7月29日は辻邦生のご命日
今年も今日という日が参りました。辻邦生のご命日です。
毎年、何度も、当時の思い出を書きましたので、今年はあまり語らないようにします。あれから16年となりますね。早いものです。
「人間であること」を除いたら、いったい何のために生きているのか。太陽を、河波の反映を、雲を、葡萄酒を、通り過ぎる女たちの微笑を、心から楽しまなくて、どうして生きているといえるのか ──
3月にも紹介した一文ですが、何度読んでも心を打たれます。
https://museum.projectmnh.com/2015/03/28235647.php
辻邦生の言葉を読むたびに、真剣に生きるということはどういうことなのか、ということを教えられます。ただ、それは、真に純粋なものであるので、この世界では簡単には得ることのできないものなのだと思います。
ですが、その真剣に生きる、ということも、時代に沿って変わっていくものでもあるのでしょう。
おそらく、ですが、そこにあるのは、一貫して、人間が人間であることの証明としての芸術、ということだったのだと思います。
地球上の存在の中で芸術を作れるのは人間だけです。物を食べ、歩き、呼吸し、争い、会話し、喧嘩をするのは、人間以外でも可能です。が、芸術作品だけは、人間だけしか作れません。がゆえに、芸術作品こそが、人間を人間たらしめているものなのである。芸術作品とは、芸術作品そのものではなく、おそらくは何かを美として認識するそのプロセスにおいてあるものでもある。
(我々がわからないだけで、動物も芸術作品を作っているかもしれませんが、それがないとして、ですけれど)
これが、私の捉えている辻先生のメッセージなんですが、まあ、出典なども不明瞭ですので、多分に私の曲解が入っているんだとは思います。
であるがゆえに、私たちはどうすればいいのか。真剣に生きるということとは、別に社会を投げ出してどうこうすることでもないはずであり、今ここでできる生きることをすれば良い、ということなのです。
が、具体的にはどうすればいいのかは、探すしかないんでしょうけれど。
最近、本が読めないというのは、先日書いたとおりです。少し、頭を冷やしたうえで、生活を乗り越えていかないと。
などというかたちで、今日はここまで。明日からまた頑張ります。
ではグーテナハトです。
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