ハイティンクの「リング」を聴きながら、10年前の新国立劇場「リング」の記憶を振り返る……。

今日は満月だったようです。サクッと撮ってみました。年の終わりの満月という感じです。満月は不思議な感じです。

仕事の疲労感も残りつつ、年末の掃除をしながら、ハイティンクのリングを聞き始めました。やっと3つめのワルキューレまで。並べてみました(笑)。

あらすじなどは10年ほどまえにやはり新国立劇場で聞いたときにずいぶん勉強しました。その頃の記憶をもとに、音楽を楽しむと言うスタイル。ワーグナーもブラームスもやはりロマン派の音楽家であり、フランス革命後の反動の中で生きた芸術家で、なにかしらの理想に向けて音楽を書き続けてきたことに疑いはないわけですが、その理想への向かい方は違うんだろうな、ということを、ふと思ったりしました。

10年前に市の区立劇場の「神々の黄昏」を聞いた後に、特に参考文献をあたるまでもなく、つらつらと思ったこと考えたことをブログに書いていたのですが、まあ考えていることは、100年前にはすでに他の方が考えているわけで、そうした汎的な思考に寄り添えたということは素晴らしかったな、と思いました。

リングの解釈はいろいろあるのでしょうけれど、私の中では、以下11年ほど前に書いた記事が一つの結論だったと思います。「ゴスフォードパーク」という映画の記憶が、リングの構造にとてもよく似ているなあ、ということを書いた者でした。

 

黄昏れる神々の集う映画

あるいは、カズオ・イシグロの「日の名残り」かとの関係なんかも考えていました。こうなると、リングは、近代史を敷衍するなかで、その行く末を描いた芸術作品ということになるわけで、おそらくは、フランス革命から第一次世界大戦、あるいは第二次世界大戦が終わるまでの人類史(欧州史?)を雄弁にかたる叙事詩なんだろうな、と思います。まあ、もっというと、ワーグナーは19世紀半ばにして、100年後を予見していたということになります。

そうそう、以下の記事を読んで、バックステージツアーに当選して、20時半ごろから22時まで、嬉々としてステージ裏を見せていただいた幸せな思い出を思い出しました。そうか、13時にはいつも新国についていたから、都合9時間もお邪魔してたんすね。。

ギービヒ家の謎──新国立劇場「神々の黄昏(神々のたそがれ)」 その5

その後、オペラ的には、「リング」から「パルジファル」やシュトラウス作品に向かってしまった感もあり、それ以上の展開をしていなかったなあ、とも思います。なにかできることはないかな。まあ、その前に辻先生のパルテノン体験をまとめないと。

 

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。