大学時代の先輩と一席ご一緒してもらいました。馬刺しを食べられる渋谷の料理店にて。
今回の騒動や、昨今の諸問題についていろいろと。大学の先生ですので、本当にたくさん教えてもらいました。
「絶対音感がないと音楽をきちんと語ることはできない」という意見があるそうです。これは、私が漠然と考えていたものに一致していて、少し思いを巡らせています。今回の事件は別にして。
それではグーテナハト。
《短信》馬刺しつついていろいろと
今回の問題についての感想の続き
はじめに
今日は雪の一日でした。我が家の近くもこんな感じ。
予定は全てキャンセルとなり、一日家で過ごしました。今日これから仕事で招集されたらどうしようか、と必死に悩んでます。
昨日の続き
今回のあの事件、クラシック音楽界においては大事件で、沢山の方がいろいろな立場で語っています。まあ、語れば語るほど深みにハマりますし、物議をかもすのでしょう。ヘタすれば炎上です。
昨日の記載に少々問題があるのでもう少し書きます。
私は全聾というところには心打たれなかったのです。絶対音感とそれを記憶する能力を持つ人がいる、ということに関心を持ったのです。
それは、モーツァルトやメンデルスゾーンが楽曲の記憶を半端なくできていた、というエピソードに似たものを感じたのです。あるいは、私の知人のアマチュア作曲家が、通勤電車で楽想を考えるのだが、メモすることなく覚えている、ということを話していたのを思い出したからです。
これらの例は、もしかすると本当のことではないかもしれませんが、少なくとも一週間前までは本当だと思っていて、その類例として今回の絶対音感による作曲というものが実在していて、それに関心を寄せたということになります。
まあ、今から思えば、全聾であるからこそ、絶対音感で作曲しなければならないわけで、そういう意味では、全聾という要素も重要だったのでしょう。あるいは、精神薬を飲んでいる姿も、無意識に受け止めてしまっていたんでしょう。あるいは、NHKが放送したということもあったんでしょう。どうがんばってもいいわけしても、ウソの情報を見破れず、それらを要素として音楽を評価していたということになります。
あと、もう一つ。さかな君が、天皇陛下のスピーチに登場したという「快挙」がありました。クニマスを発見した例の快挙からきたものです。私はあの曲の人気っぷりが、さかな君の快挙につながるもののように思えたのです。あるいは、島津製作所の意志社員だった田中耕一さんがノーベル賞をとったとか。ああいうメインストリート以外のところから出てきた人が、快挙を成し遂げてしまう、というストーリーの一つとしても捉えていたのだなあ、と。
なので、私はそうしたストーリーとともに音楽を聴いていたし、音楽を聴くことはそういうものだと思っており、やむなし、と思います。
この言説はきっと議論を呼ぶはずですが、おそらくこの「聴く」ということを、各人が様々に解釈するのでしょうから、すりあわない議論になるはずです。私にとっての「聴く」は、おそらくは空気の振動を認識すること以上のもののような気がします。
まあ、ウソの情報を見破ることなんてなかなかできません。後出しジャンケンでならいくらでも言えるのでしょうから、行っても意味はありませんので、あえて言いませんが、家族とはいろいろと類例を出しながら論じております。
いろいろとかんがえることが多く、どうにもとまりません。というか、「音楽」自体よく分からなくなってきました。
今日の一曲
今日は《魔笛》の第一幕を2003年の録画でみました。コリン・ディヴィスがコヴェント・ガーデンを振ったバージョンで、夜の女王をディアナ・ダムラウが歌ってました。ダムラウは本当に巧いですよ。声が均質で、パワーがあり、それでいて絶妙なコントロールでした。タミーノを歌うハルトマンは立派なんですが、立派すぎて試練を受ける必要がないぐらい成熟したタミーノでした。
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明日は、お世話になった方と会う予定。
今回の問題についての感想
あっという間の一週間でした。なんか3日ぐらいしかなかった気もします。
世の中は万華鏡のように折々でその色形が変わります。今回の騒動もそういうものですね。
振り返ると私も関連コンテンツを2回書いてますので、何かしらのことは書かなければならないと思います。
経緯としては、一年ほど前に父からあの曲が凄いらしい、という噂を聴いたのが初めです。その後、Youtubeで、大友直人さんが激賞している映像を見ました。ベルリン・フィルでやるべき、というコメントで、ああ、そういう評価を受けているのか、と思った次第。
その後、昨年2月に東京芸術劇場での演奏会が、夏休み中にあたっていたので、行ってみようかと調査を初め、その中でCDを購入して聴いてみたのが最初です。よく言われているように、様々な作曲家の断片が聞こえる作品である、というのがその第一印象でした。ですが、東京芸術劇場には行きませんでした。疲労が激しく行けなかった、ということもありますが、CDを聴けばいいかな、と思ったということもあります。
その後、昨年3月末の問題のNHKスペシャルを観ました。絶対音感で音楽を書くという「天才」的な作曲に感心しました。私の知り合いも、やはり楽譜をメモすることなく覚えておくことができるので、ああそういうこともあってもおかしくないなあ、と思いました。
なので、東京芸術劇場の演奏会には行っておくべきだったのかも、と後悔もしました。というわけで、コンサートに行ってみることにしたわけです。前から聴いてみたかった神奈川フィルの演奏を、大好きなみなとみらいホールで聴いてみよう、ということで、8月にコンサートに行きました。で、佐村河内氏の姿を拝見する次第。
その時の印象については、ブログと記憶を思い出すと、普通の音楽を書くことが大事なんだ、ということと、オケの大音響をずいぶん楽しめたなあ、というところでした。
結論から言うと、音楽的関心とともに、「天才」的な作曲技法でどれだけのものができるのか、ということにも興味があったようです。したがって、その点は騙されたということなんでしょう。私は全聾というところには心打たれなかったのです。絶対音感とそれを記憶するということに関心を持ったのです。
音楽的価値が最上、というこの問題の中で様々な方が語られていることは確かにそうかもしれませんが、私の場合は、これも随所で批判されているように、音楽とともにそこに付随した物語を楽しんだのかもしれません。
これは、オペラみたいです。
音楽だけでなくそこにあるストーリーを観ているということなんでしょうから。
どちらが欠けても成り立たないオペラ的事件であり、そういうオペラを我々は意図せず見せられた、ということなんだなあ、と思いました。両者は分かちがたいものです。音楽を聴くには、聴覚以外も使うのです。音楽さえ良ければいい、というのも一理ありますが、私にはそれはあまりに原理的と思います。
それにしても、絶対音感で作曲する天才作曲家がいなくて少しホッとしました。そんなうまい話はないですね、ということみたいです。その点は良かったです。
さて、明日は大雪ですね。本当かな?
では、グーテナハトです。
《短信》それにしても
オペラは、音楽、詩、演出によって成り立ちます。
ですが、普通の音楽もそうかもしれない、などと思うことも。
純粋に音楽だけを享受するべき、と思っていましたが、それは難しいのではないか。
などと、昨今の騒動をみて考えました。
最近本当に多忙。6時間連続会議なんてのも。頭の体操。
それではグーテナハト。
まずは短信で。二人のヒロイン──新国立劇場《カルメン》と《蝶々夫人》
この週末は大仕事でした。友人の結婚式のため、《カルメン》をエクスチェンジしましたので、土曜日が《カルメン》、日曜日が《蝶々夫人》ということになってしまい、ついでにとある原稿の締め切りもかかえていました。
ということで、息つくまもなくあっという間の週末でした。
土曜日の《カルメン》は、皇太子殿下がいらしていたり、有名な女流作家をお見かけしたりと、華やいだ感じの公演だったと思います。皇太子殿下登場の折は拍手が起こりまして、100年前の欧州もやはりこういう感じだったのか、などと思ったり。エクスチェンジして良かったかも、などと。
日曜日の《蝶々夫人》は、初日に体調不良でキャンセルしたアレクシア・ヴルガリドゥが登場し、盛り上がりました。指揮のケリー=リン・ウィルソンの素晴らしさが際立っていましたね。緻密で大胆でした。女性らしいきめ細やかさがありながらも歌わせるところはダイナミックに歌わせ、ドラマを支える劇的な演奏でした。
やはり、ドラマが躍動するのは音楽があるからです。これは、聴いている時にはなかなか気づかないことなのかもしれないのではないか、と思います。ストーリーや歌唱に感動している気がしていますが、実は指揮者によって勘当させられている、という状況です。私はこの感覚を、ペーター・シュナイダーや若杉さんの指揮で学んだように思います。
土曜日のカルメンも、日曜日の蝶々夫人も男のエゴで死に至る悲劇のヒロインです。ふたりは正反対のタイプの女性ですが、共通しているのは、ふたりとも男によって造形されたキャラクタであるということです。オペラの中でも外でも悲劇なのかもしれないです。
というわけで、続きはまた明日。