Japanese Literature,Tsuji Kunio

二週間ほど前から読み始めていた未完の大作「フーシェ革命暦」の第一部を読了しました。久々の辻邦生長編の世界に身を浸しきって、実に幸福な経験でした。

感想はともかく、少し輪郭について考えてみたいと思います。

ジョゼフ・フーシェという人は、フランス革命時の政治家です。当初はオラトリオ修道会学校で教師をしているのですが、フランス革命勃発とともに政治界に入り、国民公会の議員となる。ルイ16世裁判で死刑に賛成しました。その後テルミドールの反乱に参加。ブリューメル18日のクーデターではナポレオンを助け、執政政府の警視総監に就任。その後オトラント公となりますが、タレーランとの策謀が皇帝の不興を買います。ナポレオン退位後、ルイ18世治下で警察大臣となりますが、1816年に国王殺害のかどで追放されます。実に波乱に富んだ人生です。

「フーシェ革命暦」は第一部、第二部がフランス革命200周年の1989年に単行本として出版されます。元々は「文學界」に1978年1月号から1989年4月まで11年間にわたって連載されたものです。第三部については別冊文藝春秋1991年秋号から1993年夏号まで7回連載されましたが、そこで残念ながら筆が止まり、未完に終わるわけです。

どうして未完なのでしょうか?

 月報の奥様の回想によると、同時に執筆されていた「西行花伝」の執筆が1993年夏に終了したところで、疲労のせいか、急性リュウマチにかかられたのだそうです。その時点で、「全く別の境地に達して」しまい、「二冊で完結したのだ」とおっしゃるようになったのだそうです。

とはいえ、この「別の境地」という点についてはもう少し考えてみても良いと思います。 とある方は、「われわれの時代自体が変わってしまったので、書き告げなくなったのだ」、とおっしゃっていました。私が第一部を読み終わって思ったのは、1991年のソヴィエト社会主義の崩壊がひとつの原因ではなかったかと考えています。

というのも、フランス革命の急進的な落とし子こそが、社会主義革命であったわけです。私は、辻邦生師がそうした社会主義思想にある種の共鳴を抱いていたのではないか、ということを、「ある生涯の七つの場所」を読みながら感じていました。そのことが、辻邦生全集第11巻の月報にかいてありまして(「近くの左翼集会に行こうとして」という記述、「マルクスの芸術論」など)、ようやく糸口が見つかったと思ったのです。

ただ、察するに、ソヴィエト社会主義に対しては厳しい見方をしていたのではないか、と想像するのです。それは辻邦生文学に底流するテーマだと考えている「性急な改革への警鐘」が物語っています。

この「性急な改革への警鐘」は、「ある生涯の七つの場所」においてはスペイン人民戦線の内紛劇をとって現れますし、「廻廊にて」では、マーシャの第一の転換=大地への恭順というテーマが、結局放棄されてしまう、といったところに示唆されています。あるいは、「光の大地」における新興宗教への指弾や、「背教者ユリアヌス」における、ユリアヌスの東方遠征の失敗などもそれに当たるかもしれません。また「春の戴冠」におけるサヴォナローラの改革が失敗に終わるというエピソードもそれに当たることは明白です(あそこは、文化大革命がモデルになっているように思えてなりません)。

ト社会主義の存立自体が、「性急な改革への警鐘」の対象だったわけですが、そのソヴィエト社会主義が崩壊することによって、指弾の対象が消失してしまいました。つまり、「フーシェ革命暦」に内在する「ソヴィエト社会主義」への警鐘がアクチュアルな意味を失ってしまったのではないか、ということなのです。

少々我田引水な部分もありますが、第一部を読み終わったところの感想は上記の通りです。

Roma2008

ローマ三日目は5時台に起床。朝食を楽しんでから、テルミニ駅のバスターミナルへ向かう。 ちなみに、CISという7日間有効の市内パスを購入。16ユーロ也。

  • 1日有効券(BIG)が4ユーロ。
  • 3日有効券(BTI)が11ユーロ。
  • 75分券が確か1ユーロ(だったはず)。

滞在は7月18日から5日間だったので、

  • BIG×5=20ユーロ
  • BTI+BIT×2=11+8=19ユーロ
  • CIS=16ユーロ

ということで、ちょっと無駄な2日間が出てしまうのですが、CISを買った次第。ローマのバスや地下鉄を乗り倒したのでまあ元は取れたかな、と思います。

ボルゲーゼへはかねて調べてあったとおり、910番のバスで向かうのですが、先日も書いたように、ジャコモ・プッチーニ通りの工事のために、路線図とはまったく違うルートへと進んでいきました。曲がるはずのない交差点で右折されたときには、どうなるかと思いました。必死に地図を見て、ボルゲーゼに一番近いと思われる停留所で下車。本当にドキドキしました。

ボルゲーゼ美術館のチケットは日本で予約して行きましたが、並ぶのがいやだったので、開館の一時間前には美術館前に到着。どうやら早すぎたようで一回の入り口も半地下の入り口もしまったまま。あれ、あそこにい黒いジャンパーを着た若い男性は、910番のバスで一緒だった人ではないか、と気づきます。彼は僕らよりもずっと前に別の停留所で降りていきましたので、ルート変更をすでに知っていたと言うこと。おそらくは観光客ではなく、地元の人ではないか、と思いました。男性はしばらくすると、建物左の通用口から入っていきます。どうやら美術館のスタッフのようですね。

半地下の入り口が開いて、チケット売り場にて、予約していることを告げると、すぐに発券してくれました。クロークに向かうと、さっきの黒いジャンパーの男性が荷物を預かってくれます。クロークの方だったのですね。 半地下のチケット売り場の奥にある階段に人が並び始めました。どうやらここから展示フロアへあがるようです。

まずは二階の展示フロアへ。ここで異変が。足が痛い。棒のように疲れきっています。マジですか。昨日のサンピエトロ大聖堂のクーポラがきいたのか、あるいは朝早くつきすぎたからか……。ここからは辛い鑑賞時間が始まりました。せっかくの名画を従前に楽しむことができなかったのは本当に悔いが残ります。

 

Symphony

ぐんぐん寒くなる毎日。自宅を朝6時過ぎに出ているのですが、この時期はまだ日が昇りきっておらず、暗い藍色の光が空から落ちてきているだけです。夜明け前の寒さはまだ耐えることができますが、きっと1月や2月になるともっと冷え込むでしょう。うがった見方ですが、少し楽しみです。ただ、少し雪が降っただけで止まってしまう最寄の鉄道はどうにかしてほしいですが。

懐かしい曲をiPodに入れました。カール・ニールセンの交響曲第四番「不滅」です。 この曲は、中学生の頃にNHK-FMでエアチェックしたものを良く聞いていました。この20年間は一度か二度聴いたぐらいでしたので、昨日から今日にかけて3、4回ほど聴いてみると、中学生の頃のことが思い起こされてなりません。本当なら吹奏楽部に入りたかったのになぜか入らなかったこと、などなど。

ブロムシュテットがサンフランシスコ交響楽団を振った全集版。かなりビビッドな演奏で、リズムが揺らぎなくきっちりとそろったメカニカルな演奏で、聴けば聴くほど爽快感が高まります。管楽器セクションも弦楽器セクションも巧いです。弦楽部の音がいつも聴いている欧州系のオーケストラと明らかに違います。これは気に入りました。

第三楽章の弦楽器の切迫感がすばらしい。後ろで鳴り響くティンパニーの打擲が意味ありげで、これは次の楽章のティンパニーソロを導く糸口でしょう。第三楽章の中後半部には壮大なフーガ的変奏。弦楽器群がユニゾンで激しく歌います。金管楽器も絡んでくると、荘厳な世界へと導かれる。これは本当にすごい。 第三楽章最終部、チェロとコントラバスが激しくユニゾンして、第四楽章に突入するあたりは、この曲の聴き所のひとつですね。第四楽章は、ティンパニーの壮絶なソロ部分があります。ここも聴き所。

しかし、弦楽器巧いなあ。弦楽器の音が個性的で、もしかしたらこの音を気に入らない方もいらっしゃるかもしれません。そう思えるぐらいユニークです。 アメリカのオケのすばらしさは、諸先輩のブログなどでも知ってはいましたので、今後はより一層聴いていきたいものです。

それにしても、若い頃に聴いた音楽はほとんど忘れないですね。最近になって聴き始めた曲は覚えにくくて仕方がないです。というか、覚えようとしているのがワーグナー、プロコフィエフ、ベルク、シベリウスだったりするので、それはそれでハードル高いとは思いますが。 やはり、若いうちにいろいろな音楽をたくさん聴いておくのが良いですね。こればかりは今悔やんでもどうしようもありませんので、ともかく、聴き倒すしかないと思います。がんばります。

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

 いって参りました、新国立劇場の「ドン・ジョヴァンニ」。忘れないうちに印象をエントリーします。久しぶりに箇条書きにて。

  • ドン・ジョヴァンニ役のルチオ・ガッロ氏は精悍な印象。「シャンパンの歌」も颯爽と歌いのける技巧。演技もクールで格好良くて、すばらしかったです。
  • レポレロ役のアンドレア・コンチェッテイ氏は、レポレロの喜劇的な役柄を難なくこなしていらっしゃる。歌も良いですが、演技的にもすばらしくて、客席の笑いを誘っていました。
  • 一番楽しみだったドンナ・エルヴィーラのアリアを聴かせてくださったのが、アガ・ミコライさん。アグネス・バルツァさんのような透徹とした感じというわけではありませんでしたが、中音域の倍音に下支えされた高音は美しかったです。
  • ツェルリーナの高橋薫子さんが大健闘だったと思うのは私だけでしょうか。ツェルリーナの田舎娘的純朴さをうまく出しておられて、ピッチも安定していましたし、声も美しかった。私的には大変すばらしいと思いました。
  • コンスタンティン・トリンクス氏の指揮ですが、先日のオペラ・トークで話されていたように、定跡を大きく逸脱しない演奏でしたが、かなりテンポを落として歌わせるようなところもあっておもしろかったです。

というわけで、とても楽しめた三時間半でした。

それにしても、ドン・ジョヴァンニはかなりキワドイ話です。その中でも一番キワドイのが意外にもツェルリーナでして、ドン・ジョヴァンニに籠絡される場面はいいとして、マゼットに「私をぶって」と頼んだり(かなりMなんじゃないか、と……)、「薬局では調合できない薬を持っているのよ」なんて意味ありげなことを言ってみたり……。マゼットは完全にツェルリーナに振り回されている。一番恐ろしい女は、ドンナ・アンナでも、ドンナ・エルヴィーラでもなく、ツェルリーナです。間違いない。

それにしても、ドンナ・アンナも身勝手な感じ。オッターヴィオとの結婚を一年延ばすだなんて、意味不明。父親が亡くなって、ドン・ジョヴァンニに振り回されて、それを理由に結婚は一年待ってほしいとは。オッターヴィオは、自分がドンナ・アンナの父親役になるんだ! と意思表示しているのに。

いろいろ考えるとおもしろいです。

 

Roma2008

最近のユーロ相場ですが、1ユーロ120円前後でしょうか。ところが、われわれがローマに出かけた7月中旬が、もっともユーロが高い時期でして、なんと170円ぐらいしたのですね。しかも燃油サーチャージも取られました。まったくついていないものです。とはいえ、夏のローマに出かけることができたので、満足ということにしたいと思います。

そういうわけで、ユーロ高のあおりを食っていきおい節約旅行にならざるを得ません。などといいながら、豪放にオペラに行ったりしたのですが……。節約の第一が夕食です。昨年のフィレンツェ・ヴェネツィア旅行もそうでしたが、夕食は現地のスーパーマーケットで買い込んで部屋で食べる、という風にして節約しました。一度夕食を外食すると30ユーロぐらいはかかっちゃう。5000円ぐらい。もっと高いこともあるとおもいます。ちょっと食べて、サイドメニューをとってワインを飲んだりすればあっという間に50ユーロ。7000円です。ところが、スーパーだと工夫すれば10ユーロぐらいですみます。

そういうわけで、ローマの夕食は連日のようにスーパーマーケットで買い込んだピザとサラダを食べていました。それでもかなりおいしいのですよ。さらに、少々贅沢ということで、生ハムを買ってみたり。生ハムも日本で買うには高いですが、こちらだと安いです。おかげで、生ハムサラダを楽しみました。

ワインも飲みたいところでしたが、昨年はワインの飲みすぎで疲れてしまったり、朝起きられなかったりと、少々大変でしたので、今年は我慢しました。

Roma2008

ヴァチカン美術館の至宝の中でも、ココだけでしか絶対に見られないもの。それはラファエロの「アテネの学園」とミケランジェロの手になるシスティナ礼拝堂の天井画と壁画。いよいよクライマックス。

ミケランジェロの「天地創造」と「最後の審判」ここばかりは、写真を撮るのを許してくれない。係員が二人ぐらいいて、"No Photo!! Thank you."と繰り返し叫ぶのだが、写真をとる人は後を絶たない。白髪の小柄な老人が係員にはわからないように写真をとると、してやったりとペロリと舌を出している。まあ、撮ろうと思えば撮れたのだけれど、正義に悖りますし、神聖な場所なので、やめておきました。第一、礼拝堂の中はとても暗い。ISO感度を上げないと写らないはず。もって行ったデジカメはISO400までなので、どだい写すのは無理だったでしょう。

天井画も壁画も、大胆さと細密さが同居しています。偉大な芸術は常にそうです。神は細部に宿りますが、最初の一撃にも宿りますから。両者のバランスが条件となりましょうか。それにしてもこの巨大な壁画を自らの統御の元に作り上げる意志力とか知力、そして天才性には感服です。

さて、システィナ礼拝堂には、サンドロ・ボッティチェルリやギルダンダイオの壁画もあります。やっぱりボッティチェルリの壁画はすばらしい。確か辻邦生師の「春の戴冠」でも、サンドロ・ボッティチェルリがローマに出向いて壁画を描くというエピソードが取り上げられていて、たしか、フィレンツェでないといい仕事ができない、と嘆くというくだりを思い出しました。

体力的にはこの時点で限界を迎えていました。サンピエトロ大聖堂のクーポラ(丸天井)を上ったからでしょうか。虚勢を張らずにエレベータで昇ればよかったかな、などと思いながら、システィナ礼拝堂の壁脇にしつらえられている長いすに座りながら絵を眺め続けていました。

Symphony

昨日書いたローマ紀行。紀行文としては、一日目が終わったか終わらないか、というところ。記憶も薄れているので、早いところ終わらせたいと思っているのですが、なかなか。気合入れて最後まで完成させます。

さて、先だってのシベリウス交響曲第二番に引き続き、交響曲第七番を聴いています。この曲は短いので、もう10回ぐらい聴いてしまいました。聴いても聴いても面白いです。 楽章の切れ目がありませんので、全体を支配する空気をつかもうとしています。第二交響曲のときにも書きましたが、チェロやコントラバスの使い方が面白くて、旋律を下支えしていて安定感を感じます。

第一楽章は、ゆったりとしたテンポで若干憂いをも感じる曲想。ブルックナー的な気宇壮大な感じです。第二楽章は、オーボエの導く動機にヴァイオリンが応えながら始まっていきます。ここでも弦が波もように揺らめいています。後半は速いパッセージで、木管と弦が互いに呼び合います。

第三楽章は切迫感のある弦楽器群のアルペジオから始まります。少し暗澹とした気分のうねり。管楽器がアルペジオに寄り添いながら少し憂えも感じられる演奏。

第四楽章の冒頭がすばらしい。アルペジオで波打つ弦楽器の上を管楽器が飛翔しています。ブルックナー的、マーラー的とでも言いましょうか。壮大です。なんでいままで気づかなかったのでしょう。これがあるのでクラシックはやめられない。しばし休息をとった後のフィナーレも良いですね。三度と六度に音が当たって、一度に収斂していく感じ。

演奏はヘルシンキフィルハーモニー管弦楽団。指揮はパーヴォ・ベルグルンド。録音は1984年。All Saints church, Tooting, Londonにて録音。教会なのでリヴァーヴ感が気持ちいいのかもしれません。録音的にはとても好みです。

指揮のベルグルンドはシベリウスの専門家で、交響曲全集を三度も完成させているのだそうです。凄い!

Roma2008

ローマ市内の足は、地下鉄、バス、路面電車などがあるのだが、街の中心部の足となると、地下鉄、バスに限られてしまう。その地下鉄も、旧市街の外周部を走っているだけので、いきおいバスを使わざるを得ない。

個人的には交通機関の使いこなしは、どの街にいっても自信があるほうだと思っていたのだが、それが過信に過ぎなかったことを思い知らされる。ローマ市内のバスは、相当厄介で、一週間滞在してようやく乗りこなせはじめたか、というところ。

難しいのは以下の点。

1)路線図が難しい

 バスの路線図は難しい(リンク先は重いのでご注意を)。バスの系統は道路の横に小さく示された番号でしか終えない。系統毎に色分けされているわけでもないので、乗りたいバスの系統が何番なのかもわからないし、どのバスに乗れば目的地につけるのか、わかりにくい。

2)停留所の場所がわからない

路線図には停留所の印がない。もちろんバスの中の液晶ディスプレイに停留所名が表示されるといったこともない。つまり、バスに乗っていても、いったいどこを走っているのかわからない。地図を見ながら、バスが今どこを走っているのかをトレースしないとバス迷子になってしまう。

3)道路工事で路線が変わりまくる

二日目に、テルミニ駅からボルゲーゼ美術館に向かったのだが、ジャコモ・プッチーニ通り(!)が工事中のため、途中から路線図とはまったく違う道を走り始めて大いに焦った。勢い良く走るバスがどこを走っているのか、必死にトレースして、まったく未知の停留所で降りて、ようやくボルゲーゼ美術館に着いた、という苦労。路線図を盲信してはならないというところ。

4)停留所の表示でさえ信用できない

道路わきに立つ停留所。停車するバス系統番号の表示がされているのだが、それすら信用できない。停留所に表示されているから、いつか来るだろう、とお目当てのバスがいつまでたっても現れず、おかしい、と思ったら、別の通りに、お目当てのバスが走っているのがわかって、1時間ぐらい時間をロスしたという経験あり。停留所の表示も当てにしてはならない!

観光地を結ぶバスは混んでいる。

最終日に近くなると、かなり慣れてきた。日本で印刷してきたバス路線図をクリアファイルに入れて、適宜参照してバスを乗りこなそうとする。徐々に慣れてくると楽しささえ覚える。あと一週間いられれば、きちんと乗りこなせていたと思うのだけれど。旅の楽しさは、困難の克服の過程にもある、というところ。

Symphony

週末は大忙しで、更新できませんでした。ちょっとペースが落ち気味。 今週末は新国立劇場で「ドン・ジョヴァンニ」ですが、あまりに聞き込みすぎたので、気分を変えようと思いました。

というわけで、シベリウスの交響曲第二番を聞いています。 この曲は名曲300にも加えられていますが、個人的にはシベリウスをきちんと語れるほど聞いたことがありませんので(「フィンランディア」、「悲しいワルツ」はきちんと聴いた記憶があります)、ほとんどはじめて聴く感じです。

きいている中で良いな、と思ったのは、中低音の弦楽器の使い方でしょうか。チェロやコントラバスが低音で支えているのですが、響きをより味わい深いものへと熟成させる要因のひとつでは、と思いました。

第三楽章は早いパッセージから入っていきますが、中間部オーボエが導く旋律、泣けますね。オーボエから、フルート、チェロへと渡っていき、もう一度オーボエへ戻って歌い上げる場面は、生への肯定が織り込まれているようですが、そのあとでまた曲調が速くなるあたり、やはり何事も一筋縄では行かないものです。再びオーボエの歌う緩やかな旋律が大いに盛り上がり、速いパッセージと和解して第四楽章へ。あ、この旋律は有名ですね。コントラバスが波打って、深い弦楽器の音が波に乗るようなたおやかに主旋律を歌っています。すばらしい。実に興味深いです。

曲を聴いて、北欧的な針葉樹の森を思い出したり、白夜のもとによこたわる湖を思い出したりするのは、完全にアポステリオリな経験の所産ですね。シベリウスが北欧人であることから連想される紋切り型のイメージです。ですので、先入見を取り払って聴こうと努力していますが、なかなか難しい。苦笑。

クラヲタへの100の質問(1)」では、「シベリウスが苦手」と書きましたが、どうしてどうして、聞き込めば、そんなことはない。単に僕のほうで聞く準備ができていなかった、というだけのようです。

仕事のほうは今週に入ってようやくひと段落です。今週末の「ドン・ジョヴァンニ」は何とか行くことができそうです。

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

なんだかきちんと音楽を聴けていない感覚がまた始まってしまいました。バッハの無伴奏チェロ組曲に没頭しようとしたり、ドン・ジョヴァンニの予習をしたり、と散漫です。こういうときは疲れているに違いないので、休みたいところですが、そうもいきません。仕事がたまって仕方がありません。困りました。

さて、今日も飽くことのないドン・ジョヴァンニの演奏。第二幕の最終部を聴いております。この部分はニ短調ということで、序曲の冒頭部分と同じ調性であるばかりではなく、レクイエムとも同じ調性。個人的にはモーツァルトの短調の空気が大好きなので、聴くことができてうれしいですね。

先日のオペラトークでは、ドン・ジョヴァンニの最終幕のことを黒田恭一さんがいろいろ論じていらっしゃいました。なぜ、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちのあとに、予定調和的な場面が入っているのか、という観点でした。 黒田さんのお話によれば、初演当時のオペラは大衆娯楽という意味合いがありましたので、現代のテレビドラマのように最後に締めがないと良くなかったわけです。

黒田さんは刑事ドラマでたとえていらっしゃいましたが、陰惨な事件のままでドラマは終えてはならないわけで、めでたし、めでたし、で締めることが必要、というわけです。ところが、後世になって、オペラが芸術化してくると陰惨な事件のままオペラは終わってしまいます。「エレクトラ」とか「サロメ」などがそれにあたるわけです。

似たような観点でつけ加えますと、先日島田雅彦さんが、オペラについて語っている番組を見ました。その中で島田さんがおっしゃっていたのは、オペラが陰惨な事件を扱うようになったのは、作曲家が現実逃避的な聴衆を現実に目覚めさせるため、ということでした。ハッピーエンドのオペラを見せておけば、聴衆は現実を忘れて陶酔することができます。ところが、現実にあるような陰惨な事件を見せられると、聴取はおのずと現実を意識しなければならないわけです。先日観にいった「リゴレット」がそうでした。このヴェルディオペラの現実性こそが、イタリア国民をハプスブルク帝国からの独立とイタリア統一へと導いた原動力になった、というわけです。

島田雅彦さんがNHでオペラについて語っていた「知るを楽しむ」のテキストはこちらです。

この人この世界 2008年6-7月 (2008) (NHK知るを楽しむ/月)
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黒田恭一さんのアプローチは、オペラが芸術化したという観点、島田雅彦さんのアプローチは、オペラがアジテーション的な力を持ったという観点。違いはあるものの両方とも首肯できます。

少なくとも思うのは、オペラが持っている、現実をより現実化したところに見られる陰惨さや残酷さ、あるいは虚無感や諦念といった、われわれにとってはネガティブともいえる感情を引き起こす要素があるからこそ、オペラがアクチュアルな価値を持つことができるわけです。

芸術はなんらかアクチュアル性を持つもので、それは現実に即しているという意味ではなく、現実に働きかけてくるという点においてです。 「ばらの騎士」で見た元帥夫人の時間に諦念や、「カプリッチョ」で観た伯爵夫人の葛藤、「リゴレット」で観た陰惨な不条理、「ヴォツェック」で観た不幸なる者の不条理などなどいくらでも数え上げることができます。どれもが、われわれの現実とつながっていて、答えのない問題をいくつも突きつけてきて、それらを考えずにはいられない状況へと誘います。そこには答えはありませんので、ある種の徒労感を伴いますが、未知のものへの好奇心が勝れば、ある種の快さをも伴うことにもなります。

そうした陰惨さを展開するのに、オペラである必然性はないのではないか、というむきもあるでしょう。確かにそうなのです。映画でも小説でも演劇でも良いわけですね。オペラがオペラである理由は音楽が伴う一回性の芸術であるということ。映画や小説のような複製芸術でもなければ、演劇にはない歌唱や音楽が付随しているという豪華さ。それをもって総合芸術などと呼ぶむきもありますが、もっとも、どれが優れているという論点はなくて、ただあるのは差異と好みの問題だと思います。

何はともあれ、オペラは楽しいです。あとは時間と経済力があれば、もっといいのですが、そのためにも「仕事」をがんばることにいたしましょう。「仕事」しないとオペラにはいけません。