Tsuji Kunio

今日、7月29日は、辻邦生のご命日。

「園生忌」という名前がついています。2016年に決定されたものです。

私は、この時、西行との関連から、桜をモチーフにした名前が選ばれるのではないか、と思っていましたが、おそらくは「遠い園生」に基づく園生忌が選ばれたものだと推察しました。この「遠い園生」という作品は、辻邦生が旧制松本高校在学中に書いた小説とされていて、しかし、旧制高校の学生がここまでの作品を書くのか、と読んだ当時、なかばショックに近い感慨を得たのを思い出します。

こうした若いときの作品を、命日の呼び名にするというのは、少し思いを巡らさないと巧く咀嚼できないなあ、ということを当時から思っていましたが、人生が円環だとすれば、若い頃の作品が命日の呼び名に値したとしてもおかしくはないのでしょう。あるいは、私の記憶では(メモが出てこなく困っているのですが)園生という言葉は、ヘッセの日本語訳に由来する可能性もあって、そうしたことも考慮されているのかもしれないです。

ともかく、23年も前の出来事になってしまったわけで、そろそろ四半世紀という節目にもなります。この先も、しばらくは私の人生は続くわけですが、そうしたときに、辻邦生が70年前にパリで考え、その後の40年以上の文業のなかで書いていたことが、この先の世界でどのように位置づけていくのか、という感覚を覚えます。「思えば遠くに来たものだ」という中原中也の言葉を、幾度となく思い浮かべることがこの数年多いのですが、この、遠い世界においては、辻邦生はどうやって、文学を受肉させるだろう、ということを思わずにいられません。

今日はこちら。辻邦生の思索が講演形式で語られます。講演後、そのほとんどをご自身で手を入れられていたと聞いたことがあります。ともかく、なにか遠い世界ですが、一方で円環でもあります。これからは、読み手の真価が問われるのだと思います。

それでは。おやすみなさい。グーテナハトです。

Japanese Literature

つれづればかり書いていてもなあ、と思いつつ、最近読んだ本はこちら。

神谷恵美子の書いた「生きがいについて」。

時間を見つけて半分ぐらいまで読み進めましたが、衝撃的でした。

自己に対するごまかしこそ生きがい感を何よりも損なうものである。そう言う人の表情は弛んでいて、一見してそれとわかる。これがまたかなり多くの神経症を引き起こす原因となっていると思われる。酒癖が強いものも、このようなところから生じやすい。

使命感に生きる人にとっては、自己に忠実な方向にあるいているかどうかが問題なのだって、その目標さえ正しいと信ずる方向に置かれているならば、使命を果たし得なくても、使命の途上のどこで死んでも本望であろう。これに反し、使命にもとっていた人は、安らかに死ぬことさえ許されない。

自らの使命に従って行きていれば、たとえ使命を果たせなくても、正しく人生を閉じることができるのだが、そうでなければ、安らかに死ねない、というのは、いつもは目を閉じ耳を塞いでいることなのかもしれません。

自らの使命をどう捉えるかということです。

この文章を読んで、2年ほど前にみたテレビ番組を思い出しました。千住博さんが、高野山の襖絵を手がけた苦闘を取り上げたNHKスペシャルです。

「NHKスペシャル 高野山 千年の襖(ふすま)絵 空海の世界に挑む」

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009051267_00000

確か「人は騙せても、自分は騙せない。よしんば、お大師様を騙すことはできない」といった趣旨の話をされていたように記憶しているのです。

芸術作品に真摯に向き合うということがが使命だとすれば、その使命に悖ることはできないわけであり、それは自分を騙すということではなく、お大師さまという半ば超越的な存在にも見破られるのである、ということ。使命を果たさないということは、自分と、あるいは自分の中にある仏性あるいは神性を通して、何か運命や宿命に背いていることになるのではないか、ということ。

そんなことをこの「生きがいについて」を読みながら感じたのでした。

この本は、NHKの100分de名著で取り上げられ、これをきっかけに、司会を務めたアナウンサーの島津有里子さんは、NHKを退職し医者の道へと進まれた、ということでを読みまして、どのようなものか、と思い読んでみたところ、想像通りというか、想像以上のものだったと思います。衝撃というのは、薄々わかっていることを、痛烈に言われてしまった、ということなんだろうということなのでしょう。

https://aria.nikkei.com/atcl/feature/19/012700083/020100003/

半分ほどKindleで読みましたが、これは紙の本で読んだ方が良いかもしれず、あるいは、多くの人に読んでいただきたい本でもあるな、とも思いました。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

先日とった夕暮れの風景。

暮れなずむときです。空に誰かが文字を書いたような巻雲が。みなさまならなんとよむでしょうか。

時間はつくるものなんだよ、という言葉をよく聞きますが、まあ、時間は創るものなのでしょう。文章を書くということも、やはり時間を創る中で可能なことです。

美しさを表現するのが芸術の仕事だと思いますが、さまざまなメディアで芸術表現をしようとした時に、さて、文章の場合はどのように表現するべきなのかな、ということをこの風景を見ながら考えてしまいました。そうした議論はもはやされ尽くした感はあるのでしょうけれど、あらためて自ら考えてみたとすると、文章そのものの美しさと、文章が表すものの美しさがあるのでしょう。それを、表現の美しさと意味の美しさとしてとらえてみて、例えば詩的表現は前者であろうし、文章自体が伝える風景や行為の美しさは後者に当たるでしょう。

文章で伝えられないことはないという信念を持つ、ということを辻邦生は述べていたと記憶していますが、鈴木大拙を読んでいると、文章で表現できないこともあるわけでもあり、ただ、自分の世界を他者に伝えるというチャレンジをするという観点で、文章表現に意味があるのでしょう。

そもそも、個の世界と他の世界は全く違うわけで、それが、辻邦生が感じた、私が世界を包み込む、という感覚だったと思います。パリの芸術橋で、パリの風景そのものが自分に属するものであると感じたというあの逸話のことなのですが、私も同じインプレッションを数年前に得たことがあり、しかしそれは実に孤独に満ちた厳しい感覚で、広大で狭い宇宙に一人閉じ込められている感覚をも持ったものでした。

辻邦生は、私の世界を伝えるという欲求があるから文章を書くのだ、ということを述べています。

ぼくの世界で、ぼくが死んでしまうと、だれものそのなかに入って知ることはできない。だから、この世界をだれかほかの人に伝えるためには、その感じ方、色彩、雰囲気を正確に書かないと、ぼくが死んでしまったら、もうこの地上から消えてしまう。そういうものを書き残すのも文学の一つの大事な仕事なのではないか。

辻邦生「言葉の箱」

文章において、「私」が感じた美的感興を、表現美と意味美において書き続けるということ。それが、芸術としての文章の在り方なのでしょう。

しかし、そのためには、美的感興を捉えることがあり、あるいはそれは美である以上、普遍的なものにつながっている必要があります。それを論理と説明で行うことはできないはずで(これは直感的感覚で今後取り組まなければならないことではあるのですが)、文章の論理性説明性を矛盾するところの普遍性を表現するということに、文章表現の難しさがあるということなのだと思います。それは、何かキリスト教で言うところの受肉という言葉を思い起こすほどの困難さを感じます。

などと考えながら、過ごしている最近でございます。。

それでは。。

Literature

先日も書きましたが、岩波文庫青帯を数十年ぶりに買って少しずつ読むという、この年齢でやっちゃいかんことをやっている気がします。学生時代は全く縁がなかった鈴木大拙、あるいは少しは囓った西田幾多郎などなど。

授業や研究会で本を読み話を聞きましたが、いずれも、書いた本だけをよめばいいわけではなく、そこに至るまでの2000年間の哲学史があり、あるいはそれ以降の解釈の歴史があるわけで、本当に分かった気になるのはまずいな、という思いしかありません。実に厳しい世界でした。私は、大学院に残ろうかと思案しつつも、踏み切らずに就職したので偉そうなことは言えませんが。

とはいえ、そうした哲学史や解釈史を持たない市井の人間も、岩波文庫青帯を読む権利もありましょうし、理解がなかろうともいくばくかは語ることもできるでしょう。そうした個々人の理解不足や解釈のブレのようなものも、何かしらの可能性をもたらすものかもしれませんし、そうした語りが偶然にせよ現れることに意味があるのでは、と思います。

たまたまかもしれませんが、仕事場で哲学に興味のある方がいらして、少し話す機会があったというのも、もしかすると青帯を買ったことと関係があるのかもしれません。

偶然はなく全ては必然だ、という台詞を、二年ほど前に見た「二人の教皇」という映画のなかで知りまして、まあ、そんなもんかもな、と。

で、今日、偶然聞いたのが、カルロス・クライバーが振る「運命」は、その筋では実に有名で、私も初めて聴いたときは、多分に漏れずあまりの鮮烈さに驚いたものです。

こうして、青帯を手にとり、「運命」を聞く、というのも、運命なのかもしれません。

それではみなさま、おやすみなさい。

Miscellaneous

永く続くものは、それ自体で善である、と言う話を聞いたこともありますが、生まれた頃には、生誕100年あまりだったマーラーも、気づけば生誕150年を通り過ぎていますので、歴史のなかに身を置いていることを実感します。刹那の重なりが歴史ですが、そこには揺蕩う流れがあるのでしょう。

ワーグナーもブルックナーも同じく遠ざかっていますが、やはり永く続くものは善であり、その永きあいだにも進化を遂げるのでしょう。それは、まるで福利効果で財を増やすにも似ています。時間それ自体が価値となるわけですから。

先日もすこし触れたアンドリス・ネルソンスのブルックナーのアルバム群は、何か、そうした新しく価値が付与されたブルックナーであるように感じました。10年ほど前に、ベルリンでリヒャルト・シュトラウスを童心に帰ったような表情で棒をふるネルソンスをみたことがありますが、本当に音楽の幸福を体現するかのようです。

先ほど読んでいた鈴木大拙に「画家は、絵を描くとき、絵と一体となる」という趣旨の文章がありましたが、音楽との一体性を体現している姿に見えたものです。

今聴いているブルックナーの6番は、過去にサヴァリッシュがN響をふった音源がデフォルトになっていて、そこには、なにかドイツのフォルクルムジークのような野生味を感じたもので(何かヨッフムのイメージとも重なるのですが)、それは、ドイツに足を踏み入れなければわからない、民族的な感覚だと思うのです。激しい三連符がそう感じさせるのかもしれません。

しかし、ネルソンスのこのアルバムにおいては、そうした民族性は影を潜め、アバドのような清廉さと、マゼールのようなスケールの大きさが融合し、西欧それ自体を感じさせるもののように思います。ネルソンスは、欧州連合の最果ての地ラトビアに生まれたわけですが、西欧を西欧よりも意識する立場にあっなはずで、その普遍への意志は、これもまた我田引水ではありますが、ローマを体現しようとしたユリアヌス皇帝とあわせみてしまうのであり、それもまた、2022年2月以降という時代だからこその解釈が生み出した新たな価値とも言えるものだと思います。

どうも最近は、ブラームスかブルックナーという日々が続きますが、休みなかは、こうやって出来るだけ発信してみようと思います。

それではおやすみなさい。

Miscellaneous

 

新緑が美しい季節になりつつあります。世間はGW。しかしなにか落ち着きません。

最近はブラームスの交響曲、ピアノ曲、そしてドイツレクイエム。

本はなぜか鈴木大拙。壮絶な方。30年ぶりぐらいに岩波文庫の青帯を買ってしまいました。元哲学科の血が騒ぎます……。

 

いろいろと軌道修正していかないと行けない今日この頃。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。


Anton Bruckner,Richard Wagner

デジタルな日々が続いています。やれやれ、という感じ。

私は元来本に囲まれ、日々読書にいそしみ、ものを書き続ける生活に憧れております。

晴耕雨読ではなく、晴読雨読。それも、実学の本ではなく、実世界に役に立たない本が良いです。

小説、哲学、宗教など。も

ちろん役に立たないわけはなく、逆説的に言ってみているだけですけれど。

 

そんななかで、今日聴いたのがこちら。アンドリス・ネルソンスが振ったブルックナーの6番と9番。

そして、このアルバム、絶妙にワーグナーがカップリングされているという。ジークフリート牧歌とパルジファルの前奏曲。
ワーグナーとブルックナーを同じ土俵で聴くと言うこと、それも、9番となると実によく溶け合いまして、同じ作曲家によるものではないか、あるいは、もっと言うと同じ組曲か交響曲ではないか、と思うほどだったりします。

特に、緩徐楽章が際立つアルバムで、ジークフリート牧歌の静謐さ、6番第二楽章の荘厳さ、、パルジファルの恍惚とした感じ、9番第一楽章の峻厳さ、9番第三楽章の深遠な感じは、そこになにか通底するもの、なにか、人と人とをつなぐ共通意識のようなものを感じさせます。

 

それにしても、本に囲まれ、読書にいそしみ、ものを書く生活はいつくることやら。定年になってから来ても遅いわけで、なんとかせんといかんな、せめてまねごとからスピード感をもってはじめてみないと、と思いはじめています。

ということで、遅い時間ですが、まねごとから、ということで、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

J.S.Bach

世界が変わりゆく昨今、書くこともままならない日々が続いている感じがします。仕事柄、頭も心もデジタル。

そんな中で、先の週末にとある知り合いの音楽発表会に出かけました。そこで効いたのが、小学生が弾くバッハのシャコンヌ。パルティータ№2のあれ、です。

いやー、もちろん、演奏はそういうもんなんですが、その中に、深遠なバッハの世界が顕現していまして、その先にあるイデアールなものを見た気がしました。どんな演奏であっても、バッハはバッハであり、音楽は音楽だなあ、と思いました。

シャコンヌは、短いコード進行の変奏で、パッサカリアと同類なのですが、しらべてみると、新大陸とも関係する舞曲形式なんですね。わたしは、演奏を聴きながら、ブラームスの交響曲第4番を思い出していました。

しかし、あれですね、この曲全く知らない方は、結構つらかったんだろうなあ、とおもったり。このシャコンヌの構築美、それは、なにか、カタルーニャ美術館のような,何か少し異形で先鋭的な美しさ、グレコの絵画のような感覚を得るのですが、それを、何も知らず、かつ小学生の演奏で聴くというのは、なかなか大変だろうなあ、なんてことを思いながら、15分間、自らのバッハ経験をなぞりながら、演奏を聴き続けたのでした。

復習はヒラリー・ハーン。
バッハの無伴奏パルティータといえば、20年前に千住真理子さんの全曲演奏を青葉台に聴きに行ったなあ、ということを思い出しました。演奏会が終わったあと、近くのお店で千住さんを目撃したのを思い出したり。。

私は、世界の真実は、やはり芸術において現れると思ってます(菅総理大臣風)。政治や経済、戦争も確かに、生死に関わる問題として,世界の本質を占めているようにおもいますが、実のところ、それは流れゆく皮相なものでしかなく、普遍であり、かつ不変であるものが、芸術でなんでしょう。もちろん、その不変と普遍をかたるものが、宗教であり哲学なのかもしれませんが、それを、直接的に魂にアクセスするのが芸術なんだろう、と思います。これは、宗教の言説や、哲学論文においてなせるものではないのでしょう。この、直接魂にアクセスする、というのが、デュオニソス的ということなんだとも思います。

憂うことなく、ただただ、飴色の太陽の光を浴びて、バッハを聴き狂う日がきっと来る、と思いながら、そろそろ休もうと思います。

それではみなさま、おやすみなさい、グーテナハトです。

Miscellaneous

 

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なんだか、人間性をかなぐり捨てて、仕事をする毎日。今日は、久々に早めに帰宅しました。さすがに疲労にはあらがえない。。。

学生時代は、「人間学」という授業が必須だったこともあり、人間性=ヒューマニズムという言葉がこの10年ほど、潜在的なキーワードになっていますが、久々に辻邦生全集を手に取ったときに、なにかこんも数年間巧く触れることのできなかったものに改めて再会した気がします。還るべき場所の匂いをかすかに感じたような気さえします。

昔のことを思い出すことは時に嬉しく、時に哀しく、時に辛いものではありますが、最近は、幼き頃のことを思い出すことに、痛切な想いを感じることがあります。すでに時間的に隔絶した場所に郷愁を感じることは、戻らぬ時の不可逆な残酷を感じるものです。あの日々に嗅いだ空気や、用水路の風情、ポプラ並木の青々と茂る感じはすでに喪われ、記憶というケースの奥深くにしまい込まれているわけで、それは、おそらくは思い起こすときに時間や空間の隔絶を超克したものではありながらも、現実世界にはもはや存在しないという冷厳たる事実があるわけです。

もはや、記憶と現実は平坦になっているわけで、だとすると、想念と記憶だけがこのせかいではないか、戸さえも思ってしまったり。いや、むしろそちらの方が真実ではないか、ともおもいながら、とはいえ、物理的な身体の疲労や経年に伴う様々な相違というものは、やはり無視しがたいもので、想念と記憶と現実は、どれが正しいと言うより、どれも正しいという三位一体なのか、ということを考えたりしています。

そんな世迷い言を気にすることなく、東京地方には春が訪れたようで、この週末は写真のように青々とした空に、春の柔らかく暖かい日差しが沸き立ち溢れていて、こうやって波のように季節は巡り、あるいは、寒さも暖かさも、波打つように、日常に流れ込み、私が楽しみにしている夏至と、あるいはその先の、盛夏へといたるのだろうなあ、と思います。

自然の回転と揺れ動く波を感じて、ただひたすらに、その場その場に打ち込むという日々が訪れることのを待ちたいと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

最近、街角ピアノがはやっているようで、近所の駅にもピアノが設置され、そばを通るたびに、ショパンやらベートーベンやら、あるいは、オリジナルの音楽、ゲーム音楽などが弾かれているのを耳にしていました。

で、今日、近所の公共施設に行きましたら、そこにアップライトのピアノがありまして、しらっと、弾いてみると、いやあ、本当に音が良くて、いいなー、と。

家には電子ピアノがありますが、質感が全く違うわけで、まあ、古いアップライトなので、そんなにも上質戸はいえないのかもしれませんが、なによりも本当のピアノが出す倍音の豊かさというのは筆舌に尽くしがたいものがあり、これは、普段からピアノを弾いておられる方にとっては当たり前なのかもしれませんが、限られた空間で生きている身にとっては、甘美な経験でしかなかったわけです。

これはもう、なにか懐古的な感情なのか、本物を求める感情なのか、それはよくわかりません。

ピアノを置ける家に引っ越したいなあ、と思ったりもしますがどうでしょうか。

ということで、そろそろ二月も終わってしまいます。今日の東京は暖かな風情で春を感じさせました。世界が平和でありますように。。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。