つれづれ

本当につれづれな日々が続いています。皆様お元気でいらっしゃいますでしょうか。

一昨日でしたか、夜、仕事場を出ると思いのほか涼しい風が吹いていて、いよいよ秋が来るのか、と、何か寂しさを感じている今日この頃であります。

個人的には、暑い夏が好きで、7月、8月と太陽と暑さを満喫していましたが、名残惜しいですね。

今週は、レヴァインが振るリングを聞いていました。

久々に、ワーグナーの不協和音群を聴いて何か心休まる気分です。懐かしさしかありません。音楽も文学も、人間の内奥へアクセスするための小道Pathではないか、と思います。芸術は、人の頭がこしらえて考えるものではなく、何かそうした源泉へと通じるものでないといけないのでしょう。

最近の新しい小説を読もうにも手に取ることができない理由は、何か拵えもののように感じてしまうからだと思います。少し前に読んだ本は、論理的なトリックや読者の勘違いを利用した推理小説のような本で、確かにその場はゲーム的な謎解きの感覚で面白いのですが、それだけなの?という感覚があったように思います。

辻邦生もやはり、そんな疑問を若い頃持っておられたはずで、それを世界全体を掴む直観のような、主観性の追求による全体客観性の獲得という文脈で突破したのだと思っています。

ワーグナーの不協和音も、何か、それまでの協和音的な規則や論理を、直観的に突破して、ひとつ内奥へと進んだ感覚があります。何か奥底にある本質の襞に波のように寄り添うような和音の連なりだな、と思います。

どうも、日々の仕事すらも何か頭で拵えた表層的なもののように思い、人それぞれの拵えた妥当性のない表層的なものがいくつも重なり、意味を失っていくような、そんな危うさを感じます。そうした一つ一つは意味のない拵え物の中から、本質的なものへと進みうる直感(最近の流行り言葉で言うと仮説)を得て深めていく(論理を整える)ということの大切さを感じます。

なんてことを思いながら、この週末を過ごしております。

というか、まあ、もう少しこうして文章に落とすことを、昔のように頻度を高めてやっていかんとなあ、と思います。ブログという20年前のレガシーなスキームですが、ピンとくる代替もありませんので、今しばらく続けて行くかなあ、と思っています。

それではみなさま、ありがとうございました。