Gustav Mahler

7月に入り途端に環境が変わり忙しさに拍車がかかりましたが、なにかその忙しさに慣れつつある今日この頃という感じです。

文章を「まるでピアニストが書くように」書く、ということを、尊敬する辻邦生先生はおっしゃっていますが、まあ、辻先生ほど出ないにせよ、書くことはライフワークですので、諦めずに書かないといかんな、と思います。

このところ、なにか生きると言うことに虚しさを感じ、それは多分、あまりに忙しさにあって、音楽を聴いても何か砂を噛むような、なんともいえない手応えのなさがあったのですが、今、この瞬間において、なにか虚しさがすっと遠ざかった、と感じました。もちろん虚しさは何度も何度も波のように押し寄せるものですが、そのときに掴むものや立つところがあれば、波に押し流されずに済むものです。生きると言うことは、そうした掴むものと立つところを探し、手に入れるという営為である、と思います。かつては、なにか幸福という空気を息継ぎをするようにすっている感覚というものがありましたが、それと同じなんでしょう。なぜ、このような虚しさを一瞬でも遠ざかったと感じたのか。それはやはり音楽であって、ラトルの振るマーラー交響曲第10番を聞いたからでした。昨年の冬はアバドが振るブラームス交響曲第1番に支えられるように生きてきた感があり、なにかあのオプティミズムに彩られた感覚が素晴らしく感じたのでした。しかし、それもなにか昨今の感覚とは折り合わず、いくらアバドのブラームスを聴いても、虚しさを洗い流すには至らなかったのでした。

そんななかで、Apple Musicが自動で生成するプレイリストを何気なくクリックして流れてきたのが、ラトルが振るマーラー交響曲第10番クック版の第二楽章でした。あまりにフィットする感覚はなんでしょうか。不協和音と転調に彩られた複雑で美しく雑然とした軽快な曲調は、なにか現在の混濁した虚しさに寄り添うもののように感じたのでした。クックにより補遺された第二楽章以降は、未完成でありながらも生きたマーラーの心理的苦悩が詰め込まれた感覚がするのです。その心理的苦悩はやはり虚無だったのではないか、と想像したりしています。

災害が起こり、戦争が起こる中にあって、虚無について考えるのは贅沢なのかもしれませんが、人間というのは常に苦悩に浸るものなのでしょう。それは、おそらくは所有が一つの原因であり、所有とは、財産や家族友人だけではなく、過去の記憶や未来の想像をも含むものではないか、と想像しています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

7月29日は辻邦生の御命日です。もはや、私にとっては過去も未来も平坦で、1999年にご逝去の報を聴いたときのショックを今でもどこでも追体験できる気がします。

辻先生がその作品をものにしていった年齢に近づくと、若い頃に読んだ辻文学認識が少しずつ変容していくのに気付かされます。願わくば、その変容を「読み方に深みが増した」と捉えたいところですが、どうでしょうか。

辻文学においては、生きることの喜び、大切さが謳われます。しかし、それは、逆説的な死への畏れがあったからではないか、と思うのです。辻文学が「美と滅びの文学」と評されているという、おそらくは誤った記憶を持っていますが、それは実は誤ってはおらず、直観的に私が感じた辻文学の本質なのではないか、と考えるようになっています。

辻文学を読み始めた高校のころ、友人に辻文学のことを話したときに「死を捉えた文学である」という趣旨のことを話したのでした。当時は、辻邦生全短篇を読んでいた頃で、たしかに「空の王座」も「夜」は死にまつわる運命的な話であり、そうした捉え方をしたことに不思議はありません。あるいは、後年読んだ「西行花伝」において、母の死に直面した若き西行が、死も生も同じである、と認識するに至る境地が描かれていて、そこにもなにかリアリティのある凄みを感じたのでした。フォニイどころか、あまりにも熾烈な認識です。

残り何度夏を迎えることができるのか。そろそろ数えられる年齢に差し掛かると、どうやら、生の喜びを語ることと言うことこそが「戦闘的オプティミスムス」であるといえないでしょうか。そう思うと、また違う姿が立ち現れてきます。

しかし、それでもなお生きなければならないのであれば、世界は美しくあるわけです。それは、ザイン存在ではなくゾレン当為であり、ゾレン当為こそが認識の対象であり、が故にザイン存在となることを求められるわけです。

この深淵を見据えながらも美を見ると言うことは、なにか苦難を乗り越え理想を希うユリアヌスやサンドロの姿に重なりつつも、西行のように現世から一歩引いて、世界が島のように見える境地にも似ています。あらゆる正数と負数を同時に見やる視座は、虚数のようでもあり、世界から離れ、醒めたところにあります。

人生の次の戦場は、ここなのかもしれません。「春の戴冠」と「西行花伝」をもう一度読まねば、というようなことを思いながら、家路を急いでおります。

それでは皆さま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

今週来週は、仕事場が少し離れたところでして、いつもと違う通勤路でなぜか永田町と赤坂見附の乗り換えが発生します。しかも有楽町線から丸ノ内線という。この長い通廊は便利なようでいて大変です。最近リモートワーク続きで身体がなまっていることもあり、また荷物が重いこともあり若干応えます。大昔、父が「この通廊は、核シェルターみたいだ」と話していたのを思い出しました。確かに、場所柄、いざというときに政府が逃げて執務するなんていうストーリーを思いついてもおかしくないです。そういえばフィンランドやスウェーデンの核シェルターは半端なく広大と聞いたことがあります。永田町=赤坂見附の比ではなさそうです。

そんななかで聞いたのはこちら。ティーレマンが降るブルックナー4番。やはり、ブルックナーの交響曲の白眉は緩徐楽章が落ち着くなあ、とか、第三楽章のホルンのフレーズ、これドイツ民謡だなあ、なんてことを思いながら。けだるい夜にはぴったりです。ブルックナーの緩徐楽章だけのプレイリストでもつくってみようかな。。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Book

辻邦生「背教者ユリアヌス」中公文庫、新旧2バージョンを並び替えていたときに、なるほどねえ、と感じることがありました。

クリーム色の旧バージョン(1990年)は、しめて1,630円。一方緑色の新バージョン(2017年)は、4,100円。27年で物価がこれだけあがったということなんですかね。

以下のグラフ、消費者物価指数のうち、書籍の物価情報を表したもの。参考までにカップ麺も同じグラフで表現してみました。これをみると、書籍だけが取り立てて高くなっているというわけでもないのかな、と思いました。

書籍の1990年の指数は59.2、2017年は100.9となり、比率は1.7倍です。

一方、写真の「背教者ユリアヌス」の新旧価格差は2.5倍。

うーむ。本来なら、2,800円ぐらいで収まってほしいところ、4,100円になっていますので、物価上昇よりも1,300円高いということですね。

この差は、書籍と言ってもさまざまあって、とくに文学は需要がなく採算とれず逆に高くなってしまうという現象なのでしょうか、などと考えておりました。文化を支えるためには力が必要ですね。

ということで、おやすみなさい。グーテナハトです。

<消費者物価指数のうち、書籍とカップ麺の1970年からの推移>


出所:統計で見る日本
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200573&tstat=000001084976&cycle=0&tclass1=000001085995&tclass2=000001085936&tclass3=000001085996&tclass4=000001085997&tclass5val=0

Jazz,JazzVocal

仕事が入り始めると、途端に頭が切り替わってしまいます。まるで人格が変わるように。

そんな合間で聞いたこちら。ロヴィーサLovisaのアルバム。

 

先日入ったレストランで、イリアーヌ・イリアスで聴き慣れたCall meが聴こえて、それが何かいっそうフレッシュで、屈託のない明るいものに感じたのです。

Siriに教えてもらったところ、ロヴィーサLovisaという方が歌っていることが判明。AppleMusicで確認したところ、このアルバムを発見したのです。この方、スウェーデンの方。北欧と言えば、数年前に見つけた素晴らしいマレーネ・モーテンセンもデンマークだったなあ、と。

北欧、スウェーデンと聞いてしまうと、夏の太陽が差し込む森と湖、という感じしかありません。このリバーヴ感は何か懐かしい70年代サウンドの感覚。特に、Skylark。マイケル・ブレッカーがよく吹いていた記憶がありますが、このサウンドと声で聴くとなるとまたこれが実に素晴らしいのです。夏の夕方に白ワインを飲みながら聴きたいアルバムです。

さて、6月もおしまい。明日から7月。待ち遠しい夏が本格的に始まります。楽しみで楽しみでワクワクしています。

Miscellaneous

つれづればかりですいません。本を手に取ることも、音楽を聴くこともできない一日でした。

泳ぐ習慣をつけてもうすぐ7年になろうとしています。その割には、なかなか上達しません。クロールで500メートル泳ぐのがやっと、と言うところです。それ以上泳ぐと、体力を消耗してしまう感もあり、できる方々が毎日何千メートルも泳いでいるという話を聴くにつけて、やれやれ、と想います。500メートル泳ぐと大体15分程度ですが、まあ、その間に、さまざま考えたりしますので、そうそう無駄ではないのでしょう。発想が浮かぶタイミングのひとつが、泳いでいるとき、なんだと想います。

振り返ってなぜ泳いでいるのか、考えてみると、どうもこれ、辻邦生の教えに従っているような気がしてなりません。「言葉の箱」では、ギリシア人を引き合いに、健全な精神は健全な肉体に宿る、と言うことが述べられています。それを読んで、何かスポーツをやらんとなあ、と想ったときに飛びついたのが水泳だった、と言うことで、もちろんきわめてながい中断期を経て、7年前から本格的に泳ぎ始めたのでした。

やはり、泳いでいると、思考の進み具合がちがう気がしてならないですし、仕事の生産性も上がる気がします。まあ、普通の会社はそんなことはおかまいなしで、長時間労働を強いますので、自分で気をつけるしか在りません。

コロナの影響で、泳げる時間が縮まり、今後どうなるか分からないのですが、そうであったとしても、いろいろ工夫しないとなあ、と言う感じですかね。。はやく日常に戻ると良いのですが。

と言うことで、みなさまもどうかお気をつけください。おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Miscellaneous

きょうもつれづれ。

満月は昨夜だったようですが、今日も月が実に美しいです。月の光は、青白くもあり、あるいは温かみもあり、冷静でありながらもそこになにか訴えかける心情のようなものも感じられるものだなあ、と想いました。

その月も、雲に隠れたり、あるいは雲から出たり、あるいは雲の後ろから朧な光を放ったり。それは人の心かあるいは人生の機微なのか。ともかく、どうしたって、満月は29日ごとに訪れるわけで、満月すべてが雲とともにあるわけでもなく、それは歴史や人生に合っても同じなのだろう、と想います。

闇夜に光る月は意外にも明るいです。世界もやはり意外にも明るいのかも知れない、と想い、そこに応じてリスクをとっていかなければ、と想ったりもします。「ファクトフルネス」という本が数年前売れましたが、人はとかくネガティブに陥りやすいものですが、先日触れた「戦闘的オプチミスムス」のように、闇夜の中にも光があり、あるいはいつかは夜が明けるということを戦闘的に信じて行動しないといかんなあ、と想いながら、月の光をを浴びている感じです。そう言う、あえてオプティミスムスを謙虚と感謝とともに採択する、という訓練はこのところずいぶんやってきたなあ、という気もしつつ……。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

(写真は昨年10月の満月です。)

Book

さすがに週も半ばを過ぎると、、という感じです。今日はあまり読めない一日。

で、こちら。辻邦生が進めるミステリーである「笑う警官」。スウェーデン謹製のミステリー小説で。このマルティン・ベックシリーズのなかでもこの「笑う警官」がベストだ、と辻邦生は語っています(辻邦生全集第18巻193頁)。というわけで私も少しずつ。ウェル・メイドな物語を作る肥やしにしていたんでしょうけれど、それにしても、どこまで読んでいる方なのか。。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

以前こちらにも書きましたが辻邦生の「時の扉」を読み終わりました。

 

おそらくは20年近くブランクがあいていたはずで、細かい筋立ては覚えておらず、新しい気分で物語空間に引き込まれていき、途中から頁をめくるスピードがどんどん速くなっていきました。新聞小説ということで、面白さやわかりやすさはありながら、テーマとしては辻邦生作品群に通底するテーマを扱っているということもあり、いろいろと考えさせられました。

最後の章、題名が「太虚」とあり、あの「嵯峨野明月記」の最終章で語られる「太虚」に繋がる境地が、新聞小説である「時の扉」にまで波及しているということに驚きを覚えました。おそらくは、鬼塚しのぶが語る

深い悲しみの故に、私たちは本当の<生>の深さを知ることができる

辻邦生「時の扉」中公文庫、1986、547頁

という部分に当てはまるのでしょう。

「嵯峨野明月記」で本阿弥光悦が語る太虚を抜粋すると以下のような部分にあたるのでしょうか。

まさしくこの生は太虚にはじまり太虚に終る。しかしその故に太陽や青空や花々の美しさが生命を取り戻すのだ。太虚の豊かな死滅と蘇生のなかにあって、その宿命を完成させる以外にどんな仕事がのこされていようか。

辻邦生「嵯峨野明月記」 中公文庫、1990、431頁
それはなにか逆説的な物であるかのように思います。光悦は死の空しさである太虚を知ってそこに、生の意味を感じました。「時の扉」の主人公矢口は、罪の償いがかなわないことを知って、そこに生の意味を感じたと言うことでしょうか。

罪は、ぼくに恩寵となって現れることを知りました。罪は償いうるというものではありません。しかし償いえない罪のおかげで、ぼくは生が何であるかを知ったのです。もし罪の償いがあるとしたら、この真実の生の姿を深く知り、生きるほか、方法がないようにおもうのです

辻邦生「時の扉」中公文庫、1986、491頁
死であったり、罪であったり、あるいは恐怖や不安であったり、そうした生におけるネガティブな要素がありつつもそれを包み込みながらも、激しく生きると言うこと。昨日触れた「戦闘的オプチミスム」をモットーにして、砂漠のなかの発掘であったり(時の扉)、あるいは砂漠のレースであったり(おなじ新聞小説の「光の大地」のように)、なにはともあれ激しく生きると言うことなんでしょう。激しくというのは、なにか、太陽の照りつける夏に、オレンジを搾ったその果汁をのみほすような、生への渇きを癒やすものであるように思います。

だとして、何ができるのか。おそらくはなにもできず、ただ通勤者として労働に勤しむことになるわけですが、そうだとしても、大都会の出勤時の駅を詩情で捉え、

人間って、悪に染まり易いそんな弱い存在だけれど、もともとそれほど立派なものじゃないんだ。そんなことで悩むより生きていることを大切にしなければいけない。一日一日与えられている時間──太陽──雲の行き来──木々の緑──頭を揺らす花々──そういうものを心ゆくまで愉しまなければいけない

辻邦生「時の扉」中公文庫、1986、179頁

ということなんでしょう。

なんだか、仕事で悪人とやり合った記憶がよみがえり、自己規定のなくルール無視で動くことのできる悪こそが強いのでは、と同僚と話しをしたことを思い出し、ひとときは悪が勝つことがしばしばだったように思いますが、それでも生きるというトータルでは、なにかそれすらも包含し、そこには悪も正義もなく、全てが溶けきったような感覚を得たな、と思いました。

ところで、この本、ウィスキーを飲む場面、あるいは羊肉などのごちそうを食べるシーンが多く、ついつい酒量が多くなり、肉を貪り食べたくなる欲求に駆られました。確かに、仕事後の机上で本をめくりながら蒸留酒を飲むという愉楽は何ものにも代えがたい幸せだったなあ、と思いました。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio


このブログで何度も何度も「戦闘的オプティミズム」という言葉を使っていますが、出所について明らかにしていないのではないか、と思うようになりました。
この言葉は、1991年に新潮社より出版されたエッセー集「時刻のなかの肖像」の収められた「迷信について」という文章によるものです。

辻邦生は1957年に渡仏しパリで留学生活を送りました。そのころ、パリの大衆紙や女性雑誌に星占いの記事を愛読しており、日本でもいつの間にか星占いが人気の的になったのだといいます。こうした星占いのような迷信出会ったとしても、超合理主義で割り切るよりも、適度の迷信と神話が潤いを与える物として必要で、神社仏閣にお詣りにいったり、神輿を担いだり、おみくじを引いたりするのは人間の情緒生活を豊かにするものではあるが、とはいえ、病気や不幸によって、本物の迷信や新興宗教に走るというのはまた問題であるが、生きている以上、不安や恐怖から免れることはまず不可能であるから、こうした災難的事態には、合理的、方法適性はより他に道はないということも分かっておいた方が良いのでは、といいます。

とはいえ、この合理主義的な思考では落ち着くことできません。この文章は以下のように締めくくられます。

そんなとき、私は、自分にも他人にも戦闘的オプチミスムをすすめることにしている。単なる楽天主義ではなく、それに「戦闘的」という形容詞がつくのである。
いつだったか福永武彦氏の財布には「大吉」と書いたおみくじが入っているのをみたことがある。(中略)これなどは戦闘的オプチミズムの恒例だろう。何かのことで、おみくじを引いてみて「凶」と出たら、「吉」が出るまで引いてみるという気持ち。(中略)運というものがあるならば、自分には「好運」しかないんだ、と信じこむ力。あまりこちらが楽天的なので貧乏神も旗を巻いて逃げ出すといった態度──私は気質的にそういう生き方に共感するようである。

辻邦生「迷信について」『時刻のなかの肖像』 新潮社、1991年、162頁

これを読んだのは、おそらくは学生の頃だったと記憶していて、茶色く変色しつつある古い付箋が今でもここに貼ってあります。この「戦闘的オプチミスム(オプティミズム)という言葉は、なにか能動的に運さえも勝ち取ろうとする、運に関わることでありながらも「合理的」な生き方だなあ、と大いに感じ入り、共感したのを覚えています。以来、「戦闘的オプチミズム」をモットーに生きたいと思い、大吉のおみくじを財布に入れて持ち運んだりしました。まあ、巧くいかないこともしばしばでしたが、どうもそうした迷いのようなものも徐々に括弧に入りつつあるような気もしています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。