日の出、あるいは日の入り
今日の夕方、窓の外を見ると、西の空はモーヴ色、あるいはバラ色に染まっていて、なんだか心を奪われてしまいました。僅かに霞がかかる向こう側に、淡い影のレインボーブリッジが見えていて、太陽が西の空を赤く灼いていました。東京の日の入りははすでに四時半に近づいていて、めぐる季節の早さには目がくらむ思いです。
その時思ったのは、モネの絵。あの印象派始まりとされる「印象・日の出」のこと。画面上部の赤とピンク、あるいは灰色がかった温かみのある淡い影は、今日の夕方に見た空の色と同じでした。時代も場所も時間も違うのに何か通底する感興があり、しばらく、遠くへと心が動きました。遠くとは、おそらくは、時間的にも空間的にも、あるいは意味的にも論理的にも、なのだと思います。日常で大切にされている意味や、日常で実践的に使われる論理とは離れた、遠くだったのだと思います。日々の生業の中では、失われたり、流れてしまったり、見向きもされないものたちこそ、実は最も原初的で根本的なのではないか、という問題です。
AppleWatchによれば、明日の日の出は6時18分です。ひところ4時半に日が昇っていたことを思うと何か別の場所にいるような気がします。もちろんこの感想は、私と同じ地域に住んでいる人だけのもの。北海道には北海道の思いがあり、九州には九州の思いがあるはずです。私にとっては、太陽は活力を与えてくれるものですが、それは私にとってだけではなく、あらゆる地球の上に住むものたちにとって、活力を与えてくれるものであるわけで、日の出と日の入りは、太陽を思う者にとっては、何か特別な意味を持つ者のように思います。
仕事場で、傾き差し込む太陽の光を「まぶしい」と嫌がる方が多いのですが、正直言って私は太陽の光を狂ったように浴びたいたちなので、差し込む光がさすがに迷惑かとブラインドを下ろすときも、1秒でも長く日差し浴びていたいと、ゆっくりと惜しむようにブラインドを下ろすのでした。いつか、日差しを狂ったようにいつまでも浴びながら仕事ができる日々を夢想しています。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
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