寂しき思い──新国立劇場「影のない女」に思うこと

はじめに

「影のない女」から一夜明けた今日、なんだか、虚しさ覚える、虚脱状態とでもいいましょうか。
オペラを総合芸術に仕立て上げたのはリヒャルト・ヴァーグナーですが、以降のオペラは、音楽面だけではなく、文学面や美術面においても評価されなければならなくなってしまいました。そのうちどれかが欠けても難しい。
昨日の「影の女」は、残念ながらひとつだけ欠けたところがあったと思うのです。それは私の理解の足りなさという面もあるかもしれませんが、やはり演出面だけは釈然としません。
シュトラウスとホフマンスタールが作り上げた天才的奇跡的な音楽だけに、それをさらに高みへとあげるのは困難なはずですが、それにしても、という歯軋りをする思い。三人のヒロイン達がすばらしかっただけに、残念な思い。
最初に舞台装置に「疵」というか「矛盾」を見つけてから、視覚的違和感が常につきまってしまうのです。
これ以降、書くこと自体躊躇するところがあります。私の理解不足や、体調の不備、天候の悪さなどが影響しているかもしれないからです。ですが、やはり、ここは一足飛び超えて書かないと行けない、という覚悟で書きます。それが、新国にとっても良いことだと思うので。ご批判は覚悟の上。なにかあればコメントを。

違和感

私が違和感を感じ始めたのは第一幕のバラクの家のシーンから。
舞台全部には白い平たい板、白い底面が引いてあるのですが、それは、家々が地面に投げかける白い影で、家の窓枠に対応する形で、床が切り取られているのですが、一つだけ対応していない場所があるのを見つけてしまったのです。
神は細部に宿りますので、そうした細かい疵に気づいてしまってからなんだか気が抜けたソーダ水を飲んでいるような気分になってしまいました。
で、この平たく白い底面は、全幕通して置かれっぱなし。皇帝の居室であろうと、バラクの家であろうと、霊界であろうと、いつでも。これはちょっと違和感がある。
それから、舞台装置の移動は、黒い服を着た男達が劇中にお構いなしにあらわれて移動してくる。日本風に言えば黒子なんですが、顔もあらわで、いわゆる日本的な黒子ではないのです。「影のない女」の難しい舞台転換を安易な方法で解決したとしか思えない。
確かに「ヴォツェック」でも、黒子的な男達が現れたけれど、ちゃんと衣装を着て、ちゃんと演技しながら舞台装置を動かしていたんです。ですが、今回は演技すらしない。本当にスタッフがやっていて、劇空間がめちゃくちゃに破壊されてしまう。
それから、鷹や馬、オオカミなどの動物たちは、動物の形をしたワイヤーアートを持った方々が出てくるのですが、このワイヤーアートが見えにくくて仕方がない。これ、あらすじを知らない方がごらんになったら、赤い鷹の重要性を全く理解できないと思います。
それから、舞台装置がチープに思えてしまう。家をかたどったオブジェはベニヤ板が張られているのが見えてしまったり、石垣のように石が積み上げられた壁は安くて弱々しい。
乳母が死ぬ場面も、なんだか予定されたように舞台下にせり下がっていくというありがちなパターン。

背景は何か?

でも、本当にこれは演出家だけの問題なのだろうか、とも考えたのです。ほかにも原因はあるのではないか、と。
よく考えますと2010年度になってから二回目の新制作ですよね。もしかしたら予算が相当削られていたのではないか、とも思えるのです。まだ新国立劇場自体の22年度予算はウェブ上で確認することができないのですが、そうした背景もあるのではないか、とも。
先日の「ジ・アトレ」6月号に書かれていたのですが、予算は年々縮減傾向にあることは間違いないようです。そうした影響が出ているのかもしれません。
それから、このシーズンでは指環の後半である「ジークフリート」と「神々の黄昏」をやっている。バックステージツアーで舞台監督の方がおっしゃっていたのですが、再演とはいえ、やはり経済的な負担は大きかったようです。ですので、「影のない女」の予算が削られてしまったのではないか、とも思える。

まとめ

いずれにせよ、すこし寂しい思いをした公演でした。私も少し気張りすぎていて、期待が大きすぎたので、その落差に戸惑っているという面も少なからずあるとは思いますし。
次のシーズンでは、「アラベラ」や「トリスタンとイゾルデ」の新制作もあります。演出家の方も大変だと思いますが、予算担当の方も相当大変なはず。
私にできるのは、チケットを買って、劇場に足を運んで、公演の模様をブログで取り上げて、頑張ってくださいと申し上げる、ということぐらいしかないので……。
ともかく、今後も、日本唯一の常設劇場を持ったオペラカンパニーとしての新国立劇場を応援していきたいと思います。