Tsuji Kunio

今年も園生忌が参りました。一年が経つの早いものです。
写真 1 - 2016-07-29
先日の講演会のあと、色々と考えました。暗い窖にどんどんずり落ちて行く感覚を感じていた今日この頃でした。そうしたなかで、全てを放擲してしまうのか、それとも、ずり落ちないように、精神の屹立を目指すのか。(私の言葉ですが)精神の屹立を成し遂げるために、辻邦生が美を追求したのでしょう。美こそ、人間らしく生きることを保証する最後の防波堤、最後の砦なのではなかったか、と。死を包み込むような美があるからこそ、加賀乙彦先生は「不思議な小説」とおっしゃったのではないか、と想像しています。
そういえば、高校時代、辻邦生を読み始めた時、「あ、これは死の小説だ」と思ったのでした。当時読んでいたのは、いわゆる「西欧の光の下で」という名前で括られる短編群でした。中公文庫で「辻邦生全短篇」という名前で2冊出ているものです。

辻邦生 全短篇〈1〉 (中公文庫)
辻 邦生
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私は、友人に「辻邦生の小説には、死があるのだ」と語った記憶があります。確かに、「洪水の終わり」「風越峠にて」「空の王座」など、すべて死に彩られています。しかし、そこには陰惨なものはなく、ただ精神を高めながらも、その半ばにおいて、その精神の高さが故に死へとつながってしまう、というような、高みへ向かう死のようなものがあったように思うのです。これは、もちろん、短篇だけではなく、「安土往還記」「夏の砦」「背教者ユリアヌス」という長編軍においても同じだと思います。

なにか、この死をも包み込んでしまうような、何か、加賀乙彦先生が「不思議」とおっしゃったもの、それが辻邦生の一つの本質なのではないか、とも思います。

もちろん、死は単なる偶然の結果であり、死を目指すものではないということはいうまでもありません。何か、燃え尽きるような感覚、まるでイカロスが太陽に触れてその翼を失うような感覚、そういう感じを持っています。

私は、辻文学以外の文学小説をあまり読むことができません。村上春樹はいくらか読みますが、それ以外は実のところ読むのが難しく思います。どうも、この「不思議」な世界に足を踏み入れているから、なのかも、と思います。

しかし、当時の訃報の新聞記事。小説家の訃報としては非常に大きく取り上げられているなあ、と改めて思います。とにかく、18年前の夏の、なんともいえない悲しみ、悔やむような気持ちが思い出されました。

それではみなさま、どうか良い週末を。おやすみなさい。