言語芸術のプライオリティ
写真は、やはり西行花伝っぽい桜の木。先週の土曜日に撮った写真です。
西行花伝。ずっと読めずにいたのですが、また再開しました。
それにしても、素晴らしい場面に出くわしてしまいました。もちろん、初めて読んだ20年近く前の記憶はかなり曖昧になっています。その後の人生経験のようなものにおいても随分と良い方は変わっていると思います。そういう背景があって、読むのが二度目でありながら、本当に感嘆していまいました。つまり言葉の芸術の極致なのかなあ、と。
それは、女院と義清が出会う瞬間です。この感動は、映像では絶対に表現できません。本当に言語芸術の極致を見た気がします。
語らないことの重要性です。
女院は、それまで鳥羽上皇や白河法皇との関係で登場するのですが、顔についての描写はないわけです。ですので、読み手は義清と一緒に、女院が義清の母であるみゆきの前と似ているという事実に驚くことになるのです。
映像作品であれば、女院と義清の母が似ているということは先んじてわかっているはずです。ですが、言語芸術の場合、語らなければいいわけですね。女院の顔を初めてみた義清の驚きと、我々読者の驚きは、義清に移入していれば、まさに義清と一緒に驚くことになるのですね。
確かに、映像や漫画のような芸術に小説は負けるのではないか、と思うこともしばしばなのですが、何か映像芸術ではない言語芸術のプライオリティを実感した、と思いました。
まだまだ希望はあるのかも、などと。
でも、さすがに最近は色々あるなあ。早く落ち着きたいものです。
ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません