Béla Bartók

バルトーク:オーケストラのための協奏曲/ヤナーチェク:シンフォニエッタ
セル(ジョージ)
SMJ (2012-12-05)
売り上げランキング: 5,188

なんか、少しジメジメしたたこと書きましたが、この曲聞いて元気が出ました。
緊張感が半端ないですね。
鮮烈・ビビッド。テンポコントロールの絶妙さというのもあるのでしょうけれど。
こういう楽しみもまだ残されているのですが、まだ十分に咀嚼できていないのです。どうすればいいのか。どのように語ればいいのか。まだまだ考えないと。
あらためてグーテナハト。

Miscellaneous

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先日行った熱海の海。美しい光景ですが、なにか引っかかります。このような景色をこの際未来も見ることができるのでしょうか。
この一週間は、音楽から遠ざかり気味でした。といっても、音楽は聴いてまして、あの例のT-SQUAREというバンドの昔の音源を聴いて懐かしんでいました。ただ、どうにも西欧音楽は聴けず、という感じでした。
少し最近の立ち位置を確認しなければなりません。
どうもあの偽ベートーヴェン事件で、音楽にしらけてしまってですね。いや、あの事件でしらけるなんて、そこまで音楽が好きじゃなかったのでは、と思われるかもしれませんが。
正直、偽ベートーヴェンについては、かなり「無理」をしてよく書いた記憶があります。ですが、CDを聴き、コンサートに行きましたので、そうした事実は記録すべきと考え書きました。が、そこに、なにか「長いものにはまかれろ」といったベクトルが作用していたのではないか、と反省する部分もあるのです。あんなにいいと言われているのに、自分だけがわかっていないのではないか、という疑念を感じたからでしょう。もちろんそこに「全聾の」とか「絶対音感」という雑音も含まれていたのでしょう。
私のモットーとして、批判はするまい、というのがあります。専門の音楽教育を受けていませんので、そこまで言っていいのか、という、少し引き気味のスタンスで臨んでいます。それが理由で、ブレというか、キレのなさというものが生じたはず。そういう意味では徹底できなかったという悔いがあります。
ただなあ。あそこまで、評価していたマスコミやブログを見ると、音楽を語るということの責任性というものを強く感じます。かつて、大学に居た時に、教授と大学院生が、音楽評論の妥当性について熱く語っていたことを思い出しました。評論についての妥当性が問われないままという状況に疑問を呈する議論だったと記憶しています。
言論は歴史を創るものであり、事実を変えることさえも可能です。昨年何度か書いたヴェルディがイタリア統一に果たした役割が後世に作られたものであるということや、昨今の歴史問題などもそうしたものにあたるのでしょう。言論に対する飽くなき妥当性の追求を可能な限り行う、ということの難しさは、この20年間のインターネットの時代にあって、問われ続けながらも解決されていないことなのでしょう。
そういう意味では、ブログであろうとも、言論活動の一環ですので、そこに妥当性を常に求め続けることは必要です。経済活動を伴わないものである以上、そこには常に妥当性を求める必要はあります。ただ、妥当という言葉はあまりに絶大なもので、求めることはできても実現できないものなのです。妥当という言葉は、ブレンターノに依っていたはずです。それほど重い意味を持つものはず。
なんだか絶筆宣言のようになってますが、絶筆はしないです。妥当というものは求めるものであり、実現できないものである以上、絶筆すると止まるので。
今日は新国立劇場でオペラトークを聴いてきました。そちらの報告は明日から。それにしても手を広げすぎていて、すこし戦線を整理しなければなりません。。
ではグーテナハト。