フェリペ二世の逡巡──新国立劇場《ドン・カルロ》その2

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蒼天へと向かう木々も葉を枯らして冬支度をしています。私も冬支度をしたいところですが、なかなか。。この前、「夏だけどカラッとしてる」なんて書いた気がしますが、あっという間に冬です。

東京の冬は、実のところ快適なのかも、などと。とあるドイツ人は「東京の冬の青空は観光資源だ!」言っていた、というエピソードを思い出しました。確かに鉛色の曇天のもと何日もすごさなければならないヨーロッパの冬に比べると、東京のカラッとした冬空は魅力的なのかもしれません。ちなみに、このエピソード、ICEの中で偶然同席した某大学の哲学科教授から伺ったものです。

さて、新国立劇場《ドン・カルロ》の件。やはり後期ヴェルディは面白いですね。人間ドラマ、歴史ドラマを堪能しました。

スペイン王宮が舞台となるこのオペラですが、主人公ドン・カルロの父親がフェリペ2世です。あのスペインの黄金期を体現したフェリペ二世です。劇中ではフィリポ二世ですが、スペイン語読みではフェリペ二世です。

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King PhilipII of Spain" by アントニス・モルWeb Gallery of Art:   Image  Info about artwork. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.

フェリペの逡巡の場面がありました。エリザベッタの愛情を得られていない、と苦悩する場面です。

ですが、あれは文学者が作り出した幻想だと思いました。あんなことつゆぞ思わないのが権力者でしょう。文学者は、こうして溜飲下げているにすぎません。権力者にああした心の動きがあるのか。権力者は心を明かすことはありません。きっと、我々が、権力者を憐れむことで、何かを代謝しているに過ぎないのだと思います。

フェリペ二世はエリザベッタに愛されなくても何も気にしないのではないか。がゆえに、エボリ公女とも関係を持つわけです。そう思いました。世間の権力者というものは、芸術生成者
とは全く異なる論理で動いていますから。

そうした前提にたって、フィクションとしてのフェリペの苦悩を味わうのが、あのシーンの権力者への嗜虐的な感情を持ちながら観るのが醍醐味だったのかもしれない。などと思います。

人間と人間は、思った以上にわかりあえないものです。一人ひとりが、独立した宇宙と論理を持っているわけですから。約束も守らず、嘘を突き通すような人間はあまたいるわけです。

ですが、長い歴史において、今もなお文字として残るのは芸術生成者の手になるものに限られるのかもしれず、そうだとすると、いわゆる「芸術生成者史観」のようなものに基づいた権力者像というものが、現在残っているにすぎないのではないか、などと思うわけです。

がゆえに、実のところ、私はあのフェリペ逡巡の場面にはリアリティを感じることができなかった、ということになるのかもしれません。

もっとも、リアリティとはなにか、という問題も生じてくるわけです。(1)事実と、(2)歴史的事実と、(3)事実の解釈、この3つのズレのようなものがあるわけで、ここでのフェリペ像は、この三者のどれに当たるのか、ということが問題で、劇中のフェリペは(3)事実の解釈に基づくもの、とすれば、それはそれで首肯すべきものなのかもしれません。

そういえば、この劇におけるカトリシズムの問題も興味深いです。そちらは次回です。

ではグーテナハトです。おやすみなさい。