Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

 いって参りました、新国立劇場の「ドン・ジョヴァンニ」。忘れないうちに印象をエントリーします。久しぶりに箇条書きにて。

  • ドン・ジョヴァンニ役のルチオ・ガッロ氏は精悍な印象。「シャンパンの歌」も颯爽と歌いのける技巧。演技もクールで格好良くて、すばらしかったです。
  • レポレロ役のアンドレア・コンチェッテイ氏は、レポレロの喜劇的な役柄を難なくこなしていらっしゃる。歌も良いですが、演技的にもすばらしくて、客席の笑いを誘っていました。
  • 一番楽しみだったドンナ・エルヴィーラのアリアを聴かせてくださったのが、アガ・ミコライさん。アグネス・バルツァさんのような透徹とした感じというわけではありませんでしたが、中音域の倍音に下支えされた高音は美しかったです。
  • ツェルリーナの高橋薫子さんが大健闘だったと思うのは私だけでしょうか。ツェルリーナの田舎娘的純朴さをうまく出しておられて、ピッチも安定していましたし、声も美しかった。私的には大変すばらしいと思いました。
  • コンスタンティン・トリンクス氏の指揮ですが、先日のオペラ・トークで話されていたように、定跡を大きく逸脱しない演奏でしたが、かなりテンポを落として歌わせるようなところもあっておもしろかったです。

というわけで、とても楽しめた三時間半でした。

それにしても、ドン・ジョヴァンニはかなりキワドイ話です。その中でも一番キワドイのが意外にもツェルリーナでして、ドン・ジョヴァンニに籠絡される場面はいいとして、マゼットに「私をぶって」と頼んだり(かなりMなんじゃないか、と……)、「薬局では調合できない薬を持っているのよ」なんて意味ありげなことを言ってみたり……。マゼットは完全にツェルリーナに振り回されている。一番恐ろしい女は、ドンナ・アンナでも、ドンナ・エルヴィーラでもなく、ツェルリーナです。間違いない。

それにしても、ドンナ・アンナも身勝手な感じ。オッターヴィオとの結婚を一年延ばすだなんて、意味不明。父親が亡くなって、ドン・ジョヴァンニに振り回されて、それを理由に結婚は一年待ってほしいとは。オッターヴィオは、自分がドンナ・アンナの父親役になるんだ! と意思表示しているのに。

いろいろ考えるとおもしろいです。

 

Roma2008

最近のユーロ相場ですが、1ユーロ120円前後でしょうか。ところが、われわれがローマに出かけた7月中旬が、もっともユーロが高い時期でして、なんと170円ぐらいしたのですね。しかも燃油サーチャージも取られました。まったくついていないものです。とはいえ、夏のローマに出かけることができたので、満足ということにしたいと思います。

そういうわけで、ユーロ高のあおりを食っていきおい節約旅行にならざるを得ません。などといいながら、豪放にオペラに行ったりしたのですが……。節約の第一が夕食です。昨年のフィレンツェ・ヴェネツィア旅行もそうでしたが、夕食は現地のスーパーマーケットで買い込んで部屋で食べる、という風にして節約しました。一度夕食を外食すると30ユーロぐらいはかかっちゃう。5000円ぐらい。もっと高いこともあるとおもいます。ちょっと食べて、サイドメニューをとってワインを飲んだりすればあっという間に50ユーロ。7000円です。ところが、スーパーだと工夫すれば10ユーロぐらいですみます。

そういうわけで、ローマの夕食は連日のようにスーパーマーケットで買い込んだピザとサラダを食べていました。それでもかなりおいしいのですよ。さらに、少々贅沢ということで、生ハムを買ってみたり。生ハムも日本で買うには高いですが、こちらだと安いです。おかげで、生ハムサラダを楽しみました。

ワインも飲みたいところでしたが、昨年はワインの飲みすぎで疲れてしまったり、朝起きられなかったりと、少々大変でしたので、今年は我慢しました。

Roma2008

ヴァチカン美術館の至宝の中でも、ココだけでしか絶対に見られないもの。それはラファエロの「アテネの学園」とミケランジェロの手になるシスティナ礼拝堂の天井画と壁画。いよいよクライマックス。

ミケランジェロの「天地創造」と「最後の審判」ここばかりは、写真を撮るのを許してくれない。係員が二人ぐらいいて、"No Photo!! Thank you."と繰り返し叫ぶのだが、写真をとる人は後を絶たない。白髪の小柄な老人が係員にはわからないように写真をとると、してやったりとペロリと舌を出している。まあ、撮ろうと思えば撮れたのだけれど、正義に悖りますし、神聖な場所なので、やめておきました。第一、礼拝堂の中はとても暗い。ISO感度を上げないと写らないはず。もって行ったデジカメはISO400までなので、どだい写すのは無理だったでしょう。

天井画も壁画も、大胆さと細密さが同居しています。偉大な芸術は常にそうです。神は細部に宿りますが、最初の一撃にも宿りますから。両者のバランスが条件となりましょうか。それにしてもこの巨大な壁画を自らの統御の元に作り上げる意志力とか知力、そして天才性には感服です。

さて、システィナ礼拝堂には、サンドロ・ボッティチェルリやギルダンダイオの壁画もあります。やっぱりボッティチェルリの壁画はすばらしい。確か辻邦生師の「春の戴冠」でも、サンドロ・ボッティチェルリがローマに出向いて壁画を描くというエピソードが取り上げられていて、たしか、フィレンツェでないといい仕事ができない、と嘆くというくだりを思い出しました。

体力的にはこの時点で限界を迎えていました。サンピエトロ大聖堂のクーポラ(丸天井)を上ったからでしょうか。虚勢を張らずにエレベータで昇ればよかったかな、などと思いながら、システィナ礼拝堂の壁脇にしつらえられている長いすに座りながら絵を眺め続けていました。

Symphony

昨日書いたローマ紀行。紀行文としては、一日目が終わったか終わらないか、というところ。記憶も薄れているので、早いところ終わらせたいと思っているのですが、なかなか。気合入れて最後まで完成させます。

さて、先だってのシベリウス交響曲第二番に引き続き、交響曲第七番を聴いています。この曲は短いので、もう10回ぐらい聴いてしまいました。聴いても聴いても面白いです。 楽章の切れ目がありませんので、全体を支配する空気をつかもうとしています。第二交響曲のときにも書きましたが、チェロやコントラバスの使い方が面白くて、旋律を下支えしていて安定感を感じます。

第一楽章は、ゆったりとしたテンポで若干憂いをも感じる曲想。ブルックナー的な気宇壮大な感じです。第二楽章は、オーボエの導く動機にヴァイオリンが応えながら始まっていきます。ここでも弦が波もように揺らめいています。後半は速いパッセージで、木管と弦が互いに呼び合います。

第三楽章は切迫感のある弦楽器群のアルペジオから始まります。少し暗澹とした気分のうねり。管楽器がアルペジオに寄り添いながら少し憂えも感じられる演奏。

第四楽章の冒頭がすばらしい。アルペジオで波打つ弦楽器の上を管楽器が飛翔しています。ブルックナー的、マーラー的とでも言いましょうか。壮大です。なんでいままで気づかなかったのでしょう。これがあるのでクラシックはやめられない。しばし休息をとった後のフィナーレも良いですね。三度と六度に音が当たって、一度に収斂していく感じ。

演奏はヘルシンキフィルハーモニー管弦楽団。指揮はパーヴォ・ベルグルンド。録音は1984年。All Saints church, Tooting, Londonにて録音。教会なのでリヴァーヴ感が気持ちいいのかもしれません。録音的にはとても好みです。

指揮のベルグルンドはシベリウスの専門家で、交響曲全集を三度も完成させているのだそうです。凄い!

Roma2008

ローマ市内の足は、地下鉄、バス、路面電車などがあるのだが、街の中心部の足となると、地下鉄、バスに限られてしまう。その地下鉄も、旧市街の外周部を走っているだけので、いきおいバスを使わざるを得ない。

個人的には交通機関の使いこなしは、どの街にいっても自信があるほうだと思っていたのだが、それが過信に過ぎなかったことを思い知らされる。ローマ市内のバスは、相当厄介で、一週間滞在してようやく乗りこなせはじめたか、というところ。

難しいのは以下の点。

1)路線図が難しい

 バスの路線図は難しい(リンク先は重いのでご注意を)。バスの系統は道路の横に小さく示された番号でしか終えない。系統毎に色分けされているわけでもないので、乗りたいバスの系統が何番なのかもわからないし、どのバスに乗れば目的地につけるのか、わかりにくい。

2)停留所の場所がわからない

路線図には停留所の印がない。もちろんバスの中の液晶ディスプレイに停留所名が表示されるといったこともない。つまり、バスに乗っていても、いったいどこを走っているのかわからない。地図を見ながら、バスが今どこを走っているのかをトレースしないとバス迷子になってしまう。

3)道路工事で路線が変わりまくる

二日目に、テルミニ駅からボルゲーゼ美術館に向かったのだが、ジャコモ・プッチーニ通り(!)が工事中のため、途中から路線図とはまったく違う道を走り始めて大いに焦った。勢い良く走るバスがどこを走っているのか、必死にトレースして、まったく未知の停留所で降りて、ようやくボルゲーゼ美術館に着いた、という苦労。路線図を盲信してはならないというところ。

4)停留所の表示でさえ信用できない

道路わきに立つ停留所。停車するバス系統番号の表示がされているのだが、それすら信用できない。停留所に表示されているから、いつか来るだろう、とお目当てのバスがいつまでたっても現れず、おかしい、と思ったら、別の通りに、お目当てのバスが走っているのがわかって、1時間ぐらい時間をロスしたという経験あり。停留所の表示も当てにしてはならない!

観光地を結ぶバスは混んでいる。

最終日に近くなると、かなり慣れてきた。日本で印刷してきたバス路線図をクリアファイルに入れて、適宜参照してバスを乗りこなそうとする。徐々に慣れてくると楽しささえ覚える。あと一週間いられれば、きちんと乗りこなせていたと思うのだけれど。旅の楽しさは、困難の克服の過程にもある、というところ。

Symphony

週末は大忙しで、更新できませんでした。ちょっとペースが落ち気味。 今週末は新国立劇場で「ドン・ジョヴァンニ」ですが、あまりに聞き込みすぎたので、気分を変えようと思いました。

というわけで、シベリウスの交響曲第二番を聞いています。 この曲は名曲300にも加えられていますが、個人的にはシベリウスをきちんと語れるほど聞いたことがありませんので(「フィンランディア」、「悲しいワルツ」はきちんと聴いた記憶があります)、ほとんどはじめて聴く感じです。

きいている中で良いな、と思ったのは、中低音の弦楽器の使い方でしょうか。チェロやコントラバスが低音で支えているのですが、響きをより味わい深いものへと熟成させる要因のひとつでは、と思いました。

第三楽章は早いパッセージから入っていきますが、中間部オーボエが導く旋律、泣けますね。オーボエから、フルート、チェロへと渡っていき、もう一度オーボエへ戻って歌い上げる場面は、生への肯定が織り込まれているようですが、そのあとでまた曲調が速くなるあたり、やはり何事も一筋縄では行かないものです。再びオーボエの歌う緩やかな旋律が大いに盛り上がり、速いパッセージと和解して第四楽章へ。あ、この旋律は有名ですね。コントラバスが波打って、深い弦楽器の音が波に乗るようなたおやかに主旋律を歌っています。すばらしい。実に興味深いです。

曲を聴いて、北欧的な針葉樹の森を思い出したり、白夜のもとによこたわる湖を思い出したりするのは、完全にアポステリオリな経験の所産ですね。シベリウスが北欧人であることから連想される紋切り型のイメージです。ですので、先入見を取り払って聴こうと努力していますが、なかなか難しい。苦笑。

クラヲタへの100の質問(1)」では、「シベリウスが苦手」と書きましたが、どうしてどうして、聞き込めば、そんなことはない。単に僕のほうで聞く準備ができていなかった、というだけのようです。

仕事のほうは今週に入ってようやくひと段落です。今週末の「ドン・ジョヴァンニ」は何とか行くことができそうです。

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

なんだかきちんと音楽を聴けていない感覚がまた始まってしまいました。バッハの無伴奏チェロ組曲に没頭しようとしたり、ドン・ジョヴァンニの予習をしたり、と散漫です。こういうときは疲れているに違いないので、休みたいところですが、そうもいきません。仕事がたまって仕方がありません。困りました。

さて、今日も飽くことのないドン・ジョヴァンニの演奏。第二幕の最終部を聴いております。この部分はニ短調ということで、序曲の冒頭部分と同じ調性であるばかりではなく、レクイエムとも同じ調性。個人的にはモーツァルトの短調の空気が大好きなので、聴くことができてうれしいですね。

先日のオペラトークでは、ドン・ジョヴァンニの最終幕のことを黒田恭一さんがいろいろ論じていらっしゃいました。なぜ、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちのあとに、予定調和的な場面が入っているのか、という観点でした。 黒田さんのお話によれば、初演当時のオペラは大衆娯楽という意味合いがありましたので、現代のテレビドラマのように最後に締めがないと良くなかったわけです。

黒田さんは刑事ドラマでたとえていらっしゃいましたが、陰惨な事件のままでドラマは終えてはならないわけで、めでたし、めでたし、で締めることが必要、というわけです。ところが、後世になって、オペラが芸術化してくると陰惨な事件のままオペラは終わってしまいます。「エレクトラ」とか「サロメ」などがそれにあたるわけです。

似たような観点でつけ加えますと、先日島田雅彦さんが、オペラについて語っている番組を見ました。その中で島田さんがおっしゃっていたのは、オペラが陰惨な事件を扱うようになったのは、作曲家が現実逃避的な聴衆を現実に目覚めさせるため、ということでした。ハッピーエンドのオペラを見せておけば、聴衆は現実を忘れて陶酔することができます。ところが、現実にあるような陰惨な事件を見せられると、聴取はおのずと現実を意識しなければならないわけです。先日観にいった「リゴレット」がそうでした。このヴェルディオペラの現実性こそが、イタリア国民をハプスブルク帝国からの独立とイタリア統一へと導いた原動力になった、というわけです。

島田雅彦さんがNHでオペラについて語っていた「知るを楽しむ」のテキストはこちらです。

この人この世界 2008年6-7月 (2008) (NHK知るを楽しむ/月)
島田 雅彦
日本放送出版協会
売り上げランキング: 106812

黒田恭一さんのアプローチは、オペラが芸術化したという観点、島田雅彦さんのアプローチは、オペラがアジテーション的な力を持ったという観点。違いはあるものの両方とも首肯できます。

少なくとも思うのは、オペラが持っている、現実をより現実化したところに見られる陰惨さや残酷さ、あるいは虚無感や諦念といった、われわれにとってはネガティブともいえる感情を引き起こす要素があるからこそ、オペラがアクチュアルな価値を持つことができるわけです。

芸術はなんらかアクチュアル性を持つもので、それは現実に即しているという意味ではなく、現実に働きかけてくるという点においてです。 「ばらの騎士」で見た元帥夫人の時間に諦念や、「カプリッチョ」で観た伯爵夫人の葛藤、「リゴレット」で観た陰惨な不条理、「ヴォツェック」で観た不幸なる者の不条理などなどいくらでも数え上げることができます。どれもが、われわれの現実とつながっていて、答えのない問題をいくつも突きつけてきて、それらを考えずにはいられない状況へと誘います。そこには答えはありませんので、ある種の徒労感を伴いますが、未知のものへの好奇心が勝れば、ある種の快さをも伴うことにもなります。

そうした陰惨さを展開するのに、オペラである必然性はないのではないか、というむきもあるでしょう。確かにそうなのです。映画でも小説でも演劇でも良いわけですね。オペラがオペラである理由は音楽が伴う一回性の芸術であるということ。映画や小説のような複製芸術でもなければ、演劇にはない歌唱や音楽が付随しているという豪華さ。それをもって総合芸術などと呼ぶむきもありますが、もっとも、どれが優れているという論点はなくて、ただあるのは差異と好みの問題だと思います。

何はともあれ、オペラは楽しいです。あとは時間と経済力があれば、もっといいのですが、そのためにも「仕事」をがんばることにいたしましょう。「仕事」しないとオペラにはいけません。

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

DCF_0013
DCF_0013 posted by (C)shush

新国立劇場12月のオペラ公演である「ドン・ジョヴァンニ」のオペラトークに行って参りました。刺激的な90分で実にinterestingな内容でした。

  • 司会==黒田恭一氏
  • 指揮==コンスタンティン・トリンクス氏
  • 演出==グリシャ・アガサロフ氏

本来なら、芸術監督の若杉弘さんが登壇されるはずでしたが、前回に引き続きご病気とのことで、かわって音楽評論家の黒田恭一さんが司会として登場されました。

まずはトリンクス氏のお話から。 トリンクス氏はカールスルーエ生まれの若き俊英。大野和士さんの薫陶を受け、来季からはヘッセン州立歌劇場の音楽監督に就任予定。今回が初来日とのこと。ドン・ジョヴァンニの指揮は三度目ということで、キャリアとして若いにもかかわらず三度も振っているのは珍しいのでは、とおっしゃっていました。 今回のドン・ジョヴァンニの公演においては、初演版であるプラハ版と、その後モーツァルトによって改訂されたウィーン版のうち、ウィーン版を中心にしますが、プラハ版のみに存在するアリアなどは復活させるなどして、ウィーン版とプラハ版をあわせた版とでもいうべきバージョンで演奏するとのこと。

また、ピリオド奏法の要素を取り入れて、たとえば、弦楽器や木管楽器のビブラートを小さくすることでモダン楽器でありながらピリオド奏法の良さを引き出すといったことを試みるそうです。トリンクス氏は、古楽演奏にも造詣が深いとのことで、こうした観点が出てきたのだと思います。もっとも、現代のオペラ劇場という、初演当時とは異なった環境で演奏されるものですので、すべてを古楽風にするのはナンセンスであると行った趣旨のことを述べておられました。

ここで、トリンクス氏はこれからオケとのリハーサルがあるということで、退場され、続いて、演出のアガサロフ氏のお話し。アガサロフ氏もドイツはジーゲンのお生まれ。キャリアのあるベテランの演出家でして、チューリッヒ歌劇場芸術監督を務めておられます。新国立劇場では、「カバレリア・ルスティカーナ/道化師」、「イドメネオ」に続いて三度目の登場。

今度の演出は、良い意味で「保守的」なものなのだそうです。今の欧州における演出のはやりは、オペラの舞台を現代に置くというもの。ですが、今回の演出では時代設定は初演当時に合わせることにしたそうです。というのも、批評家は保守的な舞台を批判することがしばしばなのですが、聴衆は「保守的」な舞台を望んでいる部分が多いのではないか、というのがアガサロフ氏の見解でした。アガサロフ氏もトリンクス氏も同様に自分たちはよい意味で「保守的なのである」とおっしゃっていました。

一方で舞台設定ですが、登場人物の名前がスペイン風であることを除けば、設定上の舞台であるセヴィリアにこだわらなくて良いのではないか、というのもアガサロフ氏の意図でして、原作者のダ・ポンテがカサノヴァと知己であったという事実から、ドン・ジョバンニをカサノヴァに重ね合わせルということで、舞台をカサノヴァが「活躍」したヴェネツィアに置くということにしたそうです。また、演じられる場面はすべて夜であると言うことに着目して、ヴェネツィアの夜の幽玄さをだすような舞台にしたい、とおっしゃっていました。

ドン・ジョヴァンニは、奇をてらった演出ではなく、落ち着いた演出になりそうですね。

その後は、ピアノ伴奏で以下の三曲が演奏されました。

  1. 第一幕第七曲「お手をどうぞ」(ドン・ジョバンニ/ツェルリーナ)
  2. 第一幕第十一曲「シャンパンの歌」(ドン・ジョバンニ)
  3. 第一幕導入曲より(ドン・ジョヴァンニ/騎士長/レポレッロ)

ドン・ジョヴァンニを歌われた星野淳さんがすばらしかったですよ。歌ももちろん、挙措もドン・ジョヴァンニ的で、オペラを歌われる歌手の方々のすさまじい技量に感嘆でした。尊敬してやむことがありません。

ちなみに、会場は新国立劇場の中劇場だったのですが、オケピットを床下に収納して、オケピットの上でトークをしたり歌ったりしていました。客席と非常に近いところでお話を聞けたり、歌を聴けたりしましたので、臨場感があってよかったです。

というわけで本公演がとても楽しみ。予習もしないといけませんね。

 

Classical

嵐のようなトラブルは過ぎ去りぎみで、今日の仕事は久々に落ちついたものになりました。東京も今週から途端に寒くなって、11月だというのに、気温的には年末と同じぐらいになったそうです。

いよいよ年末が迫ってきたわけですが、今年の振り返りをする季節になったということです。ところが、大変残念なことに年始に建てた今年の目標、ぜんぜん達成できていないです。欲張りすぎでした。すいません。来年はもう少し身の丈にあった目標を立てることにします。

とはいえ、まだ今年は終わっていませんのであきらめてはいけません。せめて読書だけでも目標に近づきたいです。 読んだ本はといえば、ここで紹介できるような本ではないです。要はビジネス書の類を読みすぎました。少々後悔です。

それにしても、一年を通して年末年始休暇ぐらいしか心休まる休日はないなあ、と思います。ウチの会社ですと、夏休みはなくて、個人個人が業務に応じて一週間休みを取れる仕組みです。夏休みとはいえ、他の方々は働いていらっしゃるわけで少々気が引けるのですよ。そういう意味では年末年始は皆さんお休みですので気兼ねすることなく羽を伸ばせるというわけです。楽しみですね。

さて、昨日から、プロコフィエフの交響曲6番を聞いていたのですが、10回ほど聴くとさすがに疲れてしまいました。プロコフィエフの旋律はとても捕らえにくくて、捕まえたと思ったらすぐに逃げて行ってしまいます。どうやって語れば良いのか。標題音楽的ではないにしても、第二次大戦の記憶が埋め込まれているのではないかと思うのですが、それぐらいしか語れない。私にはまだ難しいということでしょうか。

曲調はショスタコーヴィチにとても似ていると思います。それからピアノの使い方が効果的ですね。第二楽章の前半は重苦しいねっとりとした感じで始まるのですが、中盤には拍節のパルスが現れて、急激に曲調が変わります。このあたりの感覚も難しくてなかなか語れない。もう少し想像力を磨いたほうがよさそうです。

小澤さんの指揮は明快だと思いますし、爽やかさすら感じます。ベルリンフィルの演奏も傷を感じさせない完成されたものだと思います。

プロコフィエフばかり聴いていたので、モーツァルトやバッハのみずみずしさが心地良いです。もちろんプロコフィエフが嫌いというわけではないです。同じ音楽ばかり聴くと、なぜか感動が薄まっていくというところ。モーツァルトだって、何度も何度も聞けば疲れますよね。美的な感興というものはある種の驚きを伴うものですので不思議ではないのですが。

Alban Berg,Opera

昨夜の夕食時、家人と一緒にベルクの「ルル」のDVDを見ました。とはいっても最初の30分ほどでしたが。映像は、クリスティーネ・シェーファーが脚光を浴びたグラインドボーンでの「ルル」公演。アンドリュー・デイヴィス指揮のロンドンフィルハーモニック管弦楽団。 この映像、おそらく初めて全曲通して観たオペラ映像です。これまでも何度か取り上げたと思います。

最初のあたり、第一場、画家とルル(シェーファー)の演技のきわどさに、二人で「怖いねー」などといいながら見ていたのですが、第二場で、シェーン博士とルルの過去が言及され、にわかに緊迫し始めて、食い入るように見てしまいました。今日は30分ほど見ておなかいっぱい。

しかし、奥深いドラマです。シェーン博士や画家、医事顧問官を死に至らしめる魔性の女としてのルル像という見方もありましょうし、逆に「踊り子」として、おそらくはつらい生活を送っていたに違いないルルが、シェーン博士にすくいあげられたという、救済物語としてみるとすると、ルルはシェーン博士のエゴの被害者なわけですね。最近ではどうも後者の読み方のほうがしっくり来るような気がしています。シェーファーの妖艶なルルをみると、どうしてもルルの「強さ」に見方が傾いてしまいますが、違う読み方もできると言うことのようです。

それにしても画家が死んだ医事顧問官にかける言葉が怖いです。

「私はあなたとかわりたいよ。彼女をあなたにかえすよ。その上に私の青春をあなたにあげよう」

ルルの魔力にすでに絡め取られていながらも、足をばたつかせて逃れようとする若き画家の恐れ。恐ろしい。恐ろしい。

また続きを見ることにいたしましょう。