つれづれ

松の内も過ぎ、2022年も本格始動。昨週には、新年早々乗り切った仕事のプレゼンも終わり、淡々たした週末を過ごした後に、今日は故あって休日出勤。ただ、お昼も出て、いつもよりはやくかえれるのでありがたいことです。

人生も折り返すと、なかなか新たな体験経験に恵まれる可能性もも少なくなります。さまざまな情報に曝露されていると何事にもそうそう驚くこともなくなります。良いことなのか悪いことなのか。

テクノロジの進歩も、なにか予想通りの感覚もありますし、音楽も、嗜好に合う音楽はほぼ聞き尽くした錯覚に陥ることがあります。

とはいえ、新たなテクノロジの可能性に触れることなくしては仕事を続けることは出来ず、また音楽も常に聞き続けないと生きていけません。テクノロジと音楽には助けられてここまで来ているわけで感謝しかありません。

あるいは活字も。かつてのように、車中で文庫本を読むことは少なくなりましたが、Kindle本を肌身から離すことはありません。

活力に溢れ、さしあたりは動いてはいますが、なにか空疎な感覚にも苛まれます。

疲れているわけでもなく、逆に、動くのを止めるのが苦悩につながることもわかっていますので、粛々淡々と動き続けるわけですが、それはそれで、やはり砂を噛むような感覚は否めません。

まさに、ここで必要なのが、辻邦生のいう「生きる喜び」でなければなりません。雲が行き交い、花々がベランダに咲き乱れ、夕陽がビルを照らし反射して、まるでいくつもの太陽に囲まれているような時に感じる浄福感。目を挙げて植木を見やると冬なのに淡い緑の新芽が出ているときの喜ばしさ。こういう世界の美しさに目を向けることが、迫り来る黒黒とした虚無と戦う、ということなのだと思います。

何か、落ち着いた静かな光に満ちた世界のなかで、晴耕雨読のような生活を送る、という幻想。それは、プッチーニのオペラ「トゥーランドット」の第二幕冒頭で、中国の大臣たちが憧憬する生活を思い出します。そんな静かな世界で本に囲まれ、知らない世界に迫りたい、という儚い思い。

私はホーナンに家を持っている

青い湖があって

そこは竹に囲まれている

トゥーランドット 第二幕

言葉の力は強力です。静謐なトゥーランドットの大臣の家のように、あるいは、辻邦生が描く、南仏の風景のような光に満ちた世界がきっとわたしにも訪れることでしょう。