながら、早く来年の正月に実家ならないか、と、思ったものですが、よく感えると、今年の正月はないかも、とも。

歳月といえば、今年でブログを始めてなんと14年になろうとしていることにも気づいてしまい、時の速さに打ち震えています。

当時は先進だったブログも、今やレガシーなメディアになっている感もありますが、どのプラットフォームにも依存しない自由な感覚が好きで、乗り換えたり閉鎖したりする気にはなりません。せめて、ここは自由に過ごしたい場所にしておきたいと思うわけです。もちろん節度ある自由であることは言うまでもありません。

かつての記事は、今の本意とは異なるものになっているものもあるかもしれず、あるいは、書き直したいほどのものもあるのかも知れませんが、それもこれも、一つのプロセスでもあるので、そのままにしておくことしかできないのでしょう。

とにかく、こうして思うと、本当に時の流れに乗って長い長い旅をしてきて、思えばずいぶんと遠くまで来てしまったものだ、と思います。ほれば、まるで、高層ビルから地上を見下ろすような気分になるものです。そして、この先どこへ向かうのやら、と。

そんなことを思いながらこちら。

イリアーヌ・イリアスがビル・エバンスをカバーしたアルバム。土曜日にNHK-FMでかかっていたので、そちらをAppleMusicで聴いています。


Something for You


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ビル・エバンスのベスト盤を繰り返し聞いたのは、高校2年の夏のこと。あれからもう30年。こちらも気が遠くなるような感覚。スコット・ラファロのベースが普通だと思ってしまったのは、少し問題だったかも。

イリアーヌ・イリアスのアルバムにはまったのは2006年のこと。癒しを求めるように、毎日のように聴き続けたのですが、それはたかだか10年前に過ぎない、とも。

この、Somerhing for youというアルバム、イリアーヌらしいタッチが楽しめますし、ボーカルもいつものように素晴らしく、気だるい感じに力を抜いて歌う感覚が、疲れたときに聴くには、その中に倒れこみたくなるような感覚を覚えます。村上春樹なら暖かい泥の中に、とでもいいそうな。

暑熱の迫るこの頃、どうかお身体にお気をつけてお過ごしください。みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

高橋大輔「漂流の島:江戸時代の鳥島漂流民達を追う」を読む。

なんだか、心がえぐられるような深い感慨を持った本でした。探検家高橋大輔さんの「 漂流の島:江戸時代の鳥島漂流民達を追う 」。


漂流の島: 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う



高橋 大輔
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江戸期の鳥島への漂流民の足跡を鳥島に実際に行って検証するというノンフィクション。

これまでも、高橋大輔さんが、浦島太郎、サンタクロース、といった伝説の人物の足跡を、実際に現地に赴いて検証するという探検を読んでいましたが、今回もすごかったです。

鳥島は、活火山の無人島で、特別天然記念物のアホウドリの生息地ということもあり、容易に訪れることはできません。また絶海の孤島にあって、波浪激しい大海に浮かぶ島でもあります。

その鳥島で漂流民達が暮らした洞窟を見つけようというのですが、明治以降の大噴火で、洞窟のあった地帯は水蒸気爆発で吹き飛んだり、溶岩流に飲み込まれたりと、地形が大きく変わっています。さて、鳥島に漂流民の足跡を見つけることができるのでしょうか、という物語。

高橋さん自身の鳥島への上陸、現地での調査、離島する場面が、漂流民の漂着、生活、脱出と重ね合わさるような構成になっていて、漂流民の当時の状況や心情がリアルに感じられます。

現地に赴くまでにも、様々な交渉やお役所との攻防があったり、探検というのは現地に行く前から始まっているということもよくわかります。何をやるにも、面倒なことはたくさんあるものです。

実際に、漂流民達が暮らした洞窟を見つけることができたのか。ここには書きませんが、高橋大輔さんの執念が一つの結論に到達する様は、漂流民の脱出への執念と重ね合わせて感じられました。

それにしても、絶海の孤島に取り残され、脱出のすべもない、という状況を想像して、冒頭に触れたように何か心をえぐられるような気分になりました。その絶望たるやいかほどのものか、と。その絶望の感覚を、漂流民の記録を取り上げたり、あるいは鳥島での体験をもとに描いておられて、凄まじいリアリティでした。

これまでの高橋大輔さんに関する記事はこちらです。こちらもおすすめです。

高橋大輔「12月25日の怪物: 謎に満ちた「サンタクロース」の実像を追いかけて」

高橋大輔「浦島太郎はどこへ行ったのか」

それではみなさま、どうか良い週末を。

ラトルの《惑星》を聴いて。

昨日、ラトルとベルリンフィルのモーツァルトを聴いて感動しましたので、同じ組み合わせの音源を。ホルスト《惑星》。

この音源、10年ほど前に、飛行機の中で聴いた記憶がありますが、あまり良くない機内設備できいたこともあったのか、あまりいい印象を持てませんでした。なにか、力が入っていない演奏のように聞こえていたのです。

ですが、今聞いてみると、なんだかすごいぞ、と。あまりはスピードを上げることなく、解像度の高いくっきりした演奏だなあ、という印象で、重みもあり、じっくりと練られた充実した演奏だと思います。

私の聴く限りでは、この曲はリズムどりが難しい曲だと思います。例えば、有名な「木星」の冒頭、各パートが、四拍の中で3音のパターンをずれて演奏します。これ、本当に大変だなあ、と。私だけですかね。以前、バンドをやっていた時に、この類の楽譜に苦労した記憶があります。


こういう実にところ複雑なことをあえてスピードを上げずに解像度を保つ、ということは、実はすごいことではないか、と想像したりしています。これは、バンド活動の経験なので、オケの場合は違うかもしれず、プロには朝飯前とは思うのですが、この解像度高さが、何よりこの音源のすごさだ、と思います。

もっとも、ラトルの指揮には、時折、そのスピードコントロールについていけない時があります。あれあれ、そこでこうするのか、みたいな感覚で、それは以前にも感じていました。

あれあれ、そんなに熱くなるんですか?──ラトルの《くるみ割り人形》

ただ、リンク先の《くるみ割人形》ほどではないですが、微妙にそうしたスピードへの違和感を感じるところが一箇所だけありました。

いずれにせよ、解像度の高いじっくりと聴かせる素晴らしい演奏だと思います。傷もあまりなく、繰り返しになりますが、くっきりとした締まった演奏で、音質も素晴らしいです。王道な《惑星》だと思います。

ラトル、やはりすごいんだなあ、と思います。身体的な感覚として、ラトルの表出する「感じ」が一層わかりました。

演奏の違いの件を昨日書きましたが、同じ演奏家で違う楽曲を聴くという軸と、同じ曲を違う演奏家で聞く、という軸もあります。次は、《惑星》をまた別の演奏で聞いてみてみると、あらためての反省になるかも。

今日もなんとか無事に。みなさまもどうかお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

楽曲を語ることと演奏を語ることと。

日曜日、マーラーについて書いてみましたが、なんとなく書くことに抵抗がありませんでした。逆にいうとこの数ヶ月、あまり書くことができませんでした。それは、環境変化などあり、多忙だったということもあるのでしょうけれど、なにか違う理由を見つけた気がするのです。

この一か月、モーツァルトを聴き続けていました。特に、これまで聞いたことのなかった初期交響曲や弦楽四重奏、あるいは、合唱曲やオルガン曲などを。

そこで、もちろんなにがしかの感想は持つのですが、それを言語化することができなかった、ということなのではなかったか、と。

それは、意欲という観点もあれば、技術的知識的な観点もあったはず。音楽の差異を語ることよりも、演奏の違いを語ることの方が、取り組みやすいという状況なのかもしれない、と。聴きなれたマーラーの5番を聴いてなにがしかのことを書くということは抵抗なくできた、ということかと。

今、ラトルが振ったモーツァルトの交響曲39番、40番、41番のライブ録音をAppleMusicで聴いています。

これを聞くと、ラトルらしい、うねるようなダイナミズムが感じられ、ああ、ラトルって、いいなあ、と思うのです。ベルリンフィルを手中にして響かせる手腕の素晴らしさ。輪郭のある演奏は、対位法を浮き上がらせ、モーツァルトの構築美、それは何か、18世紀の優美な絵画を思い起こさせるような。という具合に、何か語ることができるわけです。それは、取りも直さず、この3曲を何度も聞いているわけですし、ラトルの演奏も何度も聴いているからこそです。

一方で、モーツァルトの初期弦楽四重奏を聴いて、その楽曲自体を語ることについては、何か抵抗のようなものがあり、越えられない壁があるように思ったのでした。それは、越えるべき壁なのか、あるいは、楽理のリテラシーがなければ超えられない壁なのかはわかりません。少なくとも、昨日触れた身体的感覚として手に触ることのできるような感覚は、初期弦楽四重奏を聴いていた時には感じませんでした。

初期弦楽四重奏が楽曲として面白くないかというと、そうでもないのです。滋味にあふれた曲だったと思うのですが、そこに何かを語るまでには至らなかったわけです。語るまでには理解していない、というのが、まずもっての答えです。

ですが、あるいはこれは、楽曲の違いを語ることと、演奏の違いを語ることということに繋がるのかも、とも思いました。

私に中では、楽曲の相違と、演奏の相違というのは、なにか対立する概念のように存立しています。それは、ジャズとクラシックの関係に似ているもののように理解していました。ジャズは、コード進行に基づき、セッションによってフレーズが異なります。クラシックはフレーズはいつも同じですが、それ以外の差異で表現をするわけです。

なにか、これまでは、ジャズ的な楽曲相違の方が自分にはわかりやすい、と思っていたのですが、実は演奏相違の方が語りやすい、ということに気付いて意外だったのです。

それを前向きな変容とみるか、後ろ向きな変容とみるか。少し、議論が先走るかもしれませんが、それは、もしかすると、年齢を重ねたからということなのかもしれないとも。同じものの微細な変化で十分楽しめて、環境の大きな変化を許容できなくなっているという事に繋がるのかも、と思うと、「機微がわかるようになったなあ」といった前向きな変容とお気楽に捉えるわけにもいかないのかも、と思ったりします。

楽曲の違いも乗り越えて書いてみないと、と思います。

そうこうしているうちに、ラトルの41番は最終楽章。この颯爽としたスピード感で聞くフーガはとんでもないです。カルロス・クライバーの《運命》を彷彿とさせるパラダイムシフトかも。みなさま、これは必聴です!

それではみなさま、お休みなさい。