なぜか哲学の本を読んでしまいました
西洋古代・中世哲学史 (平凡社ライブラリー) クラウス リーゼンフーバー (2000/08) 平凡社 |
うーん、なぜだかよく分りませんが、リーゼンフーバー師の「西洋古代中世哲学史」を手に取ってしまいました。実は、この本、大学一年生の時の教科書だったので、試験前とかかなり読み込んだ記憶がありますが、改めて読んでみると全く覚えていない。悲しいぐらいに。
それでも、昔授業でやったトマス・アクィナスの哲学大系、意外とおもしろかったなあ、と思って、トマス・アクィナスの項目をおもむろに開いて読んでみました。
内容はさっぱり覚えていないか、当時から理解できていなかったのか、のどちらか。ともかく、トマスの認識論から存在論にかけての項を読んでみます。前提知識として、プラトンとかアリストテレスの哲学大系を知っておかないと行けないわけですが、そうした知識も今は全くなくなってしまったので、何度か読んで議論についていくのがやっと。なんだか懐かしくて若返った気分。こういうのは継続が大事だから、毎日少しは哲学の本を読むことにしよう、と強く決意したのでした。
それにしても、どうしてこうも人間界は複雑で悪意に満ちた世界なのでしょうか。もちろん、善意に満ちた領域もあるのですがその領域は日に日に小さくなっている気がする。もっとも、善意に満ちたと思える領域も、裏では泥沼化した権力闘争が繰り広げられていますし。
競争経済が悪いとは言いませんが、何事もバランスが大事で、拝金主義になってもいけないし、とはいても家計を維持しないと生きられない。どこに出口があるのでしょうか?
久々に哲学の本を読んで、そこに繰り広げられる真善美や理想世界や存在者を求めようとする意志を感じ取るにつけて、哲学と現実との乖離を改めて感じて、独りで哀しむのでした。
ディスカッション
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rudolf2006さん、こんばんは。
そうなのです。「善意という衣を着た悪意」です。それを言いたかったのです。いつも助けて頂いてありがとうございます。
プラトンもトマスもおっしゃるとおり、一なる永遠なる存在を求めているな、と思います。哲学史を振り返ると、古代から近代まで本当に同じ問題を繰り返し繰り返し変奏していると思います。
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Shushiさま お早うございます。
Shushiさんが疑問に思っておられること、私もそう思っています。明かな悪意、これが一番分かりやすくて良いですよね、それに比べて、善意という衣を着た悪意、これが一番問題ではないかなって思ったりもします。
哲学史の本は日本語では、昔、九鬼周造の本を読んだことがあります。古代でも中世でも、事態はそれほど変わらなかったのでないかなって思います。だからこそ、プラトンにしても、トマスにしても、永遠の世界に憧れたのかもしれませんね。
私も、昔読んだ本を読み直してみようかなって思ったりもしました。
登山の後遺症(?)が出ていますか? お大事にです。
ミ(`w´彡)