European Literature

 一日で読んでしまいました「ジャッカルの日」。ページを繰る手が止まらず、所用で電車に乗っている時間中どっぷりと暗殺者と警察の攻防の世界に身を浸しておりました。

冒頭部ではOASの幹部が、ド・ゴール暗殺を策謀し、暗殺者に依頼するあたりから始まるのですが、暗殺ジャッカルが着々と準備を進めるあたりは、なんとなく惰性のようなものを感じていましたが、中盤以降、フランス司法警察のルベル警視が登場して、両者の対決の様相を帯びた途端に電流が走り初めて、一気にストーリーが躍動し始めました。激しい駆け引き、奸智にたけたジャッカルは、あの手この手で警察を翻弄しますが、ルベル警視の粘り強さと、国家の組織力がじわりとジャッカルを追い詰めます。

史実では、ド・ゴールは、無事に暗殺をやり通し、大統領の職を勤め上げるわけですが、ジャッカルの計画はどのような顛末を迎えるのか。そしてジャッカルとはいったい何者であったのか。

しかし、これも高校時代に読んでおくべき本だったかもしれないです。映画も有名です。昔会社の同期が飲み会に現れて「ジャッカルと呼んでくれ」というセリフを吐いて、大受けしたのですが、引用元はこの映画だったそうです。昔、映画をビデオに撮った記憶があるのですが、見つかりません。映画もきっと面白いと思います。

それにしても、アルジェリア戦争直後のフランスは予想以上に脆弱だったのですね。ド・ゴールの強力なリーダシップがあったからこそ第五共和制が成立したわけですが、逆に言えば、ド・ゴールがいなくなれば、カードの館のようにはかなく崩れ去る危険性もあったわけです。だからこそ、秘密軍事組織であるOASが跋扈したわけですし、国家権力側もOASと激しく追い詰めた訳です。

先日読んだ、スタンリー・エリンの「カードの館」でも、やはりOASがモティーフになっていました。アルジェリア戦争のことは、辻邦生氏の「洪水の終わり」でも少し触れられていました。フランス人の学生が徴兵でアルジェリアに向かわなければならない、といった文脈だったと思います。60年代のフランスは興味深い時代です。第二次大戦後のヨーロッパ史は、冷戦という東西対決の構図とともに、フランスにおけるOASの問題や、イギリスにおけるIRAの問題、あるいはフランコ政権下のスペインにおける対立など、他にも実に興味深いテーマが山ほどあります。まだまだ学ばねばならないことはたくさんです。そう簡単にくたばるわけにはいきません。

American Literature

相変わらず仕事が忙しいです。人に意志を伝えるのは難しいですねえ。憤怒の表情さえ見せずに、ぐさりと言葉の剣を刺してしまう私もやっぱり大人気ないですかね。「ゴッドファーザ」の登場人物たちは巧くやっていたのですが、私には難しいでしょうか。もっと練習しないと。だまっていても、そうだと相手に思わせ、自らうなずかせる、というドン・コルレオーネの技を持って要ればいいのですが。

それはさておいて、アイザック・アシモフ「はだかの太陽」読了しました。

イライジャ・ベイリと、ダニール・オリヴァーの名コンビは健在で、惑星ソラリスで起こるはずのない殺人事件を解決しに赴きます。惑星ソラリスは高度にロボット化された社会で、一人当たり一万台のロボットがいる社会です。人間は他人と通信回線で交流し、互いに「眺める」だけで、実際に「会う」ということをしません。そんな社会で殺人事件など起こるわけがないのです。殺されたのは惑星のエリート。殺害時にそばにいた妻が容疑者の第一人者として上がってきますが、それを疑うベイリ。そのうちに、ソラリスの安全保障担当官の毒殺未遂事件や、ベイリに放たれた矢に毒が塗ってあるなど、事件が続くわけです。ロボット三原則の限界をついたロボット操作が、人間を死に追いやることを確信したベイリは、容疑者達を一同に集め(実際にはテレビ会議)、種を明かし、容疑者を名指します。その後地球に帰還したベイリは不思議な報告を上官にするのでした。

ソラリスのような少数の人間とロボットだけで構成される社会を、スパルタの社会体制に比べる見方が出てきました。少数の市民の元に多数の奴隷がいたスパルタの体制ですが、奴隷をロボットに置き換えれば、スパルタと同じである、と。でもそれはスパルタだけではないです。現代日本においても、どんどん階層化が進行するでしょうから、一握りの人々が支配する体制になってもおかしくないです。それから、ロボットを奴隷に喩えているあたりが面白くて、これは手塚治虫のロボット観とよく似ています。アトムは、人種差別が裏テーマですし。

意外と前作「鋼鉄都市」の時に感じた刺激がないような。これはおそらく、「鋼鉄都市」を読んだあとに純粋なミステリ、すなわち「ゴッドファーザー」を読んだからでしょう。「ゴッドファーザー」の刺激はあまりに強すぎました。

Jazz

先週の土曜日は、近くの商店街の夏祭り。毎年開催されるのですが、楽しみにしているのがジャズバンドの演奏です。毎年、同じバンドが出演されるのですが、編成やヴォーカルの方は毎年違います。今年はヴォーカルがデュオで登場されました。しかしなんだか違和感が。お二人とも女性なのですが、片方の方が着物を着ていらっしゃる……。なんででしょうかね。

それで、ジャズバンド演奏の前に、別のヴォーカルユニットとジャムセッションとなりました。Dブルース進行でしたので、ピアノ、ギター、ベース、ドラムと順当にソロを回して、次に女性二人のヴォーカルが1コーラスずつアドリヴを。最初の女性は、かなり速い節回しでインプロヴァイズされて、すげー、と感心したのですが、次の女性、当の着物を着ていらっしゃった方は……、さらにすげー! 演歌的ロングトーンと「ハイー」という演歌的掛け声でブルースのソロ取ったのですよ……。ビブラートが玄人的な演歌でめちゃくちゃ巧いのです。演歌もブルースも親類とはいえ、母方と父方ぐらい違うわけですが、その溝をきちんと越えている。

さて、ジャズバンドの演奏順になりまして、けだるい4ビートから始まりまして、ベースがパターンを刻んで、ギターがテンション含みのコードを面倒くさそうに繰り出す感じから、ガーシュインのサマータイムが始まって、ヴォーカルが歌いだす。まあ、最初はサマータイムですわな。それから着物の方がマイクを持って、歌いだす。ありゃ、美空ひばりの「リンゴ追分」が始まりましたですよ。しかもめちゃくちゃ巧い。コード進行はサマータイムと似ておりますので違和感なしでした。

次に、山口百恵の「いい日旅立ち」を着物の方が歌いだしました。これも半端なく巧いです。そのうち、それが「リカード・ボサノヴァ」に変わっちまう。コード進行もフレーズも似ておりますので。私は、こういうパロディ精神大好きです。

リカードボサ

いい日旅立ち

中盤に、インストで、「ノルウェイの森」が演奏されたのですが、ハービー・ハンコックの「News Standard」で、デイブ・ホラントとジョン・スコフィールドを間違いなく意識したものでしたので、演奏終わったら「ジョンスコーッ」と叫ぼうと思ったのですが空気を読んでやめました。

本物のノルウェイの森はこちら。

ジャズ系の音楽について言えば、私はいつもiPodで音楽聴いているだけですので、たまに生演奏に触れるととても楽しいです。もう何年もバンドやってませんが(っていうか、今年の正月にT-Squareを吹きましたが)、バンドもいいものです。限界に達しなければ。

Opera,Richard Wagner

 昨週は今年のバイロイトの冒頭を飾った、ペーター・シュナイダー指揮の「トリスタンとイゾルデ」ばかり聴いていました。聴けば聴くほどすごいです。

テンポの緩急の付け方が絶妙でこれ以上ないのではないかというフィット感。特に第二幕の最終部の打点の打ち方は神業的です。速度を落として表情をつけるのが多いです。インテンポよりも絶妙にためてみせたり、フレーズ全体の速度をゆるめたり。それも目立たずさりげなくやってのける。これは、私の中で今時点で人生最高のオペラ体験であったと思う2007年新国立劇場「ばらの騎士」や、2009年1月の東京フィル定演での「ばらの騎士」組曲でシュナイダーさんが見せてくれたものと同じです。もちろん音量のコントロールも絶品。今年の1月のシュナイダーさんもすごかったですが、バイロイトでのシュナイダーさんはさらにすごいです。

それから、イオルデを歌うイレーネ・テオリンさん。先週も書きましたが、最初は気になっていたビブラートを受容できるようになり、さらに、そのすばらしさを確信し、信仰にまでたどり着いてしまった感があります。ビブラートによって増幅された力強さが奔流に溺れてしまいます。この方のブリュンヒルデを新国で来年聴くことができるわけですが、本当に楽しみです。

舞台の写真は以下のリンクで見られます。

http://www.wagneropera.net/Interviews/Irene-Theorin-Bayreuth-Interview08.htm

ちなみに、シュナイダーさんの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死は、以下のCDで聴くことができます。

8月9日深夜ですが、トリスタンとイゾルデがウェブにて配信されます。14.90ユーロなり。うーん、これは聴くしかないかも。

先日も触れたように、バイエルン放送協会のウェブラジオで聴いているのですが、国際配信しているだけに、ドイツ語、英語、フランス語でアナウンスが入ります。こういう臨場感はウェブラジオならではです。幕間にはドイツ語で筋書きの説明やら演奏者についてアナウンスがあるわけですが、ヒアリングできません。。とはいえ、ドイツ語は音的に美しいですね。また勉強したくなりました。まあ、その前に英語なんですけどね。。

ウェブラジオ的には、プロムスやザルツブルクの放送もありますが、そこまで手が回らないです。

American Literature

 これも高校時代に読んでいなければならない本でした。二日で読み終わりました。もうあらすじは有名だと思いますので、多くは触れません。非情だと思っていたマフィアの世界にも情の入り込む余地があるとは。けれども、やはりやるときはやるのですねえ。

おはずかしながら、映画すら見たことがないという体たらく。まったく私は今まで何をしていたのでしょう。まあ、映画を見る前に本を読んでおいてよかったと思いました。先入観を持つことなく読めましたので。さらにいえば、本の方が細かい心情の機微を感じ取ることができますので。

この本をもっと早くに読んでいれば、もう少しましな人間になれたかもしれません。弱みを見せてはならず、思慮深い言動を心がけていたはずですが。とはいえ、過ぎ去ったことは戻りませんので、先だけを見据えて歩いていくことにいたしましょう。

昨日、しおりを忘れまして、読むのを中断したときに、ページ番号を覚えることにしました。そのとき、思い出したのが小さい頃のこと。やっぱり本を読んでいたのですが、眠たくなってページを閉じようとしたとき、ページ番号を忘れませんように、と神様にお願いをしていたのですね。お願いの効果か、翌日もページ番号を覚えていました。幸福な読書にまつわる記憶ですが、そういう意味では、今の私も幸福な読書生活を送っているといえましょうか。

 

Classical,Richard Strauss

 ラトルが振るばらの騎士を聴いてみたくなって、そういえば、ベルリンフィルのジルヴェスターコンサートでばらの騎士の最後の三重唱をやっていたなあ、と、昔録画したDVDを引っ張り出してきました。

  • 指揮==サイモン・ラトル
  • マルシャリン==カミラ・ニールント
  • オクタヴィアン==マグダレーナ・コジュナ
  • ゾフィー==ラウラ・アイキン
  • ファニナル=デール・デユジング
  • 管弦楽==ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 記録==2006年12月31日・ベルリンフィルハーモニー大ホール

歳とったので、涙腺が緩んでいまして、また感動してしまいます。カミラ・ニールントさんは、2007年5月の新国「ばらの騎士」でもマルシャリンでして、そのときの思い出がよみがえりました。とにかく狂いのないピッチと高音域の美しさは筆舌に尽くしがたいものがあります。オクタヴィアンのマグダレーナ・コジュナさんのオクタヴィアンもすごくて、声質の張りが素晴らしい。サクソフォーンでフラジオ音域が決まった時の心地よさを思い出しました。

ラトルの指揮は、いつものようにダイナミクス・レンジの付け方がかっこうよいです。ああ、ここでここまで音量を落とすんだ、という驚き。クライバーのようなうねるようなダイナミズムではなく、音の強弱の振幅が織りなすダイナミズムと感じました。

それにしても、終幕部の三重唱のすばらしさと言ったら、もう何も言えないです。

American Literature

スタンリー・エリン「カードの館」読了。ヤバイ、面白すぎです。冒険活劇のプロットとしてはありがちなのですが、舞台がパリ、ヴェネツィア、ローマと来ますので、私のツボにぴったりはまりました。

アメリカ人の元ボクサーのレノは、ふとした出来事から、フランスの名門ド・ヴィルモン家に家庭教師として雇われることになった。未亡人アンヌ・ド・ヴィルモンの息子ポールは、わがままでヒステリックな子供だったが、レノの甲斐あって徐々に元気を取り戻すのだが、アンヌはアメリカ人で、アンリ・ド・ヴィルモン大佐の夫人となったが、大佐はアルジェリアでテロの犠牲となったのだ。アンヌは強烈な不安感に苛まれ精神を病んでいた。アンヌはレノに、自分とポールをアメリカに連れて行ってほしいとせがみ、愛情をもつそぶりさえ見せる。アンヌは何かを恐れていた。それは、アンヌの愛人と思しき謎の人物モリヨン博士によるものかと思われた。そしてレノの前任の家庭教師の不可解な死。徐々に紐解かれる謎はレノを窮地に追込み、あらぬ事件の加害者に仕立て上げられてしまう。警察に追われながらド・ヴィルモン家の秘密を暴き、身の潔白を証明するためにベニスへ、ローマへ。

いやあ、「鋼鉄都市」もかなり面白かったですが、この「カードの館」はさらに面白い。映画を見ている気分。実際映画化もされているようで、邦題「非情の切札」という映画なのだそうです。

パリ、ベニス、ローマは、ほんの数日でしたが旅行したことのある町でして、サン=ルイ島の高級住宅街とか、石の岸壁に固められたセーヌ川の様子なんかを思い出すと本当に懐かしいです。ベニスのサンタルチア駅正面から運河に降りるところとか、ローマ広場の立体駐車場の様子、ローマのトレヴィの泉とか、懐かしいです。次にいけるのはいつのことやら。

Tsuji Kunio

今日は辻邦生さんの命日です。没後10年ということになりましょうか。手帳には、10年前の訃報を伝える新聞の切抜きが入っております。あれから10年がたったのか、というほとんど信じられない思いが湧き上がりました。
10年で世の中はすっかり変わりました。ITバブルがあり、9.11があり、アフガニスタンがあり、イラクがあり、リーマンショックがあり……。景気の波も2サイクル回りましたし、私も変わったのだと思います。良い方向に変わっていれば良いのですが。
10年前の秋の「お別れの会」のことも懐かしいです。雨降る高輪プリンスホテルに駆け込んで、会に参列して、辻さんの執筆姿を捉えた白黒写真をいただきましたが、その写真も時間に抗えず変色しています。
歳をとればとるほど時間の流れは累乗的に速くなりますので、次の10年はもっと速そうです。

American Literature

 またまたこれも高校生の時分に読んでいなければならない本。まったくこの年になってお恥ずかしい限りですが、まあ、ブログは私の備忘録とか考えをまとめる場になってしまっているので、こちらにエントリーいたします。

アシモフは、高校時代には読んでおりましたね。ファウンデーション三部作でしたでしょうか。その後80年代に三部作以降のファウンデーションシリーズが書き始められましたが、そこまでは追いかけきれませんでした。アシモフには、長編シリーズとして、この「鋼鉄都市」で始まるロボットシリーズと、「ファウンデーション」で始まるファウンデーションシリーズがありますが、この二つは融合するんですね。ウィキペディアを読むと、ロボットシリーズもきわめて壮大な物語世界を構築しているようで、先を読むのが楽しみになります。

さてこの「鋼鉄都市」ですが、世界観としては、かつて地球から宇宙へ植民していった人々の子孫が宇宙人とし繁栄している一方、地球人達は外殻に囲まれた巨大都市のなかで高い人口密度に耐えながらも何とか生活しているという状況。地球人はロボットを嫌悪している。それはとりもなおさず、人間の就労機会を奪うものであるから。一方宇宙人は、圧倒的な軍事力と科学力で地球人を圧倒している。宇宙人達はロボットを多用している。宇宙人は地球人を啓蒙するために地球と接触しているのだが、地球人はそれを不当な介入と考えている。さて、そんな折に、地球で宇宙人のサートン博士が何者かに殺される。外交問題にも発展しかねない状況にあって、警視総監はロボット嫌いのイライジャ・ベイリに捜査を命じる。ただし、それは宇宙人から派遣されるヒューマノイドロボットのダニールとともに、という条件の下で。

 ロボット三原則をからめたミステリー仕立てで、あっという間に読み終わってしまいました。

美とはなにか、あるいは、美とは、芸術とは、愛とは、神とは? われわれは永遠に未知なるもののふちで足踏みしながら、理解できないものを理解しようとしているのだ。そこが、われわれの人間たる所以なのだ。

人間とロボットの差異を述べ立てるイライジャ・ベイリの言葉。ちと元気になる言葉です。ロボットのダニールの描写が素晴らしいです。ちゃんとロボットしてます。イライジャの葛藤も細かく描かれていますし、(予想しましたが)最後になって明かされる犯人が、どうして犯人たり得たかという理由も実にかっこうよく描かれていました。

ウィキペディアを読んで、続編を読みたい衝動。その前に「カードの館」という本を読んでいますが。

今日も一日シュナイダーさんの「トリスタンとイゾルデ」ばかり。これはもうやみつきです。

Opera,Richard Wagner

 本当なら英語を聞くべき朝の通勤時間ですが、7月25日バイロイトの「トリスタンとイゾルデ」を聴いてしまいました。ついでに昼休みと帰宅時も。第一幕から聴き始めて、第二幕の途中まで。

シュナイダーさんの指揮、素晴らしいです。とにかくテンポの動かし方が絶妙で、こうやったら聴衆が感動して涙を出す、というやり方を心得ていらっしゃる感じです。昨日のブログには「タメ」とか「疾走感」という言葉も使いました。どれも音価に対する並々ならぬ感覚を示していることの現れだと思います。隅々にまで神経を行き渡らせ、手を抜くことなく、演奏している。これは、今年の一月にシュナイダーさんの指揮を聴いたときにも感じたことでした。

 第一幕の最終部では、電車の中でしたが鳥肌の立つような感動を覚えました。シュナイダーさんの魅力にまたもや捕らわれてしまいました。

イゾルデのイレーネ・テオリンさんについては昨日も少し書きました。昨年の新国でトゥーランドットを歌われましたが、あの時の力強さのイメージのままイゾルデを演じられて、私の中のイゾルデ像が少し変わりました。昨日「ビブラートが強い気も」と書いたのですが、聴いていくうちに受容できるようになってきました。あの力強さを支えているものの一つがビブラートの振幅である、と、確信のようなものが生まれました。凄絶なイゾルデだと思います。イレーネ・テオリンさんは、来年の新国リングでブリュンヒルデを歌われます。少し予習している気分です。

さて、今晩のバイロイトは「ラインの黄金」です。ティーレマン登場。ティーレマンもまた玄人的な渋い演奏を聴かせてくれると思います。